2017/01/21

「『走る原発』エコカー」 危ない水素社会 上岡直見<6>

<5>よりつづく

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「『走る原発』エコカー」 危ない水素社会 <6>
上岡 直見 (著) 2015/07 コモンズ 単行本  134ページ
★★★★★

<6>パンク!

1)クルマに乗ろうとしたら、あらら、パンクしている。なんと、パンクなんてもう何年振りだろう。このクルマに乗って6年目で初めてだ。少なくとも前に乗っていたリッターカーも11年間ノーパンクだった。その前に7年間乗っていたステーションワゴンは確か乗り始めた頃に一回パンクがあった。

2)だから6+11+約6=で、おそらく20年ぶりの出来事である。

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3)しかも、驚いたことに、この冬タイヤは、昨年10月末に交換したばかりだから、なんと3か月も経過しないのにパンクである。あら~~、不良品をつかまされたかなぁ~~~~。

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4)と、あれこれタイヤを点検してみると、またまた、な~~~んと、タイヤの溝にきちんとネジが刺さっていた・・・・・・・(涙)

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5)そういえば、さっきホームセンターに行った時に、あの駐車場のガラクタの前で拾ってしまったのかなぁ。残念。

6)さっそくエマージェンシー用のタイヤに交換し、近くのカーコーナーへ。ここではパンクは一回目まで無料サービスということで、ちょっとホッとした。しかし、症状は重く、パンク修理剤を二個使ったららしい。これから油断は禁物とか。

7)どっちみちタイヤのローテーションで近々カーコーナーにお世話になろうと思っていたので、ついでにやってもらった。しかし、パンク履歴のタイヤは前にはつけられないということで、部分ローテーションで終わり。

8)高速でもバーストはしないでしょう、ということではあるが、すこしづつ空気が抜ける可能性はあるとのこと。う~~ん。クルマを世話し続けることもなかなか大変なことだなぁ。

つづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<13>

<12>からつづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <13>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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つづく

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2017/01/20

「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」スティーヴン・マーフィ重松

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「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」
スティーヴン・マーフィ重松 (著),    坂井 純子 (翻訳) (2016/06講談社 単行本: 322ページ
No.3865★★★☆☆

1)出版以来、ずっと待っていた本である。ようやく私の順番が来た。さっそく手に取ってみる。パラパラと全体を触ってみて、どこかどんどん冷めていく自分がいる。あんなに待っていたのにな。

2)この本に対する私の評価は厳しい。いや、個別にこの本に対する評価が厳しいというより、マインドフルネスというものを本で知ろうとする、自らの態度に対して厳しい、と言い換えたほうが、より正確かも入れない。

3)本の内容としてはこれでいいのだろう。この人がこれ以上の何を書くことができるだろうか。あるいは、この本を必要としている人にとっては、ある意味、至れり尽くせりの良本ではないか。

4)そう、タイミングの問題だ。この本を必要としている人にとってはとても良い本だ。しかしタイミングが外れていれば、役に立たないクソ本となる。私はこの本のタイミングにいないのだろう。そして、私はマインドフルネスというキーワードで、この本になかった、なにか他の別のことを求めている。

5)もし、この本を読む私のベストタイミングというなら、今から30年前、インドから帰り、日本の社会の中で、どのように定着していくべきかを盛んに考えチャレンジしていた頃、あの頃、この本が欲しかった。

6)自ら経済的体制を整え、家庭環境を整え、時間に余裕を持たせ、カウンセリング研究所に通い、大学で臨床心理の勉強を再開し、電話相談員をしていた頃。セラピストとしての訓練を重ね、クラインアントと対面し、産業カウンセラーの認定を受け、公的施設での面談を重ねていた頃。

7)小学2年生の春休みに父が亡くなった。あの時漠然とした死という実態への直観。10代の頃、路上で売られていたミニコミに瞑想という文字を見つけた頃。近くの禅寺に通い、参禅の日々を送っていた頃。

8)探求の旅が始まり、編集活動の中でのネットワークづくり。そしてインドへの旅。帰国後、また学生生活が再開し、結婚もした。子供たちが生まれ、家庭生活が始まった。

9)あの頃までの私なら、きっと、この本はとても役にたったと思う。欲しかったけど、これほどまとまった本などなかった。だから手探りでさまざまな彷徨を繰り返した。

10)学生期、探求者期、帰依者期。仮にそのようなものがあるとするならば、まずは学生期にいる人々にとってこの本は良本である。現在ある本の中でもベスト本の中の一冊になる。探求者期にいる人々にとっては、自らのプロセスを検証するよい傍証となるだろう。

11)しかし、帰依者期にいる人々にとっては、最優先本とはならないだろう。若き人々が今現在どのような環境にあるのかを知り、また自らの若き日々を振り返る、というチャンスには使えるだろう。有効な使い道はある。

12)当ブログは帰依者期にいる。求められるべき世界は無限にあり、その歩みが止まることはない。何を求めるべきかは、あらかじめ分かっているわけではない。分かってしまっているのなら歩みそのものが不要のものとなる。

13)注意深く、周囲に目を凝らす。そしてそれを使って自らの中を見る。どんなものでも振り返りのチャンスにはなる。されど、きっともうそれは本の中にはないのである。

14)ないものねだりをしている時はもう過ぎている。本の中にないものを探す旅を、本を使って続けている。

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2017/01/19

仏陀の存在を凝視する 『オレンジ・ブック』 OSHOの瞑想テクニック<3>

<2>よりつづく


「オレンジ・ブック」OSHOの瞑想テクニック <3>
OSHO ホーリスティック・セラピー研究所 1984/04 単行本 245P

仏陀の存在を凝視する

あなたの部屋の中に小さな仏像を置き
いつでも暇なときにその像をただ見るがいい
仏像というのは、ただの肖像としてつくられたものではない

それは瞑想の対象としてつくられた
それは現実の仏陀を描写はしていない
彼はそれに似てはいなかった
それはひとつの隠喩(メタファー)だ

仏陀の肉体的な姿を表現するよりは、むしろ彼の内なる慈悲を表現している
彼がそっくり同じ姿、同じ顔立ち、同じ目鼻だちだったということはない
それはまったく肝心な点ではない
それは超現実的なものだ
いわゆる現実(リアリティ)を超えた<実在(リアル)>の何かを伝えている

つまり、それはヤントラだ
人は、ただそれを見るだけで瞑想のなかへと落ちて行ける
だからこそ、幾千となく仏像が刻まれた
仏陀ほど多くの彫像をもつ者は他にいない

瞑想的な雰囲気をつくりだすためだけに、単独で1万体もの仏像を擁す寺院がいくつもある
どこに目をやろうとも見えるのは仏陀だ
どこもかしこも仏陀の姿、仏陀の存在、その沈黙、その慈悲、閉ざされたその両眼、静穏なその姿態
その均整、その調和----

それらの仏像は大理石の音楽、石の説法だ OSHO p177

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2017/01/17

「仏教美術の基本」 石田 茂作・ 「装飾のハンドブック」フランツ・S・マイヤー

 

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「仏教美術の基本」
石田 茂作   (著) 1967/03 東京美術 ハードカバー函入り 481ページ
No.3863★★★★☆

1)今東光のCD講話「合本 極道辻説法」2013/12 ソニー・ミュージックダイレクト CD2枚)を聞いていて、ふと聞きなれない仏さんの名前が飛び出してきた。いや、毎回聞いてはいたのだろうが、今回だけはなにか、ピンときた。「いちじきんりんぶっちょう」・・・? はぁ?

2)漢字で書くと「一字金輪仏頂」。どうやら東光和尚が住職をつとめていた岩手県平泉の中尊寺にある秘仏であるらしい。どんな仏さん? ネットで画像検索。

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3)なるほどこんな方か。東光和尚によれば、和尚と同じ津軽出身の版画棟方志功はこの仏さんに惚れちゃって、抱き着いてキスしちゃったという。色が白くて、なかなかお美しい方である。

3)と、ふと見ると、この印にどこか覚えがあるし、ピンときたものがある。そうそう、あれだ。昔私達が作っていたミニコミ雑誌「時空間」12号(雀の森の住人たち1975/11) の表紙、実質的に休刊号になってしまった、あの時の・・・・。

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3)実は最近、この仏さんはどういう名前なんだろう、なんて、本当にそんなことを考えていたのだ。出典は大体わかっていた。当時所蔵していた「仏教美術の基本」を参考にしたのだ。今回、改めて探してみた。

4)確かにp239にあった。当時のルビでは「一字金輪大日 中尊寺」とある。こんりん、と呼ぶ場合もあるようだが、今東光和尚は、きんりん、と呼んでいた。

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5)この印だけでは判別できないが、頭にかぶっている(仏頂)頭巾、さらには光背にある火の玉のような文様は独特の形式である。私は知らず知らず、この仏さんに呼ばれていたのだ。

6)しかし、私のデザインは、この仏さんを基に曼荼羅かなにか作ろうとしたようだ。実際には一字金輪曼荼羅というものが存在するのだが、私は当時そこまで頭は回っていなかった。

7)この檻のような格子模様は、これもまた当時所有していた一冊からインスピレーションを受けたものだった。

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「装飾のハンドブック」
フランツ・S・マイヤー 1966/01 東京美術 ハードカバー函入り p487
No.3864★★★☆☆

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8)しかしまぁ、これだけ劇的に、この仏さんがつながってくるとは思ってもみなかった。まさに40年間のミッシングリンクが今まざまざとつながっていくようだ。表紙に使ったさまざまなシンボリズムは、当時の自分なりにインテグラルを試みた結果であろう。

9)いまこうして縁がつながって、彫刻刀でなにやら彫り出していることと、どこかでつながっているのだろう。ミッシングリンクがつながっていく。

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2017/01/16

「夢十夜」 夏目漱石

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「夢十夜」
夏目 漱石   (著) 青空文庫 フォーマット: Kindle版 ファイルサイズ: 178 KB 紙の本の長さ: 85 ページ
No.3862★★★★★

第六夜 

 「さすが運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」と言って賞め出した。 

 自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、その男は、すかさず、「あの鑿(のみ)と槌(つち)の使い方をみたまえ。大自在の妙鏡に達している」と云った。 

 運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪(たて)に返すや否や斜(は)すに、上から槌を打ち下ろした。堅い木を一と刻みに削って、厚い木屑(きくず)が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒りの鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀(とう)の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挟(さしはさ)んでおらんように見えた。 

 「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉(まみえ)や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言(ひとりごと)のように言った。 

 するとさっきの若い男が、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずがない」と云った。 

 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家に帰った。 

 道具箱から鑿と金槌を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風(あらし)で倒れた樫(かし)を、薪にするつもりで、木挽(こびき)に挽(ひ)かせた手頃な奴が、たくさん積んであった。

 自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当たらなかった。その次のにも運悪く掘り当てることができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片っ端から掘って見たが、どれもこれも仁王を蔵(かく)しているのはなかった。

 ついに明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。16/28「第六夜」

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2017/01/15

「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<12>

<11>からつづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <12>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<13>につづく

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2017/01/14

「死にゆく人と共にあること」 マインドフルネスによる終末期ケア J・ハリファックス

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「死にゆく人と共にあること」 マインドフルネスによる終末期ケア
J・ハリファックス (著),    井上 ウィマラ[監訳] (翻訳),    中川 吉晴 (翻訳),    浦崎 雅代 (翻訳),      & 2 その他 2015/4 春秋社 単行本(ソフトカバー): 352ページ
No.3861★★★★★

1)昨年後半から、マインドフルネスというキーワードで図書館に何冊かリクエスト中である。運よくすぐ読めた本もあるし、もう半年待っているのにまだ私の番にならない本もある。

2)その中にあってこの本はすぐに私の番になった本であり、続いてリクエストも入ってはいなさそうだ。本にも人気不人気があり、この本はひょっとする不人気本なのかもしれない。

3)そんなななめ心で手に取った本書ではあるが、極めてよい本である。おそらくすでに2年前の本なので、新刊本というジャンルからはやや外れてきたのでリクエストがしやすくなっているのだろう。

4)1942年生まれのアメリカ人女性。医療人類学者。仏教、特に禅の世界についての造詣が深い。この本の成り立ちはともかく、日本の仏教書を読んでいるような感覚にさえなる。しかし、中途半端で終わらずに、徹底した岩盤があるかのような理知性はよく悪くも、欧米人による一冊であることを思わせる。

5)翻訳も、複数の人々が関わっているようだが、出版社が春秋社ということで、破綻がない。読んでいてこれでいいのだ、と思う。

6)ウパーヤ禅センターには、ブッダの育ての母であるマハーパジャパティの美しいブロンズ像があります。その表情は穏やかで、右手を上にあげて、手のひらを外に向けています。これは「施無畏(せむい)(訳注・恐れのなさを提供する)」という名で知られるポーズです。死にゆくプロセスとともにあることへと入っていくとき、私たちが他者と自分自身に与えることのできるいちばん大切な贈り物は恐れがないということです。p109「施無畏」

7)よくぞまぁ、この本でこの言葉を取り上げてくれたと思う。20歳前後の時、私を大きく仏教の世界へと後押ししてくれた祖父が、それから10数年後に亡くなった。その際、形見分けのような形で、遺品整理していた時、見つかった祖父の手帳に書かれていた言葉がこの「施無畏」だった。まるで、私にとっては宮沢賢治の手帳から見つかった「雨ニモマケズ」のような言葉だ。

8)この言葉を知ったあと、私はあえてその字義を探索しなかった。ずっとこの言葉を心の中で温めていた。「施」と、「無」と、「畏」と、三つの漢字でできているこの言葉。

9)施しにはいくつかの例がある。物品、金品による施しもある。時間や、行為による施しもある。道を教え、人々を導く施しもある。「自未得度先度他」もまた祖父から「人生で最も大事なもの」という問いに対する答えとしてもらった言葉だが、菩薩の道として、施無畏は、極めて純度の高い行為であると、感じられた。

10)無は仏教の根幹をなすキーワードだが、この場合は、次に連なる言葉の否定形として使われている。「畏」。畏怖という言葉はあまり多用はされないが、とにかく恐れや怖がることを表しているのだろう。

11)人々が畏れ無いように、態度や言葉や、ふるまいで施す行為。不安を取り除く、心を安ずる、安心させる。いくつかの技法の上に存在する心構えとして、カウンセリングに立ち会う時に、私が最も基本としてきた姿勢だ。また、日常的な業務のうえでも「あんしん」は実に大事なキーワードであり続けてきた。

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12)祖父の農家の屋敷林には樹齢1300有余年と言われるカヤの木があった。いまでも市の名木選に数えられている古木だが、住宅街となって数年前に伸びきった枝が間伐されたことがある。その時の切り取られ、廃材となった枝で、最近、薬師瑠璃光如来像を彫り始めたところだ。

13)右手が施無畏印、左手には薬壺を乗せているが、メディスン・ブッダと英訳されるこの壺に入っているのは、メディスンのもっとも純化されたもの、メディテーションであるはずである。

14)ホスピスを訪れたこともあるし、死にゆく人々とともにあったこともある。最近私は40数年来の古い年上の友人を失った。彼もまた家族に見守られながらホスピスで最期の日々を送った。彼は最後の最後に、人々の役に立つようにと、自らの亡骸を大学病院の研究用に献体するよう遺言して亡くなった。

15)私は決して彼のためにこの薬師瑠璃光如来を掘り始めたのでもなければ、そのことばかりを思っているわけではない。しかし彫り進めるにつれて、いつも傍らにあの大きな目と大きな体で、彼が後ろから私を抱いてくれているような思いになる。

16)回向しているつもりはなかったのだが、私は私なりに、彼への思いを整理しつつ、ひと彫ひと彫り、進めている。

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「シリコンバレーで起きている本当のこと」宮地ゆう

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ルポ「シリコンバレーで起きている本当のこと」

朝日新聞参フランシスコ支局長 宮地ゆう 2016/08 朝日新聞出版 単行本: 208ページ
No.3860★★★★☆

1)タイトルだけ見て図書館から借りてきた一冊。なんとなく面白そうだなぁ、と途中まで読みかけたが・・・・・。

2)はて、待てよ、と我に返った。たしかにシリコンバレーは面白そうだ。気になることは木になる。しかしながら、現在は、瞑想とかマインドフルネスへとターゲットが切り替わりつつある。なにをいまさら、シリコンバレーなどにうつつを抜かす必要があるだろうか。

3)一旦ページを閉じて、手を放してしまったあと、また再び待てよ、意識がシュンとなった。アップル、グーグル、ヤフー、フェイスブック、アマゾン、などなど、現代世界の「トップ企業」の名前が列挙してある。シリコンバレー・・・?

4)そうそう、この世界の人々が現在「マインドフルネス」ブームを持ち上げているのであった。いや、彼らが「やっている」からこそ、世界はこのシリコンバレーと関連づけてマインドフルネスを考え始めているのだし、また、当ブログも自らの新しいテーマとして取り上げようとしているのではないか。

5)書いているのは朝日新聞参フランシスコ支局長、すでに朝日新聞に連載されたルポート記事に大幅に手を加えて編集されなおされている一冊である。

6)サンフランシスコやシリコンバレーを車で走ってみて驚くのが、ガタガタの道路だ。道路標識が半分落ちかけたままの場所もある。

 地元に世界1、2位の時価総額の企業がありながら、自治体は財政難にあえぎ、インフラ整備にも十分なお金が回らない。IT企業の税金逃れに原因を求める声も上がる。p4「はじめに」

7)報道を通じて私が知っているシリコンバレーの姿も、ひとつの断面ではありそうだ。しかし、その地を訪れたことのない身には、わからないことがいっぱいありそうだ。経済格差、労働風土、精神性、地元民のホームレス化。

8)ルポを書いているのは、新聞記者である。しかも日本社会では今や旧態依然化してしまっていると思われる朝日新聞の記者だ。若者やネットワーカー、企業家など、視点がまったく違えば、書かれなかった風景もたくさんある。

9)現在の当ブログの視点は、おそらく、新聞記者にもネットワーカーにもどちらにも偏ってはいないだろう。どちらも必要だと思うし、関心がある。されど、そのどちらもメインの視点ではない。社会観察しようとしているわけでもなければ、今から起業しようとしているわけでもない。

10)シリコンバレーの主な地域とサンフランシスコ市を合わせると、ホームレスの人口はニューヨークとロサンゼルスに次いで全米で3位の多さになる。

 普通に仕事をしていた人たちがあっという間に家を失う。シリコンバレーでは、誰もがそんな危険と隣り合わせている。p70「富を生み出す街の知られざる顔」

11)ノマド生活や、キャンピングカーのライフスタイルなど、断片的な画像を一・二枚見せられる段階では、あら~~こんな暮らしぶりもいいなぁ、などと、郊外の緑一杯のフィールドなどとともに眺めていることもある。しかし、じっくり考えてみると、自分にはできない生活なのだ。ある意味、必要に迫られている彼らのノマド生活も、新聞記者から見れば、それは「ホームレス」と切り捨てられる。

12)技術の集積と巨大な富は、人の生活に何をもたらすのか。

 今後シリコンバレーはどのような変化を遂げるのか。

 この場所は、日本の社会の今後のあり方を考えるうえでも、貴重な視点を与えてくれている。p205「おわりに」

13)いたずらな舶来信仰は恥ずべきであり、とりとめのない社会議評もいつまでも続けるべきではないだろう。この本で確認しておくべきは、マインドフルネスをしているからエリート企業が成り立っているのではなく、マインドフルネスに打ち上げられてしまうほどに、エリート企業に働く人々の生活は、実はとても不安定なものである、ということについてだ。

14)こういう背景の中で、現代社会のマインドフルネスを考察していく必要がある。

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2017/01/13

「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<11>

<10>からつづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <11>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<12>につづく

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OSHO 現代世界のマインドフルネス 「Mindfulness in the Modern World」 <10>

<9>からつづく

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「Mindfulness in the Modern World」
How Do I Make Meditation Part of Everyday Life? <10>
OSHO 2014/04 Griffin 英語 ペーパーバック 254ページ (Osho Life Essentials)  目次
★   工事中 

 あなたは自分を、正面ではあなたのマインドを置き、片面では熟考に置くという二分化することはできない。あなたの意識を二つの部分に分けることに可能性はない。もし可能性があるとすれば、実際はないが、議論を目的として、私はあなたの意識を熟考のためと、もうひとつは他のもの、あなたではないものに分離する可能性について話してみよう。

 他のものはあなたのものではない。言い換えるならば、外在物はあなたではない。あなたはそれ以上分割できないものである。あなたを外在物に変化させることはできない。

 それはちょうど鏡のようだ。鏡はあなたを映す、鏡は世界のなんでも映す、しかしこの鏡そのものが映るようにすることができるだろうか? あなたは鏡をそれ自身の前に置くことはできないし、もし鏡を正面に持ってきても、その時鏡はもうない。鏡は自分自身を映せない。

 意識はちょうど鏡のそのものだ。あなたは意識をなにか外在物のために使うことができる。それを何かの外在物の集中のためになら使うことができるし、何かの物事の熟考になら使うことはできる。

 使われるべき言葉がないために、メディテーションというのは正しい言葉ではないが、英語でも受け入れられていている。中国や日本の国々でも同じ状況のだったために、ディアナという言葉が使われてきている。二千年の前の昔、仏教僧が中国に入り、ジャイナという言葉を翻訳するべき言葉を探そうとしてきた。

 ゴータマ・ブッダは決して自分の言葉としてサンスクリットを使わなかった。彼の言語はパーリ語だった。サンスクリットはブラフマンの聖職者たちの言葉だった。そしてブッダの基本的な革命の部分だが、聖職者たちはそれを捨てるべきだし、そうすれば彼らの商売がなくなるだろう。人は存在に直接つながることができる。べつに代理人など必要ない。仲介者を通すことはない。

 シンプルに理解しなさい。あなたは、仲介者を通じてあなたのガールフレンドやボーイフレンドを愛することはできない。あなたは「キミ、ちょっと私の最愛の妻のところに行って愛してくれるなら、10ドルをあげるよ」とは誰にも言うことができない。

 召使だってできないだろう、最愛の人に誰もできない、できるのはあなただけだ。召使を使ってでは、最愛の人を愛することはできない。さもなければ金持の人々はこの面倒くさい出来事にまったく頓着しないだろう。

 彼らは十分な召使たちを従えている。金も十分あり、召使を送ることができる。一番の召使を選ぶことができるし、そうすれば、何も彼ら自身、気をつかう必要はない。そうなれば、あなた自身でやるべきことはそんなに多くない。召使はあなたのために眠ることもできないし、あなたのために食べることもできない。

 聖職者たちは何をやっているのだろう。彼らは、あなたと存在、あるいは神、自然との間の、存在との仲介役の召使以外の何ものではない。ヨハネ・パウロ法王の世界にむけたメッセージによれば、神と直接つながりを持つことを試みるのは罪だと諭している。罪! 

 あなたは正当に認められたカトリック聖職者を通して神とつながらなければならない、すべてが正式なチャンネルを通して進められなければならない。これは明らかに階級であり、官僚主義であり、あなたは司教、法王、聖職者を避けて通ることができない。 

 もしあなたが彼らを避けて通ったら、あなたは直接神の家に入ってしまう。これは許されない、それは罪なのだ。私はこの法王が、人は彼は正式な代理人を必要とし、人は存在や真実そのものとつながるような生得権は持っていないという。これを罪と呼ぶような神経を持っていることに、本当に驚いた。 

 だれが正式な代理人と決めたのかね? 世の中には300もの宗教があり、それぞれに階級を持っている。他の299の他の宗教はガラクタで、彼らの聖職制度だけは絶対的な必要性で存在すると言っているのだ。これは絶対的に不必要であり、あなたを力づくで避けて通れないようにしているだけである。26/198

つづく

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2017/01/12

「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<10>

<9>からつづく

51a5fdf9a8l
「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <10>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<11>につづく 

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2017/01/11

「高畠華宵」 大正☆昭和レトロビューティ 松本品子編集

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「高畠華宵」大正☆昭和レトロビューティ 新装版
松本 品子 (編集) 2011/12/22  河出書房新社 単行本(ソフトカバー) (らんぷの本/マスコット) 135ページ
No.3859★★★★☆

1)昨日、図書館の芸術コーナーを覗いていて、たまたま見つけたので借りてきた。たかばたけかしょう、と聞いても私にはピンとこない。高畠華宵、という名前なら、もしや、とは思うが、まだ確かではない。しかし、この三白眼の少女たちのイラストを見れば、ああ、この人だと思う。

2)1974年ごろ、この人の画を特集した当時のグラビア雑誌があったはずだ。今となっては、誌名も思いつかないが、このインターネットの時代、どうしてもというなら探し出すことも可能だろう。なにはともあれ、私はその中の一枚のイラストに釘付けになった。

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3)大正ロマンを彷彿とさせる当時の代表的イラストレーター高畠華宵の代表的な作品ではなさそうで、この本にもこのイラストはでてこない。彼の美少年の絵ならむしろ、こちらのほうが有名で、さもありそうな図形である。

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4)まるで若き日の丸山(美輪)明宏を思わせるような美少年画である。インターネット時代でなければ、私はこの画家を思い出すことはなかっただろう。ある時、ふと「美少年 大正 挿絵」とかで検索して、ようやくこの画家との再会あいなったのだった。

5)例の絵を見た時、私はまだ10代の最後、ただただひたすら情熱だけ持て余し、その矛先をどこに向けたらよいか、わからない時代だった。私はふと思う。あの時の、私のような情熱の状態だったら、「大義」さえ与えられたら、なんでもやったのではなかったろうか。

6)正直、あの時、特攻隊員の精神状態がわかるような気がしていた。「革命」に命を賭けるなら、賭けてもいいな、と思っていた。死んでもいいや、と、むしろ、死に場所を探していたようなところもあった。

7)ふと、当時の日本社会党委員長浅沼稲次郎が17歳の右翼少年山口二矢に刺殺された事件さえ彷彿とさせる。

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8)昨今、イスラム原理主義者などの自爆テロなどが拡大する傾向にあるが、その良し悪しはともかく、そして、チャンバラなら、漫画だろうが「スターウォーズ」だろうがバトルゲームだろうが、まったく大嫌いな現在の私ではあるが、私の中のどこかにか、この情熱と相通ずるものがあったように感じ、不思議に思う。

9)私は例の絵に刺激されて、当時編集していたミニコミ誌「時空間」のシルクスクリーンの表紙をデザインした。

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10)当時、この少年の刃の矛先が「星の遊行群」に向かっていたことに気づいた読者はどれほどいただろうか。「星の遊行群」誌編集についてのいきさつについては別に書いたので、繰り返さない。しかしながら、本当に、どうしようもない行き場のないパトスを私は抱えていた。今となっては説明不能な部分もあるが、何事かに対する違和感が、結局あのような動行へとつながっていたことを、今もまざまざと記憶する。

11)さて、私は、ごく最近になって、あの絵の少年が戦っていたものの正体を知った。

20140228111036049  豹(ジャガー)の眼 少年倶楽部/大日本雄弁会講談社

12)なんと、かの美少年剣士が戦っていたのは、獅子というべきか豹(ジャガー)というべきか、目の前の獣だったのである。私には、あの少年はスピリチュアルな存在に思えていた。なにか空なるものと戦っているような、空なるものへと向かう戦いをしているようなそんな気がしていたのだ。すくなくとももうすこし崇高なものであってほしかった。

13)でも戦っていたのは、獣だった。そう知って、ちょっと目が覚めた。この獣、どこから来たのだろう。ジャングルで出会ったのだろうか。それとも敵が少年と戦わせるために檻から放ったのか。

14)今の私なら、わが内なる邪悪なる獅子との対決の場面を想定する。高畠華宵にはたくさんの作品群があり、これと言って探し出さなければ出てこない一枚である。これまで、なんとなく心に引っかかっていたので、ここに忘備録としてメモしておくことにする。

つづく・・・かも

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2017/01/10

「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<9>

<8>からつづく 

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <9>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<10>につづく

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OSHO 現代世界のマインドフルネス 「Mindfulness in the Modern World」 <9>

<8>からつづく

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「Mindfulness in the Modern World」
How Do I Make Meditation Part of Everyday Life? <9>
OSHO 2014/04 Griffin 英語 ペーパーバック 254ページ (Osho Life Essentials)  目次
★   工事中 

 集中は一つの点に向かう。熟考は広い視野を持っている。あなたは美について熟考する。そこは何千という美があり、あなたはこちらの美からあちらの美へと動き続けることができる。あなたは美についてのたくさんの体験を積む。こちらの体験からあちらの体験へと。

 あなたは外的な物事の狭さにとどまり続ける。熟考はちょっと広い集中だ、たしかに一点集中ではない、だがひとつの外的存在の狭さにおいてだ。あなたは動き続けるだろう、そしてマインドも動き続ける、しかし外的物事の中にとどまり続ける。

 哲学は方法として熟考を使い、科学は集中をその方法を使う。熟考のなかで、あなたは自分の目的としている外的物事の他のすべてのことを忘れてしまうだろう。主観的世界は広い、あなたはもっと動いていえる広さを持っている。

 集中においては動いていける広さがない、あなたはもっと深く深く、狭く狭く移動して、もっともっと一点になるだろうが、あなたは動きまわれる広さを持たない。このように科学者は狭い視野の人々だ。こんなことを私が行ったらあなたは驚くだろうがね。

 科学者はとても広いマインドであるべきだと人は思うだろう。そうではない。その主体性を見る限り、彼らは完全に広いマインドであるように見える、彼らは完全に公平に自分の定理についての反論を聞く準備はできている。

 しかし、特定の例外を除いて、彼らはもっと偏見的であるし、通常の人々よりもっと偏狭である。それは彼らが、他のことをよく検討せず、なんであれ社会が信じているものを単純に受け入れているという理由による。

 たくさんの宗教的な人物たちは自慢する。「見なさい、彼はこんなに偉大なる科学者だ、ノーベル賞受賞者だ」とかなんとか、「それなのに、まだ彼は毎日教会に来ている」。彼らは教会に来る科学者は、ノーベル賞受賞者ではないことを、完全に忘れている。

 教会に来ているのは科学者ではない、教会に来ているのは科学的な部分を除いた男なのだ。そしてこの科学的な部分を除いた男は、誰よりもだまされやすい男なのだ。というのも、他の誰もが開放的で、友好的で、物事について考え、宗教は正しいと比較検討し、時々は他の宗教についても読み、そして常識的な感覚を持っているのに、科学者たちはそれを持っていないからだ。

 科学者になるためには、あなたはもうすこし、例えば常識的な感覚を持たなければならない。常識的な感覚は、常識的な人々の、常識的な品質だ。科学者は非常識的な人物だ。彼は非常識的な感覚を持っている。常識的な感覚ではあなたは相対性原理を発見することはできない。常識的感覚でなら、あなたは他のどんなことでもできる。

 例えば、アルバート・アインシュタインはひとつの数列でゼロをいくつも続いて、ページ全体を使うような、とてつもなく長い数字を計測する。彼は、彼は星や、光年、百万、10数億、天文的無数、非常識的に長い数列に取り込まれても、小さな物事については無頓着だった。

 ある日、彼はバスに乗り、運転手に料金を払った。運転手がおつりを払うと、アインシュタインはそれを数え「私をだますのかね、全部返しな」と言った。

 運転手はおつりを手に取って、数え直し、そして言った。「お客さん、これはおつりですよ」

 アインシュタインは記憶している。「彼が『お客さん、これはおつりですよ』と言った時、私は自分に言った。『黙っていたほうがいいな。もし誰かが、私がおつりを知らないことを知ったら、ましてバスの運転手に知られたら・・・・』、私は自分の人生全体で何をしてきたのだろう、数えに数え、他のことを夢見もしなかった、私は夢でさえ数えてきたのに、こいつは私に、『数え方を知らないのかい?』と言ったのだ」。

 帰宅した時、彼は妻に言った。「ちゃんと数えて欲しいんだ。これでいくらある?」。 妻は数え言った。「おつりは間違っていないわ」。

 「なんてこった。これじゃぁ運転手が正しかったということになる。私が数え方を知らなかったのだ。おそらく私は巨大な数字を数えることはできるが、小さな数字についてはすっかり忘れてしまったのだ」。

 科学者は常識をあっという間に失う。同じことが哲学者にも起こる。熟考は幅がある。だがまだひとつの目的に取り囲まれている。例えば、ある夜ソクラテス何か、いままで誰も考えなかったことについて考えていた。木のそばで、彼は熟考に熱中していた、雪が降っていることにも完全に無頓着になり、朝になって凍りかけているところを発見された。

 膝まで雪がつもり、彼は目を閉じて立っていた。彼はほとんど仮死状態だった。彼の血液はほとんど凍りかけていたに違いない。

 彼は家に運ばれ、マッサージを受け、酒を与えられ、彼の常識について質問を受けた。みんなは彼に聞いた。「野外の空の下に立って、あそこので何をしていたのです?」

 彼は言った、「私は、私は立っていたのか、座っていたのかさえ分からない、あそこにいたのかどうかさえ。物事が私を夢中にさせ、私は完全にそれと一体になっていた。私はいつ雪が降りだしたのか知らないし、夜が更けたことさえ知らなかった。物事がそれほどまでに私を夢中にさせるとは気づいていなかったので、私は死んでしまったかもしれない。

 私はまだ終わっていなかった。全体的な定理だった。あなた方が私を途中で起こしてしまった。今や、私は結論できなかった定理について、着想できるかどうかは私にはわからない」。

 それはあなたが夢見ている時に、誰かに起こされてしまったようなものだ。あなたは、目を閉じて眠ろうとして、夢の続きを見ることができると思うかね? 同じ夢の中に戻ることは非常に難しい。

 熟考は論理的な夢見の一種だ。非常に珍しい。しかし哲学は熟考の上に成り立っている。哲学は集中を幅のある目的に、熟考の補助として使うことができる。もし同じような小さな断片がその中にあれば、もうすこし集中する努力が必要だ。集中が使われる。そこになんの問題はない。哲学は基本的に熟考だが、なんであれ、ひとつの道具として、楽器として集中を使う。

 しかし、宗教は集中を使うことはできないし、熟考を使うことはできない。なぜなら、それは外在物についての考察ではないからだ。なんであれ目的物は外側にあり、考えや、定理、哲学といったあなたのマインドの中の目的も、大したものではない、それらは外在物だ。

 宗教的な考察とは、集中した誰か、熟考した誰かのものだ。

 これは一体誰だろう。

 さぁ、あなたはそれに集中することができない。誰がそのことに集中しているのか? それは、あなたなのだ。・・・・・24/198

<10>につづく

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2017/01/09

 「彫刻刀で楽しむ仏像」弥勒菩薩・薬師如来 関侊雲他<4>

<3>からつづく 

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「彫刻刀で楽しむ仏像」 弥勒菩薩・薬師如来<4>
関侊雲 紺野侊慶(監修) 2011/09 スタジオタッククリエイティブ 大型本: 168ページ
★★★★☆

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つづく

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アーサー・C・クラーク 「地球怪奇現象」

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「地球怪奇現象」 
監修: アーサー・C・クラーク 1989 イギリス 1991日本発売 ヤングコーポレーション VHS 80分 (「CDジャーナル」データベースより 形式: Color, Dubbed 
No.3858★★☆☆☆

1)図書館をアーサー・C・クラークで検索してみるとたくさんの資料がでてくる。この英国生まれでスリランカに住んでいたSF作家は1917/12~ 2008/03の間生存していたわけだから、ごく最近の現代作家だったということになる。

2)しかし、このタイトルはどうかなぁ・・・? 当ブログでここに刺さっていくと、せっかく封印してしまったところの「アガルタ探検隊}をまたまた呼び覚ましてしまうことになりそうだ。

3)せっかくOSHO「現代世界のマインドフルネス」までテーマを絞り込んできたところなので、ここまでバッグギアを入れたくはない。

4)「2001年宇宙の旅」では、ようやく「意識」までつなげてきたのだ。このへんはあまり深入りせずに、パスしていこう。

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2017/01/08

「2010年」 監督:ピーター・ハイアムズ<4>

<3>からつづく

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「2010年」<4>
監督:ピーター・ハイアムズ  1984年製作 米113 min 日本公開1985年

1)正月早々、またまた見てしまった、このシリーズ。年末には8時間かけて「ホビット」を見たが、いまいちだった。スターウォーズもなんだかなぁ。ゴジラもなぁ。それに比べれば、こちらはCGは使っていないし、かなりクラッシックの領域に入ってしまう作品なのに、すごくリアリティがあった。

2)おそらくチャンバラとか神話とか、エンターテイメントに逃げていないところがいいのだろう。もちろんこの映画にも戦いや戦争はある。しかしながら、それはそう想定しているだけであって、実際には戦ったりはしない。そこがいい。

3)1対4対9、などというモノリスに謎かけしてしまうのは、今となってはちょっとずるい気もするが、他にどのような表現が残されているだろう。HAL9000も旧態依然としたドデカさだが、それはそれでその存在感をキチンと示している。

4)最後のメッセージはなんだか教訓めいていて、毎回聞いていると、なんだかなぁ、という気分にならないワケでもないが、他になんとする。これはこれでいいのだ。この枠でキチンと作品されている。感動ものである。また見たい。

つづく

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2017/01/07

OSHO 現代世界のマインドフルネス 「Mindfulness in the Modern World」 <8>

<7>からつづく

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「Mindfulness in the Modern World」
How Do I Make Meditation Part of Everyday Life? <8>
OSHO 2014/04 Griffin 英語 ペーパーバック 254ページ (Osho Life Essentials)  目次
★   工事中 

 その集中から戻ってきた時、彼は辺りを見回し、友人を見、空っぽの食器を見た。彼は友人に言った。「いやぁ、ごめん。キミは来るのが遅かった、私は朝食を全部食べてしまったよ」。もちろん食器は空っぽだった、誰かが食べてしまったのだから、では誰が食べてしまったのか? 彼が食べたに違いない。

 気の毒な友人は、何にもすることができなかった。彼はエジソンをちょっと驚かしてやろうとしていただけだった。しかしこの男はもっとこの友人を驚かした。「キミはちょっと遅れてきたね・・・・」

 しかし妻は全部のなりゆきを見ていた。彼女は来て言った、「彼は遅れてきたわけじゃないのよ、あなたが遅れてきたのよ! 彼があなたの朝食を食べてしまったのよ。私は見ていたわ、だんだん冷めてしまったし、どうせ誰かが食べてしまったでしょ。あなたは科学者よ。私にはあなたは自分の科学を活用することができないなんて、信じられない」 妻は言った。「あなたは誰があなたの朝食を食べてしまったのかまったく気づいていない、そして彼に謝っているなんて!」

 集中はいつもあなたの意識を狭めてしまう。狭めてしまえば、それはもっと強力にはなる。それは剣がどんな自然の秘密でも切り取ってしまうようなものだ。あなたは他のことに無頓着になってしまう。しかし、それは瞑想ではない。たくさんの人々が間違って理解している。西洋ばかりではなく、東洋の人々だって、同じだ。彼らは集中が瞑想だと考えている。それはとてつもない地からをあなたに与えてくれる、しかしそれらはマインドの力にすぎないのだ。

 例えばインドのあるバラナーシの王が、1920年、今世紀のことだ、手術することで話題になった。彼はどんな麻酔薬も使ってほしくなかった。彼は言った、「私はどんなものでも私を無意識にするものは受け付けないと誓ったのだ。だから私はどんな麻酔薬も使ってほしくない。しかしキミは恐れることはない。」 それは出来物を切除する手術だった。

 さぁ、誰であろうと、麻酔薬を使わずに出来物切除手術するなんてきわめて危険だ。この男を殺してしまうだろう。彼は痛みに耐えることなどできない、痛みはとてつもないものになるだろうからだ。彼の胃袋を切り裂き、出来物を切除しなければならない。それは一時間、二時間かかる。出来物はどんな状態になってしまうかさえよくわかっていない。

 しかし、彼は普通の男じゃなかった、彼はバナラシーの王様なのだ。でなければ力づくで手術することもできただろう。彼は医者に言った「心配するな」。そこには英国からやってきたインドの中でも一番有能な医者たちがいた。

 彼らは相談し合った。だが誰もその手術をする準備がてきている医者はいなかった。そうしているうちに、出来物はこの男を殺してしまうだろう。状況はとても深刻だった。さらに深刻なことさえ起りつつあった。手術をしないで彼を放置すれば死んでしまう、彼に麻酔を変えずい手術をするなんて、やったことがない、前例がないのだ。

 だが王は言った。「キミは私を分かっていないようだな。前例がないのは、キミが今から手術しようとしているような男を手術したことがないからだ。私に聖なるシリマド・バガバット・ギータをよこしなさい。私はそれを読む。それから5分後にキミの仕事を始めなさい。一度ギータに夢中になれば、キミは私の体のどこを切っても構わない。私はそれにまったく気づかない、痛みなんてあるわけない」。

 そう主張しつつ、彼は死につつあった。ためらっている場合ではない。確かに彼は正しいのだろう、彼は宗教的実践家として知られていた。そして手術は実行された。彼はギータを5分間読み、目を閉じた。ギータは彼の手から落ちた。手術が始まった。それは一時間半かかった。それはとても深刻なものだった、あと数時間すれば出来物は爆発してしまって、彼の命を奪ったことだろう。

 医師は出来物を摘出し、王は完璧に意識的だった。まばたきもせず沈黙を保った。彼はどこか別なところにいた。

 これは彼の人生の中での訓練だった。たった5分間ギータを読む、本なしでも暗唱ができた。いちどギータの中に入っていけば、彼は本当にギータの中にいた。彼のマインドはその中に入っていった。体はそこに完全に置き去りにして。

 この手術は世界中でニュースになった。実にまれな手術だった。しかし同じ間違いが起きてしまった。すべての新聞が、このバナラーシの王様は、偉大なる瞑想の人として取り上げてしまった。

 彼は偉大なる集中の人ではある。だが瞑想の、ではない。

 彼自身、おなじ混乱の中にいた。彼は自分が瞑想の地平にたどり着いているものと勘違いしていた。それは違う。それは単にマインドが集中しているために、他のものがその集中から外れて、無感覚になっただけだ。それは覚醒の地平ではない。それは狭められた意識の地平だ。とてつもなく狭められ、一点に集中し、他の存在物は全部、どこかに行ってしまった。

 さぁ、私はあなたの「瞑想とはなんですか?」という問いに答える前に、あなたはそうではないものを理解する必要がある。まず、それは集中ではない。そして、それは熟考でもない。 21/198

<9>につづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<8>

<7>からつづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <8>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<9>につづく

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「地球人スピリット・ジャーナル」エッセンス版<3>

<2>からつづく

「地球人スピリット・ジャーナル」エッセンス版

<3>科学

1)2006年から2016年までの十年間の読書の中で、記憶に強く残っている科学のテーマとしてはシンギュラリティがある。当ブログとしては「シンギュラリティ」「シンギュラリタリアン」という二つのカテゴリを作って、それなりに探索してみた。

2)もちろん、その語源は「ポスト・ヒューマン誕生」(2007/1 NHK出版)のレイ・カーツワイルにある。この邦題が悪かったのか、当時はほとんどヒットすることなく沈静していたコンセプトだったが、版元のNHK出版が、タイトルも新たに「シンギュラリティは近い」---人類が生命を超越するとき---としてエッセンス版を出したのは2016/04になってからであった。

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3)2017年初頭の現在、このシンギュラリティは最前線の流行語であるようにさえ思える。そもそもがかなり分厚い一冊なので、エッセンス版とは言えかなり重厚な内容である。左脳が必ずしも聡明ならず、理科系の論理性にも乏しい当ブログとしては、ほとんどちんぷんかんぷんであるが、最後にカーツワイルが到達した地平は興味深い。

4)シンギュラリティは最終的に宇宙を魂で満たす、と言うこともできる 「シンギュラリティは近い」p244 同上

5)反面、そのシンギュラリティのシンボル的存在となるのが、ヒト型ロボットの登場である。いずれ人工知能をそなえたコンパニオンとしてのロボットが私たちの生活に入り込んでくるのは間違いないが、そのことを先駆的に考察したのが、「未来のアトム」(田中伸和 2001/7 アスキー)である。

6)鉄腕アトムが誕生したと言われる2003/4/7に向けて書かれた膨大な一冊であるが、人工知能が心を持つには身体が必要とされる、と言う点からヒト型ロボットの登場を予感するが、それでもなお、科学が意識を超越することはない、と喝破している。

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7)SF小説が好んで主題に取り上げるようには、ヒューマノイドに簡単に「意識」や「心」が発生することはありえないことは確実であるように私には思える。
 このことは、逆にいうと、私たち人間が、誰しも、実に驚嘆すべき能力を宿しているということである。私たちは、自分たちが宿している驚嘆すべき能力について、あまりにも無知なのである。
「未来のアトム」 p600

8)当代の科学者としては名前を馳せた茂木健一郎には「意識とはなにか」(2003/10 筑摩書房)がある。当ブログも呼応する形で、そのブック・ガイドをナビゲーションとして、関連書籍を読み進めてみたが、結論としては芳しいものではなかった。

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9)3・11震災のあと慰問のために来日したダライ・ラマに対して茂木は質問をしている。

10) 「実はわれわれ脳科学者はとても大きな問題を抱えています。それは『意識』の問題です。科学者はこれを全然解明できていないんです。・・・」茂木健一郎「傷ついた日本人へ」 (ダライ・ラマ14世 2012/04 新潮社)p129

11)対するダライ・ラマの回答は・・・。

12) 意識はこうして前世から現世へ、そして現世から来世へ、連続して持続すると考えられています。意識は何かから生み出されたわけでも、突然消滅するわけでもなく、始まりも終わりもなく、常に存在し引き継がれるものなのです。ダライ・ラマ14世「傷ついた日本人へ」 ( 2012/04) p134 同上

13)ここで会話が成立しているかどうかは微妙なところである。そもそも意識は「~~とは何か」と問われるものではなさそうだ。科学という強大なパワーの限界点はこのあたりにある。

14)さまざまに理解され脚色されるアーサー・C・クラーク「2001年宇宙の旅」だが、しばがきけんじ脚色でFM東京1978-06に放送されたの第5話(15分以降)ではは、次のように表現されている。

15)「何もなく、ただ何もないということを意識している意識だけがある。そして打ち消すことができない意識という現象こそ、自分の、あらゆる人々の、全生命の、宇宙の本質なのだ。宇宙はなにひとつ隠してはいなかった。われわれが必死になって目をつむっていただけだった。」第5話15分以降

16)それから彼は、考えを整理し、まだ試していない力について黙想しながら、待った。世界はむろん意のままだが、つぎに何をすればよいかわからないのだった。

 だが、そのうち思いつくだろう。アーサー・C・クラーク「2001年宇宙の旅」(1977/05 早坂書房)p264

17)この小説はこのように結句されている。つまり人間存在の可能性は無限である。そして、なにをするのか、どう生きるのは全く自由なのである。

つづく

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「地球人スピリット・ジャーナル」エッセンス版<2>

<1>からつづく

「地球人スピリット・ジャーナル」エッセンス版

<2>目次

1)はじめに
2)目次
3)科学

<3>につづく 

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「地球人スピリット・ジャーナル」エッセンス版<1>

「地球人スピリット・ジャーナル」エッセンス版

<1>はじめに        目次

1)年の初めに、当ブログ「ダイジェスト版」に目を通してみた。相変わらずあちこちに誤字脱字が散見されたものの、これまで見つけ次第訂正してきているので、だいぶ減ってきた。通読して、後半部分は内容が薄くなってしまっているが、それでもダイジェスト版としてはまだまだ今後も機能してくれそうである。

2)しかしながら、ダイジェスト版をまとめたのは、当ブログがスタートして5年目、タイミングとして3・11震災をひとつの契機として振り返ってみようというのが、大きなきっかけだった。あれからさらに5年が経過して、その後に付け加え続けている後半部分については、論点がやや呆けてしまっているのも事実である。

3)また、当ブログの書き手として、ブログ全体を大きくフォーカスして見ることもできるようになった。スタートから5年目のまとめはそれはそれでいいとして、現在の10年を経過した時点で、もう一度、内容的にまとめてみたらどうだろう。

4)ダイジェスト版は、カテゴリを時系列に短文で切り取ってきたが、エッセンス版では、むしろテーマ別に分けて見るのも悪くないのではないか。実は、そう思ってから数か月が過ぎてしまった。遅れてしまったのは、うまい表現形態を思いつかなかったからだ。

5)それでも今でもその思いは強いので、まずはタイトルだけでもスタートしてみようと思う。始めてしまえば、おのずとその形を現してくるだろう。テーマとしては、今のところ、科学、芸術、意識の三つに分ける。

6)科学は外側の世界である。コテコテの技術論に興味はあるが、非才なるわが身には理解不能な面が多々ある。コテコテ・ワールドに興味はあるよ、という姿勢を保ちながらも、とにかく当代のトップランナーたちに目をくばる、その程度に落ち着くだろう。

7)意識。これはもう、当ブログの目下の最大課題である。このために当ブログは存在しているようなものである。しかしながら、こちらもまた、多才なるわれ、と誇れるほどのものはない。古代からつづく先達をしのびながら、それでもなお、現代に生きるわれの目から見た、まとめなり、活用させていただいた部分のメモとなろう。

8)科学があり、意識がある。しかして、科学は有用なれど絶対ではない。意識は絶対なれど、表現不能。その橋をかけるのが、芸術である。文学、音楽、絵画、演劇、舞踏、造形、などなど芸術にもさまざまな分野があれど、当ブログの基本は追っかけは書籍追っかけの読書なので、文字表現が主となる。しかも小説やSFはざっくり避けている。ノンフィクションやジャーナリズム、エッセイや一部の研究書主なものとなるだろう。

9)エッセンス版と銘打つ限りは、本来は、科学、芸術、意識という三分割を終わりにして、乗り越えていこう、というのが本旨である。進化しつづける科学はさらに芸術的でなり、目指すは意識である。意識は科学の手に届かないところにありながら、科学では証明きれない「非」の部分にあるとすれば、意識はパラドックスとして科学に大いに依存しているところがある。芸術もまた、魂に響くような作品は、つねに科学に裏打ちされて、しかも意識に届いている。

10)エッセンス版。目指すは一つであり、その一つを乗り越えた地平である。そして、そこにあるのは、神羅万象が豊かにあふれかえっているであろう世界である。

<2>につづく

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「48歳からのウィンドウズ10入門」<11>

<10>からつづく

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「48歳からのウィンドウズ10入門」 

リブロワークス (著) 2016/4 インプレス 単行本(ソフトカバー): 128ページ 目次
★★★☆☆

<11>三か月使ってみた

1)すでに3か月前に締めてしまったコラム・シリーズだが、あえてその後のリポートをしておくことにする。よいことは書いてしまったので、よくないことから書いてみる。

2)まず、ぎょっとしたのは、電源コードのプラグ接続部分が折れたことである。

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3)この機種にほれ込んだのは、とにかくあれだけ落下や衝撃テストを繰り返していて、その堅牢さは、モバイルパソコンの必須条件だろう、という読みがあったからである。そして、たしかに、何度も机から落下するような事態が発生したが、本体には何の影響もなさそうだった(今のところ)。

4)しかし、それをなんどかやっているうちに、不注意さが増加してきたのだろうか、今回ばかりはやばいと思ったのだが、足をコードに引っかけて落下させてしまった瞬間、本体に差し込むプラグ部分が折れてしまったのだ。

5)現在「く」の字に曲がった状態で、断線は免れているが、これはいずれ時間の問題だろう。数千円覚悟の上、新しいコードを用意しなければならない(あれ、メーカーサポート、って効くかな?)。

6)今回のPC選びで一番こだわったのはモバイル性だった。だから12インチにしたのだし、重量も1キロにこだわった。その部分はもう納得済みである。しかしながら、この3か月の自らの行動において、本当にモバイル性が必要だっただろうか、というところが引っかかってくる。

7)たしかに何度もカバンに忍ばせて客先には向かった。デモでカバンから取り出すという「示威行為」もした。しかし本当にその場面でこのモバイルPCが必要だった、ということはなかった。もちろん、いつも常帯するなどというスタイルも必要なかった。

8)つまり、外においてはスマホで十分だったのである。どうしてもというならタブレットもあるが、タブレットさえ本当は必要なかった。12インチモバイルPCでノマド生活、というのは、私の場合は、憧れであって、実態にはそぐわないものであった。

9)とするなら、本来、重くて、デカくて、携帯性に乏しい15インチでも十分だったのではないか。その方が安い。そして選択の幅は広がる。携帯性にこだわったばっかりに削った機能やアプリソフトもだいぶある。そもそも、ここが間違いだったのではないか。

10)15インチとは言え、本当に必要なら外出時に持ち出すことは可能だ。機能的には問題ない。オフィスでなら、すこしかさばるかもしれないが、置き場所が決定してしまえば、それはそれ、うまく収まってくれるはずである。

11)その他、芳しくないことと言えば、やはりSSDにしたおかげで速さは抜群だが、容量をケチってしまったこと。もうすこし大きなキャパが必要だ。そしてオフィスソフトもやはり新品が必要になりそうだ。

12)さらには、3か月も使ってくると、やはり少しづつ立ち上げや切り替えが遅くなる。常にクリーンアップを心掛けてはいるのだが、知らず知らずに残り滓がたまっていくようだ。それと、やはりOSの特性だろうか、異常停止、再起動がかかった場面が二度三度あった。

13)概して言えば、このPCは現在78点くらいである。60点合格主義の私としては、これで、もう十分すぎるのだが、この次買う時は、このPCが壊れないうちに、15インチの安価な一台にしようと思う。

14)モバイルはもう、スマホで十分な時代だ。

つづく

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2017/01/06

「ネットで進化する人類」 ビフォア/アフター・インターネット 角川インターネット講座15 伊藤 穰一 (監修) ドミニク・チェン他<3>

<2>からつづく 

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「ネットで進化する人類」 ビフォア/アフター・インターネット角川インターネット講座15 <3> 
伊藤 穰一 (監修) 2015/10 KADOKAWA / 角川学芸出版 単行本213 ページ、 Kindle版 ファイルサイズ: 4328 KB 
★★★★☆

1)正月に当たって、もういちどこの巻をめくりなおしてみた。伊藤穰一の直観的で断片的なコメントだけでは、いまひとつ納得感がなかったし、もうすこし深さも欲しかった。その推察は一応正しかったが、今回の読書で、新たにドミニク・チェンを再発見したことは大きかった。

2)彼については、一度当ブログでも拾ったことがあったけれど、十分ではなかった。

3)有史より、個々人の認知限界から生じるさまざまな問題---自然現象の不可知、社会の崩壊などの解決不可能な事象---を回収し、個人を世界と接続し秩序をつくるための機構として「宗教」が機能してきた。「宗教(religion)」という言葉は、ラテン語源に由れば、「re-ligio」=「再接続」を意味する。それは多様な人間からなる集団を共通の物語のもとで統治するという実際的な定義であると同時に、個々の人間が「わたしがわたしとして存在する理由」、言い換えれば自己同一性を担保する物語装置として作動するものとして理解できる。ドミニク・チェン「いきるためのメディア」(2010/08 春秋社)p295「コミュニケーションとしての統治と時間軸の設計」

4)「宗教のない世界」というフレーズはジョン・レノンの樂曲「Imagine」で世界的に知れ渡った。それは宗教が人類史を象徴する大半の紛争の理由として利用されてきた経緯を表しているが、それゆえに共同体を統治するための再=接続装置は「宗教」とは別の概念、別の呼称をもって更新される必要性があるものとしてとらえることもできる。ドミニク・チェン「同上」p298

5)この「生きるためのメディア」が出た当時は、まだドミニク・チェンの活動全開とはなっていなかったようだ。

6)前回、この「ネットで進化する人類」を読んだ時は、次の部分を抜き書きしていた。

7) ソフトウェア以外の著作物もまたオープンにしようというフリーカルチャー運動に属するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスのなかでも、フリーソフトウェアと同等の自由度を利用者に与える作品をフリーカルチャラルワークス(自由な文化作品)と定義している。ドミニク・チェン「ネットで進化する人類」p086 「フリーカルチャーに通底する思想」

8)4分と33秒の間、全く演奏を行なわない演目に注意を向け、逆に体内や環境に偏在する音に気づかせるというコンセプトの楽曲「4’33”」を書いた20世紀のジョン・ケージは、米国で禅の思想を説いた鈴木大拙に師事して以来、「妨害なき相互浸透」(interpenetration without obstrukution)というフレーズに取り憑かれた。 

 もともと仏教思想から鈴木が英訳した言葉だが、ここまで考えてきた私たちの言葉でいえば「妨害なき」とは他律的な制御の影響のない状態、そして「相互浸透」とは相互の有機構成が密接に連関したコミュニケーションとしてイメージすることができる。ドミニク・チェン「ネットで進化する人類」p95「人間のためのデザインのプロセス」

9)世代的には、ドミニク・チェンの文章にもでてくる1952年生まれのケヴィン・ケリーの方が親しみを持つ。1966年生まれの伊藤穣一の研究には注目せざるを得ないが、世代的なズレを感じないわけではない。

10)それに比すれば、1981年生まれのドミニク・チェンは、私などから見れば一世代下、つまり子供の世代である。もちろんジェネレーション・ギャップを感じないわけではないが、むしろ小気味いいギャップである。ここまで割り切れて語ることができる、という期待感がある。

11)現代の主要な検索エンジンはインターネット全体の氷山の一角しかインデックス化できていないといわれ、そのまだ暗い領域はディープウェブと呼ばれている。私たちの無意識下の膨大な生命情報はあたかも個々人が内部に抱えているディープウェブのようである。

 そこからデータを採取する生体センシング技術の発展と、機械学習やビッグデータ解析といった情報技術の適用が行われれば、内的なディープウェブとしての私たち自身の無意識に対する解像度が高まり、そこが新たに自律的な産出と他律的な算出がせめぎ合う戦場となろう。その時、人間はありのままの、生身の心的システムの挙動を見ることが可能になる。093ドミニク・チェン「無意識という深層の捕捉と活性化」

12)本書のタイトル「ネットで進化する人類」にズバリ対応するような言及である。

13)しかし、ことはそう簡単ではないことはすでに知られており、意識というものは、これ、と示すことが出来ず、これでもなければ、あれでもない、という「非」を使ってしか指し示せないと言われている。とすれば、どこまでも発展していく技術を、最後は否定するというパラドックスの奥に隠れているのが意識であれば、新しい世代のこれらの研究もいずれは、次の世代へとバトンタッチしなければならないわけで、それこそがまさに大々逆説的に「ネットで進化する人類」となってしまうのかもしれない。

14)ちょっと早すぎると思うが、ドミニクチェンの関連リストを作っておく。

「いきるためのメディア」(2010/08 春秋社)

「フリーカルチャーをつくるためのガイドブック」2012 フィルム・アート社

「オープン化する創造の時代」 2013 kadokawa

「インターネットを生命化するプロクロニズムの思想と実践」2013/07 青土社

「電脳のレリギオ ビッグデータ社会で心をつくる」 2015/03 NTT出版

「ネットで進化する人類」2015/10 KADOKAWA

「シンギュラリティ 人工知能から超知能へ」 2016/01 NTT出版

つづく

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2017/01/05

「キンドル・アンリミテッドの衝撃」 IT研究会

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「キンドル・アンリミテッドの衝撃」 あなたの読書生活に革命が起きる!
IT研究会 (編集) 2016/10 ゴマブックス 単行本: 147ページ
No.3857★★☆☆☆

1)当ブログは「意識と瞑想をめぐる読書ブログ」である。読書ブログである限り、どのような質の読書を続けているのかが問われる。当ブログの基本は、公立図書館の一般開架棚にある、ふつうに流通している本がベースとなる。

2)古い本や、一般には手に入らないような希少本、外国語や研究書のようなものは自然と省かれる。そのようなスタイルになったのは、そもそもブログという機能が登場した時に、利用方法として、読書ブログが登場したのであって、むしろブログというキーワードが先行するからである。

3)インターネットの一機能としてブログサービスが一般化した10数年前、時を同じくしてイノヴェイションを起こしていたのが、図書館という機能だった。図書館とはいうものの、それまではなかなか利用しずらい面も多かった。それが大きく変化したのだ。

4)まず、オープン化されたこと。市内、県内の図書館のみならず、地域にある大学、短大、高専、高校、中学、小学校のほとんどどのレベルにおいても、外部の人間が利用可能になったのだ。これは大きかった。

5)二つ目に、各図書館が蔵書リストの閲覧にパソコンを使い始めたこと。これによって、書籍を検索するのが極めて楽になった。これまで見逃していた本がたくさんあることが分かってきたのだ。

6)そして、この閲覧パソコンがインターネットによって外部からも検索できるようになったのだから、大きな驚きだった。どこの大学にどの研究書があり、隣のあの町にならこの希少本や郷土史がある、ということがどんどん分かってきたのだ。

7)そしてさらに驚いたことに、地域の図書館にない本でも、リクエストして数日待てば、全国どこからでもお目当ての本を無料で取り寄せてくれるようになったのである。これは便利だった。全国どの図書館に見つからなくても、最終的には国会図書館という手が遺されていた。

8)一部の大学では入館カードを作るのが一部有料だったり、持出禁止で図書館内で読まなければならない本もあるが、それでも、実際に手にとって読めるのだから、限りなく便利である。有難い。

9)これら限りないぜいたくをさせてもらって早10年。この間、読めた本は4000冊弱である。月に換算すればおおよそ30冊平均。なんと一日一冊読んできたことになる。もっとも、貸出を延長し、あるいは再々貸出を繰り返した本も多くあるし、ほんの流し読みで終わった雑誌のバックナンバーのようなものもあるので、均一ではないが、それでも、われながら驚きである。ちなみにこの本は3857冊目だ。

10)さて、その読書のメモを綴り続けてきたのが当ブログであるが、テーマはおのずと「意識と瞑想をめぐる」となっていった。経緯はともかく、もっとも関心のあるのがその辺なのである。テーマとしてはまだまだ深堀りできておらず、むしろそれはこれからの課題である、と考えている。

11)さて、そこに登場するのかしないのか、この電子本という流れ。当ブログでは現在、電子本については大きく二つの点で関わりがある。ひとつは雑誌「WIRED」誌で、もうひとつはOSHO「現代世界のマインドフルネス」である。

12)すでに宅配の日刊新聞を取っていない我が家としては、雑誌の類はなおさら縁遠かったのであるが、どれでも何かが足りないように思っていた。愛読雑誌の一つでもあったほうが、自らのキャラクターを把握しやすいのではないか、と思い、ようやく雑誌「WIRED」誌の有料定期読者になったばかりである。

13)「WIRED」は知る人ぞ知るITやネット関連では最も先頭を切っているように思える雑誌で、かなりの部分をネットで読めるし、またそのサービスはほとんど無料なのである。で、読めば読むほど、全部読みたいという機運が高まり、結局は紙ベースの雑誌を購入し、ネットでも読むという併読スタイルが進行中だ。

14)有料といっても隔月500円程度なので、ポケットマネーから出せない金額ではない。しかし有料は有料である。編集部からのヘルプも熱い。正直言って、私は招待席に座らされた優良顧客のような気分を味わいつつある。

15)もう一冊はOSHOの「現代世界のマインドフルネス」。「WIRED」誌ともつながってくるけれども、当ブログとしては、「意識と瞑想」の部分を、この「マインドフルネス」というキーワードで深堀りしよう、というプロセスにある。OSHOとしてはこのキーワードを使って本を出していることは珍しい。これはなんとか、今年一年ゆっくり英文でよみ、拙訳を当ブログに連載しようと思い立ったところである。

16)このOSHO本は、もちろん英文で印刷されている本もあるが、電子本もある。最初どちらにするか悩んだが、結局両方入手することにした。本はやっぱり紙で印刷されているものほうが本らしい。そして、電子本は実は、翻訳する場合、とても役立つのである。

17)英語が得意でない私は通読するとなれば辞書なしでもなんとか行くが、翻訳となれば、簡単なものでも辞書は必携となる。紙ベースの本となれば、パソコンにせよ紙辞書にせよ、とにかく辞書が必要になる。ある意味めんどうくさい。

18)ところが、電子本なら、わからない単語が登場するたび、単語にタッチすると、すぐ辞書機能が働くのである。これは便利だ。簡単に単語の翻訳語が出るので、分かっていたつもりの単語もタッチしてみると、あらら、長い間勘違いして覚えていた単語もあったり、他の意味もあったりすることを発見したりする。

19)はてさて、ここに登場するのがキンドル・アンリミテッドだ。私の読書ブログ生活に「革命」は起きるのか。それほどの「衝撃」はあるのか。

20)まず、当ブログは、漫画や小説は読まない。完全に排除しているわけではないが、メインターゲットではない。雑誌の類も、一部限られたものしか手にとらない。何万冊、何十万冊と歌われても、結局は10年間で4000冊が限界である。今後はもっと減っていくだろう。

21)月数百円から千円程度という課金も、ポケットマネーが痛むほどのことはないが、毎月となれば、その質が問われる。本当にそれだけの投資の価値があるのか。読書ブログのための私的「図書館利用術」を超えるだけの利用価値があるだろうか。

22)個人としては現在のところ、その価値なし、と結論がでている。まずは、図書館ネットワークで十分である。図書館ネットワークで見つからないものがあるならキンドル・アンリミテッドも悪くはないが、そうでもなさそう。品揃えが十分とは言えない。

23)また、電子本とは言え、電子本アプリはキンドルやキンドル・クラウド・リーダーの他にたくさんある。楽天KOBOや青空文庫、Fujisan、iBooks、などの他にも多数乱立している。それぞれが特徴あり、まだキラーアプリになるほどのものはない、と感じる。

24)ところで今回、この本を検索していて分かったのだが、同じタイトルで他社からーーー「キンドル・アンリミテッドの衝撃」(石井隆志2016/09講談社) がでている。各出版社がイージーに「~~~の衝撃」というタイトルを安易につけるようになっているが、これはどうかな、と思う。全然、衝撃波を感じなくなる。さらには、この二書とも、そのタイトルとは裏腹に、キンドル・アンリミテッドでは読めないのだ。実になんとも可笑しいだろう。チグハグだ。

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2017/01/04

「シンギュラリティは近い」エッセンス版―人類が生命を超越するとき レイ・カーツワイル<21>

<20>からつづく

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「シンギュラリティは近い」エッセンス版―人類が生命を超越するとき<21>レイ・カーツワイル 2016/04 NHK出版(編集)  単行本(ソフトカバー) 256p

1)人はよく意識のことを、ある存在物のはっきりとした属性で、難なく識別し、発見し、判定できるものであるかのように言う。意識の問題がこれほどまでに議論を呼ぶのはなぜか。その謎の鍵を握る洞察は次の言葉に集約される。  

 意識の実在を決定的に裏づける検証法は、ひとつとして存在しない。 

 科学とは、客観的な計測と、そこに生まれる論理的な推論から成り立っているが、まさに客観性の本質として、主観的経験は計測できないことになっている。p231「意識をめぐる厄介な問題」

2)この本は、オリジナルにせよ、エッセンス版にせよ、ほとんど90%が外側の科学について書かれている本である。科学史やその発展、可能性について書かれている。だが、それだけならおそらく魅力は半減するし、当ブログにおいても話題にするほどでもなかっただろう。

3)この本の良心的な部分は、シンギュラリティという耳新しい概念を使いながら、「科学の可能性」と「科学の限界性」を垣間見せてくれるところにある。 この残り10%が限りなく魅力的なのであり、そこに多くの読者が新しい可能性を見つけようとしているのだ。

4)主観的な経験はまったく存在しないか、あったとしても本質的なものではないので無視してもよい、という見解に対しては反対したい。誰に、またはなにに意識があるかという問題、および、他者の主観的経験の性質は、われわれの倫理的、道徳的、法的概念の基礎をなしている。

 人間社会の法体系は、主として意識の概念に基づいており、とりわけ(意識のある)人間に被害---特に深刻な意識的経験の形で---を及ぼす行為や、人間の意識的経験を終わらせる行為(殺人など)に多大な関心が向けられている。p232 同上

5)最終章において、残りの10%において、わずかに「意識」についての考察が展開されている。そこに触れなかったよりはずっといい。この10%こそを読みたかったのだ。そう思い読み進めるのだが、カーツワイルもそこから向こうについて、それほど多くを語ることはできない。

6)わたしとは誰なのか? たえず変化しているのだから、それはただのパターンにすぎないのだろうか? そのパターンを誰かにコピーされてしまったらどうなるのだろう? わたしはオリジナルなほうなのか、コピーのほうなのか、それとも両方なのだろうか? 

 おそらく、わたしとは、現にここにある物体なのではないか。すなわち、この身体と脳を形づくっている、整然かつ混沌とした分子の集合体なのではないか。p235 「わたしは誰? わたしはなに?」

7)シンギュラリタリアンを自負するカーツワイルにして、初めてこの内なる旅の入り口に立つ。その探求心は、科学に対する誠実さと同程度に、実に誠実な姿勢である。

8)意識について論じるときには、往々にして行動科学や神経学でいう意識の相関物の考察に逃れていってしまいがちだ(たとえば、ある存在がその意識体験をみずから観察できるか否かとか)。だが、そういうものは三人称の(客観的な)問題であり、哲学者のデイヴィッド・チャーマーズが意識の「難問(ハードプロブレム)」と呼ぶもの、すなわち、「物質である脳から、いかにして意識のように明らかに非物質的なものが生じるのだろうか」という問題を説明していない。p240 同上

9)当ブログは現在、マインドフルネス、という言葉まで降りてきている。ジョン・カバットジンが、どのような体験をし、どのような体形を整えたとしても、少なくとも一般的な受け止められ方は、まだまだ科学的マインドを満足させるような語り口で語られることがほとんどだ。

10)やれ、エリートが注目している。やれ、スポーツマンがメンタルヘルスに使っている。健康法や成功哲学のひとつのようにさえ扱われている。しかし、それはなにもカバットジンだけを責める必要はない。これまでかつてさまざまな言葉で語られてきた類似概念のほとんどは、そのようなものでしかなかったからだ。説明する方も、受け取る側も、突き詰めは見事に甘かった。甘いばかりではなく、方向がまるで勘違いであり、間違っており、危険、有害ですらあった。

11)シンギュラリティは、物質界で起こる事象を意味する。それは、生物の進化に始まり、人間が進める技術進化を通じてさらに伸張してきた進化の過程における、必然的な次へのステップである。

 しかしながら、われわれが超越性(トランセンデンス)---人々がスピリチュアリティと呼ぶものの主要な意味---に遭遇するのは、まさにこの物質とエネルギーの世界においてなのだ。p241 「超越としてのシンギュラリティ」

12)誠実なアプローチではあるが、カーツワイルが科学者である限り、そして自らシンギュラリタリアンと自負したとしても、その考察の多くは、仮説にとどまっている部分が多くある。

13)「スピリチュアル」と呼ばれるものこそ超越性の真の意味だと考える向きもあるが、じつは超越性は現実世界のすべてのレベルに見ることができる。たとえば、われわれ自身を含めた自然界の創造物、そしてもちろん、芸術、文化、テクノロジーや、情動的、精神的表現など、人間が創造したものにも超越性がある。

 進化は、パターンと深く関わりがあり、進化の過程で成長するものは、端的に言えば、パターンの秩序と深さに他ならない。したがって、人間の中で起きる進化の極致であるシンギュラリティは、こうしてさまざまな形で表れる超越性をさらに深めていくことだろう。p243 同上

14)語られる言葉には、語り手と聞き手の、相互の関係性が大きく作用している。著者が感じ取っているもの、表現しようとするものが、聞き手の本当に聞きたいものか、聞き取る能力があるのか、それぞれの関係性に大きく影響を受けている。だから、このあたりの表現については、ゆっくりと吟味する必要がある。すくなくとも、ここでのカーツワイルは必ずしも成功はしていない。

15)「スピリチュアリティ」のもうひとつの合意は「魂をもつ」ということで、いうなれば、「意識がある」ということだ。「個人性」の土台である意識は、多くの哲学的、宗教的伝統において、真実を意味すると考えられている。一般的な仏教の存在論では、むしろ主観的---すなわち意識的な---経験こそが究極の真実だとされており、物理的または客観的現象はマーヤー(幻影)だと考えられている。p244

16)されど読者である私(たち)もまた、カーツワイルだけを責めることはできない。彼は、表現され得ないことを表現しようと努力しているのであって、その意味を理解できない自分を責めたりする以上に、むしろカーツワイルの努力を賞賛さえすべきなのだ。

17)われわれは、人間には意識がある(少なくともそう見えるときには)と思っている。それとは対照的に、単純な機械には意識はないものと思い込んでいる。宇宙論的な見方をすれば、現代の世界は意識のある存在というよりも、単純な機械のように行動している。

 しかし、われわれの周辺の物質とエネルギーは、この人間と機械の文明の知能、知識、創造性、美、感情的知性(たとえば愛する能力)に浸透しつつある。

 そして人間の文明、われわれが遭遇する物言わぬ物質とエネルギーを、崇高でインテリジェントな---すなわち、超越的な---物質とエネルギーに転換しながら、外へ外へと拡張していくだろう。それゆえある意味、シンギュラリティは最終的に宇宙を魂で満たす、と言うこともできるのだ。p244 同上

18)最後は詩的表現にならざるを得ない。そうしか書きようがないだろうし、また、受け手もまた、頭脳をでなく、感性を最大限オープンにして、その「考察」=詩、を堪能すべきなのだ。

19)指数関数的に急激な進化をとげながら、進化は確実にその方向へと進んでいる。進化は、神のような極致に達することはできないとしても、神の概念に向かって厳然と進んでいるのだ。したがって、人間の思考をその生物としての制約から解放することは、本質的にスピリチュアルな事業だとも言えるだろう。p245 同上

20)これが、エピローグ前の第六章「わたしは技術的特異点論者(シンギュラリタリアン)だ」の結句である。彼は頑張った。よくやったと思う。その科学史はどうであれ、その具体的ライフスタイルであれ、一般には理解しにくい概念について多くの読者を惹き付けた。その検証は今後多くの人々によって具体的に継続されていくだろう。

21)しかし、私(たち)は、彼の努力はようやくある世界の入り口への標識である、と気づかないではいられない。そこからがスタートなのであって、そこから先は、さらに新たなる論者を、真なる覚者を待たなければならない。その世界を十分に知り尽くした道案内人。もし私(たち)が本当にその旅を続ける意思があるのなら、道は確実に開ける筈だ。

つづく

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「<インターネット>の次に来るもの」 未来を決める12の法則 ケヴィン・ケリー<18>

<17>からつづく  

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「<インターネット>の次に来るもの」 未来を決める12の法則 <18>
ケヴィン・ケリー (著),    服部 桂 (翻訳) 2016/07 NHK出版 単行本: 416ページ 目次

1)お正月にはこの本を読むぞ、と盛り上がっていたリストのうちのナンバー3に入る一冊ではあったが、今年のお正月休みは短い。あっという間に終わりに近づき、この本を再精読するまでには至らなかった。

2)されど、すでに一度精読しているので、2006年の梅田望夫の「ウェブ進化論」が当ブログのスタートだったとするなら、当ブログの到達点はこのケヴィン・ケリーの一冊だった、と締めてしまっても、なにも惜しくもないような爽やかな読後感がある。

3)前回この本についてメモしたのは2016/10/31、すでに二か月前の事だが、その時の結論は、カーツワイルの一冊、ケヴィン・ケリーの一冊、そしてOSHOの一冊、に結実していた。

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4)この三冊の親和性は高い。少なくとも当ブログにおいては同根同テーマについて語られているシリーズだと見なすことは可能だ。だがしかし、それぞれに表現方法が違う。お正月も明けて、当ブログとしては今年はOSHOのこの一冊を精読する一年と定めたわけだが、その「現代世界」と銘打たれた時代性については、他の二冊が大きく関わっている。

5)カーツワイルは当ブログの立ち上げ時点よりも重いテーマとしてある。ケヴィン・ケリーもまた、その世代や編集者という志向性から、とにかくわが身には強い説得力を持つ。OSHOはわがマスターである。

6)一冊一冊、読み物としては重くのしかかってくる本たちではあるが、テーマそのものの方向性が見えているので、一行一行にこだわらくても、ひとつの同時代の指標として存在してくれるなら、それはそれでとてもありがたいことだと思う。

7)さて標題の「<インターネット>の次に来るもの」だが、この本においては決してその答えがズバリと書いてあるわけではない。その答えは自己撞着していて、結局「<インターネット>の次に来るもの」でしかない。つまりは、インターネットにどっぷりハマって、それを推進していくところにこそ次があるという、もはや完全明け渡しの状態を勧めているかのようだ。

8)パソコン、インターネットの次に来るものとして「ブロックチェーン」が熱く語られている。本書においては、ビットコインやブロックチェーンについては、明確に章立てて書いてあるわけではないが、5.ACCESSING(アクセシング)に詳しい。

9)結論部分に登場するわけではないが、この12のテクニックは必ずしも順番通りでてくるのではないので、決してブロックチェーンが「<インターネット>の次に来るもの」として、否定されている、というわけではない。

10)ケヴィン・ケリーといえど、完全無欠の預言者などではなく、間違いだらけの先駆者であってみれば、少なくともここで彼もまたブロックチェーンを取り上げている、ということを認知しておけば、それでいいだろう。

11)カーツワイルの本の前半部分から半ばまでは、まぁそれはそれとして付き合っておき、最終的な結論部分は、もはや「意識」についての考察に絞られている。結論とはいいがたいとするなら、すくなくとも、これは記しておかなければならない、という書き方であるにせよ、人間として最終的には「意識」にぶちあたざるを得ない。

12)その点、OSHOのすべての著書は、最初の最初から「意識」について語っているのであて、その言語化が不可能な領域を、時代を背景としながら語り続ける姿には強く惹かれるものがある。

13)ブロックチェーン・テクノロジーと意識では、あまりにもかけ離れた領域のようにも思えるが、インターネットが「全体」が「全体」として存在することに全精力を傾けているかに見える反面、ブロックチェーンは、テクノロジーとしては「個」を強調する方向性を持っていくのではないか、という期待がある。

14)テクノロジーの全体化、意識の個化、そしてテクノロジーの個化、意識の全体化。言葉としては簡単に発想できるが、これらがどのような道筋をたどって進化していくのかは、今後のお楽しみである。

15)科学と意識についての関係はOSHOのこのレクチャーにきわめて明晰に語られている。最近のマインドフルネスの流行は決して正しい道筋で理解されてはいないけれども、少なくとも多くの人々がその方向に「意識」を集めていることには注目するに値いする。

16)大きな意味では、この中に「<インターネット>の次に来るもの」がある、と見るのが当ブログである。

つづく

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2017/01/03

「講座スピリチュアル学」 第7巻 スピリチュアリティと宗教 (地球人選書 講座スピリチュアル学) 鎌田 東二 (編集) <12>

<11>からつづく

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「講座スピリチュアル学」 第7巻 スピリチュアリティと宗教 (地球人選書 講座スピリチュアル学) <12>
鎌田 東二 (編集) 2016/08 ビイングネットプレス 単行本: 277ページ 「地球人選書 講座スピリチュアル学」リスト  
★★★★☆

1)お正月そうそう、またこの本を手に取り、ひととおりパラパラではあるが、目を通すことができたことを感謝したい。「意識と瞑想を巡る読書ブログ」を標榜するわが「地球人スピリット・ジャーナル」としては、この「地球人選書 講座スピリチュアル学」の存在は、無関心では通り過ぎることができないシリーズである。

2)反面、「選書」であり「講座」であり「学」である限り、当ブログとははるかに遠く、時には正反対に位置する場合さえあり、かならずしも賛成同調しかねる文脈も数多くあった。

3)当ブログは個人ブログであり、気ままな一旅人のつぶやきに過ぎない。そして、マスターOSHOのサニヤシンであるという自意識が消滅していない限り、そして、瞑想センターからインフォーメンションセンターへという変遷もあったとして、さらに、OSHOカウンセラーの一人として、自らの立ち位置が奈辺にあるのかを常に手探りながら歩き続けてきた。

4)そのような立場から一読者として考えれば、この巻ばかりではなく、シリーズ全体との距離が必ずしも近くなく、むしろ同じ地平に立ってみれば、これほどの距離感があるのか、とさえ思う場面にもしばしば出会った。

5)この巻では町田宗鳳(敬称略、以下同)の一文にはなるほどとうなづかされることが沢山あった。当ブログとしては過去に「〈狂い〉と信仰」狂わなければ救われない」(1999/07  PHP研究所)や、「『生きる力』としての仏教」(上田紀行と共著 2006/06  PHP研究所)などに目を通した程度であるが、もともとは多数の著書を持っている方である。

6)その彼にして、次の語りにはちょっとぎょっとした。

7)筆者は、京都大徳寺における臨済禅の修行歴二十年を経て、沈黙を主体とした瞑想法、いわゆる黙照禅や公案禅による精神集中の困難さを痛感することとなった。 

 また日本人とだけではなく、欧米人とも禅を組む機会をもつことも再々あったが、形式的な様相をいくら整えたところで、自我意識の壁を破ることは容易ではなく、本質的な意識変容体験を得ることの難しさを強く感じた。

 そこで実践者の宗教的かつ民族的背景を超えて、誰もが容易に禅定に入り、意識変容体験をもつことが可能な瞑想法がないものかと積年にわたって模索を続けることになった。

 その結果、おおよそ五十年という歳月を必要としたが、極めて簡単明瞭かつ画期的な瞑想法「ありがとう禅」に到達することになった。p62 町田宗鳳「修行--その光と影」

8)長い伝統のなかにいて、全うな道を歩まれつつ、率直な述懐として、グローバルな現代世界の瞑想法としては、いわゆるこれまでの禅では十分ではない、という告白に聞こえてくる。なにか痛切で切実なものを感じる。

9)樫尾直樹の「均等を解くスピリチュアリティ--感じる心とからだを回復する」p218においては、いわゆる欧米に流布しつつあるマインドフルネスについての論述がある。そして、やはりこの書において、一番身近に感じたのは伊藤雅之「ポスト世俗化ー時代のスピリチュアリティ--マインドフルネス・ムーブメントを手がかりとして」p176である。

10)その内容はともかく、彼をもっとも身近に感じるのは彼には「現代社会とスピリチュアリティ」 現代人の宗教意識の社会学的探究( 2003/03 渓水社)の著書があるからである。その一部には長年にわたってフィールドワークした日本のOSHOサニヤシンの実態が含まれている。今となっては貴重な資料である。

11)彼もまた若い時分には京都のOSHOセンターに参加していたサニヤシンであり、研究課程においては、東北の我が家に数日停泊して、当地のサニヤシン達と面談取材したのであった。私も一部その研究をお手伝いした。

12)だがその後、巻末の鎌田東二の文にも登場する島薗進を頂点とする日本のスピリチュアリティ研究のアカデミズムの中にあって、その色彩を消していった。その経緯については異論さまざまあろう。なにはともあれ、風あたりの強い場所にあっても、私は、OSHOのサニヤシンであることを深く自負するものである。

13)ジョン・カバットジンのマインドフルネスについての論述は多数書籍もあるが、最近注目度が高まっているので、わが読書ブログにまでなかなか順番が回ってこない。されど、私は特段に彼の著書に触れることを急いではいない。

14)世にマインドフルネスの疾風は吹き荒れているが、やれグーグルやアップルのエリートがどうしたとか、スポーツマンのマインド強化だとか、ビジネスマンの成功哲学のように取り上げられているのは、提唱者自身はどう思っているか知らないが、まったくの間違いである。もちろん健康法でも、精神療法でもない(そのような副次的効果があったとしても)。

15)マインドフルネスという単語はわがOSHOとともにあってはなかなか使い慣れたものではない。むしろ意味不明でさえある。しかしながら、使い慣れた瞑想という言葉も、言葉に頼る限り十全ではない。むしろそこから一度離れてみることさえ必要である。

16)正月にあたって、当ブログとしてはOSHO「現代社会のマインドフルネス」(2014/04 Griffin)を一度通読し、ゆっくり一年をかけて拙訳をアップしてみたいものだ、と思い立ったところである。

17)その中で、いわゆる世界のマインドフルネス・ムーブメントとやらとの同調をはかりつつ、なおその本来の意味を、OSHOの言葉を通じて、再編したいものだと思う。

つづく

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2017/01/02

OSHO 現代世界のマインドフルネス 「Mindfulness in the Modern World」 <7>

<6>からつづく

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「Mindfulness in the Modern World」
How Do I Make Meditation Part of Everyday Life? <7>
OSHO 2014/04 Griffin 英語 ペーパーバック 254ページ (Osho Life Essentials) 「現代世界のマインドフルネス」 目次
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 あなたの中にわずかな理解が生じるだけでも十分すぎるくらいだ、なぜなら理解は自分自身で成長していくからだ。もしほんのわずかな理解が正しい場所、ハートに降りるなら、それに従って成長し始めるだろう。

 まず最初に、瞑想という言葉を理解しようとしてみなさい。それは正しい言葉ではなく、真正な探求者なら誰でも考察することを避けてきた。そこで私は、二三の言葉についてあなたに話してみたい。サンスクリットにおいて私たちは瞑想について特別な言葉を持っている。それはディアナだ。他の言語には同義語は存在せず、翻訳はできない。二千年に渡って翻訳できない言葉であるとみられたきたのは単純な理由による。他のどんな言語も、その地平を体験、あるいは体験しようとする人々を持たなかったからだ。だからそれらの言語はその言葉を持たない。言葉が必要とされるのは、語ろうとする何かがある時、指し示そうとする何かがある時だ。

 英語には三つの言葉がある。最初はコンセントレーション、集中だ。私は意味深い人々ではあるが、瞑想を体験したことがない人々に書かれたた本をたくさん読んできた。彼らはディアナについてコンセントレーションという言葉を使い続けているが、ディアナはコンセントレーションではない。コンセントレーションは単にあなたのマインドがひとつの点に集中しているだけだ。それはマインドの次元だ。通常マインドは動き続ける。しかし絶え間ない移動は、マインドが正しい主題についてあなたが働けないようにしてしまう。例えば科学においてはコンセントレーションは必要とされる。コンセントレーションなしでは科学の可能性がない。科学が東洋では発達しなかったことは驚きではない。私が内なる深いつながりを見れば、コンセントレーションには価値がないからだ。

 コンセントレーションは一つの点に集中したマインドのことだ。それはそれなりに役に立つ。なぜならあなたは深く、もっと深く正しい主題の世界に入っていけるからだ。常に周囲を気遣っているようなマインドの人間は科学者にはなれない。科学者の仕事全体は、世界全体を忘れて、彼の意識全体を一つ事に集中することができる、ということにかかっている。そして、意識全体が一つの事に注がれる時、それはまるで太陽光線がレンズを通していくように火を作り出すことさえできる。光線それ自体は、拡散し、お互いが遠く離れているので火を作りだすことはできない。彼らの動きはコンセントレーションと正反対だ。コンセントレーションとは光線が一緒になり、一つの点であることを意味する。そしてたくさんの光線が一つの手で出会うことは、火を作り出す十分なエネルギーを持っているということを意味する。

 意識も同じ性質を持っている。集中すれば主題の神秘の深みまで貫いていける。

 私はアメリカの偉大なる科学者のひとりトーマス・エジソンを思い出す。彼は、妻が朝食を持ってきた時、とても集中して何事かの仕事をしていた。彼女は、彼があまりに仕事に取り込まれていて、彼女が来たことさえ気づかないのに気付いた。彼は彼女を見ることさえなかった。彼女がそこにいるのさえ気づかず、彼女は今は邪魔する時ではないと知った。「もちろん朝食は冷めてしまうでしょう。そして私が邪魔をしたら彼は本当に怒ってしまうでしょう。彼がどこにいるかわからないのです。」 そして彼女は、いつでも彼が集中の旅から帰ってきたとき彼がそれに気づき食べられるように、彼のかたわらに朝食を置いたものだた。しかし、何が起こっていたのだろう? ときたま顔を出した友達も、エジソンがとても集中していることを見ていた。友人は朝食が冷めていくのを見て言った。「彼には仕事をさせておいたほうがいい。冷めてしまうから、私が彼の朝食をたべてあげよう。友人が朝食を食べてしまったのに、エジソンは、友人がそこにいて、しかも彼の朝食を食べてしまったことに気づいてさえいなかった。19/198

<8>につづく

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