カテゴリー「33)メタコンシャス 意識を意識する」の106件の記事

2011/06/05

絶頂の危うさ<1> ゲーリー・スナイダー

【送料無料】絶頂の危うさ
「絶頂の危うさ」 <1>
ゲーリー・スナイダー/原成吉 2007/08 思潮社 単行本 239p
Vol.3 No.0291 ★★★★★

1)節々の痛みで目が覚めた。若い時は肉体疲労の回復は早かった。だが、年齢とともに、肉体はすでにピークをとっくに通過してしまっていることを痛感する。

2)風呂に入る。いつもより熱めにして、体を温める。熱さがマッサージ効果を生むのか、体の痛さがすこしづつ消える。

3)肉体の衰弱とともに、精神の衰弱も訪れていることに気がつく。心も疲れやすく、回復も遅い。ひとつひとつが気にかかる。

4)だがしかし、魂は結構元気だぞ、と自分で思う。体は精神の高揚についていけなくなり、精神は魂の高揚についていけなくなりつつある。、

5)肉体も初老の時代を迎え、心や精神も柔軟性が失われつつある。でも、魂は、転生を繰り返してきたという意味では決して若くはないのだが、それでも、光を求めて、活動し続ける。

6)山の椒で水を発見した。水があれば、あとは火だ。火と水、とくれば、まずお茶だが、水の安全性を確保するまでは飲料水として使うことはできない。まずは風呂だろう。

7)いつか、山の椒の火と水で風呂を沸かすことができるだろうか。温泉が湧かなかったために開発が途上で放棄された土地で、今、風呂を沸かして入る。痛快だな。

8)山の仕事に未だ体が馴染めないのだろう。いや精神もまだ十分馴染んでいない。だが、魂だけは意気軒昂だ。何かに突き動かされる如く、前へ行こうとする。

9)スナイダーのこの本、セントヘレナ山の想い出から始まる。時にスナイダー13歳。1943年。私は私なりに、彼の人生にダブらせて、自分の魂を見ることができる。そうそう、あの時、あそこで、こんなことがあった。

10)「人間中心の見方に、騙されてはならぬ」と道元は言う、
シッダールタはそれを吟味し、こっそり抜け出す----森を求めて---
----生と死の問題に集中するために。
p47

11)私もこっそりと抜け出して、森に行くことがある。たしかに生と死の問題に集中しようと思うこともある。だが、私の場合は、朝早く抜けだしても、昼ごろには帰ってきたりする。

12)欲しいものは----
24ミリ径の塩化ビニルの給水管
3メートルの煙突掃除用ブラシ

草刈り機の歯を研いでくれる人
丸太用の鎖、
隣人たちの春の仕事。

チェーンソーのおが屑
土がこびりついた
踏み鋤
リンゴの花とミツバチ p35「仕事の日」

13)私も給水管を求めている。16ミリ径でいい。草刈り機の歯は、ボロボロだけど、新しい替刃は用意してある。確かに土のこびりついた道具類も、誇らしくはあるが、たまには洗ってあげないとな。リンゴの花はどこにあるかわからないが、ミツバチは、いる。ニホンミツバチ。

14)スナイダーの60年以上にわたる追想が語られる。再定住者。場、なら、もうとっくに400年も同じところに暮らしている私の血族がいる。だが、これからはどうかな。

15)「メタコンシャス 意識を意識する」カテゴリはこの本で108冊に達した。次なるカテゴリは「森の生活」である。

<2>につづく

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2011/06/04

沈黙の春 レイチェル カーソン

沈黙の春
「沈黙の春」
レイチェル カーソン (著), Rachel Carson (原著), 青樹 簗一 (翻訳) 2001/06 新潮社 単行本  403p
Vol.3 No.0290 ★★★★★

1)自然資源のうち、いまでは水がいちばん貴重なものとなってきた。地表の半分以上が、水---海なのに、私たちはこのおびただしい水を前に水不足になやんでいる。奇妙なパラドックスだ。というのも、海の水は、塩分が多く、農業、工業、飲料に使えない。こうして世界の人口の大半は、水飢饉ですでに苦しめられているか、あるいはいずれおびやかされようとしている。

 自分をはぐくんでくれた母親を忘れ、自分たちが生きていくのに何が大切であるかを忘れてしまったこの時代----、水も、そのほかの生命の源泉と同じように、私たちの無関心の犠牲になってしまった。p37「地表の水、地底の海」

2)山の椒で水源を見つけた。ほんの指一本ほどの湧水だが、こんこんと流れつづける。これをソロー・ハウスまで給水しようとすると、約200メートルのホースが必要になる。まぁ、それも必要な出費と考えていたところ、実はソロー・ハウスそのところまで水が地下水路を通って流れてきていることが分かった。

3)山の椒の隣は、ゴルフ場である。幸い、尾根を境にして、背中を向けあっており、あちらとこちらの斜面がまったく逆方向なので、水源が汚染される可能性はすくない。しかし、今のところ、この水を直接飲料水に使うことはできない。

4)だが、一般的な農業用であるとか、トイレ用とか、生活用水に使えることは間違いない。これをうまいことすくい取るシステムも考えてみた。明日、ためしてみる。

5)水があれば、火を使うことができる。山での火の扱いは、山火事を起こす可能性があるので怖い。だが、ソロー・ハウスそのものに水源があることが分かったわけだから、これからは薪ストーブとロケット・ストーブの使用計画にはいる。

6)青年時代に、インド旅行から帰ってきて、農業学校で学んだ。危険物取扱者とか、毒物劇物取扱者の資格を取った。しかし、勉強しただけで、もうすでに薬剤の名前などすっかり忘れてしまった。レイチェル・カーソンのように深く化学物質について考えることはなかったけれど、どうも、毒物劇物を取り扱うのは苦手だ。

7)水が、本当に豊富なところに私は生まれた。四六時中ポンプで汲み続けても、枯れるということがなかった。水質もよかった。浪の音、名取駒、大豪、というブランドの日本酒メーカーが三社、毎日水を汲みに来ていた。その水質と水量の良さを確認した上で、サッポロビールが近くに大きな工場を作った。

8)されど、今回の3.11以降の原発事故を思い出すまでもなく、すでに水は自由に使えない段階になってきている。おそろしい進展だ。どうして、ここまで突き進まなければならなかったのだろう。

9)私たちは、いまや分かれ道にいる。だが、ロバート・フロストの有名な詩と違って、どちらの道を選ぶべきか、いまさら迷うまでもない。長いあいた旅をしてきた道は、すばらしい高速道路で、すごいスピードに酔うこともできるが、私たちはだまされているのだ。その行きつく先は、禍いであり破滅だ。もう一つの道は、あまり<人も行かない>が、この分かれ道を行くときにこそ、私たちの住んでいるこの地球の安全を守れる、最後の、唯一のチャンスがあるといえよう。

 とにかく、どちらの道をとるか、きめなければならないのは私たちなのだ。長いあいだ我慢したあげく、とにかく<知る権利>が私たちにあることを認めさせ、人類が意味のないおそるべき危険にのりだしていることがわかったからには、一刻もぐずぐずすべきではない。毒のある化学薬品をいたるところにまかなければならない、などという人たちの言葉に耳を貸してはいけない。目を見開き、どういう別な道があるのか、をさがさなければならない。p304「べつの道」

10)レイチェル・カーソンの警告に満ちたメッセージはすでに50年前に発せられている。ほとんど2世代に渡って、根本的な解決策を見いだせないまま、人類は禍いの道、破滅の道を突き進んできてしまったと言える。

11)東京電力原発事故についての情報開示も実にあいまいで、私たちの一般市民の知る権利に十分こたえたものになっていない。さらには、甚大な生活上の影響が発生している。人類史始まって以来の、未曾有の大事故なのだ。

12)もう遅いかも知れないのだ。きっと、遅きに失したかもしれない。それでも、どこかの詩人は、あした地球が終わろうとも、私はリンゴの木を植えるだろう、と言ったという。絶望もまた希望と同じく虚妄である。

13)生きてある限り、命ある限り、生命は生きていく必要がある。前に、上に、明日に向かって生きていく必要がある。

14)沈黙の春が、ひとつの喩え話でなくなりつつある2011年の春。私たち、ひとりひとりは、今どのように生きているのだろうか。

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レイチェル・カーソン 『沈黙の春』を読む

Photo
「『沈黙の春』を読む」 かもがわブックレット
レイチェル・カ-ソン日本協会 1992/04 かもがわ出版 双書 61p 
Vol.3 No.0289 ★★★★★

1)レイチェル・カーソンは、『沈黙の春』を出版したとき、自分の生命があまり残されていないことを知っていました。しかし、この本がすべての人の中で生き続けることを信じて、1964年4月14日、56歳の生涯を閉じました。p6

2)このブックレットが出されたのは1992年3月、私たちは、「スピリット・オブ・プレイス」シンポジウムの片づけにかかっていた。あれからすでに19年。私もレイチェル・カーソンと同じ年齢になった。

3)カーソンは子どもたちが本来もっている「センス・オブ・ワンダー=神秘や不思議さに目をみはる感性」をいつまでも失うことがないように、そのために「私たちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かちあう」ようにしなければならないと強調しています。

 子どもにとっても親にとっても「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない、美しいものを美しいと感じる感覚され養うことができれば、知識は自然に豊かになっていくというのです。

 このようなカーソンの主張に耳を傾けるとき、現在、自然保護教育や環境教育の重要性が叫ばれますが、自然をまもる大切さを声高にいうよりも、自然を探検し、五感で自然をともに感じとっていくことの重要さを考えるべきなのだと考えさせられます。p13「次の世代へのメッセージ」

4)『沈黙の春』には放射線についての記述が少なくありません。なかにはヒロシマの被爆者に関することやビキニの核実験で被災した久保山さんのこともでてきます。p25「カーソンと放射線」

5)すでにレイチェル・カーソンの警告から50年が経過しているのに、人類は心からの反省ができずに来てしまった。この3月11日の東日本大震災における、東京電力原発事故で、大量の被爆が起きてしまっているのは、決して「想定外」の事故ではない。分かっていて人類はここまで来てしまったのだ。ストップをかけることができなかった。

6)「私たちは、考えをかえなければならない。人間がいちばん偉いのだ、という態度を捨てるべきだ。自然環境そのもののなかに、生物の個体数を制限する道があり手段がある場合が多いことを知らなければならない。そしてそれは人間が手を下すよりもはるかにむだなくおこなわている」p56 レイチェル・カーソン

7)「私たちは、いまや分かれ道にいる」のです。一方は「禍いと破滅」への道であり、「べつの道」が人間と地球を守る道なのです。いまが最後の、唯一のチャンスなのです。私たちは、私たち自身と、私たちのあとを継ぐ子どもたちのために、「べつの道」を選択しなければなりません。p57「べつの道」

8)山の椒エコビレッジには、やがてレイチェル・カーソン・ハウスもお目見えするだろう。

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我が家に手作りガーデンハウス―DIYで建てよう!“小さな家”<1>

我が家に手作りガーデンハウス―DIYで建てよう!“小さな家” (Gakken mook―DIY series)
「我が家に手作りガーデンハウス」 ―DIYで建てよう!“小さな家” (Gakken mook―DIY series)
ドゥーパ! (編さん) 2005/10 学研 単行本: 145p
Vol.3 No.0288 ★★★★★

1)いざ、森の中にソロー・ハウスを自作しようと思い立ち、マニュアル本などをめくってみると、書店にも図書館にも似通ったような書籍はいくつも並んでいる。しかし、これといった決定打に出会わない。

2)ログハウス、DIY、セルフビルド、2×4、ガレージハウス、物置、手作り、などなど、近似のキーワードがある。その中でも、自分のイメージに一番近いのは「ガレージハウス」という概念のようだ。大きさといい、手軽さといい、材質といい、この本が一番ぴったりくる。

3)しかし、実際には、小さいけれども、一冊の書籍になっている限り、かなりがっちりした建物になっている。こちらの希望はもっと簡素でケータビリティに富んだ、解体可能なガーデンハウスである。組み立ても、取り外しも簡単なものがいい。

4)したがって、結局は、あちこちを参考にしながらも、手さぐりで自分サイズの好みのハウスをセルフビルドする以外にはない。

5)そして、その中に、今まで見てきた、自分なりの好みのイメージは残しておきたい。

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6)さて、いざ「手作りガーデンハウス」となった時、「山で暮らす愉しみと基本の技術」は、実に現実的なサイズで、実現可能な領域にある教則本だが、余りに実際的過ぎて、世界や宇宙に広がる「夢想的」な部分が少なすぎる。

7)「パーマカルチャー 農的暮らしの永久デザイン」は立派なお手本で、ひとつの指標とはなる。しかし、我がソロー・ハウスにおいては、アグリカルチャー的な農業「カルチャー」に手が届いていないので、ちょっと範囲が広すぎる。また、あまりに教則本的に扱ってしまうと、どこか堅苦しいものにも思えてくる。

8)もっとのんびりと、もっといい加減に、ファジーにやりたいのが、わがソロー・ハウス流だ。

Pict3382_3

9)「“地球(ガイア)”建築」は、原野に毅立する現代建築のイメージだが、セルフビルドや手作り感からは遠い。また、ロイド・カーンの「シェルター」に取り上げられている家は、全て、なんとか真似て作れそうな気もするが、スケールが大きすぎるものが多い。

10)「シェルター」の地産地消的感覚は、時代や地域を超えたフォークロア的匂いがプンプンする。ひとつひとつのアイディアは実に面白い。山の椒の植物や自然物で作ってみたいものがたくさんある。

11)しかし、それでも、やっぱりできる物は、もっと現実的で、自分サイズの、使い勝手をもっともっと考慮したものになるだろう。

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12)さて、この本をソロースナイダーで挟んでみる。元祖ソロー・ハットほどにはシンプルではなく、スナイダーのキットキットディジーほどには本格的ではなく、というあたりか。もっとも元祖ソロー・ハットは、実によく出来ているし、一部プロの手さえ借りている。

13)スナイダーはすでに40年近く森の中に「再定住」しているわけだから、その間に、ハウスの状況も変わっただろうし、家族とともにあって、公開されていない機能もあるだろう。

14)あえて、こうして領域を狭めてみると、我がソローハウスの、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス領域におけるターゲット群、という感じがしてくる。これらの的の中に、次第にひとつの存在が生まれてくるだろう。

15)そろそろ「メタコンシャス 意識を意識する」カテゴリは終了する。最初は想定していなかった次なるカテゴリだが、「森の生活」にしようと思う。

<2>につづく

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2011/06/03

ウォールデン シリーズ もっと知りたい名作の世界

ウォールデン (シリーズ もっと知りたい名作の世界)
「ウォールデン」 シリーズ もっと知りたい名作の世界(3)
上岡 克己 (著), 高橋 勤 (著) 2006/04 ミネルヴァ書房 単行本: 167p
Vol.3 No.0287 ★★★★★

1) 久しぶりにブログを書く作業に戻って見れば、これはこれで懐かしい作業であり、必要な精神的営為であることに気づく。

2)図書館ネットワークも復活して見れば、読むべき本の数々が、またまたリストとともに積み上がっていく。

3)当カテゴリもあと数冊残すところとなり、これで「読書ブログ」は終わるとしても、「読書」も「ブログ」も、なんらかの形で継続する必要を感じる。

4)ならば次のカテゴリ名をなんとしようか。

5)ソローの建てた小屋は重厚華美なログハウスではなく、簡素な板張りの小屋である。間口3.3メートル。奥行き4.5メートル、柱の高さ2.4メートル、屋根裏部屋と押し入れ、両側に一つづつ大きな窓がある。室内にはベッド、テーブル、机、椅子、食器類があった。p27「ウォールデンの森と湖と小屋」

6)元祖ソロー・ハットは、わがソロー・ハウスのテント小屋とほぼ同等の大きさである。テントを2×4材に置き換えようとしている現在、その設計と材質、広さを検討中である。基本に戻って、よりシンプルな構造とすべきであろう。

7)山里勝己の「ソローの家、スナイダーの家---生態地域主義の視点から」p113が面白い。ソローの「逗留者」としての立場から、ウォールデンに2年2カ月と2日暮らしたのに比べ、スナイダーはキットキットディジィーに30年以上、「再定住者」として暮らしている。

8)「現代代建築家による“地球(ガイア)”建築」に見られるような自然の中に起立する建築物には目を見張るものがあるが、そこの住人が自然をどのようにとらえ、どのようにそれらと接するのかを考える時、おのずと、ソローやスナイダーとの違いが明確になる。

9)しかしながら、大きなガラス窓で切り取られた、まるで一服の絵のような概観の風景には大いにそそそられるものがある。

10)わが、山の椒におけるソローハウスは、さて、どのような形の、どのような大きさの、どのようなものになるであろうか。ソローのような「携帯性」を持ち、スナイダーのような「土間」を持ち、そして大きなガラス窓を持つだろう。

11)ソローのように一人で森に入っていくのか、スナイダーのように妻と子供たちの手をひいて森に住むのかで、ハウスの大きさも作りも違ってくる。また、街から多く友人たちを呼び、おおいに語りあうのか、密かにプライバシーを守るのか。「方丈記」の鴨長明のように隠遁するのか。

12)山の椒は「エコビレッジ」を掲げている。おのずとそこには「共同体」の可能性を見る。「逗留者」であっても、「再定住者」であっても、そこには多数の「人間たち」の風景も織り込まれている。

13)オーク・ビレッジの稲本正も書いている。「挫折しない『森の生活』の読み方」p31

14)ウィルダネスを好む作家がいる一方で、アメリカにはレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」に代表される、感性のネイチャーライティングがある。この場合自然は大きくても小さくてもいい。観察眼が優れていればいい。いや、素直に自然と接すればいいのである。「ネイチャーライターの座標軸」p101岡島成行

15)この本を読み進めることによって、自らの立ち位置が少しづつ明確になる。元祖ソロー・ハットとの違いも明確になってくる。しかしながら、多くの先人たちの試みに連なる共通項も多く見つけることができる。

16)ラルフ・ウォールドー・エマソンについて言及している文章も多い。これからの読書リストに載せておこう。

17)13世紀の鴨長明、19世紀のソロー、20世紀のスナイダー、そして21世紀のわがソローハウス。それぞれの時代背景があってこその存在だと言える。森の中に入ることによって、より明確になることがある。

18)森がある。人がいる。植物たちがいて、動物たちがいる。大自然があり、人はその中で生きていく。家を建て、水と火を確保する。電気や通信、交通などの文明を入れる。さて、それを何処までいれるのか。無反省に取り込むのではなく、例えば原発と対峙できるようなライフスタイルを堅持できるのかが、21世紀のソロー・ハウスには求められる。

19)「場」がある。「与えられた」場がある。与えられても、受け取らなければいいのだが、敢えて「受け取って」みる。その「場」に立ってみる。その場に「定住」してみる。定住とはまではいかなくても、「定点観測」してみる。「観測」するだけの感性が必要だ。「感性」が強すぎて森に入れない場合もある。感性の前に「肉体」を山に慣らさなければならない。肉体を山に持っていく「技術」が必要だ。技術と「頭」が先行してしまう場合もある。人間として「山」に入る。全存在として、「そこ」にある。「いま」という時代を、山という環境の中で「生きて」みる。

20)人間として、一番コンパクトな生き方とは何か。人間として一番ぜいたくな生き方とは何か。人間として、一番根源的な生き方とは何か。人間として、最後の最後にやらなければならない事は何か。人間として、最初の最初にやらなければならないのはなにか。人間とは、本質的に何か。人間とは何か。私という人間とは何か。私は何か。私は誰か。

21)今日の空模様は快晴だ。思いは山に馳せても、体は街にいる。煩雑な仕事をこなしながら、次に山にいく日程を考えている。

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2011/05/31

現代建築家による“地球(ガイア)”建築<2>

<1>からつづく 

【送料無料】現代建築家による“地球”建築
「現代建築家による“地球(ガイア)”建築」<2>
乙須敏紀 2008/11 ガイアブックス/産調出版 単行本 287p

 前回この本についてコメントしたのは、東日本大震災が起こる3週間前のことだった。ガラスでできたせんだいメディアテークの図書棚から借りてきたこの本は、他の建築物の本に比べ、どこか深く胸に留まった。

 震災で、メディアテークを初めとして、地域の図書館機能は壊滅し、長くそのネットワークが使えずにいた。当ブログはもともと、あと十数冊にコメントを加えたら、「読書ブログ」というスタイルを終了しよう、としていたところだったので、タイミングとしては合致していた。

 本にたよらない暮らし。図書館がない暮らし。そんな物に憧れ始めたのは、逆に、この5年ほど、図書館依存の暮らしを続けてきたからかもしれない。もうそろそろ図書館暮らしを卒業したかった。

 だから、図書館ネットワークが機能しないことを、むしろ私は歓迎できた。なければないでなんとかなる。震災後のライフラインの復活しない中では、読書しようにもままならないものがあった。手持ちでも結構面白い本が残っている。

 されど、やはり1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎると、本に対する禁断症状のようなものが現れた。こりゃ、どうやら、ブックアディプトとでも名付けるべき体質を私は持っているようなのだ。あれこれ、読みたくなる。読み返したくなる。

 その頭によぎってくる本の中で、今、どうしても読みたいと思った本の中の一冊がこれだ。

 現代建築家によるGAIA”地球”建築
石、大理石、テラコッタ、粘土といった地球素材を組み合わせる
これは建築が人間と一体化する、最も自然なやり方である 
表紙

 山の中のくらし、というと、すぐに切り出した丸太で作ったログハウスを連想するが、私などもそれ以上の想像力がつづかない。だが、「現代建築家」にかかると、更なるイメージが展開される。しかも、それはブループリントではなく、現実にすでに存在するものなのだ。

 この本でまず惹かれたのは、決して整地されたわけではない自然の中に、いきなり建築物があることだ。雪原であったり、原生林であったり、荒地であったりする。その中にあって、窓が多用され、そこから切り取られた風景が、一枚の絵画になっていることだ。

 実に憧れる写真が、この本の中には何枚かある。ああ、このような建築物であったらいいのに、と思う。ただ、これは専門の建築家たちが、基準に則して作った「作品」群だ。それなりの建築費がかかっている。富裕層のお遊び的な面がないではない。

 それに反して、当エコビレッジに設営しようという「ハウス」には、それほどの予算はない。ほとんど、大きめなテントを購入する程度の感覚だ。今回の被災地で「全壊」してしまった建築物の廃材を一部利用し、セルフビルドで、2×4材と、簡易な屋根材で作るつもりだ。

 この本、震災前の前日にアップしておいたロイドカーンの「シェルター」と対をなすような、ある意味、対極に位置する一冊である。

<3>につづく

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2011/05/30

ムー・レムリアの超秘密

ムー・レムリアの超秘密 (5次元文庫) (文庫) / ジョージ・ハント・ウィリアムソン
アンデスに封印された「ムー・レムリアの超秘密」
ジョージ・ハント・ウィリアムソン 2010/12 徳間書店 文庫 p251
Vol.3 No.0286 ★★★★☆

カタストロフィーが起こるだろう。
間もなく激しい風が吹き、
大地が揺れ動き始める。
そのときは、
我々の予想を超えた速さで近づきつつある。
それらは結果である。
では、その原因は何なのだろうか?
人類の想念である。
地球の浄化を引き起こすのは、
何十年にもわたって
放射されつづけてきた人類の想念なのである。
憂鬱、絶望、死、そして戦争の惑星。
それが地球なのである。
今や地球のあらゆる元素が、
人類の誤った想念の服従を拒絶するに至った。
元素たち。彼らもまた知性を持つのである!
そして彼らは、
もはや人類の誤った想念に従おうとはしていない。
いずれ彼らは巨大な津波や強風となって、
人類に反旗を翻してくる。
元素類が人類に代わって
一時的にこの地球を治める日が来るのだ。
p8

 この本もまた、東日本大震災前に読もうと書店に予約していたものが、震災後に届けられたものだ。あの大震災を前にこの本を読むことと、大震災の後にこの本を読むことの意味は、おのずと違ってくるだろう。この期間にまたがって、この本を読んだ、ということがなんとも因果な感じがする。

 徳間書店の文庫シリーズだけに、「信憑性」に欠ける。それはそれとして、割り引いて読まなければならない。しかしながら、読まずにはいられない「面白さ」がある。他に類書が、ありそうで、そうはないのだ。

 そもそもレムリアやムー、アトランティス、などという呼び名すら、ひとつひとつが後付けで付けられたものだから、ネーミングにこだわると、大変なことになる。ここは、ひとつの表象として、シンボリックに読み進んでいく必要がある。

 しかしまぁ、それにしても、それらのシンボルに隠されたひとつひとつの流れを感じる時、この本の言わんとすることの半分は受け入れざるを得ない。もし、受け入れることができない部分があるとすれば、表象としての扱い方がちょっと違うぞ、という面においてだ。

”黒い竜”の勢力が存在する。
この惑星はこれまで、
はるか彼方の銀河からの”黒い軍隊”
----東洋で”黒い竜”として知られる勢力----
に支配されてきた。
彼らは地球の数々の王座に着いている。
いや実質的には、
地球のすべての王座に着いていると
言っていいだろう。
彼らは地球人類の耳に蓋をかぶせ、
天使たちのメロディーが
そこに届くのを防ごうとしている。
全宇宙内には光が存在しない場所
----闇だけしか存在しない場所----
がいくつもある。
人間は闇を恐がる?
それは違う。
人間は光を恐れているのである。
光の中に入っていくためには、
勇気がいる。
勇気が必要なのは、闇の中ではなく、
光の中に入っていくときなのである。
p10

 このような形でブラックドラゴンを色づけすることには賛成できない。そもそも原作者のウィリアムソンはすでに1986年に60才で亡くなっており、この原作はすでに50年前1961年に出版されたものだ。どこか神智学の流れを汲む西洋神秘主義の亜流的な匂いが漂う。

 それを坂本貢一が翻訳し、あのゲリー・ボーネルが序文を寄せるという形で21世紀風にアレンジされているので、注意深く、落とし穴に気をつけながら読み進める必要がある。それでもやはり、ここに秘められたシンボリズムの中に、広く、大きく共通する何かがある。

カタストロフィーのあとには輝かしい世界が出現する。
新しい朝が訪れる前には、夜が訪れる。
カタストロフィーとは、その夜のようなものだ。
この世界に終末などは訪れない。新しくなるだけ。

古いものはすべて清められ、新しいものに変化する。
そして美しい虹とともに、神聖な世界が現れる。
地球は浄化され、
神性のみを持ち越した人類たちとともに、
新しい、より高い波動を放つようになるだろう。
今や、ムーの黄金の太陽が持つ
秘密の知恵への扉が大きく開かれようとしている。
p012

 私は基本的にこの本の趣旨に賛成だ。アトランティスの水のカルマ、ムーの火のカルマ、レムリアの小乗のカルマ、UFOの大乗のカルマを超えて、今、新しい扉が開かれようとしているのは、間違いない。祈り、踊り、瞑想し、そして警告する。様々な知らせはすでに届いているのだ。

 復興とか、想定外とか、被害やボランティア、と言った皮相な現象にだけとらわれていてはいけない。物事の本質を見極める力が必要だ。その力は、人間の根源から湧いてくる叡智だ。そこに深くコネクトする必要がある。

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2011/04/28

パーマカルチャーしよう!<2> 愉しく心地よい暮らしのつくり方

<1>よりつづく

【送料無料】パーマカルチャーしよう!
「パーマカルチャーしよう!」 <2> 愉しく心地よい暮らしのつくり方
安曇野パーマカルチャー塾/糸長浩司 2006/09 自然食通信社 単行本 147p

 3月11日の午前中、私はビル モリソン 「パーマカルチャー」の読書メモをアップした。その時、私は、これが読書ブログとしての最後の一冊になってしまう、なんてことは考えてもいなかった。しかし、巨大激震で地域の図書館ネットワークが壊滅し、事実として、最後の一冊になってしまったのである。

 当時、私が、地域の図書館から借りていた本は30冊あまり。一部の図書館は部分スタートしているので、返却した本もあるが、いまだに、返却本さえ受け付けることができない図書館がほとんどである。

 比較的優良な図書館利用者である私は、貸出期限をこえて借りておくなんてことはないのだが、今回ばかりは、すでに2カ月が経過しているのに、まだ図書館にかえせない本が十数冊ある。その中の一冊がこの「パーマカルチャーしよう!」だ。

 2005年9月に始まった私のブログは、<1.0>を経て、2009年3月に<2.0>としてこちらに引越してから、すでに5年半が経過した。途中で「読書ブログ」と自己規定してみたところで、その限界にも気づき始めていたところである。

 当時、どんどん繋がり始めた図書館ネットワークの便利さに後押しされて続いてきた読書ブログだったが、大震災による図書館のネットワークの壊滅、という事実を契機として、中断されることとなった。

 いや、決して中断ではない。そもそも、あと数冊程度で「メタコンシャス 意識を意識する」というカテゴリの終焉とともに、こちらの<2.0>もしばらくお休みしようと思っていたのである。ちょうどよかったというべきか、むしろ、今回の事態を「予感」していた、というべきか。

 私のブログは<1.0>、<2.0>を経て、<3.0>になるべきものであった。いろいろ模索してきたが、ネット上の、ツイッターだの、フェイスブックだのという形態の違いでは<3.0>はスタートしないようだ。私の<3.0>はどうやら、そのテーマ、その「場」の思想によって、規定されていくようだ。

 「NPO山の椒エコビレッジ」という、おなじニフティブログが数カ月前からスタートしている。このような形でリンクしてくるとは思っていなかったが、これが事実であるようだ。その中でも、「エコビレッジでパーマカルチャー」というキーワードの持つ意味は大きい。

 次から次へと図書館から本を借り出してメモする、というスタイルはもう終わった。本当に実際的な本をじっくり愛していく時代になった。そのような意味で、この「パーマカルチャーしよう!」も、ゆっくり、じっくり、味わっていきたい。少なくともスナイダーのような香り立つカッコよさ、はないが、包まれるようなやさしさがある。 

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2011/04/25

地球の家を保つには エコロジーと精神革命<2>  ゲーリー・スナイダー

<1>よりつづく

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「地球の家を保つには」 <2> エコロジーと精神革命
ゲーリー・スナイダー (著), 片桐 ユズル (翻訳) 1975/12 社会思想社 単行本 264p

 東日本大震災、被災後一カ月がすぎた。そろそろ、こちらの「読書ブログ」も復活しておかなければならない。図書館ネットワークは壊滅で、いまだ復活の目途が立っていない。

 自分の生活の中でも、読書をする時間というものがない。それでもやっぱり、震災で「ストップ」がかかった時、自分は何をやろうとしていたのかを確認する意味でも、こちらを再スタートしておかなくてはならない。

 復活後は、スナイダーから読み始めようと思っていた。他の本もいいのだが、この本は、タイトルが素晴らしい。ここからスタートしよう。

 私は今日、山の椒エコビレッジに行って、自分のテントを張り直してきた。ソロー・ハウスと名付けた山の中のエリアは、この本の意味する処を学び直す、いいチャンスを与えてくれている。

 まずはここから、被災後の生活を、再スタートしようと思う。

<3>につづく

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2011/03/11

「パーマカルチャー」 農的暮らしの永久デザイン ビル・モリソン<1>

パーマカルチャー―農的暮らしの永久デザイン
「パーマカルチャー」 農的暮らしの永久デザイン <1>
ビル・モリソン (著) , レニー・ミア スレイ (著), 田口 恒夫 (翻訳), 小祝 慶子 (翻訳) 1993/09 農山漁村文化協会 大型本: 203p
Vol.3 No.0285

 随所に福岡正信の「わら一本の革命」の引用が登場する。そのせいだろうか、どこか懐かしく、どこか親しみやすい。オーストラリア風にアレンジされているとはいうものの、その「哲学」はまさに福岡正信ゆずりの「自然農法」とも言えるだろう。その逆輸入されたとも思える「パーマカルチャー」は、世界各地にその影響力を及ぼし始めている。

 そういう目でみてみると、例えば某大手SNSには、この本をテーマとしたコミュニティがあり、5000人に及ぼうというメンバーを抱えているが、だが、新参者の私がみたかぎり、2004年にスタートしたこのコミュニティは必ずしも活発な議論が展開されているわけではない。

 あるいは、福岡著「わら一本の革命」にしても、「無--神の革命」にしても、私たちの世代も10代から影響を受けているにも関わらず、その「哲学」はおおいにもてはやされても、その「革命」が、生活の「実践」の場で生かされている現場というものは少ない。

 そのような視点で考える時、敢えてビル・モリソンによって再編集され、さらに新展開されている「自然農法」ライフスタイルに対して、謙虚に向かいあう必要は、おおいにあるのではないか、と思われる。ましてや、「実践」の場として、山の椒エコビレッジ、というフィールドを与えられている今、この本は、大きなバイブルとなり得る。

 最初はまずもっとも近いところから開発を始めるのが鉄則で、近くをしっかり把握できたらだんだん境界を広げていくようにする。初心者の場合、畑を母屋から離しすぎて、作物の収穫の能率も悪いし畑の手入れも行き届かないということになりやすい。時間をかければどんな土でも畑に適するようにつくることはできるものであるから、畑や果樹園は家の近くに置いたほうがよい。p16「効率的な活動エネルギー計画」

 山の椒は広い。4万坪ある。13haというと甲子園球場の10倍の広さ。とてもひとつふたつの家族では耕しつくせるものではないし、活用しつくせるものではない。すでに家庭菜園としてスタートしてから7年の時間が経過していたとしても、まだまだ余地はある。

 そのために、後から参加しようとする私のような立場では、あらたなる新天地を奥のほうに見つけようとするが、さて、それが本当に正しいのだろうか、と、この本を読みながら思う。むしろ、住居スペースは、集落として一部エリアに集中し、ライフラインを共用しながら、ビレッジ全体のデザインを考えていく必要があるのではないか、と思う。

 すべての資源は、それをどう利用するかによって、有利なものにも不利なものにもなる。海から始終吹きつけてくる風は不利にであるが、風力発電機を設け、畑を風除け柵の中か温室室にすれば、有利なものに変わる。

 不利なものを「問題」とみなし、その「問題を片づける」ために大量のエネルギー消費をともなう対策をとることもできるが、すべてを有望な資源と考えることもできる。どうしたらそれをうまく利用できるかをうまく利用できるかを考え出すのわれわれの仕事である。p35「すべて物事には両面がある」

 私はこの土地を秋から見はじめた。そして今、冬を見ている。この土地は標高平均400メートルという里山にある。しかも、なだらかな北斜面の雑木林なので、寝雪が多い。別荘地として開発された遺産として残された総延長2.5キロの整備されたアスファルト道路も、冬になれば雪に閉ざされる。

 もちろん、据え置きの除雪機やブルトーザーで除雪をすることもできるが、むしろ、この雪と共に共存すること、いや、むしろ、この雪を利用し、活用し、雪に生かされることを、最初の最初から考えつつこの地に入っていくことを学ぶべきなのではないか。

 「自分はこの土地に何をさせることができるか」と、「この土地から自分に何が与えられるか」という二つの問いの立て方がある。前者は、長期的結果を度外視した土地の摂取につながり、一方、後者は、人間の知性に導かれた永続的生態環境につながる。p39「用地の全体設計」

 このような心境になれるには、まずは、なんどもその土地に立ってみることであろう。概念としてはわかる。グーグルマップで地図もみることができる。一度行っただけでも、そのすごさはわかる。しかし、ひととおり見るだけでも一年、いやもっとかかるに違いない。

 地図は、観察がともなわれてはじめて役立つものである。たとえその地図が等高線や植生、浸食溝などが詳細に記入されてあったとしても、地図だけで設計しようなどとしてはいけない。p39「資源の確認」

 土地を知るということは、自分自身を知る、ということでもある。

 自分自身の持っている資源、財源、技術などについて考慮することも大切である。たとえば、あなたの技術や財産は、今からあなたがやりとげようとしている構想に十分応じうるものであるか。(中略)あなたのパーマカルチュアーシステムが供給するものに対する需要はあるか。現実的経営計画が立てられていたとしても、なんらかの事業上の変更を支えるのに、地域の回転資金の融資を利用できるのか。これらのことを考慮することも、大切である。p41「用地外の資源」

 確かに、農業機械士、危険物取扱とか、劇物毒物取扱、ボイラー関連資格など、いくつかの資格をとったことがあった。だが、そんなペーパーライセンスなど、大自然の前では吹き飛んでしまう。

 家屋をどこに置くかは、そこの気候によって異なるが、どの土地にあっても従うべき一定のルール、また、避けるべきことがいくつかある。

 そういうルールの一つに、次のことが上げられる。つまり、主要道路に近ければ近いほど、よいということだ。主要道路から家屋までの距離が長いとお金がかかり、維持するのが大変で、孤立した感じを受ける。p70「家屋の位置を決める」 

 山の椒エコビレッジは、交通量の多い県道に面している。その道に家屋を設置することもかのうであるし、そこから数百メートル、最深部では600メートルの玄関道を入ったところに家屋を置くこともできる。その目的によってさまざまなロケーションが考えられるが、ここでビル・モリソンは主要道路から「近ければ近いほどよい」と語っていることは記憶しておくべきだろう。もちろん「孤立」も大いに活用したいのだが。

 いったん通路や家屋の位置場所が決まったら、設計はより複雑な面に移り、建物の近辺とさらにそのまわりの場所に的を絞っていく。区域や区分、傾斜が大まかに検討されるのが、この時点だ。p71「優先順位の決定」

 ここまでくればかなりのものだ。しかし、ざっと考えて約40家族が関わることのできるキャパシティのある山の椒である。じっくり時間をかけて丁寧に土地との対話をつづけていきたい。

 この本においては、何を植えて、何を利用するか、ということについて細かにアドバイスが列記されている。そして、山の椒ですでにプロジェクトとしてスタートしているミツバチについても触れられている。

 ミツバチ

 畑でも果樹園でも、受粉係としてたいへん有用である。生産物としてはミツ、蜜ろうなどがあり、ニーズは水と花蜜が絶えまなく供給されることである。一年中ハチを自分のところに引き止めておくためには、完全な毎月のえさの供給を計画しなくてはいけない。しかし、花や花蜜の供給は天候しだいで年ごとにひどく違うので、時には砂糖水を与えたり、何マイルか先の花蜜の多い場所へ移動させたりする。p153「動物飼育システムと水産養殖」

 ここに書かれているのはセイヨウミツバチのことであるので、生態に違いのあると言われるニホンミツバチについては、別途、研究される必要がある。

 ここ10年くらいの間に、グローバルビレッジコミュニティーが徐々に発展してきた。それは、これまでに展開されてきた思考や価値観、技術の中でももっとも注目すべき変革である。この本は、耕す速度を早めることを意図しているのではなく、むしろ土地と生活に対しての、新しい、多様なアプローチに関する哲学を促進すること、そうして耕すことをを時代遅れなことにすることを意図している。

 人類の抱える問題に対して、私自身にはパーマカルチャーや適切な技術を取り入れた小さな責任あるコミュニティー形成以外に、何も(政治的、経済的)解決法は見出せない。中央集権的権力が続けられる日もあとわずかであろうし、社会の再組織化は、たとえときには痛みをともうなうこともあるとしても、避けることのできない過程であると信じている。p180「パーマカルチャーコミュニティー」

 エコビレッジにおけるパーマカルチャーを学ぶことは、人間とし地球につながり、そして宇宙へとつながる意識へと、一体化していく過程でもあろう。

<2>へつづく

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