「縄文杉の木蔭にて」―屋久島通信 「増補新版」
山尾三省 1994/09 新宿書房 単行本: 251ページ
Total No.3301★★★★☆
1)三省の本は、すでに当ブログとしては、多少駆け足ではあったが、読み込み済みである。まだ完読できていなかったり、再読リストに載っている本も数冊あるが、それは、他の本との読み合わせのタイミングを見ているのであって、内容の概略はほぼ分かっている。
2)この「縄文杉の木蔭にて」(1985/07 新宿書房)も、「続・縄文杉の木蔭にて」としての「回帰する月々の記」(1990/07 新宿書房)も読み込み済みだが、実は「縄文の木蔭にて」は、94年に増版され、しかも増補されていることを今回知った。どんなことを追記しているのだろうか。
3)この85年から94年にかけてのあいだにある1991年に私は三省にあった。「スピリット・オブ・プレイス」でのことだった。そのシンポジウムについては、パネラーの一人として参加した三省は「一切経山」日々の風景(1997/02 溪声社)にその経緯を記している。
4)さて今回は、再読の機会でもあるので、全文読む方法もあったのだが、その部分を際立たせるために、新版として増補された部分だけに目を通してみた。
5)本文中にも記したように、この初版が出されてからすでに丸八年、そして九年の年月が過ぎて行った。この間に私の一身上には大きな変化があったが、それと同じく内面においても、遅々としてではあるが変化がある。
その内のひとつには、アニミズムというものへの取り組みが私の中で本格化してきた、ということがある。ご承知のように、アニミズムは宗教の原初形態として一般的に受け止められているが、それはなにごとによらず発展史観というものが持つ欠陥であって、アニミズムは現在もなお十分に現実的な力を持っているにとどまらず、私達の未来を示唆するひとつの大いなる地平であり、希望であると私は感じている。
自分のそのような感受を、最初私は新アニミズムと呼んでみたが、それではどうもしっくりしない。むしろ不変のアニミズム、あるいは普遍のアニミズムと呼んだ方が適当であると思う。p250「増補新刊へのあとがき」
6)私の拙い読書によれば、三省の「哲学」は、いよいよアニミズムに集約されていったと思う。それは晩年期に表された、私がアニミズム三部作と呼ぶところの次の三冊に、よくあらわれている。
「カミを詠んだ一茶の俳句」 希望としてのアニミズム(2000/09 地湧社)
「アニミズムという希望」 講演録・琉球大学の五日間(2000/09 野草社)
「リグ・ヴェーダの智慧」 アニミズムの深化のために(2001/07 野草社/新泉社)
7)私は、1972年の浜田光(あぱっち)編集季刊詩「DEAD」に掲載されていた「部族の歌」や、プラサード書店の槙田きこり但人編集の初版「聖老人」百姓・詩人・信仰者として(1981/11プラサード書店/めるくまーる社)以来の三省読者のひとりではあるが、決して、無批判的な三省の追従者ではない。また、山田隗也(ポン)が揶揄するような「三省教」の信者でも毛頭ない。むしろ私は、彼への深い敬愛を感じつつも、三省へのささやかな批判者の一人でもある。
8)わが家の便所は汲み取り式であるが、それがお盆前からほぼ満杯になっていて、位置にも早く汲み取らないと、用を足すたびに気分が良くなかった。p237 肥(こえ)汲み(中略)
私としては江戸時代を真似するわけではないが、自分達の出すものが植物の肥料になり、その植物がまた私達を養ってくれるという限りない大循環の中に、いのちというものの広大な安心とやすらぎを感じる。文明の未来は、江戸時代とは具体的なシステムこそ当然異なるだろうが、直線ではなく大循環という思想にこそ根をすえなくてはならないと思う。p219同上
9)別に江戸時代まで遡らなくても、戦前まではほとんどがそうであった。あるいは戦後、ごく最近まで、汲み取り式で、しかもそれを肥料として使っていたのは、ごく最近までのことである。我が家でも、90年代の半ばまで(ということは三省がこの文を書いていると同時代)、そうであった。畑のない我が家ではそれを肥料として使ってはいなかったが、わざわざ、畑にバキュームカーを逆流させて、人糞を放流させてもらっていた農家さえあった。
10)しかし、それはそれ、メリットもあればデメリットもある。一つには悪臭。地区に畜産農家があったりすると、もうそれだけで、近隣に最近になってできた建売住宅の新住民などから苦情がきたりする時代である。人糞を播くなど、持っての他であろう。
11)それと、人糞といえど、それなりに病原菌も交じっている。人肥を追肥したりすると、野菜に付着し、新たなる病原となることも多かった。「にわか」百姓の詩人的な繰り言だけでは、「農業」は成り立たない。
12)「聖なる地球のつどいかな」(1998/07 山と溪谷社)において、三省と対談しながら、ゲーリー・スナイダーは、自らがパソコンやメール、あるいは太陽光発電などの、新しい技術を積極的に取り入れている姿勢を誇示している。それに対する三省は、決して積極的でないばかりか、原発をはじめとする、あらゆる科学技術に対する忌避を示しているかのように感じる。
13)三省は、対極に戦争や原爆や原発を置くあまり、極端なアニミズム回帰を夢見て亡くなっていったように、私には見える。
14)今日は旧盆の十六日。 昨日までは、鹿児島市に住んでいる二人の息子、一人は中学校教員をしており、一人は会社員をしているのであるが、その二人が盆帰りをしていて、わが家は大変賑やかだった。p227「チリハノブドウ」
15)浅学にして、三省のように周囲の人間関係をほぼ実名で語りまくった人を知らないのだが、いわゆる部族やヒッピーと言われた自らの青春時代のような形での、自分の子供たちの成長をみたわけではなかった。「市」に住み、「会社員」や「教員」である家族たちを、彼は決して咎めもしないでみていたであろうし、「独立した人間」として「尊重」もしていたであろう。
16)当ブログは現在、「60年代のカウンターカルチャー」から、21世紀、なかんずく今日の2010年代における「コンシャス・マルチチュード」までの流れを俯瞰しようとしているところである。しかしながら、「時代」と言っても、実にもろくはかないものであり、その千変万化は実に限りない。リアリティを一貫するなら、そこに生きた人間をこそ追いかけるべきだろうと思う所以である。
17)その時、多くの表現物を表し、そして残した山尾三省という「隣人」は、極めて、時代のスケールとしては有難い存在なのである。一人の詩人の生きた生き方を横目で見つつ、それを座標軸の一つとして活用しながら、自らの人生の進路を見極めるには、いたって都合のいい「共有財産」なのだ。
18)まるで方丈記か徒然草の時代の再来であるような、天変地異が打ちつづくこの頃、それは何よりも私自身の病いであると感じる一方で、より深く地球そのものが病んでいることを感じないわけにはいかない。希望がないといえばそれまでの、希望のない淵に私(達)は立っている。p228「樹木」
19)この文章は、阪神淡路大震災も、スマトラ島沖自身も、3・11東日本大震災をも経験する前の三省の直感である。今後も、これだけの大震災は繰り返されていくに違いないないのだ。それを地球が「病んでいる」とみるのか、そもそもそれは地球の「健康な」新陳代謝なのかは、人間のスケールを離れてみれば、分かったものではない。希望があるかないかはともかくとして、とにかく私はこの地球上に生きていくしかないのであり、また私の子孫についても同じことが言えるだろう。
20)この1938年生まれの三省に対して、1940年生まれの宮井陸郎を対置してみる。
宮井 ぼくなんかはコンピューターのほうがネイチュアなんです。ぼくらがガキだった頃、花や蝶がネイチュアだったような意味で、ジョン・ケージにとっては、やはりコンピューターがネイチュアなんだっていう感じがしますね。
ケージがコンピューターを日本の水車と同じだと言ったのは、非常にオリジナルですばらしい。「芸術」の予言!!」 60年代ラディカル・カルチュアの軌跡(2009/05 フィルムアート社)p126
21)私は宮井の人生が実際にどうであったかは知らないが、少なくともすでに60年代において「デジタル・ネイティブ」を直感し、容認していた潮流が、「60年代」と括られる流れのなかでの、三省の直ぐ隣り合わせにあったということは明記しておくべきだろう。
最近のコメント