カテゴリー「29)プレムバヴェシュの孫たちとの対話」の91件の記事

2012/04/18

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <32>to be continued

<31>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<32> to be continued
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<33>につづく

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2012/04/17

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<40>「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」カテゴリについて

39>よりつづく 

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<40>「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」カテゴリについて

1)そもそも、当ブログはスタート地点から、まだ見ぬ孫たちへの遺言の性格があった。いろいろな形態の中で、言葉を紡ぎやすいのは、そのスタイルだろう、と思っていた。

2)実際にその存在の登場を予告されると、言葉として沸いてきたのは、グルジェフの「ベルゼバブの孫への話」だった。このタイトルを借りて、最初軽い乗りで「ベルゼバベシュの孫への話」としてみたのだが、落ち着きがわるかった。

3)結局は、プレムバヴェシュとなり、話ではなく、対話となった。最初に狙った軽いジョークの線は、結局は消え、いつものシニカルな記述となった。

4)それにしても、最初、カテゴリ名として考えていた時点より、より具体的な孫たちとの生活が具体化したのには驚いた。これはこれで、抜群に楽しい。

5)この生活が暫定的でほんの数ヵ月で終了してしまうのか、あるいは残る後半生の基本スタイルになるのかは、現在では未知数だ。今はこうである、としか言えない。

6)読書ブログとして、再読したいこのカテゴリこの三冊は次の通り。

「ベルゼバブの孫への話」 人間の生に対する客観的かつ公平無視なる批判 G・Iグルジェフ

「トワイライト・フリークス」 黄昏の対抗文化人たち 山田塊也

「The Back Country」 奥の国 Gary Snyder

7)書かれたのは、 2012年2月17日~2012年4月18日の期間であった。

<41>につづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <31>孫の寝息とともに瞑想する

<30>よりつづく 

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<31>孫の寝息とともに瞑想する

 おしめを代えたり、離乳食をやったり、昼寝の添い寝をしたり。時には、風呂で湯船で遊び、一緒に早めに布団にはいる。そのまま夢路をあそぶことになるのだが、祖父には、それほど長時間眠り続けるほどの力がない。

 夜半に目が覚め、やることといったら限られている。スマホをいじるか、読みかけの本を開いてみるか、あとは、そっと座ってみることとなる。

 かたわらの孫の寝息も、かすかだが、とぎれたり、リズミカルになったり、時にはため息となったりと、必ずしも一様ではない。その存在を確かめながら、自分は自分の世界にはいる。

 プロジェクト567を思った。プロジェクトというかぎり、何かの計画に違いない。 7つのキーワードから導き出されるものは何か。思いを巡らしていけば、行き着くところは、ほぼ限られている。

 いつの間にか、孫たちのためのキッズルームが、祖父のための瞑想ルームになっている。

 プロジェクト567は、いまだ曖昧模糊とはしているが、わが人生の残りを指し示す重要な指針となるはず。

 そのリアリティを、一息一息に、手繰り寄せる。

 <32>につづく

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2012/04/15

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <30> プロジェクト567に向けて

<29>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<30>プロジェクト567に向けて

 気持ちはもう次のカテゴリへといそいでいる。かといって。別段目新しいことでもなく、いままでのテーマを掘り下げていくことだけなのであるが、それでも、心や脳が、なにごとか刺激されているのを感ずる。

 次なるカテゴリでは、別な側面から、あるいは、集約され、より整合化された方法で、旅を続ける。

 とはいいつつ、とられる手法は相変わらずのものだ。

 7つキーワードに対して、7冊の本を対応させてみようと思う。

1)「ECOシティ」
 エコビレッジには、この本を対応させる。本来であれば、より森の生活のような、農的で、アニミズムに満ちあふれたキーワードであるはずだが、今日、明日、という現実性のなかでは、夢物語に堕してしまう可能性が大きい。
 ここではむしろ、現実的な都市計画がすすむより至近距離の住環境の可能性を考えたい。

2)「太陽光発電」
 ここは、本来、ハイブリッド車とかエコカーを考えるキーワードであったはずなのであるが、別に車とかぎってしまう必要はない。むしろエネルギー一般を考えるべきチャンスである。
 太陽光発電については、かなり現実的なプランが登場し、あともう少しで契約というところで引き返してしまった。その反省をこめて、もういちど、考え直すとする。

3)「Osho Zen Trot」
 ここは、具体的な中央図書館や、図書館・ネットワークがくるべき位置なのだが、あえて、こちらを選らんだ。そもそも図書館でなにをしたいのか、そのネットワークで、どんな成果を得たいのか、と考えた場合、そのハード面よりはソフト、さらには、よりシンプルで合的な、答えが欲しいのだ、と気がついたからだ。
 このタロットはある意味では、そのような統合性のサンプルになりうる。

4)「ポスト3・11の子育てマニュアル 」
 この本は、著者からのコメントをもらいつつ、なお、読書観としては、いまいち納得がいかないでいる一冊である。具体的な幼児たちと暮らしながら、今一度、再読してみようと思う。
 本来、ここがもっとも中心となるべきテーマであるはずである。

5)「禅へのいざない」
 ここは、本来スマートフォンが来るべき位置だが、あえて、そのスマートフォンの産みの親であるスティーブ・ジョブスが愛したとされる、この本を選んだ。
 しかも、ジョブスが腰巻きに印刷されている新訳ではなく、旧訳を選んだ。新訳はスマートだが、ひっかかりがすくない。ちょっと煙たい旧訳を再読しよう。

6)「チベット密教瞑想入門」
 この本は、3・11関連を追っかけながら、新刊本の一冊として手にしただけで、熟読とはいかなかった。ここで再読しておきたい。
 そもそもホワイトターラーがキーワードだが、必ずしもこの本には登場しないだろう。それでも、そのなかから、地上まれにみる、高度に構築された地球人スピリットのひとつとしてのチベット密教を、再考したい。

7)「宮沢賢治 祈りのことば」
 限定つきではあるが、この本は3・11以降に読んだ本としては、ベスト本の一冊である。本来のキーワードが、3・11であってみれば、ましてや7つのキーワードの、最後の締めの一冊であってみれば、この本が最後を飾るにふさわしいと思える。
 しかしながら、初読のときから感じる、限定性、これが一体何なのか、気になる。それを確認するべく、さらに再読すべきであろう。

 これらを、次のプロジェクト567につなぐ。

<31>へつづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <29>孫たちのいる風景

<28>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<29>孫たちのいる風景

 0歳児の区切りのよい日となり、なんごとかの行事をおこなう日となった。親たちは、学生時代にアルバイトをやった縁で、その神社に、宮参りとやらを行う。季節的にはまるで桜の花の咲き始めで、お祝いには、ふさわしい、もってこいの日程ではある。

 観念的に考えている未来と、実際にその未来をいきるであろう具体的な孫たちを配置してみる風景とでは、視線のやり場がちがう。

 孫たちの視線の先には、同じ年頃の子供たちがいる。やわらかいものながら、自然に、すこしづつ、彼らなりのネットワークができつつあるようだ。

 彼らなりの挨拶のしかたがあり、応答のしかたがある。発信をして受信する。発信しても受信されないこともあり、向こうからくるものを受信でいない時もある。

 総じて曖昧なものであり、それは、彼らの言語体系ほどに、実に曖昧なものである。ただ、確実にそれは芽生えている、とも言える。

 花よ、蝶よ、と心踊らすことは、年齢に関係なくあることではあるが、孫たちといれば、それがまた、一段と新鮮に感じられるから不思議である。

<30>へつづく

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2012/04/14

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <28>収束に向けて

<27>よりつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<28> 収束に向けて

 さて、当カテゴリも残すところわずかになってきた。十分な考察になったとは言い切れず、大きな成果があったとも思えない。このまま、次のカテゴリも継続して同じテーマで引っ張って見ようかな、という気がないでもないが、それはやめておこう。

 というのも、どうも、仮称プロジェクト567のコードネームで進行してきた動めきが、すこしづつ形を持ち始めているのを感じるからだ。

 当ブログの一行紹介は、長いこと、意識をめぐる読書ブログ、というものであった。その後、最近になって、読書にも、ブログにも、見切りをつけようと、新たに、意識としての愛の探求、というものをこしらえてみたが、いまいち納得はいっていない。

 もし、今回のこのカテゴリの成果があったとすれば、当ブログの今後の継続に、方向性を与えてくれたことであろう。

 そもそも、プレムバヴェシュとは誰か、孫たちとはなにか、対話とはなにか、という考案はそのままそっくり残されてしまうのだが、それらをベースにして、今後につないでいくことはできそうである。

 少なくとも、当ブログは、形としては、モノローグからダイアローグへと流れていくべき時にきている。

 もちろん、孫たち、という表象は、具体的でありつつ象徴的なものであり、この地球文明を継ぐべき、未来のニューマンたちをも意味している。その中に、個としてのプレムバヴェシュも包含されるのであり、そうありたい、と願ってもいるのである。そこへむけての対話である。

 次なるカテゴリは、プロジェクト567となる。ある期間のなかで採集された7つのキーワードを基に、整合性をはかり、また違和感をのこしたまま、全体性を感じ、あるいは、一なる源泉を探る。

 方法論としては、結局は読書ブログ時代の手法を踏襲する以外になさそうである。7つのキーワードに対して、7冊の本を立て、そこを切り口に、思案し、瞑想へとつなぐ。

<29>へつづく

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2012/04/13

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <27> ホワイトターラーなのか、かぶと&鯉のぼりなのか

<26>よりつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<27> ホワイトターラーなのか、かぶと&鯉のぼりなのか

 孫たちにとってのホワイトターラーとは何か、という設問は、なかなか難しい難問である。そもそも、プロジェクト567においても、他のキーワードとの整合性がいまいち悪く、また、トフラーの三つの波の図式の中でとらえることも、なかなかしんどい。

 そもそも、ホワイトターラーはチベットの民衆に愛されている女神さまで、男性性の強い観世音菩薩にたいする女性性の象徴ともされているようだ。

 観世音菩薩が、いくら慈しみをもっても救いきれない衆生をみて、涙
を流した時、その涙から生まれたのが、白多羅菩薩とされ、英訳されたのが、ホワイトターラーらしい。

 一緒にグリーンターラー菩薩も生まれたらしく、ふたりで観世音菩薩をお慰めしたともいう。

 はてさて、いずれは孫たちも人間としての成長過程において、これらの菩薩さまたちにお会いすることもあるだろうし、その菩薩心を自らのものとすることもあるだろうが、今、0歳児1歳児にとって、それらをとらえることなど出来るであろうか。

 そんなことを峻巡していたら、その解決というか、流れは、以外な形で展開しはじめた。

 春分の日もすぎ、庭先の日差しがあかるくなって、子供の日が近づいてくるにつれて、ふたりの男子に、兜人形が届くことになったのである。

 なにはともあれ、それを飾るののにふさわしい空間は、我が家の場合、ささやかながら和室の床の間しかない。なにはともあれ、1歳児にイタズラされないガードも必要である。

 ところが、床の間には、先年より、ホワイトターラーさまが鎮座されているのである。どうすべきなのであろうか。ホワイトターラーと兜や鯉のぼりは、いかにもバランスが悪そうにも思えるし、いかにも我が家らしい、とさえ言えるかもしれない。

 しかし、ここは、ちいさなスペースにこぎれいに飾り付けるためにも、いちどホワイトターラー菩薩にはご退席いただき、わがベットサイドに、お移りいただくことになったのである。

 いずれにせよ、子供の日までの、暫定的なひと月のことである。いまは、孫たちにとっては、兜や鯉のぼりのほうが優先課題である。

 かたや、じいさんのほうは、もう少し気を入れて、白多羅菩薩様との瞑想の時間を増やす結果となったのである。

<28>につづく

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2012/04/12

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <26> 孫たちと三つの波

<25>よりつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<26>孫たちと三つの波

 孫たちを7つのキーワードの中心においた場合、その上下には、図書館ネットワークと、スマホが位置することになり、この情報時代に生まれた新人類たちにしてみれば、さもふさわしい位置取りであるようである。

 外縁を探ってみれば、エコビレッジと3・11が取り囲み、これもまた、牽強付会に定位置化してみれば、みれないこともない。

 この図式を見ていると、連想されてくるのが、アルビン・トフラーの第三の波である。すでに三つの波は、常態化しているのであり、農業革命と情報革命にそれぞれが対応していそうだ、ということはわかる。

 しかし、ここにおいて、あらたなるテーマがもちあがる。プロジェクト567においては、孫たちの位置から見た場合、エコカーとホワイトターラーは対応の位置にある。さて、この位置取りの加減やいかん。

 エコカーやハイブリッド車、あるいは太陽電池などへの思いをまとめることは、第二の波である工業革命にまとめることは、それほどむずかしくはなさそうだ。あるいは、そのものといってもいいだろう。

 しかし、ホワイトターラーを第二の波の中で論ずることは、かなりむずかしい。エコカーとホワイトターラーを対応させるように、同心円上におくのは、やはり無理がありそうだ。

 ここで想定できることは、この図式は同心円としてまとめられるものではなく、渦巻きとして、スパイラルとして認知されるべきであろうといことである。

 つまり、孫たち→図書館ネットワーク→スマホ→エコカー→ホワイトターラー→エコビレッジ→3・11、という外向けのスパイラルを想定することができる。もちろん、逆コースの内向きスパイラルも当然のごとく存在することになる。

 当ブログ、あるいはプロジェクト567においては、ホワイトターラーを漠としたものとして放置し、細かく点検してこなかった。それには多犠牲を被せたまま、未知数として敬遠してあるのである。

 しかし、他の6つのキーワードがそれぞれに検証される必要があるかぎり、ひとつだけ、そのチェックを逃れることはできないであろう。ここでは、ホワイトターラーも、その位置取りの中で、その本質を、批判的に検証される必要がある。

 そも、ホワイトターラーはチベット密教のなかに位置すべきものであろう。インド仏教が衰退し、中国、日本に流れた瞑想技法が、禅文化として結実するなか、秘密仏教としてのチベット文化は、そのヒマラヤの高地という自然環境もあって、産業として、組織化されていった、という側面があることは否めない。

 時のモンゴルの政治力を背景として、大施主と帰依所という役割分担、システムが構築されていった。つまり、蒸気機関の発明からフォービズムまでの工業化の波と相図形のように、インド密教は、世界制覇を目指すモンゴリアンたちの余勢をかりて、時のスピリチュアリティの装いのもと、かなり奇形化していったのではないか、と仮定することができる。

まずはこのような視点から、ホワイトターラーを捉えなおあし、スパイラルとしてのプロジェクト567を補強していく必要がある。

<27>につづく

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2012/04/11

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <25>ふたたび、孫たちにとって3・11とは何か

<24>よりつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<25> ふたたび、孫たちにとって3・11とは何か

 3・11は、プロジェクト567は、7つめのキーワードである。7つ以上がないかぎり、それは最終のものであり、すべてを含んだものである。究極のものであり、新たな始まりでもある。

 つまり、表象としては、3・11という表現でなくてもかまわない。しかしながら、ある一定期間内に、つぎつぎと登場したキーワードの中においては、3・11ほど、7つ目のキーワードとしてふさわしいものはない。

 循環としては、3・11は、エコビレッジへと回帰する。あるいは、対をなす。そして、それはすべてを含んでいることが期待されていた。

 一般には3・11とは、巨大地震、歴史津波、最悪原発事故、それぞれの総合と捉えられている。しかし、それは、後付けであり、その只中にいた、それぞれの、一個の人間とっては、そんな客観的な表現は似つかわない。

 体験であれ、思考であれ、ひとりひとりの人間に立ち返ってみれば、それは、3・11以前と、3・11以後、とでもいうべき、実に峻別すべきポイントのことである。

 あるいは、そのようなものとして、活用すべき何か、なのである。

 さて、孫とはなにか、といえば、具体的に名前のついた実在の0歳児1歳児を意味していながら、それはひとつの象徴であり、抽象的な概念でもある。それは、人間を意味し、とりわけ、未来に向けて、命をつなぐ、存在としての、人間を意味している。

 つまり、3・11と孫たち、という時、それは、ある地点から発生してきた新しい人間、を意味している。それは、とりわけ、価値観において、まったく新しい視点をもっている。あるいは、そのことを期待されている。

<26>へつづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <24>孫たちとホワイトターラー

<23>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<24> 孫たちとホワイトターラー

 ホワイトターラーはプロジェクト567におけるスピリチュアリティの象徴である。あるいは、このホワイトターラーがこなければ、そもそも、プロジェクト567は、顕在化しなかったとも言える。

 プロジェクト567の顕在化のなかで、孫たちの存在が逆照射され、いきなりクローズアップされた、とも言える。すべては相対化のなかで存在しているのであり、その相対化の妙を楽しもう、というのが、またプロジェクト567の真意でもある。

 プレムバヴェシュと孫たちとの対話も、当ブログのカテゴリとしては、8割以上を経過した。おもったほどの成果はなかったにせよ、整理すべきいくつかの点においては、かなりすっきりした。

 そもそも、当ブログのスタート地点において、孫たちはまだ生まれてはいなかったのだが、本来、そのニュアンスで、この一連のメモはスタートしたのであった。必ずしもモノローグではない。敢えて対話者を求むるとするなら、それは、まだ見ぬ孫たち、であったはずである。

 本質的にそういう性格のブログであってみれば、主テーマは、プロジェクト567のようなもの、ということができる。

 さて、何事かを表現するのに、プロジェクト567とだけ表記し続けることは、あまりに舌足らずであろう。ここはここ、もうすこし噛み砕き、適切な表現を引き寄せて行かなくてはならない。

 つぎなるカテゴリは、プロジェクト567としてスタートしよう。しだいに、新たなる装いを身に付けたなら、その時点でそれを、正式なカテゴリ名として採用する。

 そもそも、ホワイトターラーは、チベットの神様である。いや、仏さまかもしれない。だが、ホワイト、という形容詞がついている限り、すでに純粋にチベット産とはいいにくく、混血、混淆、が暗に推測される。

 彼、あるいは彼女の、性格については、あまり精緻を要求する必要はない。むしろ、その出会いのほうが大事である。そのことについては、どこかにすでにメモしたし、繰り返すことで、定式化してしまうことを、むしろ、おそれる。

 あいまいなまま、あるいは、表現しきれないまま、残される、なにごとかに、より正しくも、かぎりなく正統な意味が生じてくる場合もある。あるいは、この場合は、まさにそうなのである。

 そのことと、孫たちは、直接には、なんの繋がりもないのだが、ここで、敢えて相対化し、対比、対峙させることによって、際立った色彩が立ち上がることがあるかもしれない。かなり苦しい、無理のある試みなのだが、それでもやっぱり、ここはこうするしかない。

 あえていうなら、赤子と如来の一体化である。如来もまた赤子であったし、赤子もまた、いつかは如来となるのである。

 いやいやそうではないだろう、如来とは赤子のことであり、赤子こそ如来なのである。あるいは、二語に別れてしまっていることこそ、すでに迷いである。

 裏と表を、ひとつと見る。そもそも、それが真実なのである。旅は、終わりに近づいている。そして、旅はふたたびはじまる。そもそも、旅などないのだ。

<25>へつづく

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