カテゴリー「17)来たるべき地球人スピリット」の99件の記事

2014/05/19

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<50>「来たるべき地球人スピリット1」カテゴリについて

<49>よりつづく

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<50>「来たるべき地球人スピリット1」カテゴリについて

 書かれたのは2014/04/08から2014/05/19までの40日余りの日々。割とあっという間にここまで来てしまった。柳生かやの木資料作りや、他のSNS、特にFacebookとの繋がりがさらに色濃くなって、かなりの書込みが進んだ。それはそれで悦ばしいことであった。

 テーマとしての「来たるべき地球人スピリット」は、結局、この108の書込みでは終息しなかった。終息しなかったというより、これは終息しないのだろう、ということに気付いた、というべきだろう。

 このカテゴリで池田純一の三部作「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」(2011/03 講談社)「デザインするテクノロジー」(2012/10 青土社)「ウェブ文明論」(2013/05 新潮社)と出会ったことは興味深い体験だった。文面ではひどく否定的に書いてしまっているが、これは、ひとつの気付きをもらたしてくれた、という意味では、偉大な本たちであった。

 コンテナ、コンテンツに比較するところの、コンシャスネスとは何か、と問う旅にでているわけだが、明快な定義ができているわけではない。むしろ、コンテナではないもの、コンテンツではないもの、それがコンシャスネスである、という逆説的な定義が成立するのではないか、とようやく気付いてところである。

 非コンテナ、非コンテンツ、それがコンシャスネスである、というのが、このカテゴリを終了しての結論である。コンテナ論で表せるものはコンテナ論で済まし、コンテンツ論で表すことができることはコンテンツ論で済ます。しかし、そこで表現できないもの。そこで済ますことができないものが、コンシャスネス論である、ということになる。

 つまり、結局は、多弁をいくら繰り返しても、コンシャスネスには届かないだろう。表現が繰り返されれば繰り返されるほど、コンシャスネスは遠のくのである。逆に、気付いて見れば、コンテナも、コンテンツも、すべて、つねにコンシャスネスに取り込まれていた、という事実がある。

 そこんところに気付かせてくれた池田純一三部作には、逆説的な表現ながら、感謝したい。今のところ、コンテナ、コンテンツに関わるテーマでは最強の布陣を引いたシリーズであった。

 「再読したいこのカテゴリこの3冊」は、

「WIRED×STEVE JOBS」 
『WIRED』 保存版特別号 2013/10 コンデナスト・ジャパン 雑誌  kindle版 

「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 

「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 

「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004ムック 2014/01  晋遊舎  

の三冊(プラス一冊)だった。

 次のカテゴリは、「来たるべき地球人スピリット2」となる。テーマは、「1」の継続であるが、結局は、当ブログとしては、究極のテーマに辿り着いているようであるし、また、永遠とこのテーマを繰り返し続けることもできるし、また、サドンデスで随時終了も可能であることが分かった。

 マイペースで気楽に行こう。もう、急ぎの旅ではない。旅は終わって、すでに帰路についている。あるいは、すでに帰宅した。そして、結局、最初から、旅などにでてはいなかったことを確認することとなる。

<51>につづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「来たるべき地球人スピリット1」編

前よりつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊

「来たるべき地球人スピリット1」編

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「WIRED×STEVE JOBS」
『WIRED』 保存版特別号 2013/10 コンデナスト・ジャパン 雑誌 p178 kindle版 

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「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇> <1>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 単行本: 191ページ 
「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 単行本: 191ページ

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「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004ムック
2014/01  晋遊舎 ムック  97ページ

後につづく 

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「ウェブ文明論」 池田 純一

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「ウェブ文明論」
池田 純一 (著) 2013/05 新潮社 単行本 333ページ [Kindle版]
Total No.3242★★★★☆

 残念ながら、この本読めなかった。それなりに努力はしたのだが、ダメだった。面白そうなのだが、読めない。なぜなのか、考えてみる。

「新潮」の連載を続けた三年の間に、連載をきっかけとして、「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」(講談社)と「デザインするテクノロジー」(青土社)の二冊を上梓することができた。内容としては、前者は本書の第1部と第2部、後者は第3部と第4部と関わるところが多い。p331「あとがき」

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 この三冊は、著者の近著として、ひとまとまりのものとしてとらえて、できれば精読してもいいかな、と思っていたのだが、現在は、もう再読の気力がない。

 「ウェブ進化論」をアメリカ賛美や技術決定論として退けるのは早計だ。むしろ「進化論」がウェブが実際に社会に定着した2010年代だからこそ、丁重に再読されるべきであろう。p31「コードが支える大陸の夢」

 たしかに梅田望夫の「ウェブ進化論」(2006/02 筑摩書房)の精読から当ブログは始まったのだった。ブログ・サービスの活用というエリアのなかでの「ウェブ進化論」は確かに有益だった。面白いけど、なんだか不足しているぞ、何が不足しているのだろう。そこのところから、当ブログはスタートした。

 そして、言ってみるところのコンテナ、コンテンツの次に来るもの、コンシャスネスについてはどうなっているのだ、というところが、当ブログの探究の最大のテーマになってきた。あの本ではやはり不足していると思っているところに、梅田と平野啓一郎との対談による「ウェブ人間論」(2006/12新潮社)がでたのであった。

 結論としては、二冊目も食いたらないものではあったが、そもそもやはり「ウェブ進化論」ではなにかが不足しているという直感から、直後に取り急ぎ対談という形で「人間論」が追加補足されたのだった。やはり、濃厚な「人間論」が必要なのである。

 この池田純一の三部作に対しても、当ブログとしては、一貫して「人間論」を求めたい。アメリカ、ソーシャル、ウェブという三本柱、あるいはテクノロジーとデザイン、という切り口。それぞれが鮮やかであるがゆえに、結果的に、何がこのシリーズに不足しているのかも、鮮やかに浮き上がってきてしまう。

 2011年10月5日、スティーブ・ジョブズが他界した。享年56歳。
 余りに早すぎる彼の死去はやはり重い。実際ジョブズ逝去の報道が流れたその日のうちに、IT業界はもとより、オバマ大統領を始めとし、各界要人から様々な追悼が表明された。
p133「技術と人文の架橋」 

 この本は、著者がアメリカに渡ることによって書かれる文章が、日本で発行される雑誌に連載されて、それの再編集本となっている。そもそもの文章が書かれた日も明示してある。それは、3・11を挟んだ数年の日々なのであるが、この本には、おそらく3・11に関するj記述が一切ない。ここが私が一番、著者に距離を感じる重要ポイントである。

「新潮」の連載を続けた三年の間に、連載をきっかけとして、「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」(講談社)と「デザインするテクノロジー」(青土社)の二冊を上梓することができた。p331「あとがき」

 この三年間の間に、著者はアメリカを追い、ITを追い、歴史を追っかけた。9・11やジョブズの死や、過去の「ウェブ進化論」などを引用しながら、現在進行形の、3・11や原発処理問題には一切触れていない。ここが、当ブログとしては、この著者の「人間性」に疑問を持つ重要なポイントである。

 いくら内容的に面白そうであっても、見かけだけであり、ハートがこもってなければ、伝わらない。情報は情報として浸透するだろうが、その情報に込められるべき、本当の、人間としての、真実、というものが、この本では、決定的に、不足している。

 当ブログとしては、ITやタブレットなどの技術論や、ソーシャルや文明論などのコンテンツ解説まではなんとか受け入れることはできる。しかし、人間不在、ハート不在、魂不在の本は、受け入れることはできない。「ハート」について、悪く書いてあるわけじゃない。しかし、そこに言及しないのは、本の書き手としての「不作為」である。断じて見逃すわけにはいかない。

 アメリカやIT、ソーシャルに目を向けるなら、なぜに、今現在試行中の、3・11の惨状や、一方の科学技術の破綻=原発事故に言及しないのか。そして、アメリカの9・11を追いかける程のエネルギーでもって、日本のリアルな今を見ないのか。そこがどうも許せなくなるのである。

 「来たるべき地球人スピリット1」カテゴリは、この本を持って終了する。本来は、ここで終わる筈だったのだが、どうも不完全燃焼してしまったようだ。今回のテーマを持ち越し、次のカテゴリ名を「来たるべき地球人スピリット2」として続行することにする。

 おそらく、この著者の三冊は再読しないだろう。再読しないが、再読しないことにした意味を、次のカテゴリでは問うてみたい。著者には、「ウェブ人間論」に位置する一冊がどうしても必要になるだろう。また、当ブログは、そこのところがないと、自らの存在意義を失ってしまう。

 大地があり、巨木がある。大地は何処までも広く、巨木は限りなく太く、高くそびえたっている。しかし、大地の向こうに広がる地平線の彼方、高くそびえたっている巨木の、その遥か上に空はある。大地が博ければ広いほど、巨木が高ければ高いほど、それを包含する空間は、もっとはるかに広い。手が届かず、その果てさえ見定めることができない。

 本著シリーズの三冊は、大地の広さ、巨木の大きさに目をやりながら、空の無限に気付いていない。その無限に比較すれば、大地も巨木も、実に、小さく、無に等しくなる、という逆説に気付いていないか、気付かないふりをして、ごまかそうとしている。

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「仙台市中田第一土地区画整理事業完成写真図」1980/03

「仙台市中田第一土地区画整理事業完成写真図」
仙台市中田第一土地区画整理組合 昭和55年1980/03/29撮影 縮尺 約1/7500 西中田コミュニティセンター提供 45cm×50cm カラー刷りポスター 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集

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「囊塵埃捨録」 「仙台叢書第七巻」所蔵 仙台叢書刊行会

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「囊塵埃捨録(のうじんあいしゃろく)  「仙台叢書第七巻」所蔵
仙台叢書刊行会  1924  ハードカバー 図版6枚 449p 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集
Total No.3241★★★★☆

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                 p345

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参照 「仙台市史」特別編9 地域誌 2014/03 仙台市史編さん委員会/編集  p595
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    p500

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「カーニバル」から40年「仙台青葉まつり」 2014

「仙台青葉まつり」 
2014/05/18 仙台都心各地 仙台青葉まつり協賛会

40年前に仙台市内であった「カーニバル」なんてイベントを知っている人も、覚えている人も、もはや殆どいないだろう。1974年、雀の森の住人達が中心になって、全国から仲間たちを呼び、広瀬川河畔の牛越橋付近に大勢キャンプインし、夏の仙台七夕期間中に、こぞって見物客でごったがえする市中にでて、さまざまなイベントを行なった。

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 これは今回、盛岡の旧友パクシーが偶然SNSでアップしてくれた当時のポスターである。当時、私は情宣の係をやることが多く、謄写版の延長でよくシルクスクリーンでポスターを作ったものだ。当時はポスターなどはほとんど使い捨てで、保存しておくなんて発想はなかった。だから、他のイベントなどで作ったポスターなども、まったく残っていない。当時私が作成したシルクのポスターで、今確認できているのは、彼が保存してくれている、このポスター一種類、一枚だけである。有難い。感謝。

 あのイベント、どういう経緯で行われたか、ということを正確に知っている人も、記録もないだろう。当時の現場にいた人間の1人として、記憶をたどっておく。そもそもの発想は、私たち雀の森の住人の一人である当時22歳の若者・冬崎流峰が、仙台七夕は、ただ飾ってあるだけで面白くない。祭りとして、なんとか楽しいものにしようではないか、と言いだしたことにある。

 その意見を出したのは、七夕の殆ど半年前くらいのこと。春には仙台市の市庁舎まで出かけていって、意見を出したり、担当に面会を求めたりした。しかし、当時は、まだまだ文化状況を理解するような役所ではなかった。仙台市民文化事業団などできる前の前の話である。けんもほろろの対応だったのだ。

 いよいよ業を煮やした流峰を初めとする私たちは、全国の若者や仲間に呼びかけ、自分たちの思いを実行に移したのだった。大阪からは街頭演劇の一団がやってきて突然七夕飾りの下で踊り出し、福島の農場グループもぐらの仲間たちは、泥つき野菜を並べて見物客に販売した。もちろん、許可などを申請した記憶はない。

 ミュージッシャンたちも多く集まり、街頭パフォーマンス、そして夜な夜な河原のテントではコンサートが続いた。夜になるとパトカーもおっとり刀で巡視には来たが、付近からの苦情のガス抜き程度の注意だけで、トラブルはなかった。

 あの時のイベントのエネルギーは、実は翌年の1975年星の遊行群ミルキーウエイキャラバンへと繋がっていくのだが、当時参加した仲間たちにとっては、伝説の大イベントであったわけである。3・11の直前亡くなった仲間の一人であるミー坊は当時高校生で、あのイベントに参加したおかげで人生が変わったと、その晩年のブログ「晴天の霹靂」で告白していた。

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 さて、あれからちょうど40年が経過した。日本の経済も文化も、人も祭りも変化した。今年も、仙台青葉まつりが開催された。今年は30周年記念ということだから、カーニバルの10年後にスタートしたお祭りということになる。

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 山鉾山車も10数台繰り出し、実ににぎやかなものである。毎年ちょうど他のイベントがぶつかって参加したことなど殆どないのだが、今年は愚息が山鉾の一つを引くとかで、親ばか丸出して、ちょこちょこデジカメで撮影してきたというわけである。

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 普段、何気なく見ている日常風景だが、こうして非日常である祭りが街を乗っ取るというのはいい。普段はジャズフェスティバルも、動く七夕も、どこ吹く風と、私はあまり参加したことないのだが、あんまり引っこんでばかりいるのも、もったいないな、と痛感した次第。

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 伊達正宗ゆかりのお祭りということで、鎧かぶと甲冑姿の一団も飛び出すが、これもまた歴史的遺物としては見事なものである。将来は、核弾頭もイージス艦も、昔の遺物として、祭りの出し物程度にだけ顔を出す時代が早く来ればいいな、と思う。

 それにしても、仙台は杜の都であり、その踊りは、伊達藩ゆかりの雀おどりと言われている。1974年当時、そんな文化のことはあまり意識していなかったが、当時の私たちが、自分たちのグループを「雀の森の住人達」と名乗っていたのは、仙台にあっては、なにか運命づけられた必然であったのか、などと思う。昼から生ビールをひっかけながら、人ごみにまみれて祭りに参加しながら、そんなことをちらっと思った。

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2014/05/18

「デザインするテクノロジー」 情報加速社会が挑発する創造性 池田純一

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「デザインするテクノロジー 」情報加速社会が挑発する創造性
池田純一 (著) 2012/10 青土社 単行本: 426ページ
Total No.3240★★★☆☆

 この本、面白くないわけではないようなのだが、どうも結果的には私向きではないようだ。著者の本は、「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」<全球時代>の構想力(2011/03 講談社)を読んだ時から、お、これは、と追っかけ続けているのだが、どうもイカン。

 そもそもが、この人の本は重層的過ぎる。ありていに言えば、横に走り過ぎて、結果的には良くまとまっていない。これは著者自身が意識してそのような書き方をしているということなのだが、どうも私なんぞは未消化で、不良消化を連続して起こす。

 この人には他に「ウェブ文化論」(2013/05新潮社)があり、だいぶ前に目を通したのだが、孫の子守をしながら読むような本ではなく、結果的には、当ブログとしては、目を通したもののメモもしないでページを閉じてしまった一冊だった。

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 実は「ウェブ×・・」も新書本と言いながら、厚さで普通の2冊分、内容では4冊分くらい詰まっており、もうすこし分冊にして、わかりやすく各論的に書いて欲しいと願ったものだが、著者の意図はむしろ逆で、重層的に、輻輳して、統合して、俯瞰しようという試みのようである。しかし、その意図はうまく成功しているであろうか。

 当ブログでいえば、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスの三つの概念で物事や世界を捉えようとしているのであるが、この本のタイトルでいえば、テクノロジーがコンテナに対応し、デザインがコンテンツに対応しているだろう。

 となると、当ブログとしては、じゃぁ、コンシャスネスはどこにあるか、と捜すことになるのだが、どうもそれが、この著者の一連の仕事の中に見つけることは難しい。この文脈だと、テクノロジーがそのものが主体となってデザインを始めているような、逆転劇さえ起きている。主体はどこにあるのか。

 私がこの本を書きなおすとしたら、この二つのテーマの他に、人間や意識、命、存在、などという単語を加えたいと思ってしまうのである。敢えていうなら、そこに「ハート」の一言を加えたい。ハートは人間存在の中心にあるものであり、体を維持し、生活を維持し、精神を維持する中核だと思える。

 だから、せめて「ハートがデザインするテクノロジー」とか「ハート×デザイン×テクノロジー」などという枠組みで書きなおして欲しいと思うのだ。つまり、この本においては、いわゆるここでいうところの「ハート」がすっぽり抜け落ちている。

 テクノロジーが変えるのはあくまでも社会の表層であって、その背後にある人間的なものは変わらない。そう考えていた。最先端の科学技術を扱う彼(クライトン)のテクノスリラーは、見た目に反して、科学技術の安易な礼賛をたしなめるものだった。p389「終幕」

 著者自身もまた、そこんとこを感じているはずなのだが、たしなめられて、それじゃぁハートにもどろう、ハートを重視しよう、という論調になっていないのは、ちょっと困る。

 今回まで、著者の本はしち面倒だ。いずれしっかり再読してやろうと思っていたけど、精読しても、いわゆるハートに届かないのであれば、この本は、結局、当ブログにとっては徒労に終わりそうだな、といよいよ気付きつつあるところである。

 つづく・・・・・・・かも

 

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2014/05/17

「特攻へのレクイエム」 陸上自衛隊音楽隊 

 近くのホールで、自衛隊音楽隊のコンサートがあるとのことでチケットを貰うことになった。集団的自衛権についての論議がかまびすしいこのタイミングで自衛隊か、と思ったが、これも何かのきっかけと思って聴いてきた。

 会場は、老若男女と言いたいところだが、自衛隊員家族会の雰囲気で、地域の年配の方々が(って、私もそのお仲間ですが)、なんと一時間半以上も前から列を作って開場を待ち、やがて2000席ほどの席も満席になった。

 さてさて何が始まるのやらと身構えたものの、二時間の演奏時間はあっと言う間に終り、正直言って、私は、ずっとまなじりが濡れっぱなしだった。

 特に注意はなかったが、コンサートというものは写真撮影も録画も録音もできないものと思い、何もしないで聴いてきたのだが、帰宅して、ネットには沢山の動画があることが分かった。

 驚いたことに、開演して数曲目に「特攻へのレクイエム」という曲が演奏されたのだった。これは、すでにアラ還である私のさらにその上の、会場へ詰めかけた、私の親の世代への「サービス」だったのかもしれないが、実にびっくりした。上のビデオは私が聴いてきた演奏の録画ではないが、まぁ、雰囲気はほとんど似たようなものである。

 ステージの上にいる隊員の方々は、おそらく、指揮者や、司会役の若い隊員、女性隊員を含め、全員、私よりお若いであろう。いやいや、我が家の愚息たちよりさらにお若い方々だっていらっしゃるに違いない。それなのに、おいおい、「貴様とオレとは~~~ 同期の桜~~~」なのか????

 この方々、リアルタイムでは、特攻も、同期の桜も、ご存じないだろう。だってアラ還の私だって、リアルタイムでは何も知らない。子供時代には、ソノシートをプレイヤーで回して聴いたこともあるし、遊び歌で歌っていたかもしれない。しかし、それにしても、その歌は、その当時でさえアナクロだった。

 高校時代に陸上自衛隊駐屯地のフェンスの外側を、デモ隊で戦争反対の行進をしたことがある。それから更に時間は経過して、今から20年前は、何故か、外部から派遣された駐屯地内への心理カウンセラーとして、5年ほど、カウンセラー室の運営に関わったことがある。当時、自殺する隊員が多かったせいだ。

 「特攻へのレクイエム」の中で、隊員がマイクを使って、特攻隊員が残したと思われる短い詩を読む。全文は覚えていないが、何度か繰り返されたフレーズがあった。それは、「キミのために死なん」というようなセリフであった。何度か聴いているうちにそれは、キミと呼びかけているのは、家族や恋人ではないことはすぐ分かった。それは、君=天皇=国家を意味していることに気付かざるをえなかった。

 この曲の他にも、何曲も演奏されて、軽妙な司会役の進行に、何度も笑いに包まれた会場だったが、私は、あの数曲目に流れた「特攻へのレクイエム」を聞いてから、ずっと泣きっぱなしだった。少なくとも、このステージで演奏している若い隊員の方々が、決して、このような軍歌をリアルタイムで歌い、辞世の句を残すような時代にしてはいけない。

 帰宅して、Youtubeを見ると、沢山の楽しい自衛隊の演奏が数々あることが分かった。日本の自衛隊は、戦争もしないで、歌ばっかり歌っていてほしい。みんなを笑いの渦にしてほしい。そして災害の時や、震災の時は、また、私たちを助けて欲しい。

 当ブログにおいては、自衛隊が登場するのは異例だが、ここは私のブログである。まずは、今日感じたことをそのまま書いておこう。

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2014/05/16

「東北は国のまほろば」 日高見国の面影 中津攸子

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「東北は国のまほろば」 日高見国の面影
中津 攸子 (著) 2013/07 時事通信出版局 単行本 230ページ
Total No.3237★★☆☆☆

 人気本である。この本をリクエストしたのが、ことしのお正月。著者の前著「みちのく燦々」―消されていた東北の歴史(2005/11新人物往来社)を読んで、まあまあ面白かったので、こちらも心待ちにしていたのだが、こんなに時間がかかるとは。

 ほんの数人のウェイティングだったので、すぐ来るだろうと思っていたが、ざっと計算してみると、ひとり一ケ月くらいの保持期間になっている。なぜにそんなに時間がかかったのだろう。

 こちらはこの本のテーマの現場である。しかも、この本のテーマに関心を寄せるのは、およそアラ還の私以上の年配の、しかも、歴史マニアが多い、と察せられる。順番の連絡、受け取り、読みだし、読み切り、再読、精読、参照、延滞、返却催促、などなどが繰り返され、1人あたりの本の滞在時間が、大幅に長くなってしまったものと思われる。

 現在進行中の当ブログのテーマもここからは大きくはずれてはいないので、現在この本を読みこむことは可能なのだが、どうもタイミングを失ってしまっている。というのも、そもそもが、この本の性格にもよる。

 日高見国には太古から一筋の(と言っては言い過ぎかもしれませんが)豪族の系譜が受け継がれている、と私は思っています。安倍(もしくは阿倍)氏の存在です。p7(日高見国と中央政権)

 この地に棲む、父も母もアベである私は、生粋のヒタカミの系譜に乗れる可能性もあるのだが、どうも、このような紋切り型の提灯記事は嫌いである。そもそも前著を読んだ時の、著者の論旨の粗さが目についてしかたなかった。こちらに有利になるように「間違って」いるのだが、間違いは間違いである。ひいきのひいき倒しは困る。

 巻末の参考文献の50に上りそうなリストを見ても、実はこの本は、情報のパッチワークであることが分かる。あれこれ面白そうな資料を繋ぎ合わせ、歴史読本の好きそうな読者層に受ければそれでいいのか。

 コンテンツとしてはそれでいいかも知れないが、そのコンテンツからいかにコンシャスネスへと純化し昇華していくか、そこのところの糸口がどうも見えない。なぜなら、それは各人の覚悟と直感的確信が必要だからである。文献をあさっていって見えてきた糸口ではなく、もともと先験的に持っている何か、自分存在としての核心、どうもそこのところが、この本からは見えてこない。

 つまりこの本でなければ分からなかったということは、著者の私見の部分以外、特にない。他の文献にあたれば、同じような表記はある。知のパッチワークである限り、他の文献なり情報が出てくれば、著者の論旨は今後大きく変化していく可能性はある。

 ここまで醒めてしまうと、この本のタイトルだって、あまりイカさない。そもそも、この地にもともと住んでいる人間が、自分たちの場を「東北」などとは言わない。東だの北だのというのは、この地にいない人のいう言葉である。ここはここなのである。

 日高見「国」というのも気に障る。ヒタカミの人々は、「国」という雑念をもっていなかっただろう。日を高く見る、のであって、そこに国の概念はない。少なくとも無定義にクニという言葉を接尾語として使われること自体、私なんぞは寒気がする。

 冷めたピザに怒っている私の姿に、私自身が可笑しくなるが、どうもこの本を読むのはこのタイミングではない。この本は人気本で、私の後にもたくさんのウィエイティングリストが連なっている。あんまり待たせるのも悪いから、私は今回、速攻、次の人に回してやることとする。

 そして、もう誰も読まなくなって、冷めきったあたりに、もう一度、温め直して、食してみることとする。

 つづく・・・と思う。

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2014/05/13

「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇><3>

<2>からつづく

スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇> <3>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 単行本: 191ページ
★★★★★

1955年10月、ビートニックの詩人アレン・ギンズバーグは、ジャズとマリファナに浸りながら「吠える」という詩を書き、消費を煽りつづけるアメリカ政府を批判した。

 彼らは人間をその生き方を基準にして二つのタイプに分けていた。現実の社会のシステムや価値観にかかわって生きている人たちを「スクェア」、社会のシステムや価値観の外側を生きていくことにした自分たちのことを「ヒップスター」と称し、両者を明確に峻別した。

 この「ヒップスター」がのちに「ヒッピー」と呼ばれるようになった。p053赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 ヒッピーの定義が語られる。1955年10月と言えば、私はまだ1歳半だった。そのころすでにこの「運動」は始まっていたのだ。

 ちょっと書きそびれたが、p035にも気になることが書いてあった。

●今回寄稿をお願いした津村喬さんの話では、「宝島」「遊」そして自身が関わっていた「80年代」と、70年代から80年代にかけての有名なサブカルチャー誌が軒並み「WEC(ホール・アース・カタログ)」の影響下に創刊されたというから気にもなるよ。

○先ほど「「POPEYE」のルーツも「WEC」だという話も聞きました。

●パーソナル・コンピューターの歴史とつながってきたりと、いろんなところで、いろんな人が「WEC」の影響を反している。だけど、みんなそれぞれ「WEC」のある部分を語っているようで、全体をうまく説明してくれる人が見つからなかった。だから自分たちで「WEC」を総括してみようと思ったわけ。

○アメリカのメディア・コミュニケーションの専門家・池田純一さんが「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」(講談社現代新書・2011)という本が、比較的わかりやすく「WEC」の通史を書いていましたね。

●「サイバーピア」(日本放送協会・2009)も参考になると思う。ジェイムズ・ハーキンというウェブジャーナリストが1章をさいて「WEC」のことを振り返っている。ソーシャルメディアの中の位置づけとして書いているね。p035「In The Biginning」

 「サイバーピア」は知らなかったが、池田純一「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」については、当ブログでもこの二年来読み込み中である。そして他の二冊の著書とともに、全体を俯瞰しているところである。

 ところで、理想世界を目指したコミューンのヒッピーたちはその後どうしたのだろう?
 彼らは自分らしさを回復するために田舎にコミューンをつくり、生活そのものの根底を問い直した。
 しかし、その継続は思いのほか大変だったようで、彼らの大半は数年を待たずに、コミューンから都会に戻ってきたようだ。
p059赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 こう括られてしまえば、まぁ、そうとも言えるが、当然生き残ったコミューンもあったし、都会にUターンしたヒッピーも少なくなかっただろう。だが、IターンやJターンという形で、脱都会の生活に根差したライフスタイルを確立した元コミューンメンバーも多くいたことを忘れてはいけない。

 日本にも「ホール・アース」のムーブメントは伝わってきた。しかし「カタログ」とひと口にいっても、当然アメリカとは時代背景、社会背景がまるで異なるものだった。日本ではアメリカのように若者がどこかの戦場で命を落としていたわけではなく、経済大国を目指して消費に走りだしていた時代だった。だから「ホール・アース」の消費社会を批判するという問題意識は、「宝島」(全都市カタログ)」以外の雑誌はほとんどが無視し、または頭から理解されず、誌面に取り入れられたのカタログの雰囲気だけだった。

 日本におけるカタログ出版の流行は、「文化」にまで高められず、「買い物ガイド」に過ぎなかったという批判もある。p61赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 この総括も、まぁ、当たらずとも遠からずだが、参戦国ではなかったにせよ、日本もまたベトナム戦争の中での協力国でもあった。1972年夏に18歳で沖縄に旅した私は、決して私たちは戦無派ではないことを痛感した。

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 また、安保条約をめぐる政治闘争や成田空港の建設にまつわる地域闘争などの中では、別な意味においての生死をかけた戦いが進行していたのは周知の事実である。日本のカウンターカルチャーといえども、坊やがハイハイしているような、お遊びごっこではなかった。

 「宝島」の「全都市カタログ」(JICC出版局 1976/04)には、私たちの「コミューン」がつくったミニコミ「雑誌」も収容されているので、あまり悪くも言いたくないが、このカタログだって、私たちから見れば、ちょっと甘いものだった。そもそも当時の「宝島」は「シティー・ボーイ」路線である。私たち、少なくとも私は、その言葉に違和感を感じ、即座に、オレ達は、カントリー・ボーイ路線だ、と思ったものである。

 スチュアート・ブランドその人がそうであったように、変なカリスマになったり、特段にベストセラーになることが、いわゆるカウンターカルチャーの「ヒッピー」たちにとっては勲章ではなかった。だから、日本には根づかず、「文化」まで高められなかった、とするのは、目のつけどころが悪いわけであり、実は、軽薄で流動的なマスメディアの関心をよそに、確実に、この日本においても根づいてきたカウンター「文化」はあるのである。それを見落としてもらっては困る。

 2005年、「ホール・アース・カタログ」はふたたび脚光を浴びることになる。当時アップル社のCEOスティーブ・ジョブズが講演の中で、このカタログを熱く語ったのだ。p63赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 このプロセスについては、当ブログにおいても、ジョブズ追っかけの方面から、何度も触れてきている。このスティーブ・ジョブズと、スチュアート・ブランドのもたれあいについて、はて、どっちがどう大地に足をつけているのかを見極めることが大切である。

 2011年、「地球の論点 現実的な環境主義者のマニフェスト」という翻訳書が日本で出た。ブランドの近著である。気候変動、地球温暖化問題に対する現実的な解決方法を数々のマニフェストとして提唱した内容で、一種「文字による『ホール・アース・カタログ』」といったおもむきがある。

 同書でブランドは、原子力推進に関して肯定的に書いており、かつての『ホール・アース・カタログ』のファンたちを仰天させた。p63赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 このボールド体で転写した部分がこの赤田祐一という人の文章のエンディングである。これで終わっている。当ブログは、今、ここからスタートしようとしている。仰天したままでいいのか。これは、腰をすえて、検討していかなければならない。

<4>につづく

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