カテゴリー「15)さすらいの夏休み」の86件の記事

2014/10/31

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<52>「さすらいの夏休み」カテゴリについて

<51>よりつづく 

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<52>「さすらいの夏休み」カテゴリについて

 そもそもは、石川裕人蔵書市で買い求めた100冊以上の本をもとに、そこから派生した思いを彼の戯曲「時の葦舟」の終章「さすらいの夏休み」にまとめてみよう、という意図だった。時節もちょうど、夏休みにかかるあたりだった。

 ところが実際にスタートしてみれば、私自身の夏休みは、福一から24キロの福島県双葉郡にある、懐かしい獏原人コミューンにおける「満月祭」から、新たなる展開をし始めた。二泊三日の短い滞在ではあったが、そこでのリアルな出会いや、昔ながらの共同性が動きだしたのである。

 具体的には、3・11大震災の直後に停止していたエコビレッジ構想が、ふたたび動き出したということだ。停止していたというより、伏流水のような形で、地下で進行していたものが、ふたたび地上に沸き上がってきたようなイメージである。

 書かれたのは2014/07/29から2014/10/30までの、およそ三か月間。私の夏休みは10月一杯続いていた、ということである。

 「再読したいこのカテゴリこの三冊」は次のとおり。

「NO NUKES ONE LOVE」-いのちの祭り’88Jamming book 
ONE LOVE Jamming(著) 1990/07 プラサード書店 星雲社単行本: 173ページ

「満月祭」2013年 獏原人村  in フクシマ ~地球は1つの共同体だ~
小林志夫・監督・撮影・写真・編集 出演・大友映男・風見正博・他 2014/06/20 ルーナル工房 DVD2枚組 82分 パンフレット44P付き

「バックパッカーズ読本」保存版
旅行情報研究会(著), 『格安航空券ガイド』編集部(著) 2014/7 双葉社 単行本 288ページ

 次なるカテゴリ名は、「Yah Man Osho」にしようと思っていたのだが、ここに来て、「時の葦舟」三部作の第一章「絆の都」をカテゴリ名にしないできたことが、どうも気になってきた。戯曲は、未来編、過去編、現在編と展開するのだが、当ブログのカテゴリ名の登場順で言えば、過去編、現在編、未来編となる。まぁ、それもよからん。

 意味的にも、わたし的には、「Yah Man Osho」=「絆の都」なのだから、これもいい。裏表の関係にある。したがって、カテゴリ名は「絆の都」とする。うら意味で「Yah Man Osho」を入れておく。

<53>につづく

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2014/10/30

再読したいこのカテゴリこの3冊「さすらいの夏休み」編

前よりつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊

「さすらいの夏休み」

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「NO NUKES ONE LOVE」いのちの祭り’88Jamming book 
ONE LOVE Jamming(著) 1990/07 プラサード書店 星雲社単行本: 173ページ

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「満月祭」2013年 獏原人村  in フクシマ ~地球は1つの共同体だ~
小林志夫・監督・撮影・写真・編集 出演・大友映男・風見正博・他 2014/06/20 ルーナル工房 DVD2枚組 82分 パンフレット44P付き

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「バックパッカーズ読本」保存版
旅行情報研究会(著), 『格安航空券ガイド』編集部(著) 2014/7 双葉社 単行本 288ページ

後ろにつづく

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2014/10/28

「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る<11>

<10>よりつづく 
 

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「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <11>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

第一番目---「自己に対する知覚は起こらない」
これら四つの言葉は理解されなければならない
それはほとんど同義的、ただし「ほとんど」だ
self(自己、自我)
being(生けるもの、存在者)
soul(魂)
person(個人)
辞書のなかではこれらはほとんど同じだ
しかし仏陀はこれらにちがう色合いを与える
そしてこれらはちがう色合い、わずかなちがいを持っている
 

第一にselfは自我(エゴ)を意味する
自分を構成する五要素から切り離されてある、「私の」「私のもの」「私」を意味する
人間は五つの要素から構成されている
ただその五つの組み合わせにすぎない
その五つをばらばらにすれば、人間は消える
 

仏陀はその五つの要素よりほかには何も存在しないと言う
それはちょうど馬車のようなものだ
あなたは馬車の構成部分をばらばらにする
車輪を取り、馬を取り、その他のものもすべて取り払う
そうすると最後には、馬車がどこにあるか知りたくてもその馬車は消えている
それは馬車がそういう部分の組み合わせにすぎなかったからだ
 

これは仏陀の最大の洞察のひとつだ
ほかのどんな宗教もその高みまで行っていない
ほかの宗教はすべて、何かしらの「自己」「自我(エゴ)」という観念で止まってしまっている
どんなに洗練され、どんなに神聖で、どんなに美徳があるとしても
まだ何がしかの自我観念が残っている
あなたはそれを「自己」とか「魂」とか「真我(アートマン)」とか呼ぶ
それを何と呼ぼうと問題ではない
仏陀は、それについては
あなたの最も深い核心は空で構成されていることについては、非常にはっきりしている
そこには自我(エゴ)はいっさいない
 

「私」という言葉は便宜的なものにすぎない
それはどんなに現実にも一致しない
それは必要なものだ
仏陀でさえそれをつかう
それは意志伝達する手段としてはいい
それは指摘するが、そんな現実にも一致しない
だから第一の「自己」は、「私は構成要素から分離している」ということを意味する
仏陀は、あなたは存在しない、そこに存在するのは構成要素だけだ、と言う
あなたは全き<虚空>だ
 

第二はa beingだ
beingとは、「個」を意味する
つまり「異なる時間に自分を同じものだとみなす観念」を意味する
あなたは言う
「私はかつて子供だった
いま、私は若者だ
そしてやがて私は老人になるだろう」
あなたは自分が継続するものであるかのような観念をもっている
自分はかつて子供で、次に若者になったが、自分は同じままだ
これから年老いてゆくだろうが、自分は同じままだ、という観念を---
だが仏陀は、一瞬一瞬あなたは変化している、と言う

彼は完全にヘラクレイトスに同意する
あなたは二度と同じ川に足を踏み入れることはできない
川は流れつづける
子供であったときあなたはちがう個人であったし、いまのあなたは別の個人だ
年をとればあなたはまた別の個人になる
実際のところ、毎日あなたはちがっている
一瞬一瞬あなたはちがっている
 

「私は同じだ」というこの観念はなぜ持続するのだろう?
それが持続するのは、変化はごく微妙だがあなたの視覚はそれほど微妙でないからだ
それはちょうど夜に蝋燭をともすようなものだ
それは一晩中燃えるが、朝になるとあなたはそれを吹き消して言う
「私がいま吹き消している炎は同じ炎だ
そうではない
炎はたえず変化し、一瞬一瞬、消えては、新しい炎が生まれている
だが、二つの炎の間隔
一つが消えもう一つが生じるその隙間はあまりにも微妙で小さいのであなたには見えない
だから「個」、「存在者」というこの観念が持続する

仏陀は、生は過程だ、生は物のようではないと言う
それはたえまない動きだ
生は川だ
仏陀は言う
現実に忠実でありたければ、人は言語からすべての名詞を落とすべきだ、と
ただ動詞だけが真実だ
「川」は真実ではなく「川している」が真実だ
「木」は真実ではなく「木している」が真実だ
「愛」は真実ではなく「愛している」が真実だ
生は名詞からではなく動詞から成り立っている
 

次に第三のものはsoulだ
肉体の中に住んでいる超越的な力という観念
ほかのあらゆるものから分離し、統一や生気を与える力という観念だ
それもまた、仏陀は「超越的な力」もまた存在しないと言う
あなたの内側に住んでいるものは何もない
あなたが家で、その家のなかに主人や住人がいるというわけではない
内側に住むのはただ純粋な<無>だけだ
 

そして第四はperson、存在するという観念だ
何度も生まれ変わり、転生する永遠不変の実体への信仰だ
これを仏陀は「個人person」と呼ぶ
あなたは死ぬ、そしてあなたの「個人」はただちにほかの子宮の中に生まれる
そこは継続性はあるが「個人」はない
継続するがそこには「自己」はない
継続はするがそこには「個」はない
継続はするがそこには「魂」はない
 

仏陀のこのヴィジョンはあまりにも独特だから
この国でさえ、これほど宗教的なインドでさえ、それをのみこむことができなかった
まるで仏陀が宗教の土台全部を破壊しようと決めてしまったかのように感じられたのだ
彼はまったく新しいヴィジョンを与えていた
魂、自己などという普通の観念よりもはるかに高いヴィジョンを---
なぜならそういう観念のなかに、あなたの自我(エゴ)はかたちを変えて隠れつづけるからだ
それらは、自我(エゴ)が存在し、生き存(なが)らえてゆくための道にほかならない
仏陀は言う
 

   それは何故か?
   スブーティよ
   これらの菩薩たちには
   自己に対する知覚は起こらないからだ

人が内側に向きを変えたとき
あなたの意識が内側に転じて、あなた自身の存在をのぞきこんだとき
そこには何も見つからない
 

   自己に対する知覚は起こらない
   生けるものに対する知覚は起こらない
   魂に対する知覚は起こらない
   個人に対する知覚は起こらない

これら四つのものはただちに溶け去る
 

   またこれらの菩薩たちには
   法(ダルマ)に対する知覚は起こらない

法(ダルマ)とは生における肯定的な要素を意味する
非法(ノーダルマ)とは生における否定的な要素を意味する
肯定性と否定性---
仏陀は、それらでさえ真実ではなく消えてゆくものだ、と言う
ダルマに対する知覚は起こらない
あなたは内側で肯定的な現実には出会わない
あなたは内側で否定的な現実にも出会わない
あなたが出会うのはただ全面的な<無>だ
 

そして憶えておきなさい
その<無>は、非現実、否定性と同義に考えられるべきではない
<無>とは、たんに肯定的でも否定的でもないということだ
両方とも消えている、そこにあの二元性はもうない
それは完全な沈黙だ
何も見つからず、あなた自身さえ見つからず、あなたは自由になっている
あなたが自由になるのではない、あなた自身から自由になるのだ
ほかの人たちが自由のことを話すとき
彼らはいつも「あなたがそこにいて、自由だ」ということを意味している
仏陀が自由について語るとき彼は言う
あなたは排除される、あなたはそこにいなくなる---と
どうしてあなたが自由のなかにありえよう?
もしあなたが自由のなかにあれば一種の監禁がある
あなたがその監禁だ
あなたが自由になることはできない
あなたがいないとき、自由がある
あなたがあるとき、自由はない
 

そして第七番目、非知覚---
そこに見る対象が何もないとき
どうやって「それは知覚だ」ということを見ることができよう?
自己もなく、肯定性もなく、否定性もない
見るべきものは何もない
見るべきものが何もないときには
「ある知覚が起こった」ということを見ることはできない
知覚は知覚すべき何かを必要とする
だから第七番目のことは、知覚はいっさいない、ということだ
だがそうなったら、あなたは「では非知覚はあるのか?」と言いかねない
仏陀は言う
見る者も見るべき物もないとき、どうして非知覚がありえよう?
彼は自我(エゴ)のあらゆる根、自我(エゴ)のあらゆる微妙な在り方を破壊している
 

これらが八つの障害物だ
これらがことごとく消えたとき、人はボーディサットヴァだ
 p290 OSHO 「<光明>の味」

<12>につづく

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2014/10/27

「おとなのiPhone 」一目置かれる使いこなし術 高橋 浩子<1>

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「おとなのiPhone」 一目置かれる使いこなし術 <1>
高橋 浩子(著), パソカレッジ(監修) 2014/5 技術評論社 単行本(ソフトカバー): 208ページTotal No.3333★★★★★

 私ぁ何も、一目置かれる必要はないけれど、訳あってiPhoneにしようと思う。この本、別にまだ読んでもいないが、Kindleのサンプルでざっと見る限りいいではないか、と思う。同じような本で、大人のためのiPhone」(2010/09日経BP)という本もあるが、Kindle版もないし、発行が4年も前だ。

 別にスマホは初めてではない。すでにアンドロイドを2台使って、いまはiPadを必要に迫られて使っている。だから、本当はズブの初心者ではない。私は正直言って、今のガラケー+モバイルルーター+タブレット、という環境に、別に不足は感じていないのである。

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 しかるにである。ここで問題がでてきた。一つは、モバイルルーターという奴が、二年縛りで更新月が近付いていること。この縛りという仕組みはズルイと思うのだが、ようやく二年縛りが終わって安くなるもんだと思っていたら、実は、逆に高くなるという。おいおい!。その差額、月にして1500円! ええ、冗談でしょう・・?

 二つ目は、モバイルルーターの通信可能エリアの問題である。現在の私の行動範囲であれば、すでにLTEと3Gでカバーされていて、特に問題はなかったのであるが、ここに来て「山の椒」エコビレッジにいくことが多くなり、このエリアがどうも電波が網羅されていないのである。

 聞くところによれば、一部に電磁波過敏症というデリケートな人々もいるらしいので、そういう人たちにとっては山の椒みたいな森の中は、むしろオアシスかもしれない。だが、私は現在そういう症状は発症していないので、ネットが繋がってくれるほうが優先する。

 であるなら、と、山の椒に固定有線回線を張って、WiFi電波を飛ばすこと考えてみたが、こちらは1ギガ何とかとかいう最新最速の環境は作れるらしいが、月々の使用料が別途かかる上に、4万坪の森をすべて網羅してくれるということはなさそうなのである。

 そこで、モバイルルーター各社のデモ機を借りたり、山の椒に来てくれた友人たちの環境を聞いてみているうちに、結局私はiPhone6plus + docomoという選択をしたのである。

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 大人の、と言う限りは、回線はdocomoでしょうw。私は一貫して13年間docomoユーザーだった。iPhoneを使いたいために他社にNMPするなんて浮気者ではない(爆) 地域格差はあるだろうが、山の椒はdocomoと相性は悪くなさそうだ。

 機種は最新のiPhone6の、さらにplusを選ぶことにした。画面が大きいのはいい。もともとディスプレイは4インチ、5インチのアンドロイドを使っていたのだが、6plusは5.5インチを選ぶことにした。老眼鏡族の友人たちも、そこまで大きくなくていいだろう、というが、いやぁ、タブレットに慣れてしまった私の目には大きいほうがいい。そしてポケットに入る程度に収まってくれる必要もある。

 容量は64G。タブレットは16Gの最小のものだったが、やはりアプリや動画を入れるとすぐ一杯になる。他の端末を持ち歩かずにiPhone一本だったら、多いにこしたことはないだろう。色など、なんでも良かったのだが、スペースグレイが一番人気で一番品薄だというから、これにした(笑)。

 いろいろシュミレーションしてもらったが、私の場合は、上の三つの機種を持ち歩くより、このiPhone一個を持ち歩いて不足ないなら、これはベストである。しかも、こちらのほうが経費が安くつく。タブレットやパソコンは必要であれば、テザリングして繋げばいいだろう。

回線の使用容量の問題もある。とりあえず月2G+1G(サービス)=3Gの予定。自宅では自宅WiFiを使うので問題なし。

外出時にどれだけ使うかは、やってみないと分からない。オーバーするようであれば4G+1G(サービス)=5G/月に変更の予定。

料金は1500円アップになるらしいが、ユーザー歴10年以上だと500円/月割引になって結果1000円アップにとどまる。

更には2年後には機種代がなくなるので月1500円安くなるので、この組み合わせだと、むこう4年間は大丈夫かな。

2年後、4年後にはどうなっているか、経過してみないと分からない世界だが。

 とまぁ、ここまでが、今日のところの皮算用である。すでに予約したので、あと数週間内には入荷するそうだ。計算どおり、うまくいくかな・・・・・。

<2>につづく

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石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<15>

<14>よりつづく

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「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<15>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
★★★★★

 早いもので「さすらいの夏休み」カテゴリも、まとめ部分を除けば、あと4つの記事で終了である。ましてや次のカテゴリ名「YAH MAN OSHO」を見つけてしまった後は、すでに次のステップへと小走りになってしまっている。

 だがしかし、ここはグッと留まって、現在のカテゴリをとりあえず終了させる作業の方を優先させよう。そこで、あと4つ。何をどう書こうと逡巡していて、この本をまた思い出した。そうそう、この本がベースにあったのだ。

 ニュートンの戯曲にあずかり、当ブログではカテゴリ名を「時の葦舟」、「無穹のアリア」、「さすらいの夏休み」と名付けてきた。「時の葦舟」では、3・11における飯沼勇義史観をベースにした。「無窮のアリア」では、ホツマツタエがベースになってはいたが、次第に我らが時代のカウンターカルチャーの歴史に移行していった。

 そして「さすらいの夏休み」は、獏原人から、やがては山の椒へと移行し、ついにまたOSHOに戻る、という図式になった。

 はてはて、これはこれで構わないのだが、「時の葦舟」は全体のタイトルだし、三部作というかぎり、あともう一つのタイトルはなんだっけ? と見直して、そもそもはこの本は「絆の都」からスタートしていたのだ、ということに、ようやく気付いた。

 当ブログとしては、明記しなかったものの、「時の葦舟」カテゴリが始まった時点で、実際には「絆の都」は始まっていたことになるので、これはこれで、完結したことにして構わない。

 しかし、「YAH MAN OSHO」の意味合いは、実は「絆の都」とかなりオーバーラップしているのである。だから、「YA~」を引っ込めて、「絆~」を次のカテゴリ名にすることも可能ではある。しかしそれはやめておこう。

 意味的には「YA~」は「絆~」と同等である。だから表の表記は「YA~」にしておいて、裏意味に「絆~」をしっかり仕込んでおこう。

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2014/10/26

「For the Children 子どもたちのために」 ゲーリー・スナイダー<10>

<9>からつづく

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「For the Children 子どもたちのために」<10>
ゲーリー・スナイダー (著),  山里 勝己 (編集, 翻訳), 高野 建三 (写真) 2013/04 新泉社 単行本: 143p

 再定住者(Reinhabitory)

 リインハビトリー --- 再定住者とは、(800年間続いた文明の果実を集約したか、あるいは浪費しただけの)工業社会を離れ、再び土地に回帰し、場所に戻っていく小数の人たちを指す言葉である。

 この中には、すべての存在の相互依存性と地球の限界を合理的かつ科学的に認識した上で行動している者もいる。

 しかしながら、ひとつの場所にコミットし、さらにはその場所に凝縮している日光と緑の植物のエネルギーを活用しながら生活していくことは、肉体的にも知的にもひどく厳しく、それゆえ、これは倫理的・精神的な選択であるともいえる。

 惑星間空間での運命とのランデブーが人類を待ち受けていると予言した人たちもいる。なるほどそれはそうかもしれない-----。しかし、我々はすでに宇宙空間を旅しているのである。まさに、ここが、銀河系なのだから。

 何千年にもわたって、自らの知識と体験で直接に自分の内と外、宇宙を観察した者たちの持つ知恵と技術を我々は「オールド・ウェイ----古い道」と呼ぼう。

 将来にわたってこのようなことを学び続け、人間が太陽と緑で生きる地球を想像する者は、あらゆる科学、想像力、力、政治的技巧を用いて定住する人びと---世界の先住民や農民---を支持する以外に選択は残されていない。

 彼らとの共同戦線を張りながら、我々は「リインハビトリー --- 再定住者」になるのである。それから、我々は「オールド・ウェイ---古い道」を少しづつ学び始める。それは、歴史の外にあるもの、永遠に新しいものなのである。

 「再定住」『惑星の未来を創造する者たちへ』より p20

<11>につづく

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「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る<10>

<9>よりつづく

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「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <10>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

ブッダがダンマの車輪を転じたら
それが完全に止まるには二千五百年かかる
それは五百年ごとに勢いを失いつづける
したがって、それらがダンマの五つ時期になる
五百年経つごとに、ダンマはだんだん衰え、だんだん減じてゆく
そして二十五世紀後には、その車輪はもとのように止まる
それをさらに次の二十五世紀まわすためには、もうひとりのブッダが必要だ
これはまれな現象だ
スブーティが仏陀に訊ねたのはほんとうに興味深いことだ

 

    「未来の世に
    最後の時に
    最後の代に
    最後の五百年代に
    良い教えが滅びる頃になって
    この経典の言葉が説かれるとき
    その真理を理解する者たちが誰かいるでしょうか?」

    世尊は答えて言われた
    「スブーティよ
    そのように言ってはならない
    そうだ その時代でも
    この経典の言葉が説かれるとき
    その真理を理解する者たちがいるであろう
    なぜなら
    その時代でさえも スブーティよ
    菩薩(ボーディサットヴァ)たちはいるからだ
    そしてその菩薩たちは スブーティよ
    ただ一人の覚者(ブッダ)を敬った者たちではなく
    ただひとりの覚者の許で善根を植えた者たちでもない
    それどころか スブーティよ
    この経典の言葉が説かれるとき
    たとえ一念だけでも
    静かに澄んだ<信>を得る菩薩たちは
    何十万という多くの覚者たちを敬い
    何十万という多くの覚者たちの許で
    善根を植えてきた者たちなのだ
    彼らは スブーティよ
    仏智によって如来に知られている
    彼らは スブーティよ
    仏眼によって如来に見られている
    彼らは スブーティよ
    完全に如来に知られている
    そして彼らはすべて スブーティよ
    測り知れない 数えきれない功徳を積むであろう」

 

仏陀はあなた方のことについて語っている
この経典はあなた方に向かって読まれている
二十五世紀が過ぎた
スブーティはあなた方のことについて訊ねていたのだ

先日、私はあなた方に言った
「あなた方の多くはボーディサットヴァになる
あなた方の多くはその途上にいる」
スブーティがこういう質問をしたというのは不思議なことだ
そしてもっと不思議なのは仏陀がこう答えていることだ
「その二十五世紀後の人々はおまえより不運ではない
むしろ、お前より幸運だ」

なぜか?
私は何度もこう言ってきた
あなた方はいにしえの者たちだ
あなた方は何度も何度もこの地上を歩いてきた
あなた方がダンマを聴くのはこれが初めてではない
あなた方は過去生において多くのブッダたちに巡り会ってきている
あるときはクリシュナのような人だったかもしれない
あるときはキリストのような人だったかもしれない
あるときはマハヴィーラのような人だったかもしれない
あるときはマホメットのような人だったかもしれない
だが、あなた方は多くのブッダたち、多くの光明を得た者たちに出会ってきた

あなた方はこれほど多くのブッダたちを知って幸運だ
あなた方がもう少し敏感になったら
過去のブッダたちによってあなた方のなかに播かれたすべての種が
芽を出し、開花しはじめる
あなた方は花咲きはじめる-------
p182「ダンマの車輪」

<11>につづく

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2014/10/25

「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る<9>

<8>よりつづく

Daiyamondo_3 
「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <9>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

 世尊は言われた
  「もしだれか菩薩(ボーディサットヴァ)が
  『私は調和ある仏国土(ブッダフィールド)を創造する』と言うなら
  彼は虚言を弄することになる
  何故か?
  『仏国土の調和』とは、スブーティよ
  如来によって無調和として説かれているからだ
  それだからこそ如来は『調和ある仏国土』のことを語った」

さて、理解するがいい
誰かが「私は仏国土(ブッダフィールド)を造り出す」と言い、その強調が「私」にあったら
そのときには、その言辞は偽りだ
まだ「私」が生きている人間はブッダフィールドを創り出すことはできないからだ
自分の中に「私」がまったくない人間だけがブッダフィールドを創り出すことができる
実際のところ、そうなったら「彼が創り出す」というのも正しくない
言葉は不十分なものだ 
 p561「第9章 浄土楽園」

 現在走っているカテゴリ「さすらいの夏休み」も、あと残すところ10個ほどの記事を書けば終了となる。そもそもは、わが竹馬の友・石川裕人(ニュートン)の戯曲から借りた名前だったが、福島双葉郡の獏原人村「満月祭」に参加したあたりから、当ブログは、夏休みをずっとさまよっていたようだ。

 ふと気付いてみれば、夏休みどころか、季節は移ろい、まもなく街にはクリスマスソングが流れる頃となっている。

 さて次なるカテゴリ名をどうしようか、と考え、しぜん菜園・山の椒にちなんで、「YAH MAN OSHO」とすることになった。山の椒YAMONOSHO)のアナグラムである。YAH MANは、レゲーシンガー三宅洋平などが多用するところの、掛け声の一つである。OSHOは、言わずと知れた、私たちの時代のエンライトしたマスターである。

 場合によってはYAH MANはYahoo!と同義であろう。

 さて次なるカテゴリを「YAH MAN OSHO」とした場合、どの本からスタートしようかな、と考えた。石川裕人蔵書市で求めた本は100冊にのぼり、まだまだメモすることはある。しかし、いつになったら終わるかわからない、それこそ「さすらい」の旅になりそうである。

 もしこの「さすらいの夏休み」に終止符を打つとしたら、結局は最初の一冊、「ダイヤモンドスートラ」しかないだろう。これはニュートンからの私へのプレゼントなのである。今、あらためて、ニュートンが蔵書していた本でOSHOを読む。

 それは私が読むのか、彼が読むのか。

世尊は言われた
  「もしだれか菩薩(ボーディサットヴァ)が
  『私は調和ある仏国土(ブッダフィールド)を創造する』と言うなら
  彼は虚言を弄することになる
  何故か?
  『仏国土の調和』とは、スブーティよ
  如来によって無調和として説かれているからだ
  それだからこそ如来は『調和ある仏国土』のことを語った」

 スペースを求め、そこを切り拓いた者が「私」を離れる時、ブッタフィールドは立ち上がる。

 企画を構想して、実現する場を探し求めてきた者が「私」を離れる時、ブッダフィールドが立ち上がる。

 そのリアリティに立ち会いたいと、さまよってきた者が「私」を離れる時、ブッダフィールドは立ち上がる。

世尊は言われた
  「もしだれか菩薩(ボーディサットヴァ)が
  『私は調和ある仏国土(ブッダフィールド)を創造する』と言うなら
  彼は虚言を弄することになる
  何故か?
  『仏国土の調和』とは、スブーティよ
  如来によって無調和として説かれているからだ
  それだからこそ如来は『調和ある仏国土』のことを語った」

 何はともあれ、「さすらいの夏休み」を終息させよう。そうすれば、おのずと「YAH MAN OSHO」は立ち上がるだろう。

さて、理解するがいい
誰かが「私は仏国土(ブッダフィールド)を造り出す」と言い、その強調が「私」にあったら
そのときには、その言辞は偽りだ
まだ「私」が生きている人間はブッダフィールドを創り出すことはできないからだ
自分の中に「私」がまったくない人間だけがブッダフィールドを創り出すことができる
実際のところ、そうなったら「彼が創り出す」というのも正しくない
言葉は不十分なものだ 
 p561「第9章 浄土楽園」

<10>につづく

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2014/10/24

今日の気分はこの3冊<7>エコビレッジ、サンショウ、パーマカルチャー

<6>からつづく

今日の気分はこの3冊<7> エコビレッジ、サンショウ、パーマカルチャー、

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「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア
ジョナサン・ドーソン/緒方俊雄他  2010/09 日本経済評論社

 この本もまた素晴らしい。エコビレッジに言及している良書は少ない。とてもコンパクトではあるが、「持続可能性の新しいフロンティア」としてのエコビレッジを、学術的にも正確におさえている。

 邦訳は3・11大震災直前の2010/09にでているが、原書は2006発行である。素晴らしい内容については、もうすでに当ブログとしては抜き書きが完了している。このような本がもっと読まれ、共感している人々にもっと出会ってみたいものだ。

 持続可能性の文化を語る前に、それを可能とするスペースの問題がある。夢が夢として終わることが多い中、今、その可能性のあるスペースに立ち会うことができるのは大変ありがたいことだ。

「パーマカルチャー菜園入門」自然のしくみをいかす家庭菜園
設楽清和 2010/08 家の光協会

 パーマカルチャーについての良書も決して多くない。本家の「パーマカルチャー」 農的暮らしの永久デザイン(ビル・モリソン 他 1993/09 農山漁村文化協会)が素晴らしいのは当然としても、発行年代からすると、すこし古い。

 偶然ではあるが、こちらの「菜園入門」は、「世界のエコビレッジ」とほぼ同時に発行されている。3・11大震災の半年前に発行されているのだが、もしあの大災害がなかったとしたら、もっと、これらのムーブメントは進行しただろうか。それとも、3・11があったがゆえに、これらの価値が更に重くなった、と言えるだろうか。

 言葉は目新しいが、その内容は、日本人の、ましてや東北の農家で生まれ育った身になってみれば、決して新しいものではない。ちょっと前までの日本の風景は、このようなものであったはずである。しかし、であるがゆえに、TPP問題を出すまでもなく、日本の農業はすでに「終わって」いる。ゆえに、いまあらためて「パーマカルチャー」を考えることは、極めて有効だ。

「サンショウ」 実・花・木ノ芽の安定多収栽培と加工利用 新特産シリーズ
内藤一夫 2004/04 農山漁村文化協会

 エコビレッジでパーマカルチャーをしよう、というキャッチフレーズに、リアリティをもたらすのはサンショウの木の繁る、しぜん菜園「山の椒」である。この二つの理想に橋をかける具体例として、その地に誘われたのは、すでに4年前のことであった。
 
 その準備に取り掛かった、まさにその時、私たちは3・11大震災に遭遇した。そのことは、このプロジェクトの進行に大きな影響を与えた。それまであったプロジェクトさえ一部中止に追い込まれたし、いたずらに時間ばかりが過ぎてしまった。

 しかし、ある意味では、それは私たちの行く手に、重みと新たなる深い意義を与えてくれた。さらにこの現実を超えて、新たなるリアリティへと歩んでいこう、そういう力を与えてくれる。サンショウ小粒でピリリと辛い。山の椒エコビレッジは、持続可能性の新しいフロンティアとして自立できるだろうか。

<8>につづく

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「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア ジョナサン・ドーソン<4>

<3>よりつづく

【送料無料】世界のエコビレッジ
「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア<4>
ジョナサン・ドーソン/緒方俊雄他 日本経済評論社 2010/09 単行本 145p より抜粋
★★★★★

 最近、ごく近くに「エコビレッジ」を標榜する会社ができた。名称から推測するに建築業、あるいは住宅ハウスメーカーである。

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 おそらく、関係はないだろうが、ずっと気になっているので、突撃取材を試みることにした。対応してくれたのは、若き技術者とも見える営業マン。この「世界のエコビレッジ」の表紙を見せながら、「何か関係ありますか?」と、ダメモトの質問してみる。

 両手を振りながら、あーそれは全然関係ありません、とのことだった。だろうね。だけどまた、どうしてこの会社名をつけたのだろう? と疑問をぶつけてみたら、あ~、それは社長がつけまして~、ということだった。

 特段に、この本でいうところのエコビレッジとは違って、そもそもが高断熱高気密といったエコハウス中心の住宅が得意で、まぁ、自分の会社で作ったハウスで村ができたらいいな、くらいの意味であろう、と推測した。

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 そもそもは福島県内にあった住宅メーカーらしいが、新しいマーケットを求めて次第に北上してきたようだ。何はともあれ、このようなネーミングが一般的になっているのだなぁ、とあらためて感心した。

 すぐ近くの住宅展示場にモデルハウスもあって、そういえば2年前くらいに、そちらもお邪魔して、内覧させてもらっているのだった。ソーラーシステムを標準装備していたり、天井を高くして空気の循環を考えたり、壁の材質をどうとか、いろいろ説明を受けたが、基本、よくある住宅メーカーのひとつ、ということであろう。(応対してくださった方々ありがとうございます)

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