<1>よりつづく
「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 <2>
石川裕人ブログ 石川裕人年表
★★★★★
1)洪洋社時代の主要メンバーである友人から他の用事で電話がきた。どうも気になるので、確認してみた。
2)劇団員の中に一人どういうわけか反対する人間がいた。ほぼ旗揚げメンバーである。当時は合議制で上演作を決定していたから一人の反対者が出れば上演できなかった。(第五回 地下に潜る)
3)この「反対する一人」とは誰かと聞いてみたのである。その友人もすでに記憶がさだかでなくなってはいたが、いつもいつも「反対する」という特定の人物はいなかっただろう、ということだ。全体が合議性だったので、結論を得ようとすると、最後の最後の一人まで賛成を取り付けることは難しかった、という意味だろう、ということだった。納得した。ほぼ全員が旗揚げメンバーだったので、みんなが云いたい放題云える雰囲気だったんだろう。そして、最終的にまとまればよかったのだけど、まとまらなかった。
4)それと洪洋社時代に公演された「バック・ザ・ビギン」の作者はギャンガマガマ(どういう字を書くのかあとでしらべよう)=かまちゃんだった、ということだ。この時のパンフレットなども、当時私が勤めていた印刷会社で、私がリデザインして、私がオフセット印刷機を回して印刷したらしい。そういわれれば、確かに記憶がよみがえってくる。
5)そして私は劇団員へTheatreGroup"OCT/PASS"への発展的解散を宣言した。ちょうど40歳。私はテントへの決別と1ヶ月を越えるロングラン公演の確立、新機軸の戯曲連作など大人の鑑賞に堪えうる芝居作りを標榜していた。とにかく芝居でメシが食いたかった。(第十一回 十月劇場を閉じる。)
6)当然のことだろうと思う。93~94のことである。
7)私が彼の演劇を意識して見なくなったのは、95年晩秋からである。
8)46本目「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」現代浮世草紙集第三話は仙台演劇祭参加作でオウム真理教問題へ真っ向から切り込んだ問題作で宗教者への説明、当時仙台にあったオウム真理教とおぼしき団体からの無言電話、嫌がらせなどがあったが無事乗り切る。’95年はもう2本書いている。(第十二回 ”OCT/PASS"始動。)
9)私はこの作品に唖然とした。私の中では、この作品「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」を石川裕人、サイテーの作品と位置付けている(これは訂正を要する。2012/10/25記)。彼のスピリチュアリティ理解の薄さ、おちゃらけ、下種なジョーク。もう覚えてはいないが、最後まで見ないで会場を飛び出したのではなかっただろうか。
10)そもそもが、この「なになにと思しき団体から無言電話、嫌がらせなどがあった」とするところ自体、私は、彼のセンスを疑う。どうして、「無言」電話から「団体」とわかるのか。私の拙いジャーナリスト根性というか、ノンフィクション・ライティング傾向から考えると、どうもこのような表記が、うっとうしくてしかたない。
11)私にとってはこの事件は大事件だった。その意味は深く深く問われる必要があった。だから、私は、もう一度深く沈黙の淵に落ちていった。ここいらの数年前までの私の経緯は「湧き出ずるロータススートラ」(2002/06)に書いておいた。趣旨がまったく違う文章ではあるが、年代をつき合わせるには重要な意味がある。
12)私はこの団体のことを言葉に出して考えられるようになるまで10年かかった。そして、この団体名に含まれるチベットのマントラを108回唱える(つまりこのマントラを含んだ本を108冊読んだ)ことで、ようやく解放された気になった。それはごくごく最近になってからのことである。
13)近々この時の上演台本を借りることができる可能性がでてきたので、どうしてももう一度再読しておきたい。今となっては作者をどうすることもできないが、なぜに私があれほどまで感情を激したのか、自分で確認しておきたい。
14)そしてオクトパスになって、「現代浮世草紙集」という「社会派」シリーズと、「プレイ賢治」というシリーズで、「量産体制」をつくり、「穏健派」を装うようになった。それは確かに「大人」のふるまいだった。
15)”OCT/PASS"になって「現代浮世草紙集」と「PlayKENJI」という二つの連作戯曲を手がけるようになる。PlayKENJIは宮澤賢治の作品を換骨奪胎して演劇的手法で組み立て直すという趣向の戯曲である。(第十三回 『百年劇場』というメルクマール。)
16)食えたか食えなかったかはともかくとして、オクトパスこそは、劇作家・石川裕人の「完成形」であったのだろう。だから、最大の代表作を十月劇場時代の「時の葦舟」三部作を頂点としつつも、オクトパス時代になって盤石な地盤を両翼に広げ、大地へと舞い降りていった。
17)劇作家・石川裕人を語るなら、このオクトパス時代をまず語らなければならない。彼は石川裕二でも、いしかわ邑でも、石川邑人でもなかった。彼は自分自身を劇作家・石川裕人、と「確定」した。残念ながら、私はこの時代の彼を完全に見失っている。今は多くを語る資格を持っていない。
18)しかしながら、彼を石川裕二と見、ニュートン、と見た場合、「劇作家・石川裕人」は、ニュートンと呼ばれた総体の、一パート、一キャラクターに過ぎない。「ニュートン」全体を語るなら、やはり、巨視的な視野を得つつ、オクトパス時代の「劇作家・石川裕人」を発見し、さらに再検討しなければならない。
19)字面だけ読んでいるとまったく頭に入ってこないのだが、「児童劇団AZ9ジュニア・アクターズ」とか、「高齢者俳優養成企画AgingAttack!!」とかは、なんだったのだろう。一回、しっかりと捉えなおさなければならない。
20)ところでこの’98年に新人がなんと8人も入ってきた。現在残っているのは篠谷薫子と美峰子だけ。(第十四回 とんだバブル。)
21)今、オクトパスの団員として活躍しているメンバーの中心はこれ以降の人びとである、とお見受けする。4つの時代の石川裕人演劇のスタッフたちは、時代別に分かれていて、必ずしも、先輩後輩の関係が密ではないのかもしれない。そういう意味では、私もまた「石川組」の一人ではあるわけだが、先輩らしいことなぞ、何もできなかった。
22)私はただただニュートン本人だけ見ていた。視野狭窄に陥っていた。
23)初の海外旅行をするきっかけはテレビ・ドキュメンタリーのための戯曲を書くための取材で’98年12月に香港、ハワイと東西に旅立った。(第十五回 21世紀を目前に。)
24)ほう、あれだけ国内を公演旅行していたのに、海外旅行をしたなんてことは聞くことはなかった。もっと早い時期に海外を体験しておくべきではなかったか、とも思うが、諸般の事情が許さなかった経緯もわかる。
25)63本目「夜を、散る」現代浮世草紙集は脳死からの臓器移植問題に真っ向から挑んだ戯曲。ドキュメンタリータッチで描かれた病院の待合室のドラマは迫真的で反響を呼んだ。ちょうど臓器移植に関しては賛否両論の時期だったのでマスコミが取り上げてくれた。(第十五回 21世紀を目前に。)
26)やはり、「現代浮世草紙集」とはそういうシリーズだったんだな。大人の社会派を説得する演劇シリーズ。このシリーズの第三作目にあの作品「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」は位置していたのだ。大人の社会派の目からみた麻原集団事件。そんなものを、他人に解釈してもらおうとなど、私はしていなかった。ただただ、一つのリトマス試験紙として使っていた。彼はどう判断し、この人はどうみているか。少なくとも、彼は私に向けて語っていなかったし、私は私で、私が望む「視点」を彼の中には見つけることができなかった。
27)しかし、演劇や芝居はどういうものか、ということはともかくとして、私自身はそれらに、何を求めているのだろう。もし、彼が「演劇人」ではなかったら、まったく演劇になど触れることもなかったかもしれない。私の側からは不要なものにしか見えていないのではないか。
28)72本目「わからないこと」~戯曲短篇集~)は「遙かなり甲子園」「兆し」「わからないこと」の3本からなる作品集的戯曲でまとまった1本とはいえないが、3本ともいえないので難しい。(中略)「遙かなり甲子園」。まぐれで甲子園出場を決めてしまった僻地の高校の顛末を描くコメディ。(第十六回 年間5本2年連続 その1)
29)この作品は、ひょっとすると、この私を「おちょくって」いるかもしれない、最初はそう思った。上演されたのは2001/11。この当時私は某県立高校のPTA会長をしていた。そしてひょんなことで、その野球部が「まぐれで甲子園出場をきめてしまった」のだ。県立高校としては50年ぶりの快挙であった。出場支援実行委員長として私は忙殺され、さまざまな貴重な体験をした。
30)彼はこの私の「事件」を知っていてこの短編をものしたのだろうか、と最初思ったが、どうやら年代が違う。私の「事件」のほうが半年後の2002/08だった。彼が先にシナリオを書いて、私が「社会」の中で演じていたなんてこともあるかもしれない(笑)。
31)75本目「ほんとうの探し物」~目覚めなさい、サトリ~は児童劇団ザ・ビートへの脚色。(幸野敦子原作) (第十七回 年間5本2年連続 その2。)
32)タイトルからすると、ちょっと気になるが、原作は別人のようだ。
33)9月11日アメリカ同時多発テロ。この時の衝撃が77本目「この世の花 天涯の珊瑚」を書かせた。12月に上演しているから、本当に即書き下ろしたことになる。書かずにはいられなかった。1970年の三島由紀夫割腹事件からフィクションは現実に追い抜かれ始めたとうのが私の見方だが、ここにきて完璧に私たちの想像力はツインタワーのように爆砕されてしまったように思えた。私たちは、劇作家は、演劇人は想像力を行使していかに現実に立ち向かっていくのだろう?というのが大きなテーマになった。その端緒としての戯曲である。(第十七回 年間5本2年連続 その2。)
34)ここでは逆に、彼のほうが年代を1年間違っているのではないだろうか。9・11が起こったのは2001/09、上演されたのは2002/12なので、1年以上かかっていることになるのではないだろうか(未確認)。
35)どうもこの年は賢治年だったらしく、「センダード」に続いてこの作も賢治の「銀河鉄道の夜」を下敷きにしている。ネタに詰まると賢治というのが私の傾向で、PlayKENJIや賢治モノが上演されたときは、ははあ石川はネタ切れか、と思ってもらっていいかもしれない。そして、賢治の作品には茫洋たるヒントが多く詰め込まれていると言うことでもある。(第十八回 ”OCT/PASS"に書かなかった2004年。)
36)他にも書いておいたが、興味深い一説である。
37)87本目「修羅ニモマケズ」PlayKenji♯4は宮澤賢治のかこった修羅=ストイシズム(禁欲)、ストレンジ(異貌)、スーパーネーチャー(超天性)を描いた祝祭的戯曲。大河原、山形県川西町、仙台文学と基本的に野外で上演された。(第十九回 宿題。)
38)私がもうすこし前に賢治に目覚めていれば、ぜひ見に行きたい作品だった。プレイ賢治シリーズについては「見逃したな」と、素直に思う。
39)’08年、94本目「少年の腕」ーBoys Be Umbrella、ーはアングラ・サーカスという新しいスタイルを求めて書き下ろされた戯曲。というより得意分野にシフトし直したという意味合いが強い。得意分野とは綺想、フェイク、大法螺である。この分野になると思わず筆が走る。最新作「ノーチラス」までこの分野の戯曲が多くなっているのは何か意味するものがあるのだろうか?(第二十回最終回 砂上の楼閣?)
40)やっぱりこの劇作家の一生を貫く基本線は、中学校一年時の文集において夏目漱石を読んだ感想文で、「迷亭先生の大ボラ吹き」について触れて以来、「大法螺」にあったのではないかしらん。
41)2010年。そして100本目「ノーチラス」~我らが深き水底の蒼穹~を書き下ろした。6月に書き下ろしたこの戯曲は書いている間は無意識だったが稽古しながら考えてみると実に示唆的だった。革命戦線から離脱し地下に潜り妄想の帝国を作り上げた主人公はまるで私の自画像ではないか。100本の大嘘は妄想・幻想の集大成でもある。1本×原稿用紙100枚平均として10000枚に上る原稿用紙は幻視の砂上の楼閣のようでもある。しかし、確実にこの手でここに書いてきた筆跡は存在している。(第二十回最終回 砂上の楼閣?)
42)なるほど、そうであったか。一度はぱらぱらめくった「ノーチラス」ではあったが、再読を要す。
<3>につづく
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