カテゴリー「24)Meditation in the Marketplace2」の103件の記事

2012/10/26

「演劇」性と「瞑想」性がクロスするとき 石川裕人『失われた都市の伝説』 劇団洪洋社1976

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「失われた都市の伝説」 廃都伝--序--
いしかわ邑人(石川裕人)/作演出 1976/07/25~08/01 劇団洪洋社 於・洪洋社道場 石川裕人年表
Vol.3 No.0834★★★★☆

1)いつの間にか当ブログのカテゴリ「Meditation in the Marketplace2」も108個目の書き込みに到達した。このカテゴリをカバーするために、石川裕人の作品からひとつ選ぼうと思った。ちょうどタイミングとしては、この「失われた都市の伝説」がぴったりくるのではないだろうか。

)「都市が、洪水をともなって出現する、巨大な青鯨に呑みこまれるだろう、その日に--------」公演ポスターより

3)なんというコピーだろう。この芝居が公演された若い日々から、35年というはるかな日々が経過したあと、この大地は、未曾有の大地震に見舞われ、巨大な大津波が都市を飲み込んだ。石川裕人の最後の遺作となったのは「方丈の海」だった。テーマは、巨大津波に都市が消え去った後の10年後の設定だった。

4)若者たちがファンタジーとして描いていた想像の世界が、そんな日があったことさえ忘れかけていたころ、、ひたひたと「現実」として迫りつつあった。

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5)劇団洪洋社という右翼的な名称は当時愛読していた夢野久作の父親で国家主義者の杉山茂丸の主宰した玄洋社を意識した。字面が固くて良かったのと、洪水の海というイメージも好きだった。そしてどこか大陸浪漫的な響きにも憧れをもった。これは多分に唐十郎師の影響もある。考えてみれば、当時のアングラ系の芝居はどこか右翼的な匂いを放っていたようにも感じる。それは己の肉体という逃れられない捕縛状態に鞭打つ超保守的な思考方法から編み出された演劇論にもよるのだろう。石川「劇作風雲録 第五回 地下に潜る」

6)この後、石川が自らが主宰する劇団名の命名法を、「十月劇場」から→「oct/pass」という、「ナンセンス」性へと向けていったこと考える時、この「洪洋社」というネーミングだけは、極めて重要な意味をもってくるのではないだろうか。

7)洪水のイメージも「好きだった」と言っている。好きではあったけれど、それは彼にとっては、いずれ到達する「妄想の帝国」の中でのモチーフでしかなかった。

8)しかしながら、現実は、彼の想像=妄想を超えて現出する。1995年のオウム真理教出現の時は、ある意味、オチョクルだけの力がまだあったのに、2011年においては、彼の「演劇」性は、どっぷりと巨大津波に飲み込まれていくことになる。

9)「演劇」性が「ナンセンス」性へと向かい、ともすれば、次なるステップを見失いかけた時、彼には「瞑想」性がみえてきつつあっただろうか。

10)次への「つづき」を考えていた時、3・11巨大津波は、彼と都市とをどっぷりと呑み込んでいったのだった。

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私にとって「演劇」とはなにか<1> 石川裕人作・演出『教祖のオウム 金糸雀のマスク』現代浮世草紙集Vol.3

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「教祖のオウム 金糸雀のマスク」現代浮世草紙集Vol.3
石川裕人作・演出 1995/11  シアターグループ・オクトパス 上演台本p97 仙台演劇祭'95参加 石川裕人年表
Vol.3 No.0832?????

1)因縁の対決である。これがわからなければ、結局は私は、劇作家・石川裕人をわからなかった、ということになる。

2)有田 麻原彰晃。
江川 うまかろう安かろう亭。
有田 石垣島予言セミナー。
江川 波野村。
有田 ラージャヨーガ。
江川 ガスマスク。
有田 クンパカ。
江川 カルマ落とし。
有田 真理教。
江川 裏部隊。
有田 石井久子。
江川 コスモクリーナー。
有田 中川智正。
江川 最終解脱。
有田 土谷正美。
江川 ミラレパ。
有田 パルマゲドン。 
江川 ハでしょ、
上演台本p5

3)1995年11月当時、こんな単語の羅列を聞いて、観客席の私は、なにがおかしかろう。苦々しい思いの単語をさらに聞かされて、最初の最初からイライラしてきていた自分が今さらながら、イメージできる。

4)有田 もうでまへん、
江川 まだまだ
有田 江川はん、よその教団の尻取りをやって何になるんでっか、やめまひょ、
 上演台本p6

5)ん? 尻取り?  ははぁ~~~、上の単語をよくよく見ると、単に単語を並べているわけではない。尻取りだったのだ。ああ、驚いた。今さらながら、驚いた。

6)こんなのルール違反だろう。台本だからこそ、そう言われれば、ページをさかのぼって確認することができるが、すでに言われてしまったセリフをさかのぼって確認できる観客などひとりもいない。

7)やるだけやらせておいて、作演出者は、ひとりで、ふふふ、と笑っていたに違いない。まったく意味のないようなところに、実は「意味」があった。それは、言葉の意味、というより、単に「尻取り遊び」という「意味」だったのだ。まいった。

8)同じ演劇を何回か見に来る人なら、気づいて聞き取ったかもしれない。あるいは、台本はこうなっているけれど、舞台では、キチンと語尾を長く伸ばして、尻取りだよ、とわからせていたんだろうか。当時の私はまったく気付かなかったに違いない。いずれにせよ、作者は遊んでいる。

9)他のところでも、ミラレパをニラレバ、中沢新一を中沢古一、出口ナオを入口ヲナ、とするなど、実にいい加減な(と見えてしまうのだが)、下司なジョークで笑い飛ばす(私には苦笑もできなかった)。作者は、この作品において、徹底的に「事件」と「社会」と「時代」とおちょくりまくっている。

10)ふと思う。高校時代の私のミニコミのキャッチフレーズは「書きたい時に書きたいことを書く」だった。そして彼のミニコミのキャッチフレーズは「私の求めるものは鍵穴です」だった。ところがいつの間にか、「書きたいときに書きたいことを書く」ことができていたのは、彼のほうだった。戦線のためとか、賞をもらうためとか、劇団存続のためとか、そういうことが第一義的にあるわけではないのだ。「書きたいから書くのだ」。ある意味、彼は、ここで「芸術」の域に達していたのではないか。

11)逆に「鍵穴」を求めてうろうろしていたのは、私のほうだったようだ。あのような現実と夢想妄想がクロスするような事態において、彼はなお、それらを「演劇」化することによって、より明確に演劇の演劇性であることを強調しようとしていたように思う。

12)この戯曲を書くに当たって多くの資料を読んだ。(資料リスト中略)
オウム真理教の事件は現在も進行しており、予断を許さない。様々な分野から諸々の言説が流れ、この事件がこの国の文化に与えた影響力を思い知らされる。この事件は私たちにとって踏み絵となる現象である。

 それは今までをどう生きてきて、これからをどの様に生きていこうとしているかという事への問い掛けになっているからだ。そして、麻原がこれから発するであろう言葉によってはこの事件は未曽有の価値観闘争へと発展していく可能性をも秘めている。心してこれからの顛末を見ていこうと思う。作者 上演台本p97

13)きわめてまともである。この文は私が書いたのではないか、と思うほど、その通りだと思う。この台本のここを読まなかったら、あの芝居をみただけでは、作者がこれほど、「まとも」な「あたりまえ」の感覚の持ち主だった、とは気がつかないだろう。少なくとも、私は気づかなかった。

14)しかし、また、それでもなお、やはり彼にとって「演劇」とは何であったのか、私にとって「演劇」とはなんであるのか、の答えはでてこない。やはり、問題作である。どこかで「サイテー」なんて書いたことは訂正しておかなければならない。この作品には、なにか隠し文字のようなものが隠されているのではないか。私はそれが今だに発見できないでいるのだ。この芝居を見る、私の演劇を見る感性の方が「サイテー」レベルなのかもしれない。

15)この事件は私たちにとって踏み絵となる現象である。それは今までをどう生きてきて、これからをどの様に生きていこうとしているかという事への問い掛けになっているからだ。上演台本p97

16)まさにその通りだ。

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2012/10/25

幻のポスター発見! 石川裕人第5作目 『夏の日の恋』 贋作愛と誠 1975 <1>

Poster

←クリックすると幻のポスターが見える。元の会場に二重線が引かれ、「喫茶 原っぱ」に訂正されている(笑)




「夏の日の恋」
贋作愛と誠 <1>
石川裕人作・演出 1975/01/24~26  ラジカルシアター座敷童子の旗揚げ公演  東北大片平 元喫茶「ルーエ跡」改め、仙台市原町 「喫茶店 原っぱ」にて公演 石川裕人年表
Vol.3 No.0831

1)ラジカルシアター座敷童子の旗揚げ公演も東北大学のキャンパス内の旧レストラン跡のような所でやろうとした。「夏の日の恋」贋作愛と誠である。これが5本目の戯曲。当時ヒットしていた劇画「愛と誠」をパロディに天皇制を射程にした政治劇だった。その頃私は天皇制に興味を持っていたのでそれがそのまま研究発表のようにして書いたのを覚えている。台本、チラシ、写真など全て散逸している。石川「劇作風雲録 第四回 劇団洪洋社」

2)いやいや、それがあったんですね。ほとんど一枚。よくよく見ると壁に当日のポスターまで見える。台本が散逸しているのは残念だけど。中央が石川裕人。わずかだが、観客の顔も見える。この中に将来の奥さんも映っているかも。足は私。あの頃、やたらと逆立ちばかりしていた。

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「喫茶店 原っぱ」での石川裕人(中央) photo@saki

 
3)そしてこの芝居は風雲録そのものである。初日当日最終調整をしていた私たちの元へ2、3名の機動隊員がやってきて不法侵入での上演を中止するように通告してきた。大学当局ではなく機動隊が通告して来るというくらいに大学は自治能力を失っていた。いよいよラジカルシアターはその本領を発揮することになりそうだった。「上演断固続行!!」「表現への国家権力の介入を絶対許さないぞ!!」とシュプレヒコールを上げて闘うはずだったが、腰砕け。しかし、上演を中止するわけにはいかない。私たちは早速上演できる場所を探し始めた。今日の今日である。もちろん上演可能な劇場などない。まして借りる資金さえない。大学キャンパスは会場費が無料だったからやろうとしたわけで。

 そして原町の「原っぱ」という当時の情報発信系の喫茶店が上演を受け入れてくれた。5坪ほどの喫茶店に早速かけつけ最低限の仕込みをやった。店内の椅子やテーブルはそのままだからアクティングエリアはほんの少々。トイレで着替えをやった。現在でいう「杜劇祭」のはしりだろう。「杜劇祭」よりずっと乱暴で猥雑だったが。

 公演を何日やったのかその1日だけで終わったのかももはや記憶の彼方になっているが、観客の中に二人の女子大生がいて、彼女たちが翌年に旗揚げする「劇団洪洋社」のメンバーになり、そのうちの一人が後の絵永けいであり、私の妻になろうなどとは夢にも考えていなかった。石川「劇作風雲録 第四回 劇団洪洋社」

4)どうやらポスターを見ると3日間の予定だったようだ。しかし、実際には1日しかやらなかったのではないか、とは当時の関係者の記憶。公演当日の写真ではないかもしれないが、当時の写真がでてきた。当時の雰囲気が伝わる。

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左から、石川裕人、私、葬儀で歌を歌ったゴトゥちゃん、神田食品時代のハクシュー、写真・情宣美術のサキ。photo@saki

<2>につづく

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石川裕人にとって「離脱」とは何か 『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<4>

<3>よりつづく

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「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 <4>
石川裕人ブログ 石川裕人年表

1)革命戦線から離脱し地下に潜り妄想の帝国を作り上げた主人公はまるで私の自画像ではないか。石川「二十回最終回 砂上の楼閣?)

2)という時の「離脱」とはなんだろう。「革命」「戦線」をいまだ特定する前に、「離脱」を検討してみることは、彼にとっての「革命」や「戦線」を理解する上で有効であろう。生涯の中で、彼が「離脱」したであろう瞬間を、時代順にアップしてみる。

3)唐十郎師と状況劇場との出会いがその後の私の人生の針路を決めた。「愛の乞食」を観た翌日に私は演劇部に退部届けを出した。石川「第二回 承前その弐」

4)この時、まず「離脱」が始まっている。ただし新劇を中心とした高校演劇からの離脱は、「革命戦線」からの「離脱」とは言えないかもしれない。むしろ、「革命戦線」への参加であっただろう。

5)つまり70年代斗争を自分が斗っていくには70年の情況にふん切りをつけたいと願った訳だ。70年以後のミニコミ発行にしても、コンサアト企画にしても映画上映にしても、唄つくりにしても、「70年の影」の下での暗い陰湿な自分との斗いであったとも云える。

 そしてその中で徐々に影から脱け出してきたことだけは確かだ。それが顕著に現れたのがミニコミの休刊だ。いまはもう廃刊にしようと思っているが、それはひとつ「70年戦士」のひとりであった友人の影をモロ体で感じながらの活動であったからだ。石川時空間3」「インタヴュー1973/04  いしかわ邑 『演劇場座敷童子』は『神話』をつくりに行くのだ!!」

6)この時点では自らのミニコミ「ムニョ」を休刊から廃刊することによって、彼いうところの「70年代闘争」から「離脱」していくことを試みている。ここにでてくる「70年戦士」とは誰のことかできないが、その「ひとり」としてミニコミ発行の影響を与えていたのは、私であったことは想定できないわけではない。しかし、その後の「離脱」はさらに続く。

7)そういう背景のなかで、石川裕人は、1975年という時代をどう生きていたのか、ということが気になってきた。残念ながら、この「星の遊行群」には石川裕人は投稿していない。彼の当時の住まい(共同生活体)「サザンハウス」の住所は載っているが、仙台市福沢町になっているので、最初の緑が丘から引っ越した二番目の住所である。阿部「独自の演劇活動を貫こうとした石川裕人 『星の遊行群』 1975年ミルキーウェイ・キャラバン<2>」

8)いずれ後述するが1974年には仙台における「カーニバル」というイベントがあった。広瀬川にかかる牛越橋付近の河原でのキャンプインでのどんちゃん騒ぎである。夏の仙台七夕にぶつけた3日間のイベントだった。この時、石川裕人は「演劇」を上演し、積極的にかかわっている。

9)ところが、この1975年のミルキーウェイ・キャラバン「星の遊行群」の時には、彼の活動を見つけられない。この時、彼は、再び、日本のカウンター・カルチャー、「叛文化戦線」からの「離脱」を図っていた可能性は高い。あの沖縄から北海道までを旅する(だけの)キャラバンは、彼にとっては「無意味」だったのではないか。

10)’78年宮城県沖地震の年、遂に私は「洪洋社」の解散を決めた。劇団の数人は続けたがっていたが、私のエンジンは動かなかった。

 借りたとき意気揚々とはがした天井板を私たちは張り直した。そしてこの日から4年、私は地下に潜る。アングラ芝居育ちは本当にアングラに帰った。芝居を一切観ないやらない関係も持たない日々が始まる。このときの私に芝居という文字はなかった 石川「第五回 地下に潜る」

11)せっかく探し当てた自らの演劇戦線の「仲間」と「場」である「洪洋社」という「鍵穴」も、「合議制」運営においては、彼にとっての「帝国」にはなりえなかった。ここからも彼は「離脱」していくのである。

12)次いで’86年大作テント芝居、20本目「水都眩想」。(中略)この芝居は「読売新聞」全国版でも取り上げられ「十月劇場」全国区への足がかりとなった作品でもある。そして私は劇評家・衛紀生氏に妙に気に入られ「水都眩想」で岸田戯曲賞を取ろうと言われた。そのためには演劇雑誌に戯曲を載せなければならないから改訂しろということだった。最近引っ越し荷物の中から手紙の山が見つかった。その中に衛氏のものもあり、「新劇」と「テアトロ」の編集長に話を付けてあるから早く改訂戯曲を私に送りなさい旨の手紙だった。なぜか私はこの話に乗らなかった。生意気だったのである。書き終えたものはそこで終わるというのが私の流儀だった。だから長年再演することをしなかった。石川「第七回 人生は変わっていただろうか?」

13)この地点での彼の行動もまた、私には彼にとっての「離脱」に思える。「新劇」や「テアトロ」という雑誌の持っている意味はわからない。その後、両誌に石川裕人が投稿することがあったのだろうか。あれば貴重な資料となる(乞う情報)。

14)少なくとも、彼はその誘いを蹴った。すでに「出来上がっている路線」としての全国演劇戦線からの「離脱」である。悪友たちの中は、彼にはその勇気も才能もなかったのではないか、と見る向きもある。しかし、当ブログとしては、ここではやはり彼は「生意気だった」のであると仮定しておく。

15)1991年において、私は仙台で行われた国際環境心理学シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」に参加しないか、と彼を誘っている。しかし彼は「即座」に断ってきた。「今うちの劇団はそのような状態にないんだ」というのが彼の返答だった。では「どのような状態だった」のだろうか。このイベントの詳細については他稿に譲る。

16)この時期(1990年)私はテント芝居のようなケレンの芝居から遠ざかろうとしていた。やめようと思っていたわけではないが、「十月劇場」若手陣に誤解を与えてしまうことになる。若手はプロデュース公演でテント芝居「落日」を打っている。外野席には「十月劇場」解散の噂が流れた。石川「第九回 年間6本書く。」

17)この時点で彼は、アングラ・テント演劇戦線からも「離脱」しようとしていた。

18)「十月劇場」解散の噂は噂にしか過ぎず、’91年2年ぶりにテント芝居をやることになる。35本目三部作時の葦舟・The Reedoship Saga第一巻は未来篇「絆の都」。石川「第十回 アトリエ劇場引っ越し。」

19)月日をつき合わせてはいないので正確ではないが、やはり彼は私の誘いを断った時点で、彼の劇団の「解散」の危機と遭遇していたことは間違いない。しかし、そこから踏ん張り、生涯を通じての代表作「時の葦舟」三作シリーズに到達するのである。

20)そして、彼の「離脱」はこの「十月劇場」に対しても発生する。94~95年の頃である。

21)そして私は劇団員へTheatreGroup"OCT/PASS"への発展的解散を宣言した。ちょうど40歳。私はテントへの決別と1ヶ月を越えるロングラン公演の確立、新機軸の戯曲連作など大人の鑑賞に堪えうる芝居作りを標榜していた。とにかく芝居でメシが食いたかった。石川「第十一回 十月劇場を閉じる。」

22)そして彼は、彼がいうところの「妄想の帝国」をつくりあげていくことになるのである。ここまで見てくると、「高校演劇戦線」、「70年戦線」、「ミニコミ戦線」、「カウンターカルチャー戦線」、「演劇戦線」、「スピリチュアリティ戦線」、「テント演劇戦線」、全ての連なりが、彼にとっての「革命戦線」で、そこから限りなく「離脱」を繰り返した結果、到達したのが彼の「最終形」TheatreGroup"OCT/PASS"に到達したのだった、と見ることも可能であろう。

23)しかし、彼の「離脱」癖(へき)は、これで「おさまった」のだろうか・・・・・・?

<5>へつづく

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2012/10/24

New-T 発見!石川裕人のあらたなるペンネーム 『仙台平野の歴史津波』 飯沼勇義 <7>

<6>よりつづく

Hukkoku
「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!<7> 
飯沼 勇義 (著) 復刻版 2011/09 本田印刷出版部 単行本 p234 石川裕人年表

1)前回この本について触れて以来、あっという間に9カ月が過ぎた。

2)前回アップしたイチゴの写真をもう一度アップしたい。

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3)なぜ、この写真をここで再掲するかというと、石川裕人本人が食べたイチゴの写真だからである。って、別にビートルズが宿泊したホテルのシーツでもあるまいし、そんなこと価値ないんじゃない、と思う向きがあるかもしれないが、いやいやいろんな因縁があるなだぁ、これが。

4)実は、昨年2011年の暮れ、石川裕人から連絡があった。

5)現在わたし宮城県復興広報という業務委託をされて県内各地を取材して回っていますが、貴兄の広い行動範囲の中で復興を頑張っている方、支援に頑張っている方、再開した店、企業などを紹介してもらえないでしょうか? エリアはとりあえずどこでも構いません。取材して『ココロプレス』という復興ブログに掲載します。よろしくです。2011/12/15 石川

6)この仕事をしていたことは、別途事務局のコメントがアップされているのだから、実名を出しても構わないだろう。

7)<読者の皆さまへ>
この記事の筆者であるnew-Tさんは、2012年10月11日、癌のため急逝されました。
59歳のお誕生日の2日前に取材したこの記事が最後となりました。
「いのちの最後のよりどころ」 宮城県復興支援ブログ 2012年10月13日土曜日

8)石川裕人はNew-Tという名前で復興支援ブログで活躍していた。最後の支援先は「仙台いのちの電話」を取材していたのだった。実は、私も数年間「仙台いのちの電話」の相談員をしていたことがある。本来はそういうことを名乗るのは御法度なのだが、四半世紀以上も前のことだから、もう時効だろう。

9)なにはともあれ、私は、次のように返信しておいた。

10)そう言われてみれば、この人達はどうなのかなぁ、という心当たりはいくつかあります。
オクトパスの演劇公演があった山元町公民館に避難していたイチゴ農家の人で、自宅は被災して、かろうじて形だけは残った渡辺さん。うちの遠い親戚です。
彼(60歳代)は、現在は、仮設住宅で暮らしながら、
来年はイチゴを作るぞと、被災地の畑を耕し始めています。
 2011/12/15 Bhavesh

12)そしてアポをとった上で続信しておいた。

13)イチゴの仕事は遅れ気味だそうですが、なんとか花が咲いたということでした。
海岸から約1キロほどにあった自宅は、まだ築10年ほどしかたっていなかったはずなのですが、被災し、周囲はほとんど流出してしまいました。
渡辺さん宅は、津波で天井まで水をかぶりましたが、流出しませんでした。
今後この地区は住宅地域にはならないようですが、自宅を修復し、物置小屋とかには使いたいという意向のようです。
長男夫婦は、町の外に住んでいるようですが、通って一緒に農業をしているはずです。
被災した農地にハウスを建てて、イチゴの苗を植えているようですが、塩害のため、成長はいまいちのようです。
長男が農家を継ぐと言っているので、来年はイチゴを出荷するぞ、と張り切っています。
電話するさいには、私の紹介だと言ってもらえば、すぐ分かると思います。
ニュートンのことは、県の復興ブログの取材ということで、古い友人と言ってあります。
先日も山元町で演劇をしました、とも付け加えてあります。
2012/12/16 Bhavesh

14)そしてできたのが、こちらのブログ記事です→「ごっつぉするぞ(山元町)」

15)その後、渡辺さんは我が家に自分で作ったイチゴを持ってきてくれました。4パックあったので、2パックを我が家でいただき、2パックをニュートンの自宅にとどけました。おいしかったなぁ。正座してイチゴ食べたの、初めて。

16)今夜は、写真だけでも、ニュートンに4パック全部供えよう。

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<8>につづく

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石川裕人にとって「革命戦線」とは何か 『朝日ジャーナル』特集:ミニコミ’71---奔流する地下水<1>

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特集:ミニコミ’71---奔流する地下水
「朝日ジャーナル」 1971/03/26 朝日新聞社 石川裕人年表
Vol.3 No.0830

1)革命戦線から離脱し地下に潜り妄想の帝国を作り上げた主人公はまるで私の自画像ではないか。「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」ブログ(第二十回最終回 砂上の楼閣?)

2)という時の、石川裕人にとっての「革命戦線」とはなんだろう。寡聞にして、彼が先鋭な政治活動をしたとか、政治結社に属したなどということは聞かない。政治色の濃かった70年前後から、街頭デモや、政治集会にさえ出たことはなかったのではないだろうか。

3)まだまだ田舎の16歳の高校生である。まして昭和28年生まれという、ベビーブームからおくれてやってきた青年であってみれば、なかなか社会の潮流とコミットするタイミングは難しかった。

4)その中でも、彼がもし自らを将来的に「離脱」する「革命戦線」に属していたのだと自称するなら、私はこの雑誌を連想する。すでに廃刊になって久しい左翼系雑誌であるが、70年アンポの時代にあっては、新左翼系の牙城とも思える雑誌であった。

5)週刊誌だったから情報は早い。他の週刊誌より薄かったが、この雑誌を小脇に抱えて、街にでることで、ちょっとした革命家気分になれたものだった。この号は特別号だから100円となっているが、50円とか、60円くらいだったのではないだろうか。

6)私がこの「朝日ジャーナル」の1971年の3月にでた「ミニコミ」特集号を思い出すのは、この全国の当時の反体制的なミニコミ紙、約800の中に、石川裕人のミニコミがリストアップされているからである。

7)ムニョ=住所 石川裕二 電話番号 自己欺瞞ミニコミ”私の求めるものは鍵穴です” p8

8)並み居る地域闘争機関紙などの中に、彼のミニコミは、それなりに自己主張していた。

9)なぜにここに彼のミニコミが紹介されているかといえば、石川裕人ファンにはお呼びじゃないかしれないが、先に私が自分のミニコミを投稿し、彼にも投稿するよう勧めたからである。

10)すくりぶる=住所 阿部清孝 電話番号 書きたい時に書きたいことを書く p7

11)私のミニコミのキャッチフレーズも、決して誇れたものではない(笑)。ほんの数行のマスメディアへの登場だったが、実は、これが絶大な効果があった。

12)東大裁判闘争ニュース、三里塚闘争救援ニュース、靖国神社国営化反対・津地鎮祭違憲訴訟支援ニュース、新左翼、と言った超硬派な団体から、月刊キブツ、非暴力つうしん、沖縄ヤングべ平連と言ったやや軟派なグループもある。釜ケ崎通信、牛乳共同購入ニュース、など、かなりくだけたネットワークの中に、末永蒼生のPEAK、山形の菅原秀のニュー・ヴァーブ、なども見えていた。

13)これらの並み居る「革命戦線」の中にあって、私たち高校生のミニコミは必ずしも「場違い」ではなかった。むしろ「70年以後」をにらんだ、新しい時代のニューウェイブとして、全体としてのバランスをとる作用もあったかに思える。

14)絶大な効果とは、このリストの以後、毎日毎日、膨大な全国から問い合わせがあり、また、それぞれのミニコミが送付されてくるようになった事である。あっという間に段ボールがいっぱいになるほど、全国からネットワークの誘いがきた。

15)この「全国ミニコミ一覧表」はそもそも中央寄りの情報が中心で、私たちの宮城県からはわずか9紙しか応募していなかった。だから、映画の上映や、なにかの企画イベントの連絡先としてのターゲットを探している団体にとっては、きわめて容易に連絡をとれる便利帳に見えたことだろう。

16)宮城県からの他の7紙の発行元の中には、みちのく団地の友(このおばさんとは後に私は一緒にNHKテレビに出演した)、仙台市政研究会、東北小川プロダクション、青年ー民主主義に反するものとは徹底的に戦う、東北地方解放戦線、めしゅうど、「のりひび」などがある。

17)特に「のりひび」は、「全国原子力化学技術者連合仙台支部、東北大反公害闘争委員会、仙台市東北大工学部内・女川原発実力阻止」(p7)という紹介がある。今日の小出裕章氏の活躍を考える時、すでに、この時点で彼らと私たちが横一線に並んでいた、と、拡大解釈をすることも可能だろう。

18)私はこの「ミニコミ特集」で山形の菅原秀と連絡がとれ、そこから末永蒼生につながり、さらに全国のカウンターカルチャーにつながっていった。

19)石川裕人は、この時、東京キッドブラザーズの東由多加たちの「さくらんぼユートピア」のDMをもらったはずだ。だからこそ、田舎の高校生が、ダイレクトに東や寺山と食事をするほどの接点を持つことができたのだ。

20)もちろん、この時、石川が「さくらんぼ」のDMをもらって彼らに連絡をとらなかったら、その後、高校時代に一緒に劇団「座敷童子」を立ち上げた元木たけしは、その後キッドにいくことはなかったかもしれないと、ひそかに思う。

21)それにしても、この当時から石川は独自の路線を歩んでいる。「私の求めるものは鍵穴です」。まさに、人を食ったキャッチフレーズである。彼は、彼の「演劇」性を差し込むべき「共同性」をこそ求めていたといえる。

22)私は私なりに「書きたい時に書きたいことを書く」という、ノンフィクション・ライティング路線を歩んでいる。ただ、私はこの時点で、すでに「ジャーナリズム」に対する大きな「失望感」を味わっている。これは、いずれ後述する。

<2>につづく

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<誤読>に始まる40年 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<9>

<8>よりつづく

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「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<9>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
★★★★★

1)この「あとがき」を読んでいて、いろいろ考えた。最初に読んでから約一年経過しようとしている。出版→「3・11」「人や銀河や修羅や海胆は」「時の葦舟」三部作を読む、という順序で進んできたわけだが、その後、事態は「方丈の海」「作者急逝」「葬儀」ということに展開した。

2)その後、いろいろな遺業をまとめながら、二七日を迎えるにあたって、再び、この著者が残した唯一の公的出版戯曲集を眺めてみると、さらに意味深いものに見えてくる。

3)演劇人生約40年目にしてやっと初めての戯曲集出版ということに相成った。背中を押してくれた劇団のみんなには本当に感謝です。石川「あとがき」

4)TheatreGroup"OCT/PASS"は、作者にとって、本当に居やすい「帝国」であったのだろう。あらためて、TheatreGroup"OCT/PASS"劇団員の皆様には感謝とともに御礼を申し上げたい。本当に幸せな奴だったな。

5)上演されたこの三部作は私の畢竟の戯曲だと自負できる。1991年から1994年まで書き継ぎ、上演してきた戯曲を再読したが、古びたところが無かった。石川「あとがき」

6)この劇作家を評するに、なにか一つと言われれば、この「時の葦舟」を代表作にする以外にないのだろう。他も全て含めて、この三部作に凝縮して見ることも可能であろう。とするならば、この戯曲集一冊をさらに凝視し、その世界に入り込むことによって、この劇作家の本質に迫ることができるに違いない。

7)約10年ほど「時の葦舟」のような物語演劇から遠ざかったが、ここ数年は先祖帰りしている。やはり自分の質、性(さが)に忠実に生きていこう書いていこうと決めたここ昨今である。石川「あとがき」

8)この「物語演劇から遠ざかった」と表現するところのシリーズは、「現代浮世草子集」シリーズであろうし、「プレイ賢治」シリーズであろう。子供むけの「ジュニアアクターズ」シリーズや、年配向けの「エイジング・アタック」シリーズもまた、ここでいうところの「物語演劇」には当てはまらないに違いない。

9)名付けて「アンダーグラウンド・サーカス」。次の戯曲集はこの中から編んでみようか。石川「あとがき」

10)そもそも「アンダーグランド・サーカス」シリーズとは何であろうか。何作存在するのだろう。もし次の戯曲集に編まれるとしたら、その中にどれが選ばれるであろうか。そして、「時の葦舟」が三部作で構成されているとしたら、次の戯曲集にも、三作品ほどは収録されるはずだった、のだろうか。

11)しかし、今となっては作者自らが選び出版するということは不可能となった。もうすでに不可能であるにも関わらず、次があるかのように装うこの劇作家は、つくづくto be cotinued「つづく」がお好きなようである。

12)私の演劇の師は唐十郎さんである。石川「あとがき」

13)じつは「弔辞」の最初の原稿の段階では、寺山とのエピソードの他に、唐十郎や東由多加や黒テントなどの名前を列挙しておいた。しかしあまりにも長いものになってしまったので、割愛することにした。

14)それにしても、「弔辞」の中で寺山にしか触れられなかったのは、故人に対して失礼だったかな、とも反省する。

15)映画の宣伝のためなにか大きな企画をやろうということになり、寺山修司と東由多加を呼ぶことになった。大者来仙!!寺山さんとは東京へ帰る日に電力ビル西の邪宗門(だったかなあ?)というコタツのある喫茶店で話す機会を得た。

 「いしかわくんは顔が大きいから座長になれるよ」と寺山さん独特の語調で言ってくれたのを今でも思い出す。なんだか大きい人だったという印象と、目の輝き、そしてサンダル履きの寺山修司のところへ何故行かなかったのだろう?と今でも思うことがあるが、後悔ではない。(「石川裕人百本勝負」第二回承前その弐)

16)でも、このようなエピソードが残っているかぎり、まったく寺山を慕っていなかったわけじゃないだろう。逆にいうと、このようなふれあいが、唐との間に個人的に存在した、ということは聞いていない(未確認)。むしろ恩人は、寺山のほうだ、と私は思っている。

17)作風は、唐、寺山、どちらとも言えず、石川独特のものになっていったのではなかったか、と推測する。しかし、私は評論家でもなければ、彼のよき「観客」でもなかった。一時は、制作協力者の立場になりえていたかもしれないが、全体を通して彼の全体を見た場合、よくわからない、というのが本音のところだ。

18)かつて高校生だった頃に「状況劇場」に出会い、芝居は何をやってもいいんだという大きな誤読をした。石川「あとがき」

19)う~ん、ここはポーズのような気がする。彼にしてみれば、かなり気取った言い方をしているのではないだろうか。これでは全部が「状況劇場」に「責任」があるかのように読めてしまう。もちろん、ここは「誤読」ではない。彼はそう「理解」したし、その後、そう「行動」した。

20)その誤読が今現在まで私を突き動かす遠因である。石川「あとがき」

21)誤読であったなら、40年も走り続けられるはずがない。あの時代の風潮の中で、劇作家・石川裕人は「アンダーグランド」を正当に理解し、正当に相続しようとしていたのである。であるがゆえの晩年の物語戯曲「アンダーグランド・サーカス」シリーズにつながってくるのである。

22)その遠因は多くの芝居の友を作り、大きな輪を作ってきた。石川「あとがき」

23)それは本当だろう。

24)改めてTheatreGroup"OCT/PASS"の仲間、「十月劇場」を生きた仲間に感謝します。石川「あとがき」

25)ここでは二つの劇団名しか書いていないが、彼はもちろん、洪洋社や劇団座敷童子の仲間にも感謝している。もう一つの弔辞を献辞した八巻寿文氏の文面にも多く歴代のメンバーの名前が列挙されていたが、十月劇場以降の役者たちの名前を中心に読み上げてくれただけで、実は、情宣や裏方、照明、舞台設定、美術など、読み上げきれない多くの方々が参加している。

26)その豊かな収穫がこの戯曲集になったと実感している。石川「あとがき」

27)だとするならば、やはり、この一冊を再読、再再読することは、故人に対する供養ともなろう。すでに残部希少(!)とは聞いていない(笑)。まだネット上から購入できる

28)皆さんのおかげでここまで来ることが出来ました。2010年12月 石川裕人 p260

<10>につづく

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「アンダーグラウンド・サーカス」へつづくもの 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<8>

<7>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<8>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
★★★★★

あとがき

 2010年、劇作100本を達成した記念に戯曲集を出版するという企画が劇団から提案された。それまでにもいくつか戯曲集を出しませんか?という誘いが出版社からあったが、自費出版に近かったのでやむなくお断りしていた。自費出版するにも先立つものがない。

 なにせ戯曲は出版業界では一番売れないカテゴリーにはいるし、出版したとしても直売するしかない。というようなことで踏ん切りがつかないまま、演劇人生約40年目にしてやっと初めての戯曲集出版ということに相成った。背中を押してくれた劇団のみんなには本当に感謝です。

 初の戯曲集に何を入れるか、ほんとんど迷わずに「三部作 時の葦舟」と決めた。TheatreGroup"OCT/PASS"の前進劇団「十月劇場」で上演されたこの三部作は私の畢竟の戯曲だと自負できる。

 1991年から1994年まで書き継ぎ、上演してきた戯曲を再読したが、古びたところが無かった。時をテーマにした戯曲だからだろうか?時を旅する異能の家族の物語は戯曲の中で永遠性を勝ち取ったようだ。

 思うに、よくこんな途方もない戯曲を上演してきたものだ。ロケーションは全て野外公演、テントでのツアーである。若い野放図な劇団らしい野望と企みに満ちた舞台だった。「十月劇場」全盛時の才気煥発な役者陣がいたからこんな戯曲が書けたのだと思う。

 「十月劇場」からTheatreGroup"OCT/PASS"に劇団を進展させて約10年ほど「時の葦舟」のような物語演劇から遠ざかったが、ここ数年は先祖帰りしている。やはり自分の質、性(さが)に忠実に生きていこう書いていこうと決めたここ昨今である。

 そしたら軽くなった。軽くなりすぎ筆の滑りでバカバカしい台本を書いている。名付けて「アンダーグラウンド・サーカス」。次の戯曲集はこの中から編んでみようか。

  私の演劇の師は唐十郎さんである。かつて高校生だった頃に「状況劇場」に出会い、芝居は何をやってもいいんだという大きな誤読をした。その誤読が今現在まで私を突き動かす遠因である。その遠因は多くの芝居の友を作り、大きな輪を作ってきた。その豊かな収穫がこの戯曲集になったと実感している。

 改めてTheatreGroup"OCT/PASS"の仲間、「十月劇場」を生きた仲間に感謝します。皆さんのおかげでここまで来ることが出来ました。

   2010年12月         石川裕人  p260

<9>につづく

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「妄想の帝国」、あるいは「市場での瞑想」 『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<3>

<2>よりつづく 

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「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 <3>
石川裕人ブログ 石川裕人年表

1)革命戦線から離脱し地下に潜り妄想の帝国を作り上げた主人公はまるで私の自画像ではないか。100本の大嘘は妄想・幻想の集大成でもある。(第二十回最終回 砂上の楼閣?)

2)きわめて示唆に富んだ、興味深い一文である。「革命」「戦線」から「離脱」し「地下」に「潜り」、「妄想」の「帝国」を「作り上げた」主人公は、彼の「自画像」である、というのである。ひとつひとつのキーワードを検証していきたい衝動に駆られる。

3)「革命」とは70年を契機とする一連の新左翼的社会的風潮や文化運動と考えていいだろう。それはさまざまに変質して年代を重ねてきた。

4)「戦線」とは、彼の場合は、黒テント、赤テント、天井桟敷といった、いわゆるアングラにはじまる演劇の全国ネットワークと考えていいだろう。

5)ただ「離脱」はよくわからない。どこでどう何から「離脱」したのか。当ブログとしては、94年前後の、十月劇場から劇団オクトパスへの移行がそれである、と仮定しておこう。

6)「地下」とはなにか。対社会的な反抗的な姿勢や意表をつくような姿勢を抑え、より一般社会的で、穏健なスタイルをこそ、当ブログは彼の「地下」であったと見る。

7)「潜る」とは、淡々と、日常的に物事をこなし、目立たないで生活することである、としてみる。

8)「妄想」。さあ、これはなにか。当ブログは、一応「オクトパス」での劇作すべてが、彼いうところの「妄想」であった、と仮定してみる。

9)「帝国」とはなにか。オクトパス時代の、劇作家・石川裕人としての稽古場や上演の場は、決して合議性ではなくて、彼の意向が強く反映された場であったことは、容易に推測できる。

10)ここでは、この二つの単語をわけずに「妄想の帝国」としてしまったほうがわかりやすいかもしれない。書きあげた台本という「妄想」が、稽古場、上演という「妄想」へと拡大し、ついには、劇作家「石川裕人」先生という「妄想」が、対社会的に独り歩きする。それ全体が「妄想の帝国」として一体化していた可能性がある。

11)そして、彼は「作り上げた」と言っている。100本の台本を書き、脚本集を一冊上梓することができた。彼は、ある達成感を感じていたはずである。

12)しかるに、彼はなぜに、自らの行為を「離脱」「地下」「潜り」「妄想」といったマイナスイメージで語るのであろうか。「離陸」し、「天空」へ、「上昇」し、「覚醒」の境地に至ったとか、プラスイメージで表現することも可能であったのではないだろうか。

13)彼一流の照れだろうか。あるいは、またまた彼一流の「大法螺」だろうか。

14)彼はなぜに「時の葦舟」三部作を自らの最高傑作としたのだろうか。あの芝居は「離陸し、天空へ、上昇し、覚醒の扉」を開く世界観を持っていたからだったのではないだろうか。

15)「方丈の海」を石川裕人の最高傑作とする人はいるだろうか。お涙ちょうだいどころではなくて、まるで観客から涙を強奪していくような、悲しいストーリーは、私には石川裕人の真骨頂だとは思えない。

16)もし、当ブログが、今後もこの劇作家にこだわりを持ち続けるとしたら、ここにこそ、その重要なポイントがある。

17)彼が潜っていった集合無意識の広がりを、再び上昇させ、意識を、さらに覚醒させ、集合超意識へと誘導することである。つまり彼の「演劇」性を「瞑想」性へと変容させることである。うまくいくだろうか。可能性はゼロではない。しかしながら、そのためには、当然のことながら、さらに厳しく、私自身の「瞑想」性を問われることになる。

18)つまり、石川裕人を、彼が自らが作り上げてしまった「妄想の帝国」から引き出すこと自体は、本当は、最終目的ではない。彼の「妄想の帝国」を、キチンと視野の中におさめながら、その地下からの吸引力を感じつつ、自らの「瞑想」性を高める、反重力として変容できれば、それでいいのである。

19)仮に、無意識が集合無意識と化し、さらに宇宙的無意識まだ沈潜していくことができたなら、意識が、超意識となり、宇宙的無意識と拡大上昇してしまえば、いずれにせよ、宇宙意識は一体化するのである。どこに自らの立ち位置をつくるかなど、本人のまったくの自由なのである。

20)「妄想の帝国」の住人が、そこに安住するなら、それはもう「妄想の帝国」とはいわないだろう。そこに安住できているならそこはもうパラダイス、天国だ。ところが、何らかの理由により、そこは彼にとっては「妄想の帝国」でしかないのだ。

21)「妄想の帝国」に対置できる言葉として当ブログが掲げているのは「市場での瞑想」。Meditation in the Marketplaceである。もっとわかりやすく対置するなら「瞑想の市場」だ。

22)「妄想」を「瞑想」に変える。「帝国」を「市場」に変える。「変える」というのも、「瞑想」性がわから言うとすこし語弊がある。「なる」が正解。「妄想」が「瞑想」になると、「帝国」は「市場」になる。こちらのほうがより近い。

23)偶然発見した中学時代の文集の二人の文章から、いみじくも象徴的なものを感じた。

24)大ボラ吹き。なんでもかんでもウソにしてしまう。こんな人もあったもんじゃない。そしてホラがばれても、どうてこともない。そうとう、キモッ玉が強いようだ。石川裕人「ますだ6」p57 名取市立増田中学校生徒会 1967/03

25)約100メートルぐらいの高さの所に、出たり入ったりしてすごい姿を見せている。雲などをかぶっているところなんか実にすばらしい。帰りもあのおそろしく長い道をさっきの逆の方向に進んでいった。ほんとうに遠足だ。阿部清孝「ますだ6」p48 名取市立増田中学校生徒会 1967/03

26)この二つの文章を、今とても意味深く読みなおしている。「大ぼら吹き」の「キモっ玉が強い」人物に感心する彼。「雲をかぶった」景色を見つつ、「帰り」道につく私。

27)私はずっと旅館の温泉に浸かっていたいとは思わない。やはり「希望」して磐司岩を見に行くだろう。その道は山道ででこぼこしている。だけど見に行きたい。そしてその風景に神秘を感じ圧倒されつつ、やがて帰り道につく。そして、「雨の日、出かけるのも楽しいものだと思った。」と結論づける。

28)彼もまた、少年らしく、夏目漱石という文豪に挑み、ひとつひとつを分析しつつ、「演劇」性に感動しつつ、「下巻が楽しみだ。」と結論づける。to be cotinued 「つづく」である。根っからの「演劇」性を持ち合わせていたのだろう。

29)私は私なりに、山道をこえて「神秘」を見てきた。苦労もあったが「雨の日、出かけるの楽しい」と思う。そして、「帰り」ついて、今、ここに、いる。

30)主人公はまるで私の自画像ではないか。(第二十回最終回 砂上の楼閣?)

31)彼の「演劇」性は、使いようによっては、「私の鏡」になる。

32)100本の大嘘は妄想・幻想の集大成でもある。(第二十回最終回 砂上の楼閣?)

33)私は今、その「集大成」を「解体」しようとしている。そして、彼の本当の顔、オリジナル・フェイスをみつけよう、としている。本当の彼の顔は今、どこにあるだろう。そして、そこに、まさか、私自身の顔などみつけたりするならば、そこから新しい事態がおこるだろう。

34)それは新しい謎を呼ぶ「演劇」性への「つづき」となるのか。

35)それは「覚醒」の扉を開いて、the end 「完」となるのか。

<4>につづく    

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2012/10/23

『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<2>

<1>よりつづく

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「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 <2>
石川裕人ブログ 石川裕人年表

1)洪洋社時代の主要メンバーである友人から他の用事で電話がきた。どうも気になるので、確認してみた。

2)劇団員の中に一人どういうわけか反対する人間がいた。ほぼ旗揚げメンバーである。当時は合議制で上演作を決定していたから一人の反対者が出れば上演できなかった。(第五回 地下に潜る)

3)この「反対する一人」とは誰かと聞いてみたのである。その友人もすでに記憶がさだかでなくなってはいたが、いつもいつも「反対する」という特定の人物はいなかっただろう、ということだ。全体が合議性だったので、結論を得ようとすると、最後の最後の一人まで賛成を取り付けることは難しかった、という意味だろう、ということだった。納得した。ほぼ全員が旗揚げメンバーだったので、みんなが云いたい放題云える雰囲気だったんだろう。そして、最終的にまとまればよかったのだけど、まとまらなかった。

4)それと洪洋社時代に公演された「バック・ザ・ビギン」の作者はギャンガマガマ(どういう字を書くのかあとでしらべよう)=かまちゃんだった、ということだ。この時のパンフレットなども、当時私が勤めていた印刷会社で、私がリデザインして、私がオフセット印刷機を回して印刷したらしい。そういわれれば、確かに記憶がよみがえってくる。

5)そして私は劇団員へTheatreGroup"OCT/PASS"への発展的解散を宣言した。ちょうど40歳。私はテントへの決別と1ヶ月を越えるロングラン公演の確立、新機軸の戯曲連作など大人の鑑賞に堪えうる芝居作りを標榜していた。とにかく芝居でメシが食いたかった。(第十一回 十月劇場を閉じる。)

6)当然のことだろうと思う。93~94のことである。

7)私が彼の演劇を意識して見なくなったのは、95年晩秋からである。

8)46本目「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」現代浮世草紙集第三話は仙台演劇祭参加作でオウム真理教問題へ真っ向から切り込んだ問題作で宗教者への説明、当時仙台にあったオウム真理教とおぼしき団体からの無言電話、嫌がらせなどがあったが無事乗り切る。’95年はもう2本書いている。(第十二回 ”OCT/PASS"始動。)

9)私はこの作品に唖然とした。私の中では、この作品「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」を石川裕人、サイテーの作品と位置付けている(これは訂正を要する。2012/10/25記)。彼のスピリチュアリティ理解の薄さ、おちゃらけ、下種なジョーク。もう覚えてはいないが、最後まで見ないで会場を飛び出したのではなかっただろうか。

10)そもそもが、この「なになにと思しき団体から無言電話、嫌がらせなどがあった」とするところ自体、私は、彼のセンスを疑う。どうして、「無言」電話から「団体」とわかるのか。私の拙いジャーナリスト根性というか、ノンフィクション・ライティング傾向から考えると、どうもこのような表記が、うっとうしくてしかたない。

11)私にとってはこの事件は大事件だった。その意味は深く深く問われる必要があった。だから、私は、もう一度深く沈黙の淵に落ちていった。ここいらの数年前までの私の経緯は「湧き出ずるロータススートラ」(2002/06)に書いておいた。趣旨がまったく違う文章ではあるが、年代をつき合わせるには重要な意味がある。

12)私はこの団体のことを言葉に出して考えられるようになるまで10年かかった。そして、この団体名に含まれるチベットのマントラを108回唱える(つまりこのマントラを含んだ本を108冊読んだ)ことで、ようやく解放された気になった。それはごくごく最近になってからのことである。

13)近々この時の上演台本を借りることができる可能性がでてきたので、どうしてももう一度再読しておきたい。今となっては作者をどうすることもできないが、なぜに私があれほどまで感情を激したのか、自分で確認しておきたい。

14)そしてオクトパスになって、「現代浮世草紙集」という「社会派」シリーズと、「プレイ賢治」というシリーズで、「量産体制」をつくり、「穏健派」を装うようになった。それは確かに「大人」のふるまいだった。

15)”OCT/PASS"になって「現代浮世草紙集」と「PlayKENJI」という二つの連作戯曲を手がけるようになる。PlayKENJIは宮澤賢治の作品を換骨奪胎して演劇的手法で組み立て直すという趣向の戯曲である。(第十三回 『百年劇場』というメルクマール。)

16)食えたか食えなかったかはともかくとして、オクトパスこそは、劇作家・石川裕人の「完成形」であったのだろう。だから、最大の代表作を十月劇場時代の「時の葦舟」三部作を頂点としつつも、オクトパス時代になって盤石な地盤を両翼に広げ、大地へと舞い降りていった。

17)劇作家・石川裕人を語るなら、このオクトパス時代をまず語らなければならない。彼は石川裕二でも、いしかわ邑でも、石川邑人でもなかった。彼は自分自身を劇作家・石川裕人、と「確定」した。残念ながら、私はこの時代の彼を完全に見失っている。今は多くを語る資格を持っていない。

18)しかしながら、彼を石川裕二と見、ニュートン、と見た場合、「劇作家・石川裕人」は、ニュートンと呼ばれた総体の、一パート、一キャラクターに過ぎない。「ニュートン」全体を語るなら、やはり、巨視的な視野を得つつ、オクトパス時代の「劇作家・石川裕人」を発見し、さらに再検討しなければならない。

19)字面だけ読んでいるとまったく頭に入ってこないのだが、「児童劇団AZ9ジュニア・アクターズ」とか、「高齢者俳優養成企画AgingAttack!!」とかは、なんだったのだろう。一回、しっかりと捉えなおさなければならない。

20)ところでこの’98年に新人がなんと8人も入ってきた。現在残っているのは篠谷薫子と美峰子だけ。(第十四回 とんだバブル。)

21)今、オクトパスの団員として活躍しているメンバーの中心はこれ以降の人びとである、とお見受けする。4つの時代の石川裕人演劇のスタッフたちは、時代別に分かれていて、必ずしも、先輩後輩の関係が密ではないのかもしれない。そういう意味では、私もまた「石川組」の一人ではあるわけだが、先輩らしいことなぞ、何もできなかった。

22)私はただただニュートン本人だけ見ていた。視野狭窄に陥っていた。

23)初の海外旅行をするきっかけはテレビ・ドキュメンタリーのための戯曲を書くための取材で98年12月に香港、ハワイと東西に旅立った。(第十五回 21世紀を目前に。)

24)ほう、あれだけ国内を公演旅行していたのに、海外旅行をしたなんてことは聞くことはなかった。もっと早い時期に海外を体験しておくべきではなかったか、とも思うが、諸般の事情が許さなかった経緯もわかる。

25)63本目「夜を、散る」現代浮世草紙集は脳死からの臓器移植問題に真っ向から挑んだ戯曲。ドキュメンタリータッチで描かれた病院の待合室のドラマは迫真的で反響を呼んだ。ちょうど臓器移植に関しては賛否両論の時期だったのでマスコミが取り上げてくれた。(第十五回 21世紀を目前に。)

26)やはり、「現代浮世草紙集」とはそういうシリーズだったんだな。大人の社会派を説得する演劇シリーズ。このシリーズの第三作目にあの作品「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」は位置していたのだ。大人の社会派の目からみた麻原集団事件。そんなものを、他人に解釈してもらおうとなど、私はしていなかった。ただただ、一つのリトマス試験紙として使っていた。彼はどう判断し、この人はどうみているか。少なくとも、彼は私に向けて語っていなかったし、私は私で、私が望む「視点」を彼の中には見つけることができなかった。

27)しかし、演劇や芝居はどういうものか、ということはともかくとして、私自身はそれらに、何を求めているのだろう。もし、彼が「演劇人」ではなかったら、まったく演劇になど触れることもなかったかもしれない。私の側からは不要なものにしか見えていないのではないか。

28)72本目「わからないこと」~戯曲短篇集~)は「遙かなり甲子園」「兆し」「わからないこと」の3本からなる作品集的戯曲でまとまった1本とはいえないが、3本ともいえないので難しい。(中略)「遙かなり甲子園」。まぐれで甲子園出場を決めてしまった僻地の高校の顛末を描くコメディ。(第十六回 年間5本2年連続 その1)

29)この作品は、ひょっとすると、この私を「おちょくって」いるかもしれない、最初はそう思った。上演されたのは2001/11。この当時私は某県立高校のPTA会長をしていた。そしてひょんなことで、その野球部が「まぐれで甲子園出場をきめてしまった」のだ。県立高校としては50年ぶりの快挙であった。出場支援実行委員長として私は忙殺され、さまざまな貴重な体験をした。

30)彼はこの私の「事件」を知っていてこの短編をものしたのだろうか、と最初思ったが、どうやら年代が違う。私の「事件」のほうが半年後の2002/08だった。彼が先にシナリオを書いて、私が「社会」の中で演じていたなんてこともあるかもしれない(笑)。

31)75本目「ほんとうの探し物」~目覚めなさい、サトリ~は児童劇団ザ・ビートへの脚色。(幸野敦子原作) (第十七回 年間5本2年連続 その2。)

32)タイトルからすると、ちょっと気になるが、原作は別人のようだ。

33)9月11日アメリカ同時多発テロ。この時の衝撃が77本目「この世の花 天涯の珊瑚」を書かせた。12月に上演しているから、本当に即書き下ろしたことになる。書かずにはいられなかった。1970年の三島由紀夫割腹事件からフィクションは現実に追い抜かれ始めたとうのが私の見方だが、ここにきて完璧に私たちの想像力はツインタワーのように爆砕されてしまったように思えた。私たちは、劇作家は、演劇人は想像力を行使していかに現実に立ち向かっていくのだろう?というのが大きなテーマになった。その端緒としての戯曲である。(第十七回 年間5本2年連続 その2。)

34)ここでは逆に、彼のほうが年代を1年間違っているのではないだろうか。9・11が起こったのは2001/09、上演されたのは2002/12なので、1年以上かかっていることになるのではないだろうか(未確認)。

35)どうもこの年は賢治年だったらしく、「センダード」に続いてこの作も賢治の「銀河鉄道の夜」を下敷きにしている。ネタに詰まると賢治というのが私の傾向で、PlayKENJIや賢治モノが上演されたときは、ははあ石川はネタ切れか、と思ってもらっていいかもしれない。そして、賢治の作品には茫洋たるヒントが多く詰め込まれていると言うことでもある。(第十八回 ”OCT/PASS"に書かなかった2004年。)

36)他にも書いておいたが、興味深い一説である。

37)87本目「修羅ニモマケズ」PlayKenji♯4は宮澤賢治のかこった修羅=ストイシズム(禁欲)、ストレンジ(異貌)、スーパーネーチャー(超天性)を描いた祝祭的戯曲。大河原、山形県川西町、仙台文学と基本的に野外で上演された。(第十九回 宿題。)

38)私がもうすこし前に賢治に目覚めていれば、ぜひ見に行きたい作品だった。プレイ賢治シリーズについては「見逃したな」と、素直に思う。

39)’08年、94本目「少年の腕」ーBoys Be Umbrella、はアングラ・サーカスという新しいスタイルを求めて書き下ろされた戯曲。というより得意分野にシフトし直したという意味合いが強い。得意分野とは綺想、フェイク、大法螺である。この分野になると思わず筆が走る。最新作「ノーチラス」までこの分野の戯曲が多くなっているのは何か意味するものがあるのだろうか?(第二十回最終回 砂上の楼閣?)

40)やっぱりこの劇作家の一生を貫く基本線は、中学校一年時の文集において夏目漱石を読んだ感想文で、「迷亭先生の大ボラ吹き」について触れて以来、「大法螺」にあったのではないかしらん。

41)2010年。そして100本目「ノーチラス」~我らが深き水底の蒼穹~を書き下ろした。6月に書き下ろしたこの戯曲は書いている間は無意識だったが稽古しながら考えてみると実に示唆的だった。革命戦線から離脱し地下に潜り妄想の帝国を作り上げた主人公はまるで私の自画像ではないか。100本の大嘘は妄想・幻想の集大成でもある。1本×原稿用紙100枚平均として10000枚に上る原稿用紙は幻視の砂上の楼閣のようでもある。しかし、確実にこの手でここに書いてきた筆跡は存在している。(第二十回最終回 砂上の楼閣?)

42)なるほど、そうであったか。一度はぱらぱらめくった「ノーチラス」ではあったが、再読を要す。

<3>につづく

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