カテゴリー「20)絆の都」の94件の記事

2015/01/24

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<53>「絆の都」カテゴリについて

<52>よりつづく

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<53>「絆の都」カテゴリについて

 書かれたのは2014/11/02から2015/01/24までの、年末年始の繁忙期。

 そもそも当ブログは、「メタコンシャス 意識を意識する」まで上り詰めた時に、3・11に遭遇し、「森の生活」へと、不連続に、ジャンプしたのだった。

 それは抽象性から具象性への、単なる回帰ではなかった。

 そもそもは、石川裕人作「時の葦舟」三部作の第一部のタイトルをカテゴリ名に借りたものである。

 具象性から抽象性へ、そして抽象性から具象性へ。

 このカテゴリにおいて、当ブログは、不思議な錐もみ状態を味わっている。逆ベクトルの意味で、3・11に匹敵する、非連続性の、シフトである。

 「再読したいこのカテゴリこの3冊」 は 

「タイニーハウス」小さな家が思想を持った  ワールド・ムック―Living spheres
レスター・ウォーカー(著), 玉井 一匡山本 草介  2002/08 ワールドフォトプレス 
 

「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア
ジョナサン・ドーソン/緒方俊雄他 日本経済評論社 2010/09  

「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 

の三冊。

 次のカテゴリ名は、まだ敢えて決めてはいない。暫定的に仮名で始まり、やがて自ら正しき名称を獲得するだろう。

<54>につづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「絆の都」編

前よりつづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊

「絆の都」

 

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「タイニーハウス」
小さな家が思想を持った  ワールド・ムック―Living spheres
レスター・ウォーカー(著), 玉井 一匡山本 草介  2002/08 ワールドフォトプレス ムック: 223p

 

【送料無料】世界のエコビレッジ
「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア
ジョナサン・ドーソン/緒方俊雄他 日本経済評論社 2010/09 単行本 145p より抜粋

 

Daiyamondo_3 
「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

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「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る<14>

<13>よりつづく
 

Daiyamondo_3 
「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <14>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

ニュートンが私に残した一冊Osho「ダイヤモンド・スートラ」で、このカテゴリを締めるのがもっともふさわしかろう。「時の葦舟」三部作、その第一巻は「絆の都」であった。ここは終わりではない。ここがスタートなのである。

一瞬一瞬が、ちょうど息のように、生じている
あなたは息を吸い、息を吐き出す
ひとつひとつの吸う息が生であり、ひとつひとつの吐く息が死だ
あなたは息をすうたびに生れ、息を吐くたびに死ぬ
一瞬一瞬をして生と死たらしめるがいい
そうすればあなたは新しくなる
この新しいものはあなたの過去、指向、衝動とはなんの関係もない
それは臨機応変に行動するはずだ
それは反応(リアクション)ではなくて対応(リスポンス)だ
過去をもとに為されたことはすべて古い
そのために人は自分だけでは何ひとつ新しいことができない
それを見ることは、古いもの、過去、自分自身と手を切ることだ
私たちにできることはただそれだけだ
だがそれが全部だ、それがすべてだ
古いものが終わるとすぐに、新しいものが続くかもしれないし、続かないかもしれない
それはたいした問題ではない

新しいものに対する願望そのものが古い願望だ
そのときには人は全く開放的(オープン)になる
新しいものを求めることさえ古い願望だ
p213「<彼方>から」

 「絆の都」カテゴリの最後の一冊はこれ。すでに何度も何度も読んでいる。前回は、講話の部分だけを読みとおした。今回は、Q&Aだけを読んで、最後のメモを残そうと思っていた。

 しかし、Oshoの前にあっては、そのようなはからいはつねに破綻する。ここからここまでが一区切りということはない。たしかに本はそうできていて、それをひと固まりのものとして、区切り区切りで読みつなぐことはできる。

 だが、そうはならないのは、いつものOsho本の読書である。

 それでも、随分この講話も読み進んだ。長く手元にありながら、それほど精読したことはなかった。もしニュートンこと石川裕人が、この一冊を、彼の蔵書として残さなかったら、私は今回読みなおしもしなかっただろうし、カテゴリ名にもしなかっただろうし、メモもしなかっただろう。

 何かを機会をとらえて、何回も何回も、元に戻されるのがOshoの世界である。

この「私」がおそれている、ほんとうのあなたではない
存在(ビーイング)は恐怖をもたない
だが自我(エゴ)は恐怖をもつ
なぜなら自我(エゴ)は死ぬことを非常に恐れているからだ
自我(エゴ)は人工的なもの、かってにつくられたもの、組み合されたもの
それはいつでもばらばらになりうる
そして新しいものが入ってくるとき、恐怖がある
自我(エゴ)はおそれる
ばらばらになるかもしれないからだ
それはどうにか自分を繋ぎ合わせよう、自分をひとつの塊に保とうとしてきた
そしていまや何か新しいものがやってきている
それはめちゃめちゃするものだ
だからあなたは新しいものを喜びをもって受いれない
自我(エゴ)は自分が死ぬのを喜びをもって受けいれることはできない
どうして自我(エゴ)に、自分自身の死を喜んで受けいれることができよう
p215同上

 おそらく、この講話を「読み終わる」ということはないのだ。たしかに字面を追い、最後のページに辿り着き、裏表紙を閉じることはあり得る。いや、もう何度もそうしてきた。

 しかしながら、それは「読み終わった」ということを意味しない。読んでいる、のであって、読み終わることはない。

 このメモで、このカテゴリは終わりだが、まだ本の最後の頁までは辿り着かない。最後まで辿り着かないが、本の途中で終わることもあり得るだろう。いつの日か、もうこの本は読まなくてもいい、と感じる日がくるかもしれない。

 そう言った意味においては、まだこの本を読み終わってはいない。

 そしてまた、この本は、ある意味、何処から読んでもいいのだ。少なくとも全体的に、字面には、どこにどんなことが書いてあるか、ざっと把握した段階で、読みだすのは、別に最初の第一ページからじゃなくても構わない。

 そして、そういう意味においては、今、この本をようやく読み始めた、と言うことだって、可能なのだ。

自分は自我(エゴ)ではないということを理解しないかぎり
あなたは新しいものを受けいれることはできない
ひとたびあなたがこのことを見たら・・・・
自我(エゴ)はあなたの過去の記憶で、それ以上の何ものでもないということ
あなたはあなたの記憶ではないということ
記憶はちょうど生体計算機(バイオ・コンピューター)のようなものだということ
それは実用的な機械、機構だということを・・・・
だがあなたはそれを超えている
あなたは意識だ、記憶ではない
記憶は意識の中身だ
あなたは意識そのものだ
p216同上

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2015/01/23

「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア ジョナサン・ドーソン<14>

<13>よりつづく
【送料無料】世界のエコビレッジ
「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア<14>
ジョナサン・ドーソン/緒方俊雄他 日本経済評論社 2010/09 単行本 145p より抜粋 

1) この「絆の都」カテゴリを閉めるにあたって、最後の三冊の二冊目として選んだのはこの本。実際にはビル・モリソン達の「パーマカルチャー」 農的暮らしの永久デザイン(1993/09 農山漁村文化協会)も、意味としては含まれている。

2)私(たち)の目の前には、厳然として、4万坪の森が存在する。目をそらして通り過ぎることも可能であるし、真正面からぶつかり四つに取り組むことも可能である。しかしながら、どちらになるのか、あるいはどちらにもならないのかは、私、というより、私「たち」の在り方に依存している。

3)正直に言えば、私自身は、それほど大きなウェイトで「農業」を第一に考えていないところがある。身の周りには農家が多く、食料の多くは彼らが作ってくれるものを消費することが多い。彼らプロやセミプロに任せておいたほうがいい、と思ってしまうからである。

4)それらを敢えて「パーマカルチャー」と呼ばずとも、日本においては、パーマカルチャー的にならざるを得ない。それが無農薬なのか有機栽培なのかは、大きな違いではない。例えば多少放射線量が確認されるかもしれない食料であったとしても、高齢の私は、如実な影響が認められない限り、彼らからの贈り物はありがたく頂いている。

5)エコビレッジという時、それは、ある意味、私がかつて生まれ育った農村風景が目に浮かぶ。何もあらたまってカタカナにせずとも、あの風景はエコであったし、ビレッジであった。しかしながら、それは「かつて」なのであって、今、自分の生地を見てみると、決して「エコ」でもなければ「ビレッジ」でもない現状がある。

6)もちろん厳密には、かつての日本的「パーマカルチャー」も「破壊」されている。

7)戦後の価値観の中で、グローバル文化の進行により、現代農業のメインストリームは異様な進化を遂げ、ある意味、命脈を絶たれた。おそらく、これから不連続な改革を避けては、日本の農業は再生しないだろう。

8)一つは大型化&モノカルチャーの道である。大資本の導入、大量消費地の確保、雇用形態の現代化。それらはおそらく、一時の成功を収めるが、最終形態ではないだろう。

9)それに対抗してでてくるのが「エコビレッジでパーマカルチャー」というスタイルである。現在の状況というより、未来に向けての提案である。そこには実際には目新しいものなど含まれていない。ある意味、原点回帰、原則回帰でしかない。

10)エコビレッジという概念で捉えられる「運動」は、世界各地に見られるが、成功例として数えられるのは、ほんの一握りである。あるいは、その「成功」も限定的な意味でしかない。すくなくとも数年以上存在していれば「成功」と見られるだろう。

11)しかし、3・11後を見るにつけ、人口増加、価値観の多様化、自然環境の大変化などなどを直視していれば、次なる可能性を模索せざるを得ないのが、意識ある人間の生き方である。

12)さて、目の前にある「森」が、最適で、最良だとは、とても言えない。ある意味、残された、利用価値の少ない土地である。ある価値観から見れば、利用すべき部分が少ないかもしれないが、視点を変えれば、優良な土地にも見えてくる。

13)まず私にとっては、道のり30キロの至近距離にあるということ。今のところ、ほとんど投資なしで利用が可能であること。多くはないにせよ、賛同する仲間がいるということ。私自身が、そこに「夢」を描けるということ。

14)これらは、極めて軟弱な地盤に立っている。その土地はいつまで利用可能なのであるか。どれほどのリスクを抱えているのか。仲間うちに支えられているとはいうものの、それはどれだけ盤石なネットワークたり得るのか。

15)そしてなによりも、自らの内に抱えた「夢」は、本当にその地で「実現」できるのか。

16)疑問だらけであるし、難問だらけである。

17)エコビレッジの創設において、中核となるグループを確認し、土地を見つけ、地域計画当局に働きかけ、投資資本を調達し、適切な法体系を作り、建物を建設し、どのようにして所得を得るか、どのようにして所得を分配するかという意思決定機構を決め、利害対立を処理するなどの、エコビレッジの形成に関わる第一歩は決して簡単な仕事ではないということは、確かな事実である。

 それにもかかわらず、一般的に認識されるひな型あるいはモデルと見なされるケースが欠如していることによって、しばしば将来エコビレッジとなるつもりの各新規グループが一からやり直すはめになっているのである。p108「エコビレッジの新しいフロンティア」

18)石川裕人「時の葦舟」のなかの「絆の都」もまた、決してパラダイスやユートピアとして描かれてはいない。むしろ破壊されたデトピアとして描かれている。そしてかの演劇はここからスタートするのであった。

19)今回、あらためてこの本を通読しなおして、思うところ多々あった。未来に馳せる夢の大きさに比して、眼前に横たわる難問も決して小さくはない。いやむしろ、難問のほうが大きいと言える。

20)ましてや、一人の人間の生き方や、一個のエコビレッジの成否云々を超えて、いまや地球環境の激変の中、人類の存在そのものさえ問われつつあるのである。自ら為した行ないの間違いに気付くことなくこのまま突き進めば、その結果はおのずと自明なのである。

21)存在そのものの「自然治癒力」が働き始めている。その流れに同調できるかどうか。そのことと、今、森の前に立っていることの繋がりは大きい。

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2015/01/21

「タイニーハウス」―小さな家が思想を持った レスター・ウォーカー<2>

<1>からつづく 

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「タイニーハウス」―小さな家が思想を持った  ワールド・ムック―Living spheres <2>
レスター・ウォーカー(著), 玉井 一匡、山本 草介  2002/08 ワールドフォトプレス ムック: 223p

 現在のカテゴリ「絆の都」も、あと残すところ三冊をメモするばかりとなった。何を残そうかと考えた結果、同時に「再読したいこのカテゴリこの三冊」を同時に思案していたこともあり、この三冊で決めることにした。

 「絆の都」は畏友・石川裕人<畢竟の三部作>「時の葦舟」の第一部から借りている。「絆の都」→「蒼穹のアリア」→「さすらいの夏休み」の三部で、全体が「時の葦舟」というタイトルになっている。

 これら4つのネーミングはすでに当ブログのカテゴリ名として使用済みである。必ずしも、演劇と当ブログの内容はクロスしないが、常に私は、彼の作品を頭に入れて、メモし続けてきた。

 クロスしたかしなかったかは、読み方の違いによる。

 さて、そういった意味において、「絆の都」の終盤において、まずはここに登場するのは「タイニーハウス」である。そもそもは「可笑しな小屋」居心地のいい「ミニハウス」---羨望の35軒 ジェィン・フィールド=ルイス(2013/12 二見書房)のバーナード・ショーの小屋に見とれていたのだが、この「タイニーハウス」において、更なる見取り図がついていたりしたことが大きかった。

 このカテゴリ内でも例えば坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる」(2013/08 集英社新書)などもめくってはみたが、必ずしも、タイニーとは廉価を意味するものではない。むしろ、タイニーに比較すると、何々円と表記することの卑屈さが、ますます鼻について、嫌いになった。

 佐々木俊尚 「仕事するのにオフィスはいらない」 ノマドワーキングのすすめ(2009/07 光文社) も、面白くないわけじゃないが、すでに、零細とはいうもののオフィスを持っているものにとっては、あんまり意味をなさない。

 ことほど左様に、本当のことを言えば、アメリカを中心とするタイニーハウス・ブームも、第一ハウスを持っている人間が、第二のハウスとしてタイニーハウスを持とうとするのは、どこかコンセプトエラーのようである。

 昨日、ある造園業の社長と話していた。すでに古希を迎える彼は実に働き者だ。私は十代の時に、まだ30そこそこの彼の事業所でよくアルバイトをさせてもらった。私ばかりか私の主だった友人たちも、だいぶ彼のところでアルバイトをした。40年来付き合いのある懐かしい人々である。

 その彼が、何回かに建てた事業所を今回売却することになったという。すでに従業員も減らして、来月からは一人でやるという。え?何処で?と聞いたら、なんと、スキー場の麓の山中にすでに300坪の土地を確保しているという。あらあら、立派な自宅の他に、さらに別荘地も獲得していたのか。

 300坪の土地はともかくとして、小屋は、6畳ほどのコンテナハウス、これを事務所にするというが、電話をつけたり、水道を引いたりするかどうかはまだ決めていないという。

 残った資材の置き場としては20坪ほどの電柱骨組みの小屋を建ててあるという。さすがに準備がいい社長のことである。

 しかしまぁ、なんとも手回しがいい。山中とは言え、その土地は宅地になっているそうで、本格的な建築も可能なのだ。一人息子も、立派に成長したので、本当は悠々自適の身なのだが、息子には「死に水を取ってくれれば、それでいい」と言ってあるらしい。

 私はその土地はまだ未訪問だが、近いうちに訪問することになるだろう。風が強いところらしく、また雪も積もる。決して、住宅や事務所に最適とは言い難い土地ではあるが、結局、彼があれだけ一生懸命働いて残ったのは、自宅と息子とそのタイニーハウスである。

 この人生、このハウスには、どこか必然性があるなぁ、と思う。私なんぞは、基本、働き者ではないので、今から、そんなに立派な環境を揃えることなどできないが、ホント、うらやましい。

 あるいは、人生って、やればできるんだな、と思ったのだった。そう思ったのは、実は、他に研修会もあり、なるほど、人生捨てたもんじゃないなぁ、と感慨に耽っていたせいでもある。

 それでまぁ、この「タイニーハウス」に戻るが、なにかの流行や奇をてらっているのではなく、必然の中で、このように、質素に、簡単に、頑丈で、必要最小限の住居スペースが作れるよ、というのがこの本なのであった。

 家そのものは、そもそも「思想」なのである。どのような住まいをするかは、その人のなりを表わすのだ。

 思えば、私の自宅も、実にタイニーハウスである。細々と、本当に必要に迫られて作った住まいである。あれもしたいこれもしたい、と思いつつ、結局はこれでいいじゃないか、という妥協の産物とも言える拙宅ではあるが、小さきながらも楽しき我が家ではないか。

 私はこの本を読みながら、正直言って、吾唯足知の境地であった。これでいいじゃん。ここで遊んでいければ、別に、あれやこれやと思いをあちこちに飛ばす必要もない。

 そもそもタイニーなんだから、タイニーを極めればいいじゃないか、と、ある種の諦めではあるが、ふと落ち着いた心境になったのであった。そういった意味において、本書は面白かった。

 

 

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2015/01/19

「朗読の時間 宮澤賢治」 (朗読CD付き名作文学シリーズ)長岡輝子(朗読)

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「朗読の時間 宮澤賢治」 (朗読CD付き名作文学シリーズ)
宮澤 賢治(著), 長岡 輝子(朗読) 2011/08 東京書籍 単行本CD一枚付き 101pTotal No.3380★★★★★

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「サンガジャパン 」vol.1Vol.11(2012Autumn) 特集:瞑想とは何か

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「サンガジャパン 」vol.1 特集:瞑想とは何か
アルボムッレ・スマナサーラ, 田口ランディ, 吉福伸逸, 石飛道子, 葛西賢太,他 2012/09 出版社 サンガ 単行本(ソフトカバー) 335p
Total No.3379★★★☆☆

 スマホの読書アプリに配本されてくる無料サービスのなかにこの一冊があった。へぇ~、こういう本があったのか。たしかサンガという新書は何冊か当ブログでも読んでいたが、このような雑誌があることはしらなかった。古い雑誌とは言え、何百ページにもわたって無料公開されるということに、私は素直にびっくりした。

 いまさら、瞑想というものについてあれこれゴシップを漁る気はないので、ひとつひとつの記事を読む気にはならなかったのだが、一つの記事に目がとまった。

 「ダンテス・ダイジの説いた冥想」SCL広島精神文化研究所 渡辺郁夫、という方の文章が14ページに渡って掲載されている。p222

 ダンテスダイジの著書については、以前何冊か当ブログでもメモしたことがあるが、まったく十分なものではない。その関心の発端も、必ずしも純真なものではない。しかし、気になる存在ではある。

 どうして気になるかについては、過去に書いたかもしれないので、あえてここでは繰り返さない。他に、この文章の類書を見たことないが、ここでこの文章に触れることができたのは何かの縁と、メモしておく。

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「人が集まるボランティア組織をどうつくるのか:」 「双方向の学び」を活かしたマネジメント

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「人が集まるボランティア組織をどうつくるのか:」 「双方向の学び」を活かしたマネジメント
長沼 豊(著) 2014/09 ミネルヴァ書房 単行本 215p
Total No.3377★★★★☆

 これだけベタなタイトルの本を借りることは、ちょっと気恥ずかしいが、新刊本コーナーに並んでいて、まだ借りる冊数に余裕がある場合などには、どさくさに紛れこんで借りてくることになる。

 町内会やPTA活動、業界団体活動などもボランティアの範疇にいれる著者の姿勢には賛成である。かくいう私も、人生の半分以上の期間にわたって、なんらかのボランティア活動に参加してきた。時には、リーダー的役割を与えられ、四苦八苦したことも、いろいろある。

 この本に書かれていることは至極ごもっともという感じがする。ながく活動していれば、ほとんどの人が感じる、共感できる内容だろう。

 しかし、それは、その中にいて活動したからこそ得ることのできた感慨であって、あらかじめハウツウ本としてあることに、私ならちょっと躊躇する。

 しかし、いまでは就職活動ならぬ、婚活などのマニュアル本も多く出ているご時世である。必要な人には必要な内容となるだろう。

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「ヒューマン・コマース」グローバル化するビジネスと消費者 角川インターネット講座 (9)三木谷浩史(監修)


「ヒューマン・コマース」グローバル化するビジネスと消費者 角川インターネット講座 (9)
三木谷 浩史(監修) 2014/10 KADOKAWA/角川学芸出版 単行本 256p
Total No.3376★★★☆☆

 現在のインターネット状況を楽天、あるいは三木谷浩史的視点からとらえた一冊。15冊シリーズとなれば、このような視点も必要となろう。

 楽天的と言えば、それはビジネスであり、ベースは日本であり、また販売である。それ以上でも、それ以下でもない。

 楽天は地元に球団・球場があるし、そもそも当ブログがスタートしたのも楽天ブログであったので、見知らぬ動勢ではないが、格別に好きとは言い難い。むしろ、なんの縁故もなければ、と遠ざかっていたい動勢である。

 せっかくのインターネットなのだが、楽天や三木谷にかかると、現実的すぎて、面白味にかける。何と言えばいいのか、本当に面白い部分の30%くらいがカットされて、当たり前な60%くらいで結論を得るというような、あくびがでるような結果になる。

 そう感じるのは、こちらがすでに還暦した初老の男を生きる時代になっているからかもしれない。今から30年前、私はまだ30代になったばかり。小なりとは言え、企画室という一つの部屋を与えられ、予算をつけて、ひがな本を読まされた時期があった。

 あの頃なら、この本はすごく楽しく読めたと思うし、また、このような未来へとつなぐべく日々読書を重ねていたのだった。

 そして思う、21世紀になろうが、インターネットが進化しようが、あの当時と今とでは、基本はそう変わらないのではないか。つまりだ、楽天が展開しようとしている世界は、それこそその原型と言われる楽市楽座の江戸時代も今も、基本は同じようなものであろう。

 逆に言えば、30年前でも、還暦過ぎた初老のシルバー達はいたわけであり、この本が面白くないと嘆くより、もうこのような本は必要なくなった我が人生の変遷にこそ心寄せるべきなのである。そう気付いた。

 インターネットはメディアではなく、インフラであるというのは冒頭で述べたとおりだが、交通や輸送、通貨といった従来のインフラに加えて、インターネットという横断的な新しいインフラができたわけだから、既存の制度や法律も変えなければいけないのは当然だ。

 あるいは、インターネットはグローバルでもあり国境がないのだから、法律自体がまったく意味をなさない。国内業者だけを規制しても効力がないとう事態も当然発生する。p023「ヒューマン・コマース」三木谷浩史

 商いの実体は常に変化していくわけだし、利を求めるのは仕方ないにしても、それは突然に変化するものではない。徐々に連続して変化していくものであるし、不連続になってはいけないものだ。

 集合知も創発も一度暗転するととてつもない愚劣な知識と混沌を残すだけのものになってしまう。したがって、無数の多様な知識やマグマのように爆発する創発力を、混沌や破壊だけに向けない何らかの制御が必要なのである。

 しかし、そうした破壊力のあるネットのもつ創発力をまとめあげるのに、またかつてのようなエリートだけに閉ざされた知識教育やカリスマ的リーダー育成が必要なのであろうか。多分、それは違う。

 結局、膨大な集合知や創発的破壊力をより高い次元で平和共存や民主主義、そしてすべての人に保護される基本的人権や福利厚生に結びつけていくには、やはりこのネット自体がもつ集合知や創発力に頼らなければならないのだろう。

 筆者の願いは、こうした「誰のものでない手」が、ネット上における破壊力や収束不能とも見える混沌を超えて、われわれをより豊かで自由な世界に導いていってくれることである。p296米倉誠一郎「ネットの混沌を超えて」

 外側が豊かになっていくことに、なんの疑念もない。しかし、この視点からでは、内面の豊かさへの足がかりが、まったくないことになるのではないか。

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2015/01/18

「災害ユートピア?」 てつがくカフェ第41回 せんだいメディアテーク

<2>からつづく 

災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか
「災害ユートピア」―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか <3>
レベッカ・ソルニット (著), Rebecca Solnit (原著), 高月 園子 (翻訳) 2010/12亜紀書房 単行本: 440p
★★☆☆☆

Smt
てつがくカフェ 41回 「災害ユートピア?」
smt仙台メディアテーク 2015/01/18 7Fスタジオ

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1)行ってきました。今回は私が一番の高齢者だったかもしれない。若い女性が多かった。20代、30代が中心か。若い男性も結構いて、このタイトルは、若い人向けかな、と思った。

2)しかし、若い人たちはこのコンセプトには割と辛口に対応していた。今回も色々な意見が聞けて極めて有意義だった。他の人々の意見もともかくとして、以下は会場で、私が話した(話したかった)内容のまとめ。

Img_1485

3)災害ユートピアというけれど、原書ではパラダイスという言葉が使われており、厳密にいうと違う。しかし、今回は語義にこだわらないということなので、このポイントは軽くスルーする。

4)会場には、仙台以外で被災した人たちが多かったので、私自身はこの会場からほんの数百メートル離れた新築の高層ビルで3・11を迎えたことを話した。四角い箱の会議室で、落ちるものなど何もない空間での「被災」であった。

Img_1489

5)他の人の「備えあれば憂いなし」という発言に、私は、その空間で、リスクマネージャー達と、地震保険のことについて研修していたことを話した。地震保険など、亡くなってしまった人にとっては何の役にも立たないが、もしもっと加入率が高ければ、災害住宅からもっと多くの人が、もっと早く出ることができたのではないか。

6)他の地域で被災した出席者から、仙台でどういう状況があったのか話して欲しいという発言からあったので、私は、一例として、あすと長町にある被災者住宅の集会所で、劇団オクトパスの、宮澤賢治をモチーフとした演劇の上演があり、その時の風景について話した。

Img_1484


7)宮沢賢治は、厳しい岩手県の自然をイーハトーブと幻視していたし、仙台のことをセンダードと名付けていたことに触れ、私は、あの3・11における「災害ユートピア」を、「センダード2011」と名付けている、と話した。

8)問いかけとして、言葉を作るとしたら、という設問に、私は「災害ユートピアはいつまで続くのか?」という提案をした。そもそも災害ユートピアはあったのか、あったが、それはすぐに消えてしまったのか。あるいは今でも続いているのか。そしてそれはいつまで続くのか、という問いかけである。

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9)今日NHKテレビで福島の川内村のドキュメンタリー番組があり、それに友人もでたようだ。原発から30キロで、高線量の状態が続いているかつての農業コミューンが、今、新たな意味を持ち始めているのではないか。色々な角度から「災害ユートピア」との対比で見てみるのも大事なことだろう。

10)そもそもテーマそのものがキチンと規定されていなかったので、全体としては漠然とした体験や意見の羅列になりがちだった。それでも、こういう切り口で、それぞれの意見を聞いてみることは貴重なことであると感じた。今後も機会があれば、ぜひ参加してみたい。

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