カテゴリー「24)無窮のアリア」の106件の記事

2014/04/07

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<49>「無窮のアリア」カテゴリについて

<48>よりつづく

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<49>無窮のアリアカテゴリについて

 そもそものこのカテゴリ名は石川裕人の戯曲集「時の葦舟」三部作の第二部のタイトルにあやかったものである。未来編、過去編、現在編の三部作の中の、過去編にあたる。悠久の過去から連想して、恐竜や神話の世界とクロスさせるべくスタートの時点では、戯曲とホツマツタエの二層構造で予定調和的にはじまった。

 しかし、中ごろより、結局は現在進行形のSNS、とくにFaceBookとの連動が始まり、恐竜でもなければ、神話でもない、自分自身の「無窮のアリア」へと進展していった。戯曲、神話とも、煮詰めは甘いが、そもそもが、当ブログは、戯曲論や神話を中心としたものではない。当然の帰結であったと言えるだろう。

 このカテゴリこの三冊は、結局、自分がまとめようとしている、自分の人生三部のうちの二冊を含むものとなった。

「雀の森の物語」 阿部清孝 1974「時空間」8号 

「存在の詩」OSHO 1975/08 アッシーシ・ラジネーシ瞑想センター 編集スワミ・プレム・プラブッダ

「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い スワミ・プレム・バヴェシュ 1992 ツクヨミ

 書かれた期間は、2014/01/01~2014/04/07。

 次は、「来るべき地球人スピリット」-読書ブログから見るポスト3・11-となる。

<50>につづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「無窮のアリア」編

前よりつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊

「無窮のアリア」

Photo1_3
「雀の森の物語」
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164


「存在の詩」
OSHO1975/08 アッシーシ・ラジネーシ瞑想センター 編集スワミ・プレム・プラブッダ

Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

後につづく

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「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<8>

<7>からつづく
Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <8>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

 ツクヨミの時代

 日本のアイディンティティ探しをして行くと天皇制を中心とした神道に突き当たるが、日本オリジナルとされている伊勢を中心とした神道は渡来人の影響の色が濃い。一説に歴史の中に消えたユダヤの一族が中東よりシルクロードや半島を渡って、この列島に天孫族として君臨したとも言う。

 日本にOSHOが入るとは日本の純粋なスピリット、渡来文化に影響されない前の古神道や縄文人の自然との共存から生まれたエコロジーに、現代に生きるOSHOの純粋な100%ピュアな覚醒が入り、未来の全く荒らしいグローバルな宗教性が開かれることではないだろうか。

 「古事記」「日本書記」の神話には、イザナギ、イザナミの夫婦の間に生まれた三貴子が登場するが、太陽の出ている地上を司るアマテラス、海の世界を司るスサノオに比べ、夜を司るツクヨミについてはきわめて簡単に紹介されているだけで、詳しく述べられてはいない。元来、権力や寛大な愛を現わす太陽、広大さや力強さを現わす海に比べ、月はどの神話においてもより女性的に表現され、より精神的で時には神秘性の象徴として登場することが多い。

 日本神話においてもツクヨミが名前のみで多く語られないのは、言葉やストーリーを越えた次元で活躍するファクターとしての役割を与えられているからである。ちなみに日(か)を読むからカヨミとなり、転じて日常を司るコヨミとなる。ツクヨミは月読みと書き、人々の精神を司るインスピレーションを表している。

 英語でローソクを現わすキャンドルはもともとサンスクリットで月を表わすチャンドラであり、これがヒンドゥやインドゥに変化してインドとなり、教典において月を象徴とする精神的民族として月氏国を表記されている。OSHOとは日本語の和尚であり、アメリカの詩人ホイットマンの造語Oceaning(海に溶け去る)から、海に溶け去った人の意味も込められているが、本命チャンドラ・ラジニーシ・モハンが示すとおり、月の神秘的な精神性を象徴しているのである。

 この経緯を見て、今こそ日本神話の中のツクヨミを呼び戻すことが日本とOSHOのスピリットを繋げることになるのだという直感から、京都の翻訳家Swモンジュは90年夏にミニコミ「ツクヨミ」プロジェクトの活動を開始している。エソテリックな世界に関心のある彼の動きには根強いファン層があり、最近は新しい時代を感じさせる全国的なフォーラムを提供している。

 高まるエソテリックな雰囲気のなかでミステリー・ワークとして、「私」は誰か、なぜ私はOSHOムーブメントに関わるのか瞑想して行くと、直感としていくつかのことがおぼろげながら解ってきた。最初は断片的な夢やビジョンや思い込みの羅列だったが、客観的な裏付けはないものの自分の転生歴に整合性を持たせると、次の様な概略のストーリーが出来上がる。

 かつて私はムー大陸に生まれ、かがり火を祀る若いミコになったが、ひたすら踊り祈るだけでムーの情念の文明が地震や噴火の「火」のエネルギーで滅びつつあることを知らなかった。

 やがてレムリア大陸に転生して都市計画者になった私は、球体を基礎とする理論を打ち立て功名を得たが、心の何処かに隙間を感じていた。晩年になって山中のコミューンに隠遁して土と汗にまみれながらも満たされた人生を送り、陰と陽の融合の文化を理解したものの、箱庭的平安に終始し「小乗」のカルマを残してしまった。 

 転じてアトランティス大陸の科学的探求者となった私は、打ち続く自然の異常現象に危機感を持ち、海岸の岸壁にあった石窟寺院で仲間達と瞑想して文明の危機を救おうとしたが、すでに時期遅く、知性に偏った文明は「水」によって滅びていく運命にあった。

 押し寄せて来た大きな津波から海岸を走って避難中、砂に足を取られてころび波に飲み込まれた。溺れて気を失い始めた時、忽然とムーよりやって来た一体の龍が天空に現われ、こんな約束をしたのだった。

 「ムーもアトランティスも偏った文明で滅びてしまった。何時か遠い未来にあなたはまた同じ様に文明の危機の時代に生を受けるだろう。再びその日が巡ってきたら私はその時にこそ必ず来たって最大限の助力をするだろう。しかし、今回はこのまま行きなさい。」

 やがて700年前のチベットでは、OSHOの過去生である菩薩が、未来にもう一度だけ転生することを約束し106才で入滅する時、私は熱心な信者家族に生まれ16才の少年になっていた。菩薩の死を悲しみながら、まだ十分に彼の教えを吸収理解していなかった私は、彼がやがて最後の肉体を持ったならば、仲間達とともにいち早く駆け付けようと心に誓うのだった。

 そして1931年ネイティブ・アメリカンとして生まれた私は、インドに転生していたOSHOが最後の光明を得て、惑星全体に約束のヴァイブレーションが起きた53年、そのショックで思いも寄らぬ事故に巻き込まれ、数十日の間、意識を失い冥府をさ迷うことになった。無意識の中でもう一度生き返ることも、このまま死ぬことも選択する自由が残されていたが、事の次第を理解した私の魂は、もう一度転生して彼の元に駆けつけることにしたのであった。

 56億7千万人のマイトレーヤー達

 最近は、HIV1、HIV2以外にの新たに存在が確認されたエイズ・ウィルスまでも人類の行く手に立ち塞がり、今やキスでも感染することが分かり、国際保健機構(WHO)の発表によれば、毎日5000人のキャリアが増え続けていると言う。

 また地球そのものも動き出し、何人ものおノーベル賞受賞者を要する研究所の代表でもあり、「スピリット・オブ・プレイス」でも来日した天体物理学者エリザベス・ローシャー女史は、最近三陸沖でも起きている群発地震は、阿蘇山噴火やカリフォルニアの地震とも連動し始めており、独自の地磁気データ研究を元に今年9月にはアメリカ西海岸を巨大地震が襲うだろうと予言している。

 日本の海岸には人食いザメが押し寄せて海水浴客を襲い、社会的にも共産主義圏の経済崩壊ばかりではなく、最近のアメリカの黒人暴動の多発に見られるように、地球上の人類はまったく悪夢のようなこの世紀末についに突入したのである。

 このような危機に際してもブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された「地球サミット」では、結局は南半球と北半球の責任転嫁と、欺まんに満ちた物と金のぶんどり合戦が演じられた。今こそ人類と地球のスピリットこそがテーマの中心になる時であり、ちなみに「スピリット・オブ・プレイス」のシンポジウムの最終回は93年1月末に、ニューヨークの国連を会場にして開催される方向で準備がすすんでいる。

 リオでも「昨年、仙台で素晴らしいシンポジウムが開かれた」と話題になていたそうで、三万人サミットの総合プロデューサーを務めたダイアン・シャーウッド氏も協力を申し出て、実行委員として全面的に協力してくれることになったのである。喜納昌吉とチャンプルーズを初め、昨年スタッフとして参加した私達も招待され発言のチャンスが与えられている。

 一方、今年12月に国連で開かれる「1993年国連原住民年」のオープニングのセレモニーを、ネイティブ・アメリカンの儀式とメッセージでと、副事務総長からホピ族の長老トーマス氏に要請があり、現地の若い人々は国連のドアがついに開いたと興奮していると言う。

 最近日本ではPKO法の制定により、国連主導型の世界平和維持軍の必要性が説かれているPeace Keeping Operationだが、何時までも地球人が地球人に銃を向けることで地球上の平和が維持されると考えているとしたら、あまりにも滑稽で、あまりにも寂しい。

 オウム真理教、幸福の科学、愛の家族、原理統一教会と、マスコミは次から次へと新宗教、新新宗教をネタにブームを作りだしているが、彼らの一体何処が新しいと言うのだろうか。古い教典をこね回し、メシアを立て、人々を組織する。この構図の中には何ら変わることのない旧態以前とした人類の無意識と無責任の上塗りしかないのではないか。今回はもうそんなことでは抜本的な解決にはなりはしないのだ。

 国連から危機に瀕している地球と人類にOSHOのメッセージを届けるとしたら、今こそかつてOSHOが国連に出した報告書「私達の共通の未来」について語った「大いなる挑戦---黄金の未来」をもう一度再検討してみるべきだと私は思う。ひとつの世界政府やコミューンの世界あるいは能力主義といった極めて画期的な方策について語られたこの本に、私達は今だにとてつもないインパクトを受けるとともに、OSHOの人類に対する愛と信頼を感じるのである。かつて出版当時に批判も多かった「受胎調節と遺伝子工学」の部分も含め、今こそここで語られた真意について、耳と心を傾ける時ではないだろうか。

 あらゆる精神世界に言及したOSHOは特に仏教に多く触れ、般若心経をハート・スートラ、金剛経をダイヤモンド・スートラとして語り、古びた教典に全く新しいエネルギーをそそぎ込んだ。最晩年は法華経をロータス・スートラとして語る準備をしていたが、幸か不幸か、大いなる存在は彼にその時間を与えはしなかった。

 OSHOが残した夢はもはや言葉の次元を超え、インスピレーションとなって私達を激しく優しく誘い続けている。私達に溶け込んだ彼のエネルギーは、全く新しいロータス・スートラとなり、地球のスピリットとなって湧き出すことだろう。

 環境運動も国連もノーベル賞も近代オリンピックも、全てユダヤの秘密結社フリー・目―損の陰謀であるとする人々もあるが、大和魂もユダヤ・マインドも過去の狭い条件付けを受けない地球人としてのニューマンの登場によって受け入れられ、瞑想によって洗い流されて行くことだろう。

 日本とOSHOの出会いが生み出すもの、それは人類一人一人が覚醒し、56億7千万人のマイトレーヤー達となって作る、黄金の未来である。

 

(完)

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「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<7>

<6>からつづく
Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <7>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

 マイトレーヤの完成

 この頃、OSHOの肉体はますますデリケートになり、危機を感じた多くの客人たちが彼との貴重な面会を求めて世界中からプーナを訪れ続けた。高齢を押してプーナを訪ねた鎌倉市仏眼宗の太母さんに、OSHOはバラの花をふりそそいで彼女の悟りを祝福し、そしてさらなるもう一歩次のステップのあることを指摘した。

 90年1月初旬、自室で瞑想していた私は自分の中から龍が生まれ、長い尾を引きずりながら出て行くビジョンを見た。その後不思議な体験がいくつも連続し、20日未明睡眠中に台所のカス漏れ警報器が静寂の闇を破ってけたたましく鳴り出した。目が覚めて起き出し原因を調べていると、今度は更にけたたましく電話のベルが鳴った。

 それは東京の友人サニヤシンからの緊急連絡で、たった今インドから入った情報によると「OSHOが肉体を離れた!」ということであった。

 OSHOが肉体を離れたという。その可能性は十分あったが、今やそれがその時となったのである。プーナでは最大限のセレブレーションが起こり、日本のサニヤシン達は号泣したり呵々大笑したりしながら、様々なバイブレーションに巻き込まれ、彼の死について毎日新聞やテレビの番組なども報じた。

 あれ程までに覚醒の必要性を説き、眠りから目覚めのために働き続けた私達の愛するマスター、市内なる友人OSHO、彼は今「あなたがたに私の『夢』を残していくよ」との最後の言葉を残して、存在の中に溶け去って行った。覚者の夢というパラドックスに、私はOSHOらし最後のチャメッ気を感じるとともに、グルと弟子とのマスター・ゲームという最後の悪夢から目を覚ます時が来たことを感じた。

 ミステリー・スクールがスタートして以来、神秘の扉が開かれてスピリットの高まりは一気にピークに達し、「チベットの死者の書」の言うところのバルドの最終日、つまりOSHOが肉体を離れて49日目の3月中旬まで打ち続いた。

 一方、明治、大正、昭和を駆け抜けた日本の巨大な神秘家・出口王仁三郎は日本は世界の雛型であり、大本教に現われた自分はいずれやってくる弥勒菩薩の雛型で、まことの人が美濃か尾張の国の中に現れたら大本も終りである、という遺書を残している。また水墨画「弥勒神真像」も残しているが、それは一般的に弥勒像に見られるような女性形ではなく、長く髭をたくわえた禿頭の達磨像であり、その人は56才と7ヵ月以から本当の仕事をするであろうと予言している。

 美濃・尾張と言えば現在の岐阜や愛知あたりになるが、これを国魂学にしたがって世界地図に伸ばしてみるとインド大陸西北部に当たりOSHOの出身地のグジャラート屋プーナもその一体に入り、また美濃・尾張(みのおわり)とは言霊で言えば「身の終り」であり、その肉体の終りから新しい次元が始まる、と解釈することが出来るであろう。

 OSHOは56才と7ヵ月で尾張・名古屋の展覧会に現われ、伊勢に伝わることによって日本の神道に深く潜行し最後の本当の姿を見せ始めた。「弥勒神真像」を実際に見た人によればそれはOSHOそっくりだということだ。弥勒菩薩・マイトレーヤーは友人を意味し、友情のような親しみの中で、生きとし生きるあらゆるものを救うためにやって来るという。

 1931年11月インドに転生して最後の肉体を持ったOSHOは88年8月日本に渡り、やがて「みのおわり」に肉体を離れることによって、多くの友人達の中に溶け込み、究極の旅を完成したのである。

 その後Swビノードを中心としてマルチバーシティの企画書作りは進み、九州のクリスチャン大中氏や、アジアとの文化交流をはかる波多野流峰氏などサニヤシン以外の協力者にも恵まれたのだが、法人格を取得する段階っでサニヤシン達のコンセンサスを得ることが出来なかった。

 ようやく用地のめどがたって三重県の県庁に91年4月に提出された日本マルチバーシティの建設計画は、結局宙に浮いてしまい、その後も長い模索が続いている。日本経済は前代未聞のバブル経済絶頂期まっ只中だったとは言え、不動産を取得し希望する構造物を建設するには、日本のOSHOムーブメントはまだまだ若すぎたと言えるだろう。

 しかしながらこの時、特筆すべきは宗教としてOSHOを組織しようとしたのではなく、「古事記」「日本書記」以前の古代日本の歴史書と言われる「ホツマツタエ」の編集者であったクシミカタマを最新に挙げたことである。 

 奈良の大神山に縁のある「ホツマツタエ」はかつて数万年前に編集されたとも言われ、そうだとすれば縄文時代に遡るkとになるだろう。この書を長年研究している人びとにとって、神々の住んでいるタカマガハラは今の仙台地方にあったことは常識となっているようだが、こうして私達は少しづつ神話や伝説の世界へといざなわれて行ったのである。

 マーケット・プレイスにて

 足は裸足で、胸ははだけ
 私は世間の人々と交わる
 服はぼろぼろで埃まみれでも
 私はつねに至福に満ちている
 自分の寿命を延ばす魔術など用いない
 いまや、私の目の前で樹々は息を吹き返す

「私の門の中では、千人の賢者たちも私を知らない。私の庭の美しさは目に見えないのだ。どうして祖師たちの足跡など探し求めることがあろう? 酒瓶をさげて市場に出かけ、杖を持って家に戻る。私が酒屋やマーケットを訪れると、目をとめる誰もが悟ってしまう」
      OSHO「究極の旅」10 「世間にて」より

 思えばMaシャルノに託された、この十牛図の十番とは何だったのだろうか。OSHOは自分の肉体を離れた後のために、21人からなるコミューンの運営機関「インナー・サークル」を残したものの、有機的なゆるい連動性を持った宗教性をこそ説いたのであり、サニヤシン一人一人が彼の後継者として自覚して生きることを望んでいた。

 OSHOの肉体は火葬され、遺灰はサマディとして瞑想ルームに安置され、打ち続いてやって来た世界中かrなお参拝者にまじって私もプーナを訪問し「神秘のバラ瞑想」に参加しながら、またまた新たな時代が始まっていたことを確認したのだった。

 帰国後、OSHO著作の装丁も手掛ける女性画家Maミーラが来仙して「アート・グループ」のワークショップが行なわれ、また7年振りに新譜「ニライカナイ・パラダイス」を出したSwウパニシャッド(喜納昌吉)のコンサートが仙台生年文化センターで行なわれ、静かな北日本でもOSHOのムーブメントは深くその渦を広げて行った。

 91年になると中東では湾岸戦争が勃発し地球的な危機感がなお一層たかまりつつあった。そんな中で仙台では環境心理学国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」の規格が持ち上がり、ボーダーを越えて多くの人々と触れてみたいと思っていた私は積極的にこの企画に参加した。もともとアメリカの環境心理学者らが中心となって始まり、年に一度各パネラーが手弁当形式で行なわれて来たもので、第4回目に当たる仙台退会の企画が協力者を募って進んでいたのである。

 この動きに参加することによて、自分の仕事や日常生活の活動範囲に自閉しがちであった私の生活圏は一気に拡大し、行政や企業や市民運動グループの中にもスピリット・ネットワークがつながって行き、十牛図の十番に説かれている意味を深く感じていた。

 11月に仙台国際センターで開催されたシンポジウムでは、たくさんの内外のゲストや参加者が集い、OSHOの理解者である清水芳孝東北大名誉教授(生物学)は足もとからのエコロジーを訴え、鎌倉からは元気な太母さんも登場して世界に向けてメッセージを送った。コンサートではこの年も沖縄よりチャンプルーズが参加し「アース・スピリット」を銘打って縄文の熱い風を吹かせた。

 この過程で私は沢山の人々がOSHOのビジョンを必要としていることを確認し、また全国から駆け付けたサニヤシン達も大いに元気であることに勇気づけられた。このシンポジウムについてはパネラーとして参加した、おおえまさのり氏の近著「スピリットの森」や、山尾三省、加藤哲夫といった人々の著書にも報告がある。

 その後Swウパニシャッドは、芸能人の国民歌手としてのステータスである91年歳末NHK紅白歌合戦にOSHOの大きなサインを胸につけて登場し、ヒット曲「花」を歌い上げ、最後に世界に向けて「ヤフー!」とOSHO流の挨拶を送って新しい年と新しい時代の幕開けを宣言した。

<8>につづく

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2014/04/06

「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<6>

<5>からつづく
Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <6>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

 開かれた神秘の扉

 87年夏、OSHOに会うため家族とともに10年振りの懐かしいインドに向かった私は、もう何時の間にかプライベートな旅にもネクタイを帯行し、妻と二人の子供を連れたちょっと太った日本人のお父さんになっていた。

 インドのボンベイ空港に到着すると、ああ、ここはやはり熱風とバクシーシのインドであった。久し振りのOSHOとの再会を喜ぶ間もなく、紙おむつをリックに詰めてプーナにたどり着いた私たちを襲ったのは強烈な下痢と伝染病だった。一才半の下の子はみるみる針金のように痩せて行き、3才の上の子は遊んでいてぶつけて出来た頭のコブが化膿して、現地の病院で手術を受けることになった。

 しかし、その手術も日本の医療レベルに比べるとだいぶずさんなものであり、過酷なインドの気候と生活環境の中で憔悴し切って行く子供たちの姿を見ていると、ここまで来て私は一体何をしているのだろうか、と思う程であった。

 それでもどん底の精神状態をくぐりながら、一ヵ月もすると幸いにもインドの民間療法によって回復し、その後は4ヵ月間のトレーニング・コースに参加することが出来て、家族みんなでインド・スタイルの生活を満喫したのだった。

 その半面、アメリカ滞在中にキリスト教原理主義者達によって害されたOSHOの肉体はますますデリケートになって行き、インド国内における彼のあり方は身体的にも法的にもまったく不安定なものだった。

 世界の21ヵ国に入国を拒否されながらワールド・ツアーを終えてようやく自国に帰り、ゴルバチョフが率いるソビエト連邦の革新に愛を送り、日本における東洋と西洋、精神と物質の出会いの可能性に讃辞を送る彼には、世界の何処でもよいから早くゆっくり休める場所が必要であると感じられた。

 プーナ滞在を終えて日本に帰国することになった時、ネパールの王族に属するサニヤシンのインスピレーションによるものとして、「OSHOはまもなく東に移るであろう」という誠しやかな噂が流れた。「東」とは一体何処であろうか、インド国内のカルカッタであろうか、それとも考えてみれば日本も「東」であるし、もし本当に可能なのであればぜひ日本に来て健康を回復して欲しいと思った。

 日本に来るとすれば、それはやはり富士山の近くであろうかと考えた人々は、彼を迎える地の準備として静岡県伊豆の保養地のもと民宿だった建物を借りて、Swシャンタン・Swリンザイを中心としたスペース「ユニティ」の活動を始めた。

 文化的な特殊性と英会話のギャップなどで、世界でもやや遅れ気味だった日本のOSHOムーブメントが、その感性と技術力でOSHOの絵を元にシルクスクリーンの版画を制作販売し始め、世界に向けて一気にユニークな運動を展開できたのは、「ユニティ」に関わる人々がその大きな使命に気づいたからである。

 イラストレーター横尾忠則氏などの協力もささやかれながら、展覧会は日本のニューエイジを含めた精神世界のメッカになりつつあった奈良県の天河神社で最初に行なわれ、客観芸術としてその純粋性が高く評価された。この時OSHOはインドの神秘的な芸術家として日本神道に入って多くの新しい出会いを作り始め、88年3月3日の桃の節句に寄せてインドから数万年前の隕石とメッセージを送り、柿坂宮司の口を借りて、ついにマイトレーヤ宣言をしたのである。

 続いてOSHOの展覧会は4月8日から三日間、仙台のサニヤシンが経営するフラワーショップ「花天竺」で行なわれ、新聞やラジオのニュースにもなり瞑想やOSHOの世界が広く求められていることを確認した。プーナの出会いの中で起こったこの新しいムーブメントは、やがて日本のみならずドイツやアメリカなどにも展開し、さらに多くに人々との出会いの機会を作り豊かな個性が混じり合うきっかけを作った。

 そのころ、仙台でも珍しい春雪の降った「花祭り」をお祝いしている時、プーナではモンスーン地方特有の雨期の暴風雨に、一万人収容のブッダホールの大きなテントが裂け、講話の音声がかき消される中、OSHOとともに人々は笑い転げ泣き叫び、混沌たつマインドから静寂な世界へと誘われていた。

 「ある日突然私は行ってしまうだろう。ちょうど嵐が行ってしまうように。私が行ってしまう前に私はあなた方に出来る限り大きなバラとなって花咲いてほしい。私にとって自分自身の肉体を保持するのは困難なことだ。私はいかなる瞬間にも消えてしまい得る。そうなってしまったら、あなた方の涙は私を呼び戻しはしない」OSHO 1988/04/09

 「神秘のバラ瞑想」や「ノーマインド瞑想」などの新しい瞑想を紹介しながら、彼は好んで多くの禅を語り、弱った目にサングラスをかけながら、一瞬たりとも目の離せないワークを用いて一人一人に働きかけ、神秘の扉はひとつひとつ開かれて行くのであった。

 ミステリー・コミューン

 やがて日本にいる私達も遠くプーナから離れていても、何時の間にかコミューンのブッダホールに居るような感覚を持つ瞬間が多くなった。それは新しいミステリー・スクールがスタートしてより一層一体感が高まったことと、各国のコンピューターを国際電話回線で繋いだパソコン通信ネットワークが完成して、電子のコミューンが機能する時代へと突入したからである。日本では、「創造的科学と芸術と意識のための世界アカデミー」の日本事務局にもなったSwアナンドボーディ達の「ユニティ・ソフトウェア・ブレーンズ」がホスト局になった。

 世界アカデミーの創設計画にあたって、OSHOはその代表に人類の成長に益する放射線研究をしていた日本の超科学研究家・通称ドクター村越氏に白羽の矢を当てた。しかし、OSHOのラブコールに反して、ドクター村越はプーナまでおもむいたものの、OSHOのアメリカの風評などを気にしたのか結局前面に出ることはなく、やがてアカデミーは尻切れとんぼにに終わった。

 この頃長い間地にもぐっていた日本のカウンター・カルチャーの流れは、86年のチェルノブイリ原発事故をきっかけとして息を吹き返し、88年8月におおえまさのり氏らを中心として八ヶ岳のスキー場で行われた「いのちの祭り」として見事に復活した。

 精神世界の進行とともに長い間視点が内向化し、結婚や子育てに集中していた団塊の世代が、思春期を迎えた二世達の行動範囲の拡大とともに、再び目が社会や環境問題へと外に向かい始めたのだ。一体この子供達に原発と核兵器と荒廃した地球以外の何が残せるのか、危機感は再び人々のハートに火をつけたのである。

 日本を代表するセンターである横浜の「OSHOイア・ネオ・サニヤス・コミューン」のSwヤスヒデ達スタッフも参加し、ここで再びOSHOの流れとカウンター・カルチャーの流れは交流したかに見えた。こんな時、鹿児島の屋久島に住んでいたSwプラブッダは、OSHOの遺伝子操作についての積極的推進と取れる発言を批判し、いわゆる彼の言う「グルイズム」からの離脱宣言の声を上げた。

 OSHOは少年期より7年サイクルで自分の人生のワークの局面を変え、成人してからも哲学教授からジャイナ教の指導者へ、また心理学的セラピーを駆使する精神世界のマスターへ、あるいはまた自立したコミューンに住まう沈黙の来訪者へと幾度も劇的な変貌を遂げ、そのたびに一部の人々は失望して去り、そしてより多くの人々が真実を求めてやってきた。

 彼はこの時その7年のサイクルの転換期にあり、地球人類を盲目的な自殺へと追い込む無意識から、より自由と愛に満ちた意識を招く旅の中で、「ヤフー!」のマントラとともにまたまた新しいステージへと私達を誘っていたのである。

 丁度この88年8年頃名古屋でOSHOの絵の展覧会があり、それがきっかけとなってOSHOについてのニュースがやがてキーパーソンの一人となる三重県伊勢市に住む石田カツエ女史のもとに届いた。仙台近郊に生まれ、結婚して北海道に渡った彼女は20数年前に、近い将来ある人物を通じて21世紀が導かれるというビジョンを見ていた。

 彼女は真珠販売と関わりながら70年代末に三重県の伊勢神宮の近くに居を移し、ローマ法王、ダライ・ラマ、桐山靖雄といった人々に想いを託すが失望するだけだった。そんな彼女はOSHOの写真を見て「この人だ!」と深く打たれるものがあった。さっそくインドに送られた彼女のメッセージを受け取ったOSHOは、彼女をプーナに招待するとともに、彼女の予言どおり数週間の間に4度名前を変えた。

 この時からかつて「セックス・グル」や「リッチマンズ・グル」のバグワン・シュリ・ラジニーシとして知られていた彼は、インドに滞在していた日本人サニヤシン達の提案もあって、和尚ラジニーシとなり、また親愛なる友人として単にOSHOと呼ばれるようになった。そして89年1月に和服を着てインドに渡った石田女史はサニヤシンとしてMaシャルノになり、OSHOのメッセージを日本に伝えるOSHO日本大使に任命されたのだった。

 個人面接の時、OSHOは彼女の手をとり涙ながらに「わたしの仕事をやりなさい」と3度繰り返したという。OSHOの見るところインドから日本にはかつて達磨大師や他の祖師達によって確実に仏教の禅が伝えられたが、講話録「究極の旅」にもあるように十牛図の十番目、酒瓶を携えて巷に出て子供や人々と交わるという最大のポイントが伝わらずに中国で止まってしまっているので、これを日本に届けてほしいと言うのである。

 Maシャルノはインドで受けたバイブレーションを日本の中心に入れるために伊勢に帰り、彼のメッセージを伝えるための学校を作ることをOSHOに提案、日本マルチバーシティと新しく命名された学校作りの可能性を模索し始めた。

 彼女の想いは、インドのOSHOを、すでに干からびてしまった宗教という形ではなく、学校という形で日本に伝えたいというところに結実した。計画にあたってはサニヤシンを初めとして多くの人々の意見を取り入れたいと希望し、候補地については三重県の数十万坪の可能性があると言うことであった。

 日本スピリットとの葛藤

 マルチバーシティとは、大学としてのユニバーシティが巨大化して統一性を欠いたものという概念もあるが、OSHOはこれを積極的な意味にとらえ、かつて人類が精神性を探求してきた全ての方法について、賛成であれ反対であれ、誰もが体験できる場として、この時初めて創案されたものである。

 一方、Maシャルノの言っていた日本マルチバーシティの要点は、大きく3つのポイントに搾ることが出来る。幼稚園から大学まで一貫した教育形態が必要であるという点。次にその敷地に大きなブッダ・ホールを用意しOSHOも招待して滞在できるようにする点。そして大事なポイントは音楽から始めることで、プーナの音楽を日本に入れることによって、音は言魂(ことだま)だから、日本に最も入り易く一般の人々にも理解されるという点であった。

 かつて最初、若者文化やカウンター・カルチャーに瞑想マスターとして受け入れられ、次に絵を通して純粋な客観芸術家として再認識されたOSHOは、今や21世紀を拓く鍵を持つ神秘家として、日本神道の裏の天河神社から表の伊勢神宮へと抜けようとしていたのである。

 87年のある時、OSHOは天皇ヒロヒトをプーナに呼ぼうと言ったことがあるが、この世紀の対面は結局実現せず、また20世紀を揺るがした二人はもうすでにこの世の人達ではないが、ひょっとすると、今頃彼らは黄泉の国でゆっくりと対談でもしているかも知れない。

 Maシャルノは伊勢神宮に祀られるアマテラスの太陽エネルギーを、月のマスターOSHOに入れようと、10年はかかると言われる学校法人設立に向けて正面突破の意向だった。彼女のもとに全国から期待が集まったものの、多くの日本人サニヤシン達にとって、アマテラス大神を中心とした日本神道に対して天皇制批判を抜きには進めなかった。周囲の期待はふくれあがっても組織形態や資金作りがはっきりしないまま、混沌とした状況の中で計画はスムーズに進まなかった。

 89年4月にもまた仙台のフラワーショップ「花天竺」で展覧会が開かれ、より緻密なリーラ・シリーズやMaミーラの水彩画が展示され、Maシャルノも来仙し生地に帰って再スタートする姿勢を見せた。彼女はなかなか進展しない建設計画について沖縄や長野などいくつかの国内の候補地も考え始め、自分の関わりのある仙台近郊の土地も模索していた。

 そんな時、映像作家アライタダヨシのちのSwニラーブの紹介で、宮城県内のある土地が一気に浮上し、北上川沿いの一万坪の土地に周辺のサニヤシン達の期待は集まった。ここはMaシャルノの予言にも適合する土地でもあるし、OSHOの健康状態から見て早期の着工が必要であり、最小の状態から始めてコミューンなどに向けた最大の拡大の可能性があった。

 周囲の住民達は源氏ボタルの保全やシベリヤからの白鳥を迎える自然環境運動を行なっており、歴史的にも隠れキリシタンをかくまった慈悲心や、明治時代に大勢してカナダに渡航を企てた先祖の村民達の冒険心を受け継いでいた。

 普段は比較的に言葉も少なく静かな仙台周辺のサニヤシン達は大いに関心をひかれ、OSHO弓道のSwアサンガなども加わり、私達一家も住民票を移しコミューン建設に向けて準備を始めた。

 しかし役場や町長や地元の有力者などへMaシャルノとともに挨拶回りをし、正式のゴーサインを待ったが、結局交渉はなかなかはかどらなかった。マルチバーシティを作るという動きの中で、OSHOと日本の出会いが形を持つことに対する有形無形の霊的な葛藤が起きていたのである。

<7>につづく

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「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<5>

<4>からつづく
Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <5>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

「オレンジ白書」をもう一度

 勢いついて仙台に帰った私を待っていたものは、冷めたカウンター・カルチャー・シーンと就職し結婚した仲間達で、飛び上がった私だけが戻るべき大地を失い、さまよっている風だった。しかし彼らから見れば、帽子から靴下までオレンジ一色に染まり切って帰って来たドン・キホーテを誰もがどのように取り扱ったら良いか戸惑っていたのだ。今や日本にも何万人もいると推定されるサニヤシンも、当時はまだ数十人しかおらず、東北では私が最初だった。

 インド・プーナではオレンジ一色が当たり前になっていたとしても、日本には現色は強烈すぎて、理解できる仲間やサニヤシンのいない中で、自分だけが愚かに見えるのだった。こんな現象は全国的に起きており、当時アメリカ西海岸から帰国して翻訳でトランスパーソナル心理学を紹介し始めていたC+Fの吉福伸逸氏にもからかわれた記憶が残っている。

 「やさしいかくめい」創刊号では、OSHOの「ダイヤモンド・スートラ」が紹介されていたが、編集長のあぱっちもやや狂信的ではないかと批判的になっており、日本のラジカルな人々にとってもOSHOはなかなか受け入れ難いものであった。

 私は仙台での瞑想センターの足掛りをつかむことが出来ずウロウロしている間に、周囲の機転で県の全寮制の農業大学校に入学することになった。午前中はエコロジーから経営マネジメントまで学び、午後は農場に出て実践的に農業を学ぶこの学校は、時折インド時代のフラッシュ・バックが続いていた私にとってリハビリとして結構快適な空間であった。だが中心となる農薬体系・機械化体系は、本当に私が学びたいと思っていた農業とは違っていた。

 この時、近くの禅寺に通い寮の座禅愛好会の仲間達と瞑想したことは、私にとって忘れることの出来ない一座となった。寺の裏の竹林が風に吹かれ笹の葉が触れ合い、田植え直後の蛙の合唱の中での瞑想。この時の仲間の一人がつれあいのMaゲーハである。

 私の心の中には流れるままに流れなさいというOSHOの声が聞こえ、松任谷由美の「『いちご白書』をもう一度」が何度も響いて、時代が変わってしまったのを感じていた。・・・・就職が決まって、髪を切って来た時、もう若くないさと、君に言い訳したね・・・・

 しばらくして甲状腺を煩ったのか頸部リンパ線炎になって、国立病院で半年の余命と診断された(当時は家族しかしらなかった)。思えば結構自由にやりたい放題やって来たし、その帰結として身を持ち崩したのなら全責任は自分にある。ここで人生が終わるならそれもまた一つの運命だろうと、入院したベッドの上で私なりに覚悟を決めた。

 この頃、ひとりの宮城県出身のサニヤシンが帰国後の社会適応に苦しんで井の頭公園で首をつり、ある友人は多量のドラッグを服用してプーナの河に消えて行った。死は身近にあり、もう死んでもいいと嘘ぶいてみても、高熱でうなされ悪夢に襲われると必死にもがいて逃げようとする自分に、なるほど、まだ私はしにたくなのだナと悟った。

 血液製剤と放射線治療で体力が衰え髪が抜け落ちながらも周囲の献身的な介護のお蔭で一命を取り留め、有難いことにタイム・リミットであった筈の半年後にはなんとか回復退院することが出来た。

 その後さらに半年自宅で療養し農業大学校も無事卒業、体調が少しづつ回復して社会復帰したいと思っていた時、一人のサニヤシンが仕事をもってやって来た。忙しいから気軽に手伝って欲しいと言われ腰掛けのつもりで始めたのだが、この家庭用ミシン関連の仕事を現在に至る迄10年以上に渡って続けているのだから、人生とは何処でどうなるか分からない。 

 後に数十人のサニヤシンが関わるこのとになったこのサニヤス・ビジネスはやがて年商数億円に膨れ上って行き、これに勢いづいて私達は、市内のビルにあるサウナ風呂を借りて全面的に改造a happy new year 2018 http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/a-happy-new-yea.htmlし、ようやく本格的に瞑想センターを始めることになった。

 静かな確信

 この時期OSHOは沈黙に入りインドからアメリカに旅立ち、インドのコミューンに滞在していた人々が続々と帰国し、各地で瞑想センターを開始し、活況を呈した。Swソメンドラがやって来ておおきなセラピーのワークショップをやったり、テレビの「知られざる世界」で二週に渡ってプーナや日本のサニヤシン達が報道されたり、シルク・ロードの喜多郎がサニヤシンSwセトゥになったりと、日本におけるOSHOムーブメントのピーク時のひとつであった。

 アメリカのコミューンは急ピッチで工事が進み、仙台からも82年ワールド・フェスティバルに21人で参加した。アメリカのコミューンはとても素晴らしいものであったが、その運営に当たりOSHOの筆頭秘書であるMaシーラが人材や経済力をアメリカのコミューン一極に集め始め、日本の瞑想センターは少しづつ運営が苦しくなり、やがて東京のシャンティ・ユガひとつにまとめられることになった。

 またアメリカからの意向で、京都のSwトシヒロが中心となって日本ラジニーシズムとして宗教法人化の模索が行なわれたが、政治家や弁護士を通じてロビー活動をするに留まり、実際に組織されることはなかった。

 29年3月29日3時29分生まれの私は3と29という数字が好きで、自分が29才の時に画期的な何かが起きるのではないかと思っていた。ブッダは29才で出家し、キリストは29才で人々の前で説法を始め、日蓮は29才で一寺一宗の主たらんと誓いを立て、道元は29才で禅を求めて中国へ渡った。

 私にもきっと宗教的な回心が起きるに違いないと期待していたが、この時期に私は結婚し子供をもうけ経済的に自立するために葛藤していた。別段特別なことも起きはしなかったが、29才の誕生日に近くの河原で瞑想していた時、私は一生OSHOと生きて行くだろう、という静かな確信を得たのであった。

 やがて日本のサニヤシンの草分けのひとりだったswアディナタは、アメリカのコミューンにあるクリシュナムルティ湖え水泳中に心臓マヒで死亡、コミューン発表によれば彼はエンライトして肉体を離れたという。ジャイナ教の開祖マハビーラに先立つブッダ達24ティータンカラの最初のブッダの名前を持つアディナタは、OSHO下で日本人として最初のブッダになったのだろうか。

 同じ頃、公衆に対して沈黙中だったOSHOは、人々の話題に上り始めたエイズについて秘書を通じて大きな警戒を発した。日本にいる私達にとってははなはだ突拍子もないことで、大半の才に野心が戸惑ってしまったが、アメリカの成人男性の100人に一人がエイズに冒され、日本においてさえすでに8000人の潜在患者がいることを厚生省が認めている現在となれば、その先見性は高く評価されなければならない。

 OSHOとサニヤシンによるオレンジ革命は静かに世界中で着々と進行していた。月食のあった85年9月の満月の夜、私はSwシャンタンと山形の月山に登っていたが、アメリカではOSHOがいわれなき罪によって逮捕された。アメリカのコミューンから次々に帰国する人々のレポートから、秘書ミーラのもとコミューンでは沢山の矛盾を抱えていたことが分った。

 OSHOは釈放された後、数少ない十数人のスタッフ達と自家用ジェット機で世界の旅に出て弟子達の目の前から姿を消し、ワールドツアーの中の21ヵ国から入国を拒否されながら旅を続けた。この機を見てかつての側近ガードマンSwシバがかつてのキリストの直弟子達のような心境に落ち込んだのであろうか、裏切り者ユダのような役割を演じて「堕ちたグル」を米国で出版した。

 ようやくOSHOがインドのプーナに戻ったのは87年初頭、長いこと彼に会えなかった世界中のサニヤシン達が新しい友人たちを連れて昔懐かしいインドに向かい始め、私達もスバガット再開の手続きを取って瞑想会をスタートし、このチャンスを逃すまいと1才と3才の子供たちを連れてインドへと向かった。

<6>につづく

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2014/04/05

OSHO「存在の詩」第1号 1975/08 アッシーシ・ラジネーシ瞑想センター 編集スワミ・プレム・プラブッダ

<5>からつづく 全68ページ一挙掲載(長文注意)

 

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第2号につづく

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2014/04/03

「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<4>

<3>からつづく

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「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <4>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

 インドからの招待状

 コミューンは解体し雑誌も存続出来なくなったが、ほのかにインドに行ってみたいという気持ちが次第に大きな新しい目標となっていった。日本山の影響やOSHOにひかれたこともあり、また国内は何度も旅していてもまだ外国に行ったことがないことと、精神世界に旅立つにはどうしてもインドへの旅は欠かせないように思えたからだ。

 ところが印刷会社で働き始めると、技術も身につき自分の生活にそれなりに満足し、旅行資金がたまってもインドに行く必要性を感じなくなっていた。マクロビオティックにも関わっていた社長は漫画家の石ノ森章太郎の同郷の友人だったりして、毎日の仕事がそれなりに楽しかったのである。

 そんな晴れたある朝に、私は出勤途中で九死に一生を得るような大きな交通事故に巻き込まれ、一命は取り留めたものの仕事で一番大事な右手の人差し指の筋を21針縫うけがを負った。数ヶ月しか乗っていない新車はオシャカになり、仕事は出来なくなって自宅で休んでいると、何度も事故の瞬間が思い出された。

 どうしてあの事故は起きたのであろう、ほとんど死亡事故だった。どうせあの時死んでしまったのなら、やりたいことをやろうと決心し、一番何をやりたいのか自問自答してみると、それはやはりインドに行くことであった。77年の7月のことである。

 ようやく周囲の反対を押し切り環境を整えてインドに旅立った11月、政治的活動家は地下に潜伏して行き「東アジア反日武装戦線・大地の豚」の加藤三郎ことのちのSwデバムは最後の個人的爆弾闘争を決行していた。彼がもう少し早くOSHOに触れていたらのちに獄中の人になることもなかったかもしれないし、また私がOSHOに触れなかったら、もうひとりの加藤三郎になっていたかもしれない。

 この頃Swプラブッダはあぱっちと同居し、日本にただ一つの瞑想センターは石神井の「ミルキー・ウェイ」に間借りしてSwアディナタガリードしており、OSHOは日本において先ずカウンター・カルチャーに受け入れられたと言うべきであろう。

 ようやくインド・プーナにたどり着き、彼の前に行くと、OSHOは、議論をしている人間には神が宿ることはない、愛と瞑想を通じて神に至りなさいと語り、彼の弟子・サニヤシンとして私につけてくれた名前は愛と感性の神という意味であった。

 ある時瞑想をしていて、何故私は今ここにいるのだろうと思われ、ふとあの交通事故出出来た手の傷を見ていると、OSHOの写真の入ったマラ(数珠)の大きさと合致することに気付いた。あの事故は実はインドからの多少手荒い招待状で、このマラを握るためにここに呼ばれてきたのだ、という不思議さに、納得する私だった。

 インド生活が丁度一ヵ月過ぎた日にOSHOとの個人面談ダルシャンがあり、この日は満月のクリスマスでもあった。この夜は私の生涯の中でも特別な人なり、打ち続く頂上体験から来るエクスタシーを一晩中全身に感じていた。しかし、この個人的な内面の世界に起きたことを翌朝になってルームメイトに話そうとしてもうまく伝えることが出来なかった。瞑想の道を歩む人にはきっと誰にもこんな神秘が起こっているのだろうが、他人に語ることなくひとり旅を続けているのだろうか。

夕焼けに昇る満月

 78年の正月に当時プーナに滞在していた20数人が集まり日本人パーティをすることになった時、みんなで星占いをしてみたら、驚いたことに約70パーセントの人が偶然三月生まれであった。西洋占星術では三月はユニークさを表す魚座と、冒険を表す牡羊座にあたるが、なるほど確かに日本に飽き足らずに飛び出してしまうようなユニークな人々や、海のものとも山のものとも分からないOSHOと直観的に旅を始めた冒険的な人々がプーナに集まっていたことは間違いない。

 Swプラブッダ、Swアディナタ、Swシャンタン、Swアイコ、その他沢山の人々とともに私も三月生まれであったが、また多少無鉄砲な次男坊体質のサニヤシンが多いようだった。世界から集まってきたサニヤシンの平均年齢は30歳位であったが、日本人の平均は5歳位低く、社会経験の少ない学生上がりという感じの人達が主流だったように思う。

 この頃プーナではアメリカのエサレン研究所などから大挙してやって来たセラピスト達によって、世界で一番最先端のセラピーの実験が行われていた。東洋の伝統的な瞑想と西洋で開発され発展してきた心理セラピーが見事に融合しており、私は初めての海外旅行から受けるカルチャーショックも相まって、「私は誰か」という問い掛けの中で自分の仮のアイディンティティが一挙に崩壊して行く体験をしていた。

 やがて三ヶ月が過ぎてビザ延長申請が不許可となり、一週間以内にインド国外に退去するよう命令され、これを幸いと吸引力の強いプーナを離れて空路スリランカへと向かった。私がインドに来たのは日本山妙法寺の人々に触れるという目的もあり、丁度この時に山主であり日本仏教界の最高峰とも目される藤井日達上人がスリランカの仏足山に仏舎利塔の建設竣工法要のために長期滞在していたのだ。

 サニヤシンになったとは言え、まだまだその意味を知らず自覚も足りなかった私は、もし可能ならばこの高僧の元で出家して、法華経の行者になりたいと思った。ところが同じオレンジ色の衣を纏い数珠を首にかけているとは言え、彼らは激しい断食をしたり、火の着いた一束の線香を大腿に縛り付けて長時間に亘り題目を唱えるなどの難行苦行の修行を行ない、OSHOの瞑想法とはまた違う世界であった。

 歓迎されて彼らとともに一ヶ月間その行に参加しているうちに、私の中では一つの理解が起こった。日本山の出家者たちはオレンジ色の衣を着るが、それは美しくもまぶしいが夕焼けの美しさであり死体を焼く炎のまぶしさだ。

 OSHOのサニヤシン達もオレンジを着るが、それは朝日のまぶしさであり、誕生に伴う鮮血の鮮やかな美しさだった。仏教はその使命を終えつつあり、最後の法華経を奉じる彼らがインドに沈もうとしていた。その時水平線上からかすかに新しいOSHOの光が上り始めたのだ。

 法華経や大集月蔵経にあるように、日の国・日本の仏法を月国・インドに返すために、1931年、藤井日達上人はインド・ボンベイに渡った。こうしてインドの誕生した仏法は中国・日本に渡り、二千五百年の後に日達上人によって再びインドに帰ったのである。この年、ボンベイの北部ウチワダでOSHOは最後の肉体を持って誕生した。

 仏足山でうちわ太鼓を叩きながら「南無妙法蓮華経」を唱えていた満月の夜、私はひとつの不思議なビジョンを見た。地球、月、太陽が一直線に並び、その延長線上に私は立っている。それは私とOSHOと日達上人のことであり、時に私23才、OSHO46才、日達上人92才、この数字の中に合わせ鏡の様に共振するエネルギーが存在していた。彼らは私の父であり、祖父でもあった。

 私は再びインドにもどりポンジェシュリーのシュリ・オーロビンドのコミューンを訪ねたり、北インドの仏跡を回ったりしながら世界からやってきたジャンキー達と旅を続けたが、やはりOSHOの持っている重要性は動かし難いと感じ始め、再びプーナにもどり瞑想をしたりセラピーを受けた後、一年間の旅を終えて帰国することにした。

 法華経にあるごとくゴータマ・ブッダが肉体を離れてから500年サイクルを5回繰り返し終わって、今や人類のエネルギーはOSHOを通じて新人類を生みだしつつある。再びインドに宿された種子は、再び日本に渡り満開の花を咲かせることだろう。

 以前は帰国後あぱっちの新しい雑誌「やさしいかくめい」の編集を手伝いたいと思っていた私は、だんだんと仙台に帰って瞑想センターを始めようと思い始め、OSHOから「スバガット」の名前をもらった。スバガットとはウェルカムというサンスクリット語で、全ての宗教は私達に属するという意味であった。

<5>につづく

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OSHO「存在の詩」マハムドラーの詩<5>スワミ・プレム・プラブッダ 手書き・イラスト及び編集

<4>からつづく 

OSHO「存在の詩」マハムドラーの詩<5>
スワミ・プレム・プラブッダ 手書き・イラスト及び編集

Nl1  第1号 1975年8月10日発行 部数300部 印刷C.C.C印刷局

Nl2_2
  第2号 1975年10月20日発行 部数300部 印刷C.C.C印刷局

Nl3  第3号 1975年11月30日発行 300部 印刷C.C.C.印刷局

Nl45  第4・5号 1976年2月1日発行 500部 印刷C.C.C.印刷局

Nl67  第6・7号 1976年5月1日発行 部数 印刷C.C.C.印刷局

<6>につづく

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2014/04/02

「ぼくは深夜を解放する!」続もうひとつ別の広場<2> 桝井論平 & 冬崎流峰

<1>よりつづく

Sinya
「ぼくは深夜を解放する!」 続もうひとつ別の広場<2>
桝井論平 & 冬崎流峰1970/05 (株)ブロンズ社 単行本ハードカバー 180p

 
 そろそろ返却期限が近付いた。名残惜しいが、一旦は返却することにしよう。パラパラめくってみると、それなりの当時のことが思い出されて、しばし手を休めて瞑目してしまうことになる。もっといろいろ書きたいことはあるのだが、また次の機会に譲ろう。

 今時、おそらくこの本を手にとって眺めている者はそう多くあるまい。論平本人も、流峰本人も、すでに忘れている可能性すらある。いまさら、小さいことをつついて、どうのこうのと云っても、もはやお仕舞いである。

 この本を読めば、なるほど、あの時、流峰がああいう態度を取ったのはこういうことか、とか、ここから、こういう志向はずっと続いていたんだな、とかいうことが分かる。ある意味、貴重な本である。

 さて、いつ再開するか分からない.。次回までに忘れてはいけないので、ちょっと気になる部分を箇条書きだけしておく。

Ry3 週刊雀の森バックナンバーを見ながら、執筆中の流峰 1974年頃

1)流峰は、石橋湛山のブレーンで、東洋経済新報の創立関係者・高橋亀吉の孫である。雀の森時代に、亀吉翁は文化勲章を受章した。亀吉爺さんは、流峰が大学を経済専攻にしたので、とてもうれしがっていたという。

2)流峰は、立原道造や、カミュ、あるいは、短命だった詩人を多く愛した。自ら、遺書集として「東雲(しののめ)」と銘打ったノートを書き続けていた。私は、それを覗いたことはないが、いつか、この男は早晩亡くなってしまうのだろう、と覚悟していた。また、彼はそう周りに「公言」していた。

3)残された遺書集を出版するのは、私の役目だと思っていた。だから、多少は覚悟して、付き合っていた。つまり、彼との関係を維持する原動力の一つは「死」にあったと言える。

4)しかし、彼は「死ななかった」。悪次郎が雀の森を離れていったのは、可笑しな話で、残酷な話ではあるが、この流峰の「死」が完結しないことも、一つの要因になっていた。私自身も、最終的には、流峰の「死」とやらが、結局は、青年の感傷に過ぎないのだ、と断定することによって、1975年暮れ、雀の森を離れた。

5)後年1988年ころになってからだが、流峰に、あの「遺書集」はどうなったか、と尋ねたことがある。当時はすでに関東圏に転居していた彼だが、その答えは驚きのものだった。あの遺書集をゴソッと一式バックに入れて、電車に乗ったところ、降りる時に網棚に忘れてしまい、それで紛失してしまった、という。

6)なんと不条理なことだろうか。彼の青春のすべてがつまり、彼ひとりだけではない、回りの人間の人生もかかっていた一遍の原稿たちは、杳として、電車とともに消えたのである。捨てたとか、燃やしたのではなく、紛失した、ってところに、まぁ、僕らの人生の不条理さを感じる。

7)1989年頃、彼は縁あって、インドのOshoコミューンを関係者とともに訪ねているが、サニヤシンになることはなかったし、特段、その思想に影響を受けた、という風には、私個人は感じていない。

8)今でも、密とは言えないが連絡はあり、やはり、私の人生を彩る、大切な友人であることには変わりない。云い過ぎたところは、友人のよしみで、許してほしい。LOVE

<3>につづく

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