<28>よりつづく
「こころでからだの声を聴く」<29> ボディ・マインド・バランシング
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次
20、断食と美食
ときどき断食が自然に訪れる感じがするなら---決まり事としてではなく、主義としてでもなく、従うべき思想としてでも、強制された訓練としてでもなく、あなたの自然な要求からであるなら、それは良いものだ。
そのときは常に覚えておくといい。断食はご馳走を食べるために役立ち、またおいしく食べられるようになるのだと。断食をする目的は、手段であって到達点ではない。しかし、そうしたことが起こるのは稀だ。たまにしか起らない。食べている間に完全に目覚め、それを楽しんでいるなら、決して食べ過ぎることはないだろう。
私の強調する点は、食事制限ではなく気づきだ。おいしく食べなさい。お腹がいっぱいになるまで楽しみなさい。でもこの法則を覚えておくこと---食事を楽しんでいないなら、その埋め合わせのために、もっと食べなくてはならない。
食事を楽しめば、食べる量は減り、埋め合わせをする必要はなくなる。ゆっくりと一口ずつ味わい、よく噛んで食べるなら、あなたは完全にその中に没頭する。食事は瞑想であるべきだ。
私は味わうことに反対ではない。私は感覚に反対しないからだ。敏感であることは知性的であることであり、敏感であることは生き生きしていることだ。あなたがたのいわゆる宗教は、つとめてあなたの感覚を鈍らせ、あなたを鈍感にしてきた。
宗教は味わうことに異議を唱えている。宗教は、何も味わえないよう、あなたが自分の舌を完全に鈍らせることを望んでいる。しかし、それは健康な状態とは言えない。舌が鈍感になるのは病気のときだけだ。
熱があると舌は鈍感になる。健康であれば、舌は敏感で生き生きしている。舌はエネルギーで震え、脈動している。私は味わうことに反対ではなく、賛成する。おいしく食べ、よく味わうことだ。味わうことは神聖なことだ。
また、味わうこととちょうど同じように、美を見つめ、それを楽しみなさい。音楽を聴いて楽しむ。岩や葉や人に触れ---そのぬくもり、その手触りを楽しむ。すべての感覚を使い、それらを最大限に駆使してごらん。
すると、あなたは本当に生き、あなたの生は燃え上がる。あなたの生は鈍くなく、エネルギーと活力で燃え立つだろう。私は、感覚を殺すよう、あなたに説いてきた人たちに賛成しない。彼らは身体に背いている。
また、身体はあなたの寺院であり、身体は神からの贈り物であることも覚えておきなさい。身体は実に繊細で、実に美しく、実に驚異的だ---それを殺すのは、神に対して失礼だ。神はあなたに味覚を授けてくれた。味覚を生み出したのはあなたではない。
それは、あなたとは何の関係もない。神はあなたに目を授け、このサイケデリックな世界を色彩豊かなものにした。そして、あなたに目を授けた。目とこの世界の色彩との間に、偉大なる合一をもたらしなさい。神はすべてをつくった。そこにはこの上もない調和がある。この調和を乱してはいけない。
身体に耳を傾けなさい。身体はあなたの敵ではない。身体が何かを言っているときは、あの通りにしなさい。なぜなら、身体には独自の英知があるからだ。それを妨げてはいけない。マインドのトリップを続けてはいけない。だから私は、食事制限を教えるのではなく、ただ気づきのみを説く。
十全な気づきを持って食べなさい。瞑想的に食べなさい。すると、食べ過ぎることもないし、食べるのが少な過ぎることもない。過ぎたるは及ばざるがごとしだ。これらは極端なことだ。自然派望んでいる---あなたがバランスをとること、ある種の均衡を保つこと、中庸にあること、過不足のないことを。極端に走ってはならない。極端に走ることは、神経症になることだ。
食べ物に関する神経症は、ふたつのタイプがある。身体に耳を傾けず、食べ続ける人々、身体は泣き続け、「やめて!」と叫んでいるのに、彼らは食べ続ける。そして、別の種類の人々もいる。身体は「お腹が空いた!」と叫んでいるのに、彼らは断食を続ける。
両者とも神経質で、両者とも異常だ。全員治療が必要であり、全員入院が必要だ。健康な人とは、バランスのとれた人だ。何をしていても、彼は常に中庸にある。決して極端に走らない。なぜなら、極端なものはどれも緊張と不安を生み出すからだ。
過食すると、身体に不可がかかるため不安が生じる。充分に食べないと、身体は空腹なため不安が生じる。健康な人は、やめ時を知っている人だ。そして、それは特定の教えからではなく、気づきから生まれるべきだ。
もし私が、あなたに食べるべき量を教えたら、危険なことになるだろう。なぜなら、それは平均にすぎないからだ。とても痩せている人もいれば、とても太っている人もいる。もし私が、食べる量は「チャパティ3枚」と教えるとしたら、ある人にとっては多すぎるかもしれないし、ある人にとっては充分でないかもしれない。だから私は、厳格な規則を教えない。ただ、気づきの感覚をあなたに授ける。
自分の身体に耳を傾けなさい。あなたには、ふたつとない身体がある。また、覚えておきなさい。エネルギーには異なったタイプがあり、物事への取り組み方にも異なったタイプがある。
ある人は大学の教員で、身体に関するかぎり、さほど多くのエネルギーを使わない。たっぷりとした食事は必要なく、別の種類の種類の食事が必要だ。ある人は肉体労働者で、たっぷりとした食事、別の種類の食事が必要だ。食べることに関する厳しい原則は危険だと言える。通則はないということを、普通的な決まりにするといいだろう。
ジョージ・バーナード・ショウは言った---唯一の黄金律は、黄金律などないということだと。黄金律はないと覚えておきなさい。それはあり得ない。なぜなら、人はそれぞれ実にユニークで、誰一人として規定できないからだ。だから私は、あなたに感覚(センス)だけを授ける。そして、私のセンスは原則や規則から来るものではない。私のアプローチは気づきに基づく。
今日あなたは、ボリュームのある食事が必要かもしれない。でも明日は、それほど必要ないかもしれない。あなたは他の人と違っているだけでなく、あなたの日々の生活も日毎に異なる。今日あなたは丸一日休息し、あまり食事が必要ないかもしれない。また別の日は、庭で一日中穴掘りをし、ボリュームのある食事が必要かもしれない。ただ注意深くあり、身体の言うことに耳を傾けることだ。身体に従いなさい。
身体は主人ではないし、奴隷でもない。身体はあなたの友人だ。身体と友達になりなさい。過食をする人、ダイエットをする人は、どちらも同じ罠にはまっている。両方とも耳が聞こえない---身体が言っていることを聞いていない。
舌の楽しみのために食べることは罪である、というのはナンセンスだ。だとしたら、あなたは何のために食べるのだろう? 見ることが目の罪であるなら、あなたは何のために見るのだろう? 聞くことが耳の罪であるなら、あなたは何のために聞くのだろう? そうなると、あなたには何も残されていない---自殺するしかない。
というのも、正全体は感覚から成り立っているからだ。何もをしても感覚は関わってくる。感覚を通してこそ、あなたは流れ、生と関わる。あなたが味わって食べるときは、内なる神が満たされ、満足する。また味わって食べるときは、食べ物の内なる神が敬われる。
しかし、あなたがたのマハトマたち、いわゆる宗教的導師たちは、自己を苛めることを説いてきた。宗教の名のもとに、彼らは単なるマゾヒズムを説いてきただけだ。「自分自身を苛みなさい。苛めば苛むほど、あなたはいっそう神の目にかなうだろう。不幸であればあるほど、あなたはより多くの徳を積むだろう。幸福であるなら、あなたは罪を犯している。幸福は罪だ。不幸でいることにこそ徳がある」。これが彼らの論理だ。
いったい何を言っているのだろう。あまりにも馬鹿げていて、不合理で、明らかにどうかしている。神は幸せだ。神と波長を合わせたければ、幸せになることだ。これが私の教えだ---神は幸せであり、神と波長を合わせたければ幸せになること。
なぜなら、あなたが幸せなときは神と足並みを合わせているが、不幸せなときは足並みが乱れているからだ。苦悩する人は、宗教的な人間になれない。
私に罪とは何かと問うのなら、罪はひとつしかないと言おう---苦悩することが罪人になることだ。幸せでいること、心から幸せでいることが、聖人になることだ。いかに歌い、いかに踊り、いかに生を喜ぶかを説く宗教を、あなたの宗教にしなさい。
肯定的な宗教、イエスと言う宗教、幸せと喜びと至福の宗教を、あなたの宗教にしなさい。何百年も抱えてきたナンセンス、全人類を不自由にさせてきたナンセンスを、すべて捨て去りなさい。このナンセンスは、人々を実に醜く、不幸に、悲惨にしてしまった。それは病的な人---自分自身を苦しめる人だけを惹きつける。なぜなら、それは彼らに言い訳を与えてくれるからだ。
自分自身を苛む、もしくは他人を苛むことは、両方とも病気だ---苛むという考えそのものが病的だ。アドルフ・ヒットラーのような人は、他人を苛む。マハトマ・ガンディーのような人は、自分自身を苛む。両者とも同じ船に乗っている---背中合わせに立っているかもしれないが、それでも同じ船に立っている。
アドルフ・ヒットラーの喜びは他人を苛むことにあり、マハトマ・ガンディーの喜びは自分を苛むことにあった。両者とも暴力的だ。理屈は同じ---彼らの喜びは苛むことにあった。方向性は異なるが、方向性は問題ではない。彼らのマインドの姿勢は同じ---すなわち苛むことだった。
あなたは自分自身を苛む人を尊敬するが、それはからくりを理解していないからだ。アドルフ・ヒットラーは世界中で非難され、ガンディーは崇拝されている。私は当惑するばかりだ。どうしてそんなことがあり得るだろう?---理屈は同じなのだから。
ガンディーは言う、「味わうために食べてはいけない。味わうことは許されてはならない。喜びとしてではなく、義務として食べなさい。生きるために食べなさい。それだけだ」。彼派食べる喜びを、ありふれた仕事の世界に貶めてしまった---「娯楽として食べてはいけない」と。
覚えておくといい、動物はそんなふうに食べる。彼らはただ食べるため、ただ存在するため、生き延びるために食べる。動物が食事を楽しんでいるのを見たことがあるかな? まったくないだろう。動物たちが宴会やパーティーを催したり、歌い踊ったりすることはない。人間だけが、食べることを大がかりな祝宴にする。
また、他の事柄につてもガンディーの態度は同じだ。ガンディーは言う、「子供が欲しいときだけ愛を交わしなさい。さもなければ愛を交わさないこと。愛を生物的なものにしなさい。食べることは生き延びるため、愛することは種を残すために限定すべきだ。楽しみとして愛を交わしてはいけない」
それが動物たちのしていることだ。イヌが愛を交わしているのを見たことがあるかな? イヌの顔を見てごらん。ちっとも楽しそうに見えない・・・・・一種の義務感だけだ。イヌはそうしなければならない。何かが内側から彼に強要する---生物的な衝動が。愛を交わす瞬間、犬は愛する相手を忘れる。彼はわが道を行き、礼すら言わない。終わった、仕事はおしまいだ!
人間だけが、楽しみのために愛を交わす。その点で、人類は動物よりも高い位置にある---人間だけが、楽しみのために愛を交わす。ひとえに、その喜びのために、その美しさのために、その音楽と詩情のために。
だから、ピルはこの世でもっとも偉大な革命のひとつだと私は言う。なぜなら、それは愛の概念全体を完全に変えたからだ。今や、ただ喜びのために人は愛することができる。生物的な隷属のもとにいる必要はない。子供が欲しいときだけ愛を交わす必要もない。今やセックスと愛は完全に分離している。ピルは大きな革命をもたらした。
今やセックスはセックス、愛は愛だ。生物的であるとき、それはセックスだ。ふたつの身体が出逢う美しい音楽があるとき、互いに巻き込まれ、互いの中へ消え去り、互いの中に失われ、まったく新しい次元のリズムとハーモニーに落ちてゆく・・・・オーガズミックな体験があるとき、それは愛だ。子供の問題も、生物的な力に左右されることもなにもない。
今、その行為そのものが美しい。それはもはや、いかなる目的のための手段でもない---これが愛とセックスの違いだ。何らかの目的の手段であるとき、それは遊びだ。手段そのものが目的と手段が一緒になっているとき、それは遊びだ。手段そのものが目的であるとき、それは遊びだ---遊びには目的がない。
食べる楽しみのために食べなさい。そうすれば、あなたは人間であり、より高次の存在だ。愛の喜びのために愛しなさい。そうすれば、あなたはより高次な存在だ。聞く喜びのために聞きなさい。そうすれば、あなたは本能という檻から解放される。
私は幸福に反対しない、幸福には大賛成だ。私は快楽主義者だ。私の理解によると、世界のすぐれた霊的(スピリチュアル)な人々は、みな常に快楽主義者だった。快楽主義者でないのに霊的なふりをしている人は、霊的ではない---彼は精神病だ。
なぜなら幸福こそ、あらゆる物事の終着点であり、源泉であり、目的に他ならなkからだ。神はあなたを通して、無数の形の幸福を探している。可能なすべての幸福を神に許し、幸福のより高い頂、おり高い到達点に神が至るのを助けなさい。
そのとき、あなたは宗教的だ。そのとき、あなたの寺院は祝祭の場となる。あなたの教会は、墓場のように悲しく、醜く、陰鬱で、活気のない場所になることはない。そのとき、そこには笑いがあり、歌があり、踊りがあり、大いなる歓喜があるだろう。
宗教の本質とは、喜びに他ならない。だから何であれ、あなたに喜びを与えてくれるものには徳がある。何であれ、あなたを悲しくし、不幸にし、苦しめるものは罪だ。そえを基準にするといい。
私が厳格な決まりを与えないのは、人間のマインドがどのように動くかを知っているからだ。ひとたび厳格な決まりが与えられると、あなたは気づきを忘れ、決まりに従い始める。問題なのは、厳格な決まりではない---決まりに従うせいで、あなたが決して成長しないことだ。
いくつかの逸話を披露しよう。
ペニーが帰宅すると、台所には割れた陶器が散乱していた。
「何があったんだ?」彼は妻に尋ねた。
「この料理本がいけないのよ」と妻は説明した。「持ち手のない古いカップが計量カップ代わりになるって書いてあるんだけど---カップを割らずに持ち手を取るのに、11個もダメにしちゃったわ」
さて、料理本に書いてあるなら、そうしないといけない。人間のマインドは愚かだ---それを覚えておきなさい。ひとたび厳格な決まりを手にすると、あなたはそれに従う。
マフィアの首領(ボス)が子分たちとミーティングしていた。首領の言うことは絶対だった。ブザーが鳴り、首領の使用人が応対に出た。彼は扉の隙間から外を窺い、訪問者を確認し、扉を閉めた。
「傘を扉のところに置け」子分は訪問者に言った。
「そんなもん持ってねぇよ」と答える訪問者。
「それなら家に帰って持ってこい。傘は扉のところに置けとボスは言っているんだ。そうでなきゃ、あんたを入れられねえ」
決まりは決まりだ。
警察の車は銀行強盗を捕まえようと、猛烈な追跡をしていたが、突然、脇にそれてガソリンスタンドに入った。運転していた警官は、そこから署長に電話をした。
「捕まえたか?」署長は興奮して尋ねた。
「奴らはラッキーですよ」と答える警官。「あとほんの半マイルというところまで差は縮まっていました。でも、そのとき気づいたんです。我々の車は5百マイルを超えていて、止まってオイル交換が必要だと」
5百マイルごとにオイル交換が必要な場合、5百マイルを超えたらどうする? まずはオイル交換をしないといけない。
私が決して厳格な決まりを与えないのは、人間のマインドがいかに愚かであるか、いかに愚かになり得るかを知っているからだ。私はただ、あなたに感覚を、方向感覚を授ける。気づいていなさい。そして気づきを通して生きなさい。
聞いた話だが・・・・・。
マイクがパットに通夜に行くことを告げると、パットは一緒についていこうと申し出た。道すがら、パットは酒をちょっと飲まないかと持ちかけ、二人はすっかり酔っ払ってしまった。そのあげく、マイクは通夜のある場所の住所が思い出せなくなった。「友達の家はどこさ?」とパットは尋ねた。
「番地はわすれちまった。でも、この通りだってことは確かだ」
数分歩き、マイクはこれだと家を、目を凝らして見つめた。そして彼らはよろめきながら中に入ったが、ホールは暗かった。ドアを開け、居間を見つけたが、ピアノの上に置かれているロウソクの微かでぼんやりした明かりを除けば居間も暗かった。
二人はピアノの前に近づき、○いて祈った。パットはピアノを見つめたまま、長いこと身じろぎもしなかった。「マイク」彼は言った、「君の友人のことは知らないが、さそかし立派な歯並びをしてたんだろうな」
これが現状だ。これが人間というものだ。私があなたに授けたいものは、気づきの体験だ。それは、あなたの人生を変えるだろう。あなたに規律を与えることではなく、あなたを内側から輝かせることこそ要点なのだ。OSHO p163~p175
<30>へつづく
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