精神の哲学・肉体の哲学
「精神の哲学・肉体の哲学」 形而上学的思考から自然的思考へ
木田元 /計見一雄 2010/03 講談社 単行本 333p
Vol.2 No.1024★★★★★(最後の1冊)
当ブログ第二期における1024冊目にして、最後の一冊はこの本ということにあいなった。読みたい本が他にもあり、図書館にリクエストしている最中のものもあってみれば、どの本がもっともこの位置にふさわしいのかを決定づけるのは難しい。
しかしながら、物事が諄々と進み、実際にその本が手元にあり、しかもその本がごく最近の最新刊であったとするならば、その本をこの位置に置くことになんの躊躇もする必要はない。ましてや、読んで面白く、新しい地平に結びつくようなものであってみれば、まさにこの位置にはこの本がもっともふさわしいのであろうと、結語する。
1939年生れの精神科医・計見一雄が、1928年生れの「反哲学」の巨匠・木田元に、7回に渡って個人講義を受けるという形になっている。二年ほど前の対談ということだから、およそ70歳の学徒が、80歳の老教授に教えを乞うているわけだ。
その姿は、仏陀から舎利子へや、Oshoからのマニーシャへの呼びかけにも似て、もっと多くの学徒が聞きたいことを計見が代表して質問し、木田が、懇切丁寧に、これ以上、噛み砕けないというほどに平易に教える。なんとも、その問答が若々しい。後半は、むしろ、立場は逆転し、計見の職業的な見地からの識見に、木田が聴きいる場面も多くなる。
思考が相対化され、意識が透明化される中で、言葉は失われていくのか。あるいは、意識は意識として意識されるなか、言葉は言葉としてその役割を果たし続けるのか。当ブログ的にとらえてみれば、ZENの中に言葉を無化して解け込んでいくのか、拡大するZENの中で、さらにカラフルな言葉を遊び続けるのか、という切実な課題となる。
計見--そこでは<精神>とか<心>とか<意識>というのはどうなるんでしょうね。
木田--これまたややこしい話になりそうですが、メルロ=ポンティの考え方では、行動のこのレベルにまで達した人間は、一般の動物の様に単に<生物学的環境>に適応して生きているだけではなく、そのつど現実に与えられている環境に、かつて与えられた環境、いつか与えられるであろう環境を重ね合わせ、それらをたがいに切り換えて、現に与えられている環境を、ありうる一つの局面としてもちはするけれど、けっしてそれに還元されてしまうことのないようなもう一次高い構造、つまり<世界>という構造を構成し、いわばそれに適応するようなかたちで生きるようになります。これがハイデガーが言いだし、メルロ=ポンティらも受け継いだ<世界内存在>という人間のあり方なんです。<世界>というのは人間によってつくり出されたシンボル体系としての<構造>ということになりますね。p313
この本、なかなかそそられる。第三期をスタートさせる時があるとするなら、まずはこの本の再読から始めるのもいいかもしれない。
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