カテゴリー「34)地球人スピリット宣言草稿」の108件の記事

2012/02/16

OSHO ZEN TAROT <44> THE FOOL(愚者)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Zen001thefool_2 からつづく

 

OSHO ZEN TAROT <44>

 

0. THE FOOL(愚者)

 

 愚者とは、信頼しつづける者のことだ。愚者とは、自分のすべての体験を顧みず、信頼しつづける者のことだ。

 

 あなたがだましても、その人はあなたを信頼する。もう一度だましても、あなたを信頼する。さらにだましても、あなたを信頼する。

 

 そうなるとあなたは、この人は愚かだ、学ばない、と言うだろう。その人の信頼は途方もない。その信頼はあまりにも純粋だから、それを堕落させることなど誰にもできない。

 

 タオイストの意味で、禅の意味で、愚者であるがいい。自分のまわりに知識の壁を築こうとしてはいけない。どんな体験がやって来ようとも、それを起こらせ、そして、それを落としつづけることだ。

 

 たえず自分の心(マインド) をきれいにしつづけるがいい。過去に死につづけるがいい。そうすれば、あなたは生まれたばかりのまさに赤ん坊のように、現在に、今ここにとどまる。

 

 最初のうちは、それはひじょうにむずかしいだろう。世間があなたを利用しようとしはじめる……そうさせておけばいい。彼らは哀れな人たちだ。たとえあなたが詐欺にあい、だまされ、奪い取られたとしても、起こるに任せるがいい。

 

 というのも、ほんとうの意味であなたのものをあなたから奪い取ることなどできないからだ。ほんとうの意味であなたのものを、あなたから盗むことなど誰にもできないからだ。

 

 そして、機会あるごとに、あなたが自分を堕落させる状況を許さなくなると、その機会が内側での統合をつくりだす。あなたの魂(ソウル) はさらに結晶化するようになる。Osho Dang Dang Doko Dang Chapter2

 

 

 

解説:

 

 瞬間から瞬間へ、しかも一歩ごとに、「愚者」は過去を後にします。彼は手にした白い薔薇(ばら) で象徴される自分の純粋さ、無垢、そして信頼以外のものはなにひとつ携えていません。

 

 身につけているベストの模様はタロットの4つの要素の色をすべて含み、彼が自分のまわりにあるすべてと調和を保っていることを示しています。「愚者」の直観の働きはそのピークに達しています。

 

 未知へのこのジャンプをするにあたって、「愚者」はこの瞬間に宇宙の支えを得ています。生という川のなかで冒険が彼を待ち受けています。

 

 このカードは、まさにいま、自分の直観、ものごとの「正しさ」という自分のフィーリングを信頼することができたら、あなたは間違うことなどありえないことを示しています。あなたの行動は他人の目には「愚か」に映るかもしれません。

 

 あるいは、もしあなたが自分の行動を合理的な頭(マインド) で分析しようとしたら、あなた自身から見ても「愚か」に見えるかもしれません。

 

 しかし、「愚者」が占めている「ゼロ」の場所は、数のない数(ナンバーレス・ナンバー) で、懐疑と過去の体験がガイドなのではなく、信頼と無垢がガイドである場所なのです。Copyright © 2012 Osho International Foundation

 

次へつづく

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地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<39>「地球人スピリット宣言草稿」カテゴリについて

38>よりつづく 

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版


<39>「地球人スピリット宣言草稿」カテゴリについて

1)書かれたのは2011/12/13~2012/2/16の間。散発的に続いてきた当ブログのまとめとして自然発生した「ダイジェスト版」をさらにまとめ上げて、そのエッセンスを抽出しようとした。本来であれば「宣言」まで持っていきたかったのだが、予想どおり「草稿」で終わった。

2)ただ、方向性ははっきりしたので、あとは機をみて、それなりに整合化するか、他のものへの隠し味として使うかは、今後の流れに従うとする。

3)読んだ本はそれほど多くはなかったし、このカテゴリにふさわしいものが残ったかどうかはともかくとして、再読したいこのカテゴリこの3冊は次のとおり。

「原発ゼロ世界へ ぜんぶなくす」 京都大学原子炉実験所助教 小出裕章 2012/01 エイシア出版/出版共同販売

「足に土―原人・アキラ  須貝 アキラ 追悼集」やまびこ編集室 1998/9 共同編集・発行人間家族編集室

「英語で読み解く賢治の世界」 ロジャ-・パルヴァ-ス/上杉隼人 2008/06 岩波書店

4)このカテゴリにおいて初めて、おっかけテーマとカテゴリの進行を同調させてみた。そして、ここに一つの収束点をおいておく。

5)次なるカテゴリは「ベルゼバベシュの孫への話」となる。これまでの集約の中で、残っているのは「星の遊行群」をめぐるふりかえりであり、また、「プロジェクト567」の新たなる展開である。

6)また、別途「プロジェクトGOD」も存在するが、こちらはむしろまとまってしまっているので、可動部分少ない。ある意味、これは当ブログの本体であり、実体である。

7)この地点において、ひとつの交点を見つけることができる。

<40>へつづく

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地球人スピリット宣言草稿<31>まとめ--新たなる宣言に向けて

30>からつづく 

「地球人スピリット宣言草稿」 
<31>まとめ--新たなる宣言に向けて

 ようやくというべきか、この草稿を終了させる段階にきた。このテーマは、当ブログの「ダイジェスト版」の後継として立ち上がったテーマであり、一体、当ブログは何をやってきたのだろう、というまとめであった。

 「ダイジェスト版」がふりかえりや、強引なまとめであったとするならば、こちらの「草稿」は、より積極的に未来を見据えて、当ブログの位置を探ろうというものであった。その試みは、ほぼ達成されたと思える。

 偶然というべきか、当然、必然というべきか、この「草稿」の終了が、カテゴリの終了と重なり、このカテゴリに「ついて」を別途化書かなければならないタイミングになった。いままでは、読書が優先して、漫然としたリストをとりあえず区分けするために作られたカテゴリやダイジェストだったが、今後はむしろ、当ブログのテーマを優先させ、読書を従としていこうと思う。

 つまり、ひとつひとつのカテゴリは、ひとつのテーマで始まり、まとめで終わる。そのまとめがダイジェストとなる、という構図である。

 「宣言」については、ここであえて集約しないでおこうと思う。そもそもは、賢治の「農民芸術概論綱要」に触発されてスタートした文章であったが、宣言までにはいかず、最初の思惑通り、草稿で終わった。それはそれでよいことだった。

 今後の宣言は、各テーマを重ねていくことによって、より明確に立ち上がってくるだろう。あるいは、明確に立ち上がる方向へと、当ブログの各機能をドライブして行こうと思う。

 この宣言は、結局、タロットカードの「愚者」のカードで終わりそうである。それは、このカテゴリの象徴でもあり、当ブログ全体の象徴でもあるようである。なぜにそうなのか。そのことについては、今回の草稿を経て、次なる宣言に向けての各論で明瞭になってくるだろう。

おわり

<32>へつづく

 

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足に土―原人・アキラ  須貝 アキラ 追悼集 <7>

<6>からつづく 

Ashi
『足に土――原人・アキラ』 須貝 アキラ 追悼集<7>
やまびこ編集室 1998/9  共同編集・発行 人間家族編集室 A5判・284P
★★★★★

 2012/02/07に朝日新聞「プロメテウスの罠」という記事の連載が始まったことに触発されるように、この本を思い出したのだが、記事本体のほうが、「獏原人」のほうに行かず、「二人の人物」のうちの一人・木村さんという原発で働いていた人を中心として継続しているので、なんだか、ひとり歩きしているような格好になってしまった。

 まぁ、それはそれでいいだろう。

これで十分  須貝 あきらに

 足に土
 手に斧
 目に花
 耳に鳥
 鼻に茸
 口にほほえみ
 胸に歌
 肌に汗
 心に汗
 心に風
 これで十分

 1984・10 大鹿村 ナナオ サカキ 『地球B』より     p1

 この本のタイトルの「土に足」というのは、日本のビートニク詩人ナナオ・サカキが1984年アキラに送った詩から引用されている。

 ナナオの生涯については、私が今まで読んだ限りでは、山里勝己「場所を生きる--ゲ-リ-・スナイダ-の世界」(2006/03 山と渓谷社)に活写されている部分が一番詳しい。

 ナナオは、ゲーリー・スナイダーが1974年に発表し、ピューリッツアー賞を受賞した「亀の島」を邦訳している。

 スナイダーはまた、1956年に来日し、京都などに滞在し、東洋文化や禅を学んだ。また、宮沢賢治の英訳を始め、「The Back Country 奥の国」(1971New Directions)などに所蔵されている。その意味では、「英語で読み解く賢治の世界」ロジャー・パルバースよりも先んじて賢治に共感を示している。

 岩手県花巻市の「宮沢賢治記念館」では、賢治を世界に紹介した欧米人として、スナイダーが大きく写真つきで紹介されている。

 思えば、2011年3月11日の午前中、私はビル・モリソンの「パーマカルチャー 農的暮らしの永久デザイン」(1993/09 農山漁村文化協会)を読んでいた。昼に外出して、外で3.11東日本大震災に被災したわけだが、それから1カ月は、本など読める状況ではなかった。

 そして、ようやく読書を始めたのは4月25日になってからだった。とにかく読み始めたのはスナイダーの「地球の家を保つには エコロジーと精神革命」(1975/12 社会思想社)だった。

 2月にもこの本を開いていたとは言え、実にあの時期、私は地球の方へと磁力を感じていたらしい。実際に、あの時期には近くの山地にエコビレッジを作る構想に動かされていた。その構想もまた、今回の3.11で大きく変化せざるを得なかった。

 私の中では、農業や共同体、コミューンなどの動きは、まだ果たせないでいる夢として浮遊している部分がある。あの時期にあの構想に対して動いていたのは、三省やスナイダーや獏原人などの、スペースの在り方に、ある種の理想を持っていたからだろうと思う。

 今回の朝日新聞「プロメテウスの罠」という記事の中で、主人公の一人は、「10年前、そんな風見に触れて人生を変えた元原子力技術者がいる。」と紹介されている。

 原子力発電を推進しようとする力に対して、獏原人が、いくばくかのカウンター・パンチになり得たとするならば、その蔭には、風見(マサイ)ばかりではなく、アキラや、ナナオや、スナイダーや、そして宮沢賢治がいる、と、私は思わざるを得ない。

 さらに、もっと大きなうねりがあることを、今回あらためて感じようになった。

 ナナオは、アキラが亡くなったあと、小さな詩を寄せている。

 杖ひとつ 持ってけ 道は長いぞよ

   ななお さかき 1997・9・30      p264

 

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宮沢賢治祈りのことば 石寒太 <3> 悲しみから這い上がる希望の力

2> からつづく


「宮沢賢治祈りのことば」 悲しみから這い上がる希望の力<3>
石寒太 2011/12 実業之日本社 単行本 223p
★★★★★

 図書館に返却する前に、もう一度目を通してみる。

 この詩には、高みから科学によって、また芸術によって、現実に悲惨な農民を自分の力でなんとか救いたい、などという気負いはまったくありません。現実には全く「オロオロアル」いたり、涙を流したりと、たとえ無力であっても、農民たちの苦しみや悲しみをともに分かち合う同伴者になりたいという、賢治の切々たる思いが「デクノボー」の精神のひとつになっているのです。p021「雨にもマケズ」

 本当にこの本は、3.11と賢治をダイレクトに繋ぐなら、この本以上はない、というほど、実にシンプルに、簡易にその意味を教えてくれる。

 新たなる詩人よ
 嵐から雲から光から
 新たなる透明なエネルギーを得て
 人と地球のとるべき形を暗示せよ 
p055「生徒諸君に寄せる」

 まさに、人と地球のとるべき道こそ、当ブログの探究であり、今こそ問われている人類共通の命題である。

 賢治のことばは、いまや賢治の生地岩手県の花巻の人々はもちろん、今度の震災に遭遇し多くの死者を出した陸前高田、東松島市、双葉町をはじめ、大槌町、京都、釜石、山田、久慈の人々、また津波から火災にまで被害の広がった気仙沼市、南三陸町、名取市の人々、もっとも悲惨なのは、地震、津波、から予想だにしなかった原発被害に苦しんでいる、福島圏内の人々でしょう。

 それらの大震災にあった被災の人々のはげましとなり、さらに世界中の人々への生きる希望を与えてくれているのです。まさに、ふるさと賛歌なのです。p104「ふるさと賛歌『きれいにすきとほった風をたべ』」

 あまりに甚大で、全体を見ることさえ不可能な今回の3.11。その地から立ち上がる賢治の姿、というのは図式としては、とても美しい。しかし、物事をシンプルにする方向と、物事を矮小化する方向は、時に混同してしまうこともあり得る。

 賢治は詩人であり童話作家であることは、いまさらいうまでもありません。また、科学者にして宗教家でもあります。

 たった37年という短い生涯の中で、創作と献身に生きた賢治は、豊かな自然を愛し、自然と交感し、特に貧しき農家に生きる喜びを喚起し、希望の光を与えてくれました。p130「希望といのち『そは新たなる人への力』」

 ものごとすべてが3.11で、その解決策が、唯一、賢治のみ、という構図なら、この賢治賛歌でも悪くはないだろう。しかし、それでは、なにかが、大きく見おとされてしまう。

 新たな時代は世界が
 一の意識になり生物となる方向にある
 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識して
 これに応じて行くことである
 われらは世界のまことの幸福を索(たず)ねよう
 求道すでに道である
 p163「農民芸術概論綱要 序論」 「隣人の幸せを願う『世界がぜんたい幸福にならないうちは』」

 詩に感動し、詩人に共鳴しているだけでは、自らの人生を生きている、ということにはならない。

 私は、賢治のいう「イーハトーヴ」は、彼のふるさと岩手を中心とした、さらにもっと途方もなく巨大な夢のようなものだ、と考えをさらに大きく変えざるを得なくなったのです。そして、その果てには、地球はおろか、銀河鉄道に乗ってはるばると行く、宇宙の彼方までおよんでいるのです。

 田んぼのことをあえて沼畑と呼び変え、稲をオリザと呼ぶセンスも、ひとつの賢治の鍵になっています。賢治が、岩手を核とする壮大なパラダイス、イーハトーヴの拡大をこころのうちに抱いていたことが、読みすすむごとに明らかになります。p188同上

 賢治の声を聞き、その生きた存在を、今、感じるということは、ここにいま、自分の3.11後を生きる、ということに繋がっていくことになるはずである。

 平成23(2011)年3月11日に、東日本を襲った大震災は、未曾有の被害をわれわれにもたらしました。
 それにともなう津波・火災もそうですが、何よりも想定外だったのは、原子力発電所の放射能漏れによる汚染の事故でしょう。 

 この問題はいまだに尾を引き、解決のめどさえ立っていません。日本人が今後、幸せな暮らしに戻るためには、いったい何をすべきでしょうか? 東北の太平洋側の人々は、まったく零、いやマイナスからの、第一歩を踏まざるを得ないのです。いままでの日常生活に戻るには、何年の歳月がかかるでしょうか。こころの傷はいつになったら癒えるのでしょうか。

 皆戸惑いの色をかくしきれませんが、これは科学優先の人間本位ですすめてきた政策への、自然現象のシビアなしっぺ返しだったのかもしれません。苛酷ではありますが、このあたりでもう一度むかしの暮らしに戻ることを考えてもいいかもしれません。

 節電を余議なくされたときもありました。「日本の夏はこんなにも暑かったんだ」と、自然と共生する暮らしを、もう一度真剣に考えてみたいと思います。p213「あとがき」

 この本は、小学校の図書館に入ってもふさわしい一冊であろう。場合によっては、幼稚園児に読み聞かせても、分かってくれるだろう。しかし、中学生以上なら、ものごとはそう単純ではないことに気づいている生徒も少なくないはずだ。

 ものごとをシンプル化することはいいことだ。難解で、複雑なことだけが高級である、なんてことはない。この本は、3.11後に、一冊だけ、被災地に持っていくとしたら、もっともふさわしい本の一つになるだろう。だが、それだけでは解決にはならない。

 ただ、この本を読み、そこから、その「悲しみから這い上がる希望の力」のとっかかりを見つけることができれば、この本は十分に生きて働いてくれた、ということになるだろう。

<4>につづく

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デクノボーになりたい 私の宮沢賢治 / 山折哲雄


「 デクノボーになりたい」  私の宮沢賢治
山折哲雄 2005/03 小学館 単行本 222p 
Vol.3 No.0613★★★★★

 賢治はまず科学者になろうとした。しかしながら、科学者としての一筋の道をつきすすんでいったわけではなかった。科学者としては一貫しなかったわけです。

 詩人になろうとした。しかしかれは、高村光太郎のように詩人としても一貫した生き方をしたわけではなかった。それならば、童話作家としてその生涯を貫いたか。そうでもありません。農業指導者としても中途半端。

 宗教家としても、彼は出家の生活をしたわけではない。家庭の人となろうとしたかといえば、ついに人の親にもなりえなかった。家庭人としても失敗者だったというほかない。

 宮沢賢治は、天体物理学、地質学、土壌学、音楽、天文学、そのすべての問題に普通人以上のつよい好奇心をもっていたが、結局のところ、そのすべてに対してディレッタント(好事家)の態度を崩さなかったのではないか。外見的に見ればそのように映る。p32「賢治の悲しみ---風と言葉と」

 科学者としての賢治、詩人としての賢治、神秘家としての賢治、を追いかけている当ブログの現在において、どれも中途半端だろう、という見方は成り立つ。

 しかし、私はそういう見方は、やはり浅薄だと思う。ほんとうはそうではない。かれはむしろそれらのすべてのものになろうとした、途方もない欲望を抱え込んだ人間だった。p33同上

 山折哲雄。この人の本は断片的に読んではいるのだが、一気に読んだことはない。3.11後に出された山折哲雄/赤坂憲雄「反欲望の時代へ 大震災の惨禍を越えて」(2011/09 東海教育研究所)も、面白いので、そのうち再読したいとは思っているのだが、読者としての私は、いまいち素直な気分になれずに、時間が経過してしまった。

 ところがよくよく考えてみると、そういう賢治の生き方こそ、じつは今日のわれわれの専門家的な生き方にたいする痛烈な批判になっているのかもしれない。p34同上

 山折の文章は、気がついてみると、「ですます調」と「だである調」が、混在している。講演を文章化したのだろうか、それとも、読者への目線を意識してのカモフラージュだろうか。これだけの書き手だけに、そこのところはかなり意図的に、意識的に、使い分けている可能性は大である。書き手としての山折の存在を、曖昧化する効果は生まれているようだ。

 賢治のような遊蕩児の立場からすれば、そういうはげしい欲望をもった人間の目から見れば、専門家というものほどつまらないものはない。そういう生き方を根底から批判しようとした人が賢治だったということになるかもしれません。p34同上

 科学者でもなく、詩人でもなく、ましてや宗教家でもない、生き方。全否定ではなく、それらを含んだ上で、なお専門化しない生き方。それをあえて「神秘家」と言えないこともない。だが、ここで、そう決めつけるのは早すぎるだろう。

 現実にはそういう生き方を選択しようとした賢治が、故郷から誤解され、冷笑を浴びせられた。かれを理解するものが一人もいない孤独のなかで生きるほかなかった。その賢治の悲しみがどうしようもなく伝わってくるような気がするのであります。p35同上

 山折の実家は、賢治と同じ花巻にある。そのような共通性や、日本山妙法寺の藤井日達上人の「わが非暴力」をまとめた(p103)、というような親近性が、山折を身近なものに感じさせるのだが、いまいち山折の独自性というものを見つけられないでいる。

 この人の文章は、かならずしも知識に満ち溢れている、というものではない。しかし、語彙が豊富であることは間違いない。羅列ではなく、厳選して選び抜いた、ありふれた言語を操りながら、指し示そうとしている、何かがある。

 そういった意味においては、宗教学や民俗学、といった科学の一分野としての専門家として表現しようとしているわけでもなく、詩人や芸術家、というには、ちょっと知が勝ちすぎる。もちろん宗教家、と言われるのが一番好ましいのだろうが、それもまた躊躇し、拒否している。

 この本のテーマはデクノボーである。賢治が「デクノボーになりたい」と思い、山折が「デクノボーになりたい」と思った。しかし、いくら賢治がデクノボーであり得ても、山折がまた同じくデクノボーであり得ても、それを絶賛しているだけでは、読者たる私にはなんの意味もない。山折における「私の宮沢賢治」を読まされているに過ぎない。

 (中原)中也による「賢治全集」推薦の弁のなかから「風」の音がすこしも聞こえてこないのは不思議である。賢治の「感性」が「純粋に我々のもの」すなわち中原中也たちのものであるというのであるならば、このあとにのべることになるが、中也の詩と賢治の詩をあれほどつよく結びつけていたはずの風の流れ、風の響きが、一言半句ここで言及されていないのが不思議である。p146「共鳴する詩人の魂--宮沢賢治と中原中也」

 なるほど、そういわれてみれば、須貝アキラ追悼集「足に土」に寄せた文章で、私は、アキラと賢治を「風」で結びつけていた。

 私自身は、そして当ブログは、宮沢賢治という存在を避けて通れない、と思ったことはない。むしろ、見過ごして今日まできた、と言える。このまま賢治を視野に入れずに人生を終わることに、なんのためらいもないのだが、ちょっと振り返ると、ずっと昔から、自分の傍らに、賢治がいたことに気づく。

 ことさらに、それを大ごとに考えようともしないのだが、しかし、ある領域を超えて、拡大意識、超意識へと歩み行けば、おのずと、賢治らしき表象のかげに、大きな宇宙超意識への道すじを幻視することになる。

 賢治を科学者でもなく、詩人でもなく、あるいは宗教家でもなく、あえていわゆるOshoのいうところの「神秘家」と捉えることは、賢治個人への毀誉褒貶にはまったく無関係に、私自らの、変身への契機とする可能性を創りだすことになるのではないだろうか。

 この本、機会をとらえて、再読を要す。 

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2012/02/15

宗教詩人 宮沢賢治―大乗仏教にもとづく世界観 丹治 昭義

Photo
「宗教詩人 宮沢賢治」―大乗仏教にもとづく世界観
丹治昭義 (著) 1996/10 中央公論社 新書 242p
Vol.3 No.0612★★★★☆

 いつもは行かない、ちょっと離れた図書館に行った。気まぐれに賢治の本を探したら、はずれの支所なのに、たくさんの賢治本があった。どれにしようかな、と迷ったあげく、何冊かの中に、この本を入れておいた。

 当ブログで読み進めている賢治本の中から、ちょっと早すぎる賢治再読リストベスト10」を抜き書きしておいたが、その中には、斎藤文一「科学者としての宮沢賢治」と、大島宏之編「宮沢賢治の宗教世界」が入っている。しかし、詩人・宮沢賢治、とうたった本はない。

 科学者としての賢治、詩人としての賢治、神秘家としての賢治、この三方向から、三位一体の存在として賢治を見てみようという、当ブログの思いは、さて、どれほどの妥当性があるのだろうか。

 そんな思いの中で、この本を選んだのだった。「宗教詩人」という形容がはて、どれだけ妥当性があり、また、当ブログの進行のなかで、どこほど当てはまってくれるのか。とにかく、そういう三冊を抜き出してみようという思いがあった。

Photo_2 この三冊が、それぞれの視点の代表作とは言いきれない。しかしながら、これらの三つの視点があるとするのなら、まずは、その糸口を見つけたい、と思ったのである。

 当ブログでは現在、カリール・ジブランの「プロフェット」をめくり、そのジブランを語るOshoの「Messiah」の視聴を進めているところである。Oshoはジブランを詩人として絶賛しつつも、その限界を指摘しつつ、神秘家であることの重要性を説いている。

 詩人としての宮沢賢治、という見方はある意味、当然のことであり、それ以外の見方がある、という方がちょっと変わっている。本人は心象スケッチとか言っているし、童話も沢山あるので、ひょっとすると童話作家、と言ったほうがいいのかもしれないが、やはり、科学者、詩人、神秘家、という見方で言えば、賢治は詩人、というのが一番ぴったりくる。

 たしかに農業技術者であったり、その作品の中に、天体のマクロの動きや、鉱石の中にあるミクロな世界を取り込んでいたとしても、賢治が「科学者」としての業績を大きく評価されることはないだろう。むしろ、それらを「詩」の中に取り入れたからこそ、「科学者としての宮沢賢治」というタイトルが際立ってくるのだ。

 「宮沢賢治の宗教世界」のほうはどうだろう。法華経や国柱会などの絡みで語られることが多いが、本来、それらのことは付属物であり、「宗教家としての宮沢賢治」も、決して大成したとは言い難い。ここでは「宗教家」と「神秘家」という言い方の違いは、峻別して使っておきたい。

 さて「詩人としての宮沢賢治」という視点が、きちんとこの「宗教詩人 宮澤賢治」の中に表わされていたか、というと、必ずしも、そうとも言い切れない。この本においては、「詩人」としての賢治ではなく、「宗教詩人」としての賢治を語ろうとしているわけだが、ざっと読んでみる限り、「宗教」と「詩人」が、多少分離している感じがする。

 特に仏教や法華経、なかんずく菩薩や日蓮宗に関するあたりは、著者の理解を朗々と述べているのであって、賢治においては、やはり「宗教」は、隠し味として、存在していてしかるべきものだろう、というイメージが残ったのである。結論として、結局、賢治は「宗教詩人」ではなく、「詩人」である、という結論を得ることになった。

 さて、それでは、「詩人」宮沢賢治は、「神秘家」たりえたのか、というのが、当ブログの今後の関心の中心となる。概念が拡散してしまう「宗教家」ではなく、あくまで「神秘家」としての賢治を探してみよう、と思う。

 この本では、若い時代に玄米を食べていたので、賢治は下痢で悩んでいた、という表現があったが、本当はどうだろう。また、学生時代に禅寺に下宿していたので、坐禅をしていた、というのは妥当としても、それについて書いていないので、神秘体験をするまでは至っていなかったのではないか、という表現があった。こちらも、あとですこしづつ検証してみたい。また、見田宗介に賢治本があることを、あらためてこの本で思い出した。

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OSHO ZEN TAROT <43> RECEPTIVITY(受容性)

Zen029receptivity 前からつづく

OSHO ZEN TAROT <43>

28. RECEPTIVITY(受容性)

 聴くことは、神の寺院に入るためのもっとも基本的な秘法のひとつだ。聴くことは、受け身であることを意味する。聴くことは、自分を完全に忘れてしまうことだ——。そうして初めて、あなたは聴くことができる。

 ある人の言うことを注意して聴いていると、自分のことを忘れる。自分のことを忘れられなかったら、けっして聴いてはいない。自意識が過剰だったら、あなたは聴いている振りをするだけだ——聴いてはいない。うなずいたり、ときには「はい」とか「いいえ」とか言うだろう——が、聴いてはいない。

 聴いているときは、あなたはまさに通路、受け身、受容性、子宮になる。女性的になるのだ。そして、行き着くためには、人は女性的にならなければならない。

 攻撃的な侵略者、征服者として神に到達することはできない。あなたが神に到達できるのは、ただ……あるいは、こう言ったほうがいいだろう——神があなたに到達できるのは、あなたが受け身、女性的な受け身の状態のときだけだ。

 あなたが陰(イン)に、受け身になったとき、扉が開かれている。そして、あなたは待つ。
聴くことは、受け身になるためのアートだ。
Osho A Sudden Clash of Thunder Chapter 5

解説:

 「受容性」は女性的なものを、水と感情の受容的な質を表わします。両腕は受け取るために上へと伸ばされ、彼女自身はすっかり水の中に浸かっています。彼女には頭がありません。自分の純粋な受容性を妨げる、忙しい攻撃的な心がないのです。

 そして、自分がいっぱいに満たされると、絶えず自分を空にしてあふれ出させ、さらに多くを受け取ります。彼女から出ている蓮(ロ-タス) のパターン、あるいはマトリックスは、私たちが宇宙と調子が合ったときに明らかになる宇宙の完璧なハーモニーを表わします。

 「水のクイーン」は限界のないひと時、どのような期待も要求もなく、生がもたらすすべてのものに感謝するひと時をもたらします。義務も、利点や報酬を考えることも重要ではありません。

 感受性、直観、そして慈悲こそが、まさに今輝き出ている質であり、私たちひとりひとりを隔て、私たちを全体からも隔てている障害をすべて溶かしています。Copyright © 2012 Osho International Foundation

次へつづく

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2012/02/14

エステー、7,900円の家庭用放射線測定器「エアカウンターS」<2>

<1>よりつづく

S
「エアカウンターS」 <2>
エステー、7,900円の家庭用放射線測定器 2012/02発売

 ようやく届いた。別に意図したわけではなかったのだが、販売店は福島の薬局。通信販売だけど、かなり安かった。ポイントを考慮すると、5000円台中頃の値段。送料込だから、これは底値と言ってもいいのかも。

 もっとも性能が問題だ。それはこれから使っていかないと分からないが、とにかく開けて使い始めてみると0.05μSv/hからスタートする。室内では、このまま動かない。地上1mというと、私の場合は、ちょうどベルトの腰のあたり。

 このまま水平にもったまま、移動して見る。玄関をでて、庭の植物の上に持っていってみると、次第に10秒単位で上昇し、0.13μSv/hまで上がったが、その後、同じ場所に留まっているのに、0.08μSv/hまで下がってきた。

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 説明書には、蛍光灯の近くで使うなと書いてあるので、ひょっとすると、室内では蛍光灯などがよくもわるくも反応している可能性がある。あるいは、カメラのフラッシュなどにも反応しているかもしれない。

 いずれにせよ、いままで何度か計測しているが、昨年の夏あたりと、それほど大きな違いはなさそう。機器の誤差もあるだろうし、これから定期的に変化を記録しておこうと思う。

 それに、周囲の地域ばかりではなく、これから遠出をしたときに、チェックしてみる価値はありそうだ。約2分間、ということだが、35秒ほどで反応はでてくる。それから以降は、10秒単位で更新される。

 まだ読んでいないが、首都大学東京の福士政広教授の「正しく覚えよう 放射線の基礎知識」という文庫本サイズ30ページの小冊子もついている。

Photo

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Oshoサイトのバナー

 OshoZenTarotカードをひきながら、Oshoサイトを見ていると、毎回、バナー広告がでてくる。それなりに気になりながら、別にクリックすることもないのだが、なるほど、今はこういうセンスなんだな、と思う。

 タントラとかコンシャスネスとか、それなりに、面白そうだ。数えてみると、30くらいありそうだ。きれいなので、ここに並べてみる。

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