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2009/03/15

<異説>親鸞・浄土真宗ノート <1>


「<異説>親鸞・浄土真宗ノート」 <1>
玉川信明 2004/04 社会評論社 単行本 306p
Vol.2 No.546 ★☆☆☆☆ ★★★☆☆ ★★★★☆

 稀有なスタイルを持った著述家・玉川信明が逝って数年が経過した。あらためて振り返ってみると、ユニークなOsho本4冊を残した著者らしく、この親鸞本も<正統>派から見れば、<異説>ということになるのだろう。しかしまた、他力本願の親鸞においての<正統><異説>とは一体何か、ということになるが、ここであえて自ら<異説>と名乗ることによって、著者は自らに自由を与えようとしている。

 その<自由>さは、さらに拡大し、親鸞の宗教観に対する自らを考えを補強する形で、「インドの和尚への架空インタビュー」という途方もない手法を編み出す。これが実にユニークというべきか、暴挙というべきか、まるで高橋信次の霊界通信のような言葉づかいになっていることに、大いに笑える。

 ----僕がかねがね不思議に思っている疑惑は、第18願では、法蔵菩薩が人類がみな救われねば、自分も成仏しないと語っているところです。それが明らかに人類は救われていないにもかかわらず、いつの間にか法蔵が阿弥陀如来として仏になっているところがわからない。

和尚 それが「教相判釈」(きょうそうはんじゃく・教えを再解釈する)と呼ばれるものですね。仏教には8万4千とも数えられる法門があります。古代の法門はブッダ一人であったものが、年を経るごとにブッダの本音は聞けないことになる。ブッダ入滅後の言葉でも記憶第一とされたアーナンダが語っている部分ですら、本当にブッダの説法かどうか怪しい。そこへ入滅後さらに数多(あまた)の判釈が割り込んできて、余計にそれが本当のブッダの言かどうか不明になっています。そこへ一介の人間にすぎない親鸞が心底からよりかかって、規定し直しているわけですから、大乗仏教の粋(すい)は本当に浄土真宗にあるのかどうか、分からないのです。p131

 この部分だけを抜き出しても、ここで語られている「和尚」が、いわゆるインドの「Osho」のことだと気づくひとは皆無だろう。著者はマリオネットや腹話術を駆使しながら、結局は自らの<異説>を展開していくことになる。

 イニシエーションの時に、Oshoの指が私の額に触れ、個人ダルシャンのときに私の指が彼の足に触れた、というレベルではあるが、肉体的コンタクトもあり、自らの耳で彼の話を聞き、自らの口で彼に質問した経験のある自分としては、自らのOsho像とは、実はあまりに似つかない言葉使いや印象に、苦笑せざるを得ない。

 しかしまた、玉川信明という人が、日本にいながら70の齢に達し、晩年に至って日本語訳にされているあらゆるOsho本に目をとおして、青年時代から傍らに存在した親鸞を語る、という所業は、とてつもなくユニークだ。誤解をされないようにキチンと説明したうえで、その自説を展開するスタイルは、自称「プロの嘘つき」である村上春樹の小説や、SFなどのフィクションが許容されると同じように、この本は、独創性という意味では目を見張らせるものがある。まさに<異説>である。 

 親鸞については、いくつかの角度から切り込んでいくチャンスがあったが、当ブログ<1.0>においては、深く入っていくことはできなかった。一つには、機縁の問題であり、一つには力量の問題であり、一つにはタイミングの問題である。最初の最初から批判的に親鸞に切り込んでいくほどの余裕はもともとない。また、親鸞について通り一遍以上の素養がない。そして、読書ブログ、1日1冊1万字というキャパシティの中で、こと親鸞を取り上げて追っかけることは、当ブログとしては、一日たりとも第一義になったことはない。

 しかし、こうして玉川が先鞭をつけてくれたことにより、インターフェースはわずかながらできたと解釈できる。あとは、もうすこし時期を待とう。

<2>につづく

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