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2009/03/14

意識は科学で解き明かせるか


「意識は科学で解き明かせるか」 脳・意志・心に挑む物理学
天外伺朗 /茂木健一郎 2000/03 講談社 新書 197p
Vol.2 No.545 ★★★★☆ ★★★★★ ★★★★☆

 「意識は科学で解き明かせるか」という命題について、拙速的に即答すれば、それは「できない」という答えにならざるを得ない。それはこの本のもととなった対談が行われた1998年だろうが、この本が出版された2000年だろうが、あるいは、当ブログがようやくページをめくっている2009年であろうと、変わりがない。それはまだ時期が熟していないからか、あるいは、そもそもこの命題に限界があるのか。

 天外伺朗・茂木健一郎という二人のソニーに関係のある「科学者」が「意識」について考える。この本で言われているところの「意識」という言葉が、当ブログとしてもとても使いやすい。このテーマこそ、当ブログが探索していた言葉づかいということになろう。

 茂木 脳科学をやっている立場からいえば、脳を物質として扱っている限りはいいのですが、心を科学的な学問の対象にしようとすると、まだ非常なアレルギーがあるんですよね。 私はいつもこれを「刺身のつまの意識」と言っているんですが、脳科学者は90パーセント以上の時間は、ふつうに物質的に脳を扱って、最後の最後に「ところで意識は不思議ですね」とか「そのうち解きたいですね」とか何とか言うんですよね。それに正面から本気で取り組もうとすると、そこにタブーがまだあって、そこらへんが面白いですね。いかにニュートンが提出した機械的な宇宙観というものが、宗教にも似た位置を占めているかということなんですよね。ニュートン的な世界の外、たとえば心の問題を問い始めた瞬間に、科学者でなくなってしまうかのような風潮が依然としてあるわけです。p54  

 茂木については、いつも気になるのだけど、まとめて追っかけたことはなかった。どんな位置にあるどんな人物なのだろう。だが、この一冊を読んだだけでも、彼が存在している立ち位置というものが、とても微妙であり、また貴重でもある、ということがよくわかる。

 天外 我々が意識について語るとき、常識的に考えて、意識がすべてだということからいろいろな話をすすめています。しかも、意識と脳の関連といのは、まだまったくわかっていない状況です。けれども、私は、実はたいへんなことがすでに発見されていると思います。これはぼぼ事実と言っていいことだと、私は思っています。すなわち、「意識の拡大」という現象です。

 
人間は、瞑想したり、ランナーズハイになったり、あるいは滝行のような難行苦行をしているときに非常に特殊な意識状態になります。それを「意識の拡大」と言っています。宗教的な神秘体験や、あるいは臨死体験のときの体験とほとんど同じです。人類の歴史を通して、宗教家はそれを神秘体験として語ってきました。宗教家でも、たいへんな修行をした非常にわずかな人だけの体験でした。一般の人でもまれに、そういう体験をした人がいましたが、そういうことを語ることがありませんでした。体験を語っても、あいつは気が狂ったと言われるのがおちだからで、体験した人もほとんどしゃべらなかったのです。p133

 天外も当ブログ<1.0>でもいくつ読んできたが、そのつど変化自在な顔を見せる多彩な人物ではあるが、相手が茂木だと、かなり本領を発揮して、縦横無尽な知性を使いきって、彼流の「意識」についての思いを語る。しかし、ここにおいての「科学」と「意識」の間には、「芸術」をおかなくてはならないし、「芸術」から「意識」へのリンクも、まだまだ杳としてつかめない、というのが本当だろう。  「最後のそして最大の難問に、突破口はあるか」(裏表紙)。この本ブルーバックスの中の一冊である。なかなか面白い。当ブログ<2.0>における突破口になる可能性が大きい。

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