サイコシンセシス<2>
<1>よりつづく
「サイコシンセシス」<2>統合的な人間観と実践のマニュアル
サイコシンセシス叢書4
ロベルト・アサジョーリ /国谷誠朗 1997/06 誠信書房 全集・双書 483p
かなりきっちりした本である。力いっぱいなので、こちらも襟を正して座り直して読みはじめなければならないような、お行儀のよい気分になる。これはすこし長編のコメントを書いておかなくてはならないかな、と思って、前回のコメントを見ると、前回もまたおなじものを感じたらしく、コメント欄いっぱい文字数限界まで書きこんでいた。
であるならば、今回はすこし違った角度からの読み方、コメントの残した方があるだろうと、考えた。前回は、Oshoの「私が愛した本」や「エスリンとアメリカの覚醒」の流れでこの本を読んだ。今回は、「コンシャスネスとしてのブログを考える」 の中の「コンシャスネス(意識)」というキーワードの文字拾いで読んでみたのであった。そしてなおかつ、今回は「(私家版)「Oshoのお薦め本ベスト10」の中の一冊、しかもその中でもベスト3の一冊として読もうとしているのであった。
この私家版ベスト10のうち、数冊を除いて大体読めそうだ。すでに読んでいる本もあるし、「資本論」のように、読むな(笑)と禁じられている本もある。ただあのリストの中では、ユベール・ブノアの「手放し」が見つからない。この人名が正しいかどうかすらわからない。検索してみても、当ブログの過去ログがひっかかってくる程度。まぁ、それもよからん。
さて、このサイコシンセシス叢書シリーズ、アサジョーリの著作が集まっているのかと思うとさにあらず。彼の著書はそれほど多くないようだ。したがって、この「サイコシンセシス」一冊にこめられている重味がそうとうにありそうだ。
自分自身を徹底的に知ろうとするならば、意識領域を形成している要素を調べ上げるだけでは不十分です。無意識の広大な領域にも広範囲にわたって探索の手を伸ばしていかねばなりません。まず最初に、勇気をもって下位意識の穴ぐらに入りこみ、私たちを陥れたり脅迫したりする闇の力を探し出してみることにしましょう。p28
アサジョーリは治療の実践家であったし、広範囲にわたって臨床経験を積んでいるので、この書は、サイコセラピストたちには向いているかもしれない。だが、あまりに多岐にわたる技法が書いてあるので、今回のように単に「意識」とはなにか、という単純な文字さがしには向いていないようだ。逆にいうと、あらゆる角度からの技法を、ひとつのプラットホームに並べているので、技法全体を俯瞰するような視点から読むのなら面白いかもしれない。
Oshoは、この本に対して「サニヤシン全員読むべきものだ」という讃辞を贈っているので、具体的な友人たちの顔を思い浮かべながら、はて、彼らはこの本をどう読むだろうか、と想像してみる。セラピーに関心のある人々なら、当然のごとく読むだろう。ここからインスピレーションを受けて、新たなるセラピーを生み出す人もいるだろう。あるいは、サイコセラピーという発展途上の「アート」の共同制作者としての立場をサニヤシン全員に求めるとするなら、この本の持っている貴重な立場が多いに生きて来るようにも思える。
しかし、Osho自身が言っているように、この本は半分だ。その半分がフロイトであるのかどうかは、即断しかねるが、たしかにOshoが言うところのフロイトや他の整合性のない孤立的な技法の流れの音がないと、なにか物足りない単調なメロディーになりそうな感じもする。
多くの他の心理学的理解方法とサイコシンセシスが異なるのは、トランスパーソナル・セルフおよび超意識(スーパーコンシャスネス)の存在をはっきりと認める立場にたつというところにあります。これれはサイコシンセシスにおいてはフロイトが記述した本能的エネルギーと同じように最も基本的なものです。私たちはトランスパーソナルな部分、つまり霊的な、スピリチュアルな部分が物質的な部分と同じように人間にとって大切であると考えるのです。p294
アサジョーリの用語を使って物事を整理しておいくのも悪くはないが、今はもうすこし大きな枠組みのなかの、ほんの序の口、「意識」とはなにか、という程度のところでウロウロしている当ブログである。しかも、今回は、「コンシャスネスとしてのブログ」とは何か、というなんともふやけたテーマである。
ここでは、アサジョーリの網羅的な技法を学ぶというより、ものごとを全体的に俯瞰するという姿勢を学ぶことに重点を置こう。この本を読んでいて思ったことは、結局、まずは序の口の「意識」とは、ごく日常的に「私は生きている」という感覚だろう、ということだ。
だからブログが位置するインターネット情報社会の構図を、たとえば新聞メディアが主流だった時代や社会と比較して考えてみる。つまり朝刊を開いて、政治経済や、株の上げ下げ、三面記事のあれやこれやが、一定程度に掲載されていて、ああ、今日も相変わらずだなぁ、と思えたとしたら、それはごくごく当たり前の日常的な「意識」の状態でなかろうか、と考えた。
しかし、その新聞に取り上げられない様々な出来事、ささいな出来事や、秘密にされていること、不確かなことなどの方が圧倒的に多いわけで、これは新聞紙上では意識されていないことになるから「無意識」の部類に属するだろう。あるいは、突然、大見出しで号外がでたり、全面ぶち抜きで何かが特報されていれば通常の日常「意識」を超えたなにかが起きていることになる。
この例に倣って、インターネット社会を考えてみる。インターネットに接続されている個人の意識はあれやこれやがあれど、まぁまぁ、昨日やおとといとほぼ同じだなぁ、と思えるような状態が続いているとすれば、それがインターネット上の「意識」である、と仮に規定しておく。
これは例えば、新聞もない時代、何階建てかのアパルトマンに住んでいる住人達が、朝起きて、カーテンを開けた窓から外を見て、中央広場に、酔っぱらいがまだ寝ていたり、カラスが群れていたり、風で吹き飛ばされてきた店の看板か何かをみつけたとしても、ああ、いつもと同じだなあ、と思う程度の日常的「意識」なのだ。
中央広場と新聞とインターネットを規模的に比較してみたわけだが、私たちが生きているこのインターネット社会は、裸眼で見える社会よりも、印刷物として発行された新聞が毎日伝えてくれる社会よりも、はるかに広く、そしてリアルタイムで社会を「意識」できる時代が到来している。もちろん、インターネット社会のまだまだ日常「意識」は定まったものではないが、いずれ新聞メディアが到達したような飽和点が必ずや到来するはずだ。その時点を想定して、まずは、「コンシャスネスとしてのインターネット」「コンシャスネスとしてのブログ」というものイメージしてみる足がかりとすることにする。
個人の精神的営為としての意識と、インターネット上にさも人工知能にもにた意識を見ようとする作業の、大いなる矛盾点については、最初から気づいているが、さまざまな情報や知的欲望を整理するために、まずは、いまのところ、このようなラフなスケッチをしておく。ここから何かをはじめる。
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