サイコシンセシス<3>
<2>よりつづく
「サイコシンセシス」<3>統合的な人間観と実践のマニュアル
サイコシンセシス叢書4
ロベルト・アサジョーリ /国谷誠朗 1997/06 誠信書房 全集・双書 483p
精神医学と心理学における現代の思想の文脈のなかで、特に新しい動向としてのサイコシンセシスを位置づけるには、サイコシンセシスと実存主義的精神療法の対比、もしくは比較をしてみるのがよいのではないでしょうか。
こうした比較を考えてみることの難しさと限界を、私は十分に承知しています。ヴァン・カームがいみじくも述べているように、「実存主義とは、お互いに共通性をほんの少ししか待ち合わせていない、多岐多様にわたる実存主義的潮流に属する思想に対する集合的名称である」からです。しかし、実存主義の哲学、および理論的側面---個々の実存主義者たちの主張が最も異なる部分---は考慮にいれないことにして、精神療法に関係ある側面のみを取り上げることにより、私はこうした困難さを大幅に回避できるものと思います。「序論」p2
当ブログにおける「(仮称)ブッダ達の心理学」が例のOshoの「お勧め本」に依拠するかぎり、ライヒの初発に始まり、ウスペンスキーの体系化の試みを借りて、アサジョーリの技法論に具体化されていくことは、ほとんどお決まりのコースとなった。そのためには、Oshoのアドバイスに従い、サイコシンセシス(精神統合)の半面であるサイコアナリシス(精神分析)のフロイトも積極的に読みこんでいかなければならない。当ブログではフロイトは未読であるが、正直、あまり深入りする予定はない。むしろいわゆる「トランスパーソナル」な人々との整合性が気になるところであるが、こちらも、実はあまり急いで合流させたくない思いがある。
3、超意識(およびその直感や啓示といった形での発現)の研究---天才および想像的活動、あるいは特殊な天賦の才を持つ子どもたちの研究。こうした研究の例としてはバックによる「宇宙意識」や、ウスペンスキー、ウィンスロー・ホール、アーバン、マスロー、ターマンなど、さらには英才児協会における活動グループによる貢献などがあげられるでしょう。p18
アサジョーリにおけるグルジェフ+ウスペンスキーの影響とやらも、これから注意深く拝見していきたいところだが、いわゆる「ごった煮」派のアサジョーリのこと、カルト的にかのスクールとの関係を強調しているところはなさそうだ。むしろ、すべての潮流を整合的に飲み込むというスタンスの中で、名前を並べられたに過ぎないのではないか。
トランスパーソナル・セルフ(上位セルフ)の実体を立証する手段はいろいろとあります。多かれ少なかれ一時的なもには違いないのですが、トランスパーソナル・セルフの存在を意識的に実感としてつかむ状態に到達した人々は数多くいます。こうした人びとは、未踏の地に初めて足を踏み入れた探検家たちと同じくらい確実にトランスパーソナル・セルフの存在を確信しているのです。このような例はバックの「宇宙意識」やウスペンスキーの「第三の思考法」、アンダーヒルの「神秘主義」などに明らかです。トランスパーソナル・セルフへの気づきは、ある種の心理学的手法によっても得ることができます。その例として、ユングが唱えるところの「固体化の過程」、ドゥソワイユの「誘導白昼夢」、ラージャ・ヨガの技法などをあげることができるでしょう。p25
当ブログでは「(仮称)ブッダ達の心理学」において、その「ブッタ達」の根拠として、これから、ようやく重い腰をあげて、「私が愛した本」のなかの「東洋哲学(インド)編」の読み込みから始めようとしている。
アサジョーリには彼なりの用語の使い方があり、是非相半ばするように思うが、これもまた、四の五のいわず、そのまま言葉を受け取っていくことにする。しかし、それにしてもなんともその実体を立証する手段というものが、なんとも華奢に見えるのだが・・・。個人的には、このようなデスマス調のお行儀のよさそうな慇懃な文章はあまり好きではない。
それと、「(仮称)ブッダ達の心理学」は、医学者たちによる精神医学ではないと思っているので、ウスペンスキーいうところの「人間に可能な進化」や「自己研究」にウェイトが移っていかないと、サイコシンセシスの流れは、当ブログの趣旨からは次第にはなれていくことになる。自らの反省も含め、当ブログは、カウンセラーやセラピストという存在の洗い直しの作業過程にはいっている。
| 固定リンク
「49)ブッタ達の心理学2.0」カテゴリの記事
- 死ななくてすむ人間関係の作り方(2009.08.17)
- 自分を活かす色、癒す色(2009.07.28)
- 自分力を高める色彩心理レッスン(2009.07.28)
- 色彩心理の世界(2009.07.27)
- ゴーリキー 母(2009.07.25)
コメント
ENIさん
うまいこと「好い加減」行ってくれればいいのですが、どうなりますか。
けっきょく「超意識」をどうとらえるか、も大切ですが、なぜにそこを目指すのか、そこにどう到達するのか、どう留まるのか、あるいは、どう超えていくのか、なんてことも関心のあるところです。
投稿: Bhavesh | 2009/05/03 08:18
なるほど、Bhaveshさん。
いい加減通り過ぎることが後々「好い加減」になるという感じでしょうか。用語の統一は無意味な領域になってしまうってことかも。
投稿: ENI | 2009/05/02 10:52
ENI さん
諸説いろいろあるようですが、当ブログとしての定見は特にありません。
現在は大局から見ているだけで、用語や概念の統一とかは一切していません。(つまりいいかげんに通り過ぎているということです。ゴメンナサイ)
投稿: Bhavesh | 2009/05/02 02:00
こんばんは、Bhaveshさん。
二連続のコメントで失礼します。
「超意識」という分類の意識状態がどのような状態なのか想像をすることがあるのですが。
瞑想をしているとシータ波が出て夢見心地な状態や体外離脱体験をするといわれたりしていますが。何となくですが、このようなものではないかと感じています。
2007年にダライ・ラマなどが研究に協力(ラマ僧80名など)した脳波実験では、長年の瞑想訓練を積んだ僧侶は、シータ波ではなくガンマ波が高まることがわかったそうです。
ガンマ波は、脳が高度なことをしている脳波らしく、夢見のシータ波ではなく、予知能力など現実世界がさめざめと見える段階だといわれているのですが、Bhaveshさんはどのように思われますか?
そういった僧侶は、以下のサイトで示している中心に集中したとき、周りの三角形の点を12分以上も視覚から消すような集中状態を作ることも可能だったといいます。
http://www.michaelbach.de/ot/mot_mib/
投稿: ENI | 2009/05/01 22:46