« 人間に可能な進化の心理学<5> | トップページ | きけ小人物よ!<2> »

2009/04/27

奇跡の探求<3>

<2>よりつづく
Kiseki1
「奇跡の探求.1」<3>  覚醒の炎 和尚初期瞑想キャンプの講話録
OSHO 市民出版社 1996/12 単行本 479p

ウスペンスキーの「人間に可能な進化の心理学」の目次を見ていると、何冊かのOshoの本を思い出す。その代表的なものは「秘教の心理学」と、この「奇跡の探求1・2」だろう。この全二冊はかなりのボリュームがあるが、うまいこと1の「覚醒の炎」と2の「「七身体の神秘」にわかれており、ウスペンスキーの本の講座の前半部と後半部に対応しているかに思える。

 「人間の四つのセンターと七つの範疇」と「七身体の神秘」は、その数字からも相当な類似性が認められし、類型的な比較=統合の可能性があるので、かなり興味を引かれるところではあるが、ここはまずグッと落ち着いて、前半部から始めよう。

 「覚醒の炎」は、「ツラトゥストラかく語りき」「きけ小人物よ」に通じるような、激しい「初発」ともいうべき爆発力を持っている。特にOshoはダイナミック瞑想の指導を徹底しており、その面からも相当に興味引かれるところだ。

 しかし、当ブログの流れから考えると、この「奇跡の探求1-覚醒の炎」の中で、強烈に目を引かれるのが、グルジェフについてたくさん触れていること。Oshoは他の講話でも、グルジェフについて多く語っているが、この講話が行われた1970前後のOshoがどのように語っていたかは、のちの講話と比較して読んでみる価値はある。

 グルジェフは神秘家だった。この時代のもっとも注目すべき人々のひとりだ。精神的(スピリチュアル)な指導を受けに誰かがやって来れば、彼は必ずその人を15日間毎日酔っ払わせて、酔った状態を調べていた。その酔った状態を調べないかぎり、決してその人にサダーナつまり精神的な修行を手ほどきしなかった。p204

 第11章「混沌とした呼吸の錬金術」p391では、グルジェフの回顧録「注目すべき人々との出会い」についての質問に関連させて、多くのことをグルジェフについて語っている。

 グルジェフが呼吸について論じ合った托鉢僧は、別の道の旅人だ。彼は呼吸法の訓練など一度もしたことはないが、別の方法を通じて、未知なる局面を体験した。そしてこれが困ったことなのだが---つまり、ひとつの道を知った者は、間髪入れずに他の道は間違いだと言ってしまう。だが物事は、個々の道との関係の中で、正しかったり誤っていたりする。ある道にとっては間違ったことでも、別の道ではまったく正しいこともある。p404

 先日、某SNSであるちょっとおっちょこちょいな探求者が書いた本が話題になりかけた。私はこの話題についてはあまり詳しくないのだが、なんでそんな話題が知人たちの間に広がるのか、もうちょっと知りたいと思った。で、すこし書き込みをしてみたのだが、どうも某SNSの管理人はその話題が拡大することは好ましくないことと判断したらしく、その話題は、トピックつながり全体が削除されてしまった。

 私自身の書き込みも一緒に削除されてしまったが、そのことになんの異論もない。しかし、このOshoの指摘でも感じることは、「物事は、個々の道との関係の中で、正しかったり誤っていたりする」ということである。自らの道をしっかりつかんでおかないと、ものごとの基準の価値観がグラグラする。私は、このおっちょこちょいな人が、二つの道に挟まれて、自らの価値観がグラグラしていることに驚いている姿が、なんとも可笑しかった。

 不眠の修行がいくら助けになるとしても、スーフィーの道はずっと危険だ。探求者は毎晩起きたまま、忍耐強く、待つ。グルジェフと出会った托鉢僧は、この道に従っていた。p405

 当ブログにおいてのスーフィー研究は、イドリース・シャーの「スーフィーの話」でもって、ようやくその端っこに着手したばかりだが、いくらその道を学習したとしても、結局はその道のマスターにつかない限り前に進めない地点が必ずくるのであり、そういう意味では、私はついにスーフィーを自らの唯一の道とすることはないだろう。それはマルチン・ブーバーの「ハシディズム」などについても同じことになるだろう。ZENにおいても、タントラにおいても、当ブログは、Osho以外の道をたどる予定はない。

 しかしながらひとつの道を歩む旅人が、他の方策でも同じ状況を作り出せるとは思えないのは当然だ。グルジェフが出会ったその托鉢僧は、調気法については何も理解していない。それにもし、彼がその類の修行をしたら、自分の身を傷つけることになり、実際、害になる。p406

 この点は、最近とみにオープンにされているチベット・タントラの一連の修行方法だが、結局はその道のラマ僧によるイニシエーションなしには絶対に進まないように何度も忠告されることに通じるだろう。

 グルジェフのような、ある意味で根を持たない人というのは、それを知ることができない。なぜなら、彼らの背後には何千年にも渡るような伝統は、何もないからだ。そのうえグルジェフはその放浪の旅の間に、異なる宗派に属す、ほとんど2ダースにも及ぶ神秘家に出会っており、彼が自分の<無財形>を収集したのは、そのような多様な源からだった。彼の<無財形>は、数多くの霊的手段の一部であるたくさんの断片から成っているが、そのひとつひとつはまったく異なっている。p409

 ここにグルジェフの特異性があり、また、Oshoから見た場合のグルジェフの限界性にも通じることになる。

 これらの断片はそれぞれの場においては正しかったが、すべてがごたまぜにされ、まったく奇妙な寄せ集めになってしまった。そのために、グルジェフの技法が時にはある者には効果があっても、誰に対しても充分な効果があるわけではなかった。結果として、グルジェフのもとで修行した者は誰ひとり完全な成就に至らなかったが、それは絶対に不可能なことだった。なぜなら誰かがグルジェフのもとで修業を始め、そして何かしらぴったりくるものがあると、彼はその修行に興味をもつようになるが、様々な未知の寄せ集めでできた道に入り込むからだ。すると、まもなく他の技法が逆に作用をし始める。こうしたことが起こるのは、グルジェフが霊的修行の完全な形態をもたないためだ。それは複合的な形態であると同時に、不充分であるとも言えよう。こういう複合的な形態の鎖の中でこそ欠くことのできない、多くのつながりというものが欠けている。p410

 さあ、ここでOshoはトンデモないことを話している。Oshoのひとりのサニヤシンとして、この言葉をオウム返しにわが言葉とすることはできない。切ったつもりの我が刀で自らが切られる。くわばらくわばら。

 Oshoは、その時その時の状況の中で、聴衆の耳に合わせて即興で話しを組み立てていくことがある。文章的に推敲されたり、なんども書きなおされたものでない限り、言葉は言葉として受け止めるが、それをどのように消化し、自らのものとするかは、もちろん、それぞれの瞑想者の質にかかってくる。

 グルジェフの得た情報の大部分は、スーフィーたちから収集されている。彼はチベットのヨーガについてはまったく知識がなく、ハタ・ヨーガに関して言えば、不十分なものでしかない。p410

 Oshoは別なところで、グルジェフは、13世ダライ・ラマの教師を務めていた、と話していた時もある。この史実は多くの歴史家から現在でも疑問視されているが、まったく否定されていいものでもない。しかし、この文脈をつなげて考えれば、グルジェフは、チベットに長く滞在し、ダライ・ラマの教師さえ務めたが、チベットのヨーガについてはまったく知識を得てこなかった、ということになる。

 しかし、さらにまた、Oshoは別なところでは、ヨーガとタントラは、まったく別な道だ、と話しているところもあり、グルジェフはチベット・ヨーガについては何も知らなかったが、チベット・タントラには精通していた、なんてオチがつくかもしれないが、まずは、ここでは深く突っ込むまい。Oshoがここでいわんとしているのは、グルジェフの知識の多くはスーフィーから来ているのだ、ということを理解すれば足りるだろう。

 この情報をもとにグルジェフが言っていることは、多くの点で矛盾している。たとえば、彼のクンダリーニについての考えはまったく不合理なものだ。彼はそれについて何ひとつわかっていない。彼はそれを「クンダバッファー」と呼び続けているが、このバッファー(緩衝器)というのは、適切な表現ではない。彼が言わんとしているのは、あなたが理解に達しないのはクンダリーニのせいであり、それはあなたと究極なるものとの間に緩衝器として、バリアーとして働いているといいうものだ。だから、それを破壊し超越することが必要であり、グルジェフによれば、クンダリーニを目覚めさせる必要はまったくない。何とも彼は、自分が何を言っているのかわかっていないようだ。p410

 この辺がひとつのつっこみどころだが、当ブログ、現在はウスペンスキーの「人間に可能な進化の心理学」の概略的な読み込みの途中である。いずれこの点については、各論として、どうしても避けては通れなくなる重要部分だが、今はあまり拘泥しないでおこう。

 グルジェフやクリシュナムルティのような人たちは、こうした矛盾の犠牲者だ。その矛盾とは、彼らがクンダリーニのような言葉や、エネルギーの背後にある秘密について、体系的な知識を得られなかったというところにある。実際、そのような理解を得るのは非常に難しい。そえは、ひとつの生では絶対に不可能だ。非常に多くの生を通じて、何十もの道場の中で学び、成長するごく稀な人だけに起こることだ。さもなければ、それは不可能だ。もしある人が、何十もの道場の中で成長したら---それは明らかに、かなり多くの生を必要とするが---その時初めて、その最後の生において、多様な霊的修行の中に統合を見出すことが可能になる。そうでなければ、統合は見いだせない。p414

 「グルジェフとクリシュナムルティ」のように、この二人をまとめて考える人々は少なくない。しかし、ここにおいて、Oshoは、この二人の限界を指摘しつつ、暗に自らの存在を誇示する。ここにおける言葉使いについては、英語の原書、あるいはヒンディーの原書がないので、正しい語彙が、キチンと日本語に転化されているかどうかは、現在の私には確かめようがない。例えば「道場」という言葉は、ひょっとすると英語では「スクール」になっているかもしれないし、元のヒンディー語では「アシュラム」や他の言葉になっている可能性は高い。それと同様、ここで書かれていることは、ストレートに日本語的に理解することは、当ブログでは採用しない。

 「その最後の生において、多様な霊的修行の中に統合を見出すことが可能になる」という言葉のなかに、自らの「最後の生」を示唆し、アサジョーリの「サイコシンセシス」(精神・統合)に強い共感を示しながら、その「統合」の重要性と困難性を暗示し、なおかつかなり限られた稀なものではあるが、可能性がまったくないわけではないことも、暗に示している。

 何はともあれ、この本1,2は今後深く読みこまれるべき本である。とくに「Oshoがリードするダイナミック瞑想」p89他、などという探求においては欠かせない講話録ではあるが、ここではあえて深読みしないでおこう。

<4>につづく

|

« 人間に可能な進化の心理学<5> | トップページ | きけ小人物よ!<2> »

48)意識とは何か」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 奇跡の探求<3>:

« 人間に可能な進化の心理学<5> | トップページ | きけ小人物よ!<2> »