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2009年4月の54件の記事

2009/04/30

サイコシンセシス<3>

    <2>よりつづく
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「サイコシンセシス」<3>統合的な人間観と実践のマニュアル
サイコシンセシス叢書4
ロベルト・アサジョーリ /国谷誠朗 1997/06 誠信書房 全集・双書 483p

 精神医学と心理学における現代の思想の文脈のなかで、特に新しい動向としてのサイコシンセシスを位置づけるには、サイコシンセシスと実存主義的精神療法の対比、もしくは比較をしてみるのがよいのではないでしょうか。

 こうした比較を考えてみることの難しさと限界を、私は十分に承知しています。ヴァン・カームがいみじくも述べているように、「実存主義とは、お互いに共通性をほんの少ししか待ち合わせていない、多岐多様にわたる実存主義的潮流に属する思想に対する集合的名称である」からです。しかし、実存主義の哲学、および理論的側面---個々の実存主義者たちの主張が最も異なる部分---は考慮にいれないことにして、精神療法に関係ある側面のみを取り上げることにより、私はこうした困難さを大幅に回避できるものと思います。
「序論」p2

 当ブログにおける「(仮称)ブッダ達の心理学」が例のOshoの「お勧め本」に依拠するかぎり、ライヒの初発に始まり、ウスペンスキーの体系化の試みを借りて、アサジョーリの技法論に具体化されていくことは、ほとんどお決まりのコースとなった。そのためには、Oshoのアドバイスに従い、サイコシンセシス(精神統合)の半面であるサイコアナリシス(精神分析)のフロイトも積極的に読みこんでいかなければならない。当ブログではフロイトは未読であるが、正直、あまり深入りする予定はない。むしろいわゆる「トランスパーソナル」な人々との整合性が気になるところであるが、こちらも、実はあまり急いで合流させたくない思いがある。

 3、超意識(およびその直感や啓示といった形での発現)の研究---天才および想像的活動、あるいは特殊な天賦の才を持つ子どもたちの研究。こうした研究の例としてはバックによる「宇宙意識」や、ウスペンスキー、ウィンスロー・ホール、アーバン、マスロー、ターマンなど、さらには英才児協会における活動グループによる貢献などがあげられるでしょう。p18

 アサジョーリにおけるグルジェフ+ウスペンスキーの影響とやらも、これから注意深く拝見していきたいところだが、いわゆる「ごった煮」派のアサジョーリのこと、カルト的にかのスクールとの関係を強調しているところはなさそうだ。むしろ、すべての潮流を整合的に飲み込むというスタンスの中で、名前を並べられたに過ぎないのではないか。

 トランスパーソナル・セルフ(上位セルフ)の実体を立証する手段はいろいろとあります。多かれ少なかれ一時的なもには違いないのですが、トランスパーソナル・セルフの存在を意識的に実感としてつかむ状態に到達した人々は数多くいます。こうした人びとは、未踏の地に初めて足を踏み入れた探検家たちと同じくらい確実にトランスパーソナル・セルフの存在を確信しているのです。このような例はバックの「宇宙意識」やウスペンスキーの「第三の思考法」、アンダーヒルの「神秘主義」などに明らかです。トランスパーソナル・セルフへの気づきは、ある種の心理学的手法によっても得ることができます。その例として、ユングが唱えるところの「固体化の過程」、ドゥソワイユの「誘導白昼夢」、ラージャ・ヨガの技法などをあげることができるでしょう。p25

 当ブログでは「(仮称)ブッダ達の心理学」において、その「ブッタ達」の根拠として、これから、ようやく重い腰をあげて、「私が愛した本」のなかの「東洋哲学(インド)編」の読み込みから始めようとしている。

 アサジョーリには彼なりの用語の使い方があり、是非相半ばするように思うが、これもまた、四の五のいわず、そのまま言葉を受け取っていくことにする。しかし、それにしてもなんともその実体を立証する手段というものが、なんとも華奢に見えるのだが・・・。個人的には、このようなデスマス調のお行儀のよさそうな慇懃な文章はあまり好きではない。

 それと、「(仮称)ブッダ達の心理学」は、医学者たちによる精神医学ではないと思っているので、ウスペンスキーいうところの「人間に可能な進化」や「自己研究」にウェイトが移っていかないと、サイコシンセシスの流れは、当ブログの趣旨からは次第にはなれていくことになる。自らの反省も含め、当ブログは、カウンセラーやセラピストという存在の洗い直しの作業過程にはいっている。

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人間に可能な進化の心理学<6>

<5>よりつづく
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  「人間に可能な進化の心理学」 <6
P.D.ウスペンスキー , 前田 樹子 1991/03 めるくまーる 単行本 162p

 一般に、人間に起こりうる意識には4つの状態があると言われている。睡眠、覚醒、自己意識、客観意識の4つの状態である。

 意識の4つの状態をもてる可能性があるというのに、人間は2つの状態のなかだけで暮らしている。人生の一部を眠りのなかに過ごし、もう一部を、いわゆる「目覚めている状態」で過ごす。現実には「目覚めている状態」と眠っている状態とのあいだに大差はないのである。

 われわれは、「客観意識」について何も知らずに暮らしている。また、この意識は実験することもできない。第3の状態の「自己意識」については、われわれにはこの意識があり、自分は自己意識を持っている、と信じて疑わない。実のところ、自分を意識できる瞬間はきわめて稀れな瞬間にすぎず、しかもその瞬間でさえ、おそらくこの事実に気がつかずにいる。なぜなら、実際に自己意識が現れたとしても、それが何を意味するのか知らないからだ。意識の閃きが現れるのは異常な瞬間とか、感情が高ぶった状態とか、危険にさらされたときとか、あるいは非常に目新しく予想もしなかった状況や事態に直面した場合である。あるいは、とくに、変わったこともないごくあたりまえのときに現れることもある。だが、ふつうの状態や「正常」な状態では、人は意識の閃きを支配することなど、できるものではない。p31

 意識の探究者たちは、独自の言葉使いをしていて、必ずしも統一されているものだけではない。むしろ、あえて別な言葉や表現が使われている場合が目につくが、その統合をいたずらに急ぐ必要はないだろう。むしろ、レッテルではなく、そこで言われていることを、もっと直観的に、本質的に、理解、体感しておくことだ。

 ここでウスペンスキーが言っている「客観意識」は、Oshoが「英知の辞典<22>意識」で言っているところの「客体が消えうせて、それと同時に、主体も消えうせる。経験もなければ経験する者もいない」とどう違うのだろう。ここは単に距離を縮めたり、類似のカテゴリでくるめずに、多様性のままに当面放置しておくことにする。

 しかし、ここで把握しておきたいのは、ここで言われるところの4番目の意識の在り方の「4」は、後の「マジックナンバー7」の体系の中の「4」とは違っているので、それとの混同をさけるために、インドの言葉で「4番目」を意味する「トゥリアー」というレッテルを使っておきたい。もちろん、この言葉との類似性から、悟りとかニルバーナなどの用語も、いたずらな先入観をさけるために、あえてイコールとしないでおこう。

 人間に可能な進化という観点から人間を研究することが、いかに重要であるかを理解すれば、心理学とは何か、といった問いに対してまず得られる回答が、心理学とは人間に可能な変化について、その原理と法則と事実を研究する学問である、という事実はおのずと明らかになる。p15

 心理学とは、本当は自己研究のことであり、これを心理学の第二の定義とする。
 心理学は天文学の研究のように、自分自身から離れて研究することはできない。
p34

 この部分についても、言葉としてはなんの矛盾もなく受け入れることができる定義であり、実体がどうであるかはともかくとして、Oshoいうところの「心理学」あたりと、それほど大きく違っているとは思えない。この辺あたりを、当ブログ「(仮称)ブッダ達の心理学」における、「心理学」の字義としておきたい。

<7>につづく

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ターシャム・オルガヌム<3>

<2>よりつづく

ターシャム・オルガヌム(第三の思考規範)―世界の謎への鍵
「ターシャム・オルガヌム」(第三の思考規範)―世界の謎への鍵 <3>
P.D. ウスペンスキー , 高橋 弘泰 , 小森 健太朗 2000/06 コスモスライブラリー 単行本

 当ブログにおける「(仮称)ブッタ達の心理学」研究、探究の旅において、すでに重要ないくつかのキーワードに出会ってきたが、かなり使い方が難しいだろう、と思われる言葉に「意識」がある。

 これは我が師Oshoの「英知の辞典」(意識)の分類にまずは依拠すべきであろう。

1、ジャグルット---目覚め
2、スワプナ---夢見
3、スシュプティ---夢見のない深い眠り
4、トゥリーヤ---「第4」「サマーディ」「悟り」

 この用語や分類は、必ずしもOshoの独創ではないし、他の文献に多く見られる分類法だが、ここは師の言葉への依拠度を高めたい。

 さて、この分類は、たとえばウスペンスキー「人間に可能な進化の心理学」における「人間の4つのセンターと7つの範疇」などとは、どのように対応しているだろうか。

 こちらの「ターシャム・オルガヌム」も、なかなか大書であり、いっときに目を通すのは目がチカチカしてくるのだが、我が師のこの4分類を手掛かりに歩を進めていけば、全体を理解するには至らないまでも、全体像を把握する大きな手掛かりにはなる。

 前半の「次元」論なども、この本が書かれた時代背景などから考えれば大変興味深いが、なにも大槻義彦教授の指摘を待つまでもなく、n次元の話はあまり深入りするほどでもなさそうだ。ミミズが1次元に生きているわけでもなく、海岸のヒトデが2次元に生きているわけでもない。人間も、ミミズも、ヒトデも3次元に生きている。3次元だから、1次元や2次元に戻れる、というものでもなく、3次元から4次元、n次元へと、簡単に行けるものでもないし、思考のトレーニング以上に深入りすることは、今回は避けよう。

 リサ・ランドール「ワープする宇宙--5次元時空の謎を解く」なども興味深いところではあるが、上の「意識の4分類」で言えば「1、ジャグルット---目覚め」にかなり偏った話だ。

 ところでこの書「ターシャム・オルガヌム」の後半になってくると、実に微妙な話がつづく。

 どんな意識の形態が存在するのか?
 インド哲学は意識の4つの状態を区別する---眠り、夢、目覚めた状態、そして絶対意識の状態---「トゥリヤ(Turiya)」---である。(アニー・ベサント「古の智恵」より)
 G・R・S・ミードは、テイラーの翻訳によるプロティヌスの序文において、古代インドのアドヴァイタ・ヴェーダンタ(不二一元論)徹学の教師であるシャンカラチャリアの用語と、プロティヌスの用語を結びつけて論じている。
p288

 この辺あたりから、用語の統一と具体的な例を突き合わせていけば、それほど理解することは困難ではなさそうだ。

 一滴の水が海を吸収するという感覚が起こるのは、意識は決して消滅しないため、すなわち意識は決して消失したり絶滅したりしないためである。意識が消えるように見えるのは、実際には形を変えただけであり、これまでの意識と類似したものではなくなり、その存在を確認する手段を失ったということに過ぎない。p291

 「一滴の水が海を吸収するという感覚」というのは、Oshoの本のタイトルにもなっている「THE SUN RISES IN THE EVENINNG」という感覚と通じるものであろう。

 第23章「宇宙意識と新しい人種」の巻末には「意識の4つの表現形態についての表」が4ページにわたってまとめられているのは興味深い。「時間と空間の感覚」、「心理学」、「論理学」、「数学」、「行動の種類」、「道徳性、「意識形態」、「知識形態」、「様々な存在」などについて、4つの形態を対応させて例示している。

 「意識形態」

第1形態---潜在意識、埋もれた状態の意識、眠り、夢のない眠りの意識

第2形態---単純意識、「痛い」と感じるが「自分が痛いということに気づいている」とは言えない、反映された意識状態、 夢、受動的な意識状態

第3形態---自分の意識状態について考えることができる、「私」と「私でないもの」の区別、活動的な意識、さらなる進化意識的でのみありうる瞬間

第4形態---自己意識の開始、恍惚状態、宇宙意識への移行 

      p422 「意識の4つの表現形態についての表」からの一部抜粋

 順番は違っているが、本文の文頭におけるOshoの分類とほぼ同義と考えていいわけだが、当ブログにおける「(仮称)ブッタ達の心理学」においては、Oshoいうところの『4、トゥリーヤ---「第4」「サマーディ」「悟り」』と、「ターシャム・オルガヌム」いうところの『第4形態---自己意識の開始、恍惚状態、宇宙意識への移行』あたりが当面のターゲットということになる。

 ところが「英知の辞典」(心理学)において、「ブッダのなかにして初めて研究することができるもの」p334とされている。当ブログにおいては、「ブッタ達」についての基礎データが決定的に不足している。そこで「心理学のためのブッタ達」を採集(笑)する方法を考えないといけない。

 そこで思ったことは、Oshoの「私が愛した本」のなかからブッタ達の本を集める方法だった。そこであらためてリストをながめてみたら、なんと、圧倒的にブッタ達に書かれていることが多く、そこから何人かをリストアップすることはほとんど不可能に近かった。

 そこでさらに考えたことは、「仏教」編、「東洋哲学(中国)」編、「禅」編、「心理学」編、「神秘主義」編、「小説(文学)」編、「キリスト教」編、「スーフィー」編、「西洋哲学」編、「その他」編に比較して、圧倒的に貧弱な対応しかできていない「東洋哲学(インド)」編についてだった。

 リストのトップに位置しながら、ボリュームも圧倒的に多く、しかも「トゥリーヤ」にダイレクトにつながってくる可能性がある部分なのに、当ブログの取り組みとしてはほぼ絶望的な状態であった。

 まず、正しい書名が分からない。本があるかどうかすらわからない。日本語に翻訳されているかどうかもわからない。ましてや図書館になんかあるものか、という絶望感である。しかし、そんなことでいいのか・・・・・・・。

 どうやら、新しい問題が浮上してきたようである。

 しかし・・・・、手がまったくないわけではない。

 あ、それと忘れていけないのは、かの本のなかでOshoは「それでもなお研究することはきわめて難しく、ほとんど不可能に近いと言える」と忠告していることだ。

 そして、「その自在な動きを見るためには、あなたもまた瞑想の参加者にならなければいけない」と、付言しているのだった。

<4>につづく

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2009/04/29

英知の辞典<22>意識

<21>からつづく 
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「英知の辞典」<22> 意識 

OSHO, スワミ・アナンド・ソパン 1996/05  めるくまーる 単行本  579p  

 「意識」 CONSCIOUSNESS

 意識には3つの通常の状態がある。ひとつジャグルット---目覚め、第2はスワプナ---夢見、そして第3はスシュプティ---夢見のない深い眠りだ。

 人間はふつうこれら3つの状態を生きており、あるときは目覚め、あるときは夢を見、あるときはぐっすりと眠りこんでいる。人間はこの輪をぐるぐる巡っている。これら3つの心(マインド)の状態ゆえに、人間の意識、その文化、文明には多くのことが起こってきた。

 最初の種類の意識、「目覚め」は固有の文化、固有の文明を生み出した。西洋がそれを代表している。2つめの文化は第2の種類の意識、「夢見」から生み出された。東洋がそれを代表している。意志の疎通がきわめて難しいのはそのためだ。西洋の精神は、東洋の精神と意志を通じあうことがほとんど不可能なことに気づく。それはたんに言語の問題ではない---言葉なら理解できる---問題は心の姿勢(オリエンテーション)だ。

 目覚めている意識は客観的であり、それは対象のこと、外側の世界(リアリティ)のことを考える。それはある種の集中だ。西洋の精神は、集中の力を発達させてきたために、科学を誕生させた。集中の力からは科学が生まれた。東洋が科学を誕生させることができなかったのは、東洋が最初の種類の意識にさほど注意を払ってこなかったからだ。

 東洋は夢見の見地から考える。東洋は内なる世界の見地に立って考える。東洋は主観的世界の立場から考える。東洋は眼を閉じて考え、西洋は眼を開いて考える。西洋は集中する。東洋精神は瞑想する。東洋では幻視者、詩人---内側で大いなる啓示を体験した人々が見いだされるのはそのためだ。だが、彼らはそれを証明できない。その経験は個人的なもの、私的なものにとどまっている。西洋の力点は客観的なもの、歴然としたものにある。目覚めていれば、あなたが見たものは何であれ他人もまた見ることができる。あなたはいま私を見ているが、誰も私を見ることができる---眼がありさえすれば---そのような証明もいらない。太陽が昇れば、それはすぐにわかる。証明は経験そのもののなかにある。誰もがそれを経験している---それについてはみなの意見が一致する。だが、もし私が夕方に太陽が昇るのを見たと言ったら、それはもはや誰もが共有できる経験ではない。それはもはや客観的ではなく、主観的なものになる・・・・。

 これが2つの通常の状態だ。第3の状態はどちらにも起こるが、それをとらえることはできない。心(マインド)は解け去る。スシュプティ、夢見のない眠りでは、自我(エゴ)としてのあなたは消え去り、完全に消え去ってしまうので、朝になっても何が起こったのか思い出すことができない。夢なら思い出すことができるが、夢見のない眠りを思い出すことはできない。せいぜい透き間(ギャップ)として思いだされるだけだ。「ぐっすりと眠っていたので夢さえ見なかった」という言い方がある。だが、それは憶測だ。スシュプティを直接体験することはできない。

 スシュプティからどのような文化も発展してこなかったのは、それを直接にとらえることができないからだ。だが、それは通常の心の状態としては最も深い。スシュプティ、夢見のない眠りから、あなたは毎朝元気を回復して出てくる。あなたは源泉へと向かい、源泉におもむき、再び原初的な意識と接触を持ち、ふたたび自らの基盤と接触を持つ。あなたはもはや人間ではなく、もはやヒンドゥー教徒ではなく、キリスト教徒でもなく、もはや男でも女でも、白人でも黒人でもない。あなたは西洋人ではないし東洋人でもない。すべてが消えうせる---すべての区別が。あなたは在るが、そこにアイディンティティはない。夢見のない眠りから目覚めたとき、大いなる安らぎが感じられるのはそのためだ。

 瞑想がより深まってゆくなら、あなたは第3の状態を知るようになり、夢見のない眠りにも気づくことができるようになる。多くの者がここで止まってしまった。それがあまりにも至福に満ちているので、多くの宗教はそこで止まってしまい、それを超えようとしない。

 さらに第4の状態があり、その第4に到達するまでは、第3はきわめて魅惑的であることを覚えておきなさなさい---第3は非常にすばらしく、至福に満ちているが、まだわが家に到達していない。第4がわが家だ。東洋の神秘家はそれを「トゥリーヤ」と呼んだ。トゥリーヤは「第4」を意味する。

 目覚めは客観的であり、外側のものだ。それはある種の集中だ。夢見は外側と内側の中間にあり、目覚めと深い眠りをつなぐ環(リンク)だ。そして内側には深い眠りがある。では第4、トゥリーヤとは何だろう? それは両方であり、そのどちらでもない。それは内側でありかつ外側であり、その両方であるがゆえにどちらでもない。それは両者を超越し、非二元的であり、全体的だ。もはや外側のものはないし、内側のものもない。客体が消えうせて、それと同時に、主体も消えうせる。経験もなければ経験する者もいない。この第4の状態は「サマーディ」「悟り」と呼ばれる。この第4がすばらしいのは、世間のなかに暮らしながらもその一部にならずにいられるということだ・・・・。

 第4は原初的な状態であり、これら3つが起こってきたそのまさに根源、根本の状態だ。これら3つは枝であり、第4は根だ。 THE SUN RISES IN THE EVENINNG

p43

<23>につづく

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秘教の心理学<3>

<2>よりつづく
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「秘教の心理学」<3>
OSHO /スワミ・プレム・ヴィシュダ 1994/09 瞑想社 /めるくまーる 単行本 317p

 「私が愛した本」の上位にランクされている限り、「かもめのジョナサン」にいつかコメントしなければならないと思っていたのだが、今日の陽気に誘われて、近くの公園まで散歩してベンチに腰掛け、ジョナサンの飛翔をまた、味わった。

 さっそく自宅に帰ってきて、ところでOshoはこの小説になって言っていたのだっけ、と、かの本をめくってみたら、なんと、たったの一行。いやいや実に失笑。

 で、ウスペンスキーの「人間に可能な進化の心理学」に触れていく限り、Oshoが「英知の辞典」で「心理学」に触れていたことを思い出し、再読。当ブログに再録したところ、せっかく新たにタイプしたのに、以前に<1.0>ですでにアップしてたことを発見。

 なんともこの陽気で、すこしゆるんできちゃったのかな、と反省しつつ、なんだか、なにかの円環が一巡してしまったような感じも味わった。

 さて、インターネット上のブログという機能(コンテナ)を使いながら、図書館ネットワークを駆使して読書(コンテンツ)を続け、さて、コンシャスネスとして追っかけてみるべきは、当ブログの場合は「ブッダ達の心理学」ということになるのだろう。

 そう思って、さて、このジャンルで他ではどんなことが書いてあるのだろうと思ってググってみると、あれあれ、当ブログがトップにでてしまった。

 まずい、これはまずい。これでは、当ブログが「ブッダ達の心理学」についてなにごとか知っているかの如く誤解を受けるやも知れないではないか。まぁ、しかし、ここはここ、すこし居直ってみようか。

 大体において、この単語はどこかで聞いた気になっていたので、ほとんど内容を吟味しないで使ってきたのであるが、いくつかの問題点がある。

 「ブッタ達」とは何か。「ブッタの心理学」ではいけないのか。ここはこう書いてしまうと「仏陀の心理学」ということになってしまって、なにか仏教を心理学的にとらえた感じになってしまうのだった。

 それに「心理学」という言葉にもいまいちフィットしないものがある。そもそも「ブッダ達の心理学」と「心理学」の間にどのような違いがあるのか、と言えば、本来は、当ブログにとっては、「ブッダ達の心理学」=「心理学」でしかないのだ。あるいは「ブッダ達の心理学」⊆「心理学」でしかないのだ。 つまり「ブッダ達の心理学」というのは二重修飾になってしまう。本来は「心理学」だけでいいはずなのだ。いや、ひょっとするともっと短い言葉でもいいはずなのだ。

 そして、大体において「ブッダ達」とはなにか。ブッダはたくさんいるのか。何人いるのか。いっぱいいるのか。ちょっとしかいないのか。どうも曖昧な言葉使いが多すぎる。

 そこで、当ブログにおいては、これまでのいい加減な態度をあらためて、もう少し内容が固まるまで、この言葉を使う時は「(仮称)ブッダ達の心理学」と表記することにした。名称を使うと、名称ばかりが独り歩きし始めて、まるで実態があったり、しっかり理解しているかのように思えてくる。自分を誤魔化すわけにはいかない。まだ、なんにも分かっていない。

 さて「秘教の心理学」。Oshoが1970年7月から翌年2月にかけて講話したもので、しかもその講話はヒンディーであったのだ。その講話が採録されて出版され、さらに英訳されたという。しかも、その英訳には旧版と新版があるというからややこしい。私がようやく読解できるのは、日本語に邦訳されたものだ。だから、生のOshoの声からは、いくつもフィルターがかけられている、ということになる。

 それにしてもこの本を、再読して思うことは、ほんとにほとんどひっかかりがなく、よくできた本だなぁ、ということ。フィルターを通る都度、食べやすく、飲みやすく、骨をとり、味付けも塩梅よく調理されてきてしまった可能性だってあるのだ。くわばら、くわばら。

 なにはともあれ、この本は当ブログの当段階においては、きわめて大事な一冊となる。

 いわゆる「(仮称)ブッタ達の心理学」の旅をはじめるにあたって、いくつかのポイントが気になる。ひとつは、なぜ、それは人を求めるのか、という問題であり、これは「かもめのジョナサン問題」と名づけておく。そしてもう一つは「学」らしく、何かの体系があるとすれば、数字の「7」がキーワードとなる。こちらはとりあえず「キーワード7」とでもしておこう。

 そして、「心理学」という用語とともに、きわめて煩雑な作業になりそうなのが、「意識」という言葉の解釈。意識、無意識、下意識、超意識、集合意識、集合無意識、集合超意識、などなど。何でもありのオンパレードが続く。4次元があるなら、5次元も6次元もあるだろう、というアナロジーで、n次元という仮定ができるように、まるで「n意識」とでもいうような実に用語類の混乱がある。

 これに輪をかけて、心理、精神、スピリット、コンシャスネス、こころ、マインド、ノーマインド、などなど、わかっているようなわからないような言葉使いがたくさんある。言葉の意味が分かっても、それがなんなのかもわからないこともたくさんある。

 そんなことも踏まえたうえで、なんとかよーそろ、よーそろ、当ブログなりに「(仮称)ブッタ達の心理学」は船出しなければならない、ハメになってしまった(ようだ)。

 どうして一週間が7日なのか、7つの音階、7つの天体、7つの身体があるのか、その謎を解くことができる。なぜいつも7なのか? こうして、あなたはそれに関する哲学を作りだせる。だがこの種の哲学は、あなたの想像の産物にすぎない。p115

 くわばら、くわばら・・・。

 グルジェフは、人間は月の食物だと言っている。これは完全に論理的だ。それは論理のばからしさを示している。生のなかのあらゆるものは、なにかほかのものにとってためになる。そこでグルジェフは非常に独創的なアイディアを思いついた。人間もまたなにかの食物にちがいない----。それなら「人間はなんの食物か?」というのが、問うべき論理的質問となる。p118

 くわばら、くわばら * n

月は私たちと微妙に関係しているが、グルジェフが言っているようなものではない。118

 グルジェフは、たとえどんなにばかげたものであろうと、ものごとを論理的、合理的、そして意味深いものに見えるようにできる天才だった。p118

 グルジェフは真理のある断片を教えていた。だが理論を一つや二つの断片にもたれかからせるのはそんなに容易ではないため、彼は多くの断片を集めた。そうして、これらの断片を筋のとおった体系にしようと試みた。彼は断絶を埋めることを始めた。だが断絶が埋められるほどに、ますます真実は失われる。そして最終的には、体系全体がこの埋められた断絶によって崩壊することになる。p120

 さぁ、どうする。グルジェフ、ウスペンスキー、なにからかにから、まずは眉唾でかかっていくしかないかモナー・・・。

 体系が合理的であればあるほど、それはばらばらになり、なにか非合理なものが取り入れられなければならなくなる。だが非合理な要素を取り入れるや、心は壊れはじめる。だから体系のことは心配しなくていい。ただ”いまここ”へと跳び込みなさい。p122

 ふむふむ・・

<4>につづく 

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私が愛した本<31>かもめのジョナサン

<30>からつづく
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「私が愛した本」 <31>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p

「かもめのジョナサン」

 4番目は「かもめのジョナサン」。  p13

<32>につづく

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英知の辞典<21> 心理学

<20>からつづく
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「英知の辞典」<21> 心理学
(単行本) OSHO, スワミ・アナンド・ソパン 1996/05  めるくまーる 単行本  579p  

 「心理学」 PSYCHOLOGY

 人間は確かに生物(バイオ)コンピュータだが、何かそれ以上のものでもある。人々の99.9パーセントについて、彼らはたんなる生物コンピュータで、それ以上のものではないと言うことができる。一般的に、人は肉体と心(マインド)でしかないが、そのどちらも寄せ集めだ。瞑想のなかに入ってゆかないかぎり、人はそれ以上のもの、肉体と心を超えたものを見つけることができない。

 心理学者、とりわけ行動心理学者たちは、半世紀にもわたって人間を研究してきたが、彼らはふつうの人間を研究したのであって、もちろんその主張は自分たちの研究から証明されたものにすぎない。ふつうの人間、無意識な人間は、自分のなかに心身の複合体以上のものを持っていない。肉体は心の外面であり、心は肉体の内面だ。どちらもある日生まれ、ある日死んでゆく。

 だが、何かそれ以上のものもある。その何かそれ以上のものが人間を目覚めた人、<光明>の人、ひとりの仏陀、ひとりのキリストにする。だが、パヴロフ、スキナー、デルガドやその他の人たちは、仏陀やキリストを研究することができない。彼らの研究は意識の人間についてのものであり、もちろん無意識の人間を研究したときには、彼らのなかに何ひとつ超越的なものを見つけることはできない。超越的なものは、無意識の人間のなかでは潜在性、可能性としてしか存在しない。それはまだ実現されていないし、まだ現実のものにはなっていない。それを研究することができないのはそのためだ。

 それはブッダのなかにして初めて研究することができるものだが、それでもなお研究することはきわめて難しく、ほとんど不可能に近いと言える。なぜなら、ブッダのなかで研究されるものもまた彼の行動だろうからだ。それ以上のものはないと決めてかかっていたら、すでに結論を出していたら、あなたは彼の行動のなかにさえ機械的な反応だけを見て、彼の自在な動きを見ないだろう。その自在な動きを見るためには、あなたもまた瞑想の参加者にならなければいけない。

 心理学は、瞑想がその基盤になって初めてほんとうの心理学になることができる。「心理学 psycology」という言葉は「魂の科学」を意味する。現代の心理学はまだ魂の科学になっていない。 I AM THAT         p334

<22>につづく

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かもめのジョナサン<1>

かもめのジョナサン
「かもめのジョナサン」 <1>
リチャード・バック /五木寛之 1977/05 新潮社 文庫 140p
Vol.2 No.587★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★★★★

 その騒ぎをよそに、カモメのジョナサン・リヴィングストンは、ただ一羽、船からも岸からも遠くはなれて、練習に夢中になっていた。p7

 そもそもなぜに、ジョナサンは、群れから離れて、ひとり、自らの世界に旅立ってしまったのだろうか。

 ジョナサンは、恥ずかしげもなく飛びあがると、またもや翼を例の震えるほどのきついカーヴにたもち、ゆっくりと速度をおとしてゆくのだった。おそく、さらにおそく---そして彼はふたたび失速し、海に落ちた。どう見てもこれは正気の沙汰ではない。p8

 「人間に可能な進化の心理学」を探究することは、なかなか魅力的なことだ。というか、すでにこのテーマを当面の当ブログのメインテーマに据えることを決定した。そして、どうやら4やら7やらという数字がチラチラ見えてきた。しかし・・・・・。

 カモメのジョナサンは、なぜ騒がしい群れを離れて、ひとり、新しい飛び方を練習をはじめるのだろう・・・。

 「なぜなの、ジョン、一体どうして?」母親は息子にたずねた。
 「なぜあんたは群れの皆さんと同じように振舞えないの? 低空飛行なんて、そんなことペリカンやアホウドリたちにまかせておいたらどう? それに、どうして餌を食べないの? あんたったら、まるで骨と羽根だけじゃないの」

 「骨と羽根だけだって平気だよ、かあさん。ぼくは自分が空でやれる事はなにか、やれない事はなにかってことを知りたいだけなんだ。ただそれだけのことさ」 p10

 なぜ? どうしてなのだろう・・? でもジョナサンにもうまく説明できない。「ただそれだけのことさ」。

 ジョナサンは、その日からずっと、残された生涯をひとりで過ごすこととなった。だが、彼は流刑の場所、<遥かなる崖>にとどまらずに、さらにずっと遠くまで飛んでいった。彼のただひとつの悲しみは、孤独ではなく、輝かしい飛行への道が目前にひろがっているのに、そのことを仲間たちが信じようとしなかったことだ。彼らが目をつぶったまま、それを見ようとしなかったことだった。p40

 どうして山を登るのか? そこに山があるからさ、と答えたのは、どこかの有名な登山家だった。うむ、人生、その一言で割り切れるのだろうか。

 「ふるさとなどわたしにはない。仲間もいはしない。わたしは追放されたんだ。それにわれわれはいま、<聖なる山の風>の最も高いところに乗って飛んでいるが、わたしにはもうこれ以上数百メートルだってこの老いぼれた体を持ちあげることはできんのだよ」

 「それができるのだ、ジョナサン。あなたは飛ぶことを学んだんじゃないか。この教程は終わったのだ。新しい教程にとりかかる時がきたのだよ」 p52

 ひとつの教程が終わって、満足しているのに、存在は、なぜに、新たなる可能性への誘惑を働きかけるのか。進化は、どこまで可能なのか。

 「よし、行こう」ついに彼は言った。
 そして、ジョナサン・リビングストンは、星のように輝く二羽のカモメとともに高く昇ってゆき、やがて暗黒の空のかなたへと消えていった。
p53

 ジョナサンを、さらに、さらに掻き立てるものは何か。

 「よいか、ジョナサン、お前が真に完全なるスピードに達しえた時には、お前はまさに天国にとどこうとしておるのだ。そして完全なるスピードというものは、時速数千キロで飛ぶことでも、百万キロで飛ぶことでも、また光の速さで飛ぶことでもない。なぜかといえば、どんなに数字が大きくなってもそこには限りがあるからだ。だが、完全なるものは、限界をもたぬ。完全なるスピードとは、よいか、それはすなわち、即そこに在(あ)るということなのだ」 p66

 完全とはなにか。そこに在るとはなにか。

 「まず、自分はすでにもうそこに到達しているのだ、ということを知ることから始めなくてはならぬ・・・・」 p75

 師の言葉は厳しい。

 「やったぞ!」

 「そうとも、もちろんお前はやりおおせたのだよ、ジョン」チャンが言った。p78

 師が認め、弟子は自らの達成を知る。

 「ジョナサンよ」彼は言った。それが彼の最後の言葉だった。

 「もっと他人を愛することを学ぶことだ。よいか」 p80

 かもめのジョナサンの物語はここで終わるのだろうか。

 フレッチャー・リンドは、まだとても若いカモメだった。だが、彼は群れの中で自分ほどひどい扱いをうけたり、極端に不公平な仕打ちをうけたカモメはほかにいないと思いこんでいた。p86

 ジョナサン・リビングストンにつづく、若きフレッチャー・リンドがやって来る。

 「フレッチャー、君は本当に飛びたいのか?」

 「はい、飛びたいです!」 p88

 青きジョナサン・リビングストンの後には、さらに青きフレッチャー・リンドが従った。そのあとには、きっと、青きウィルヘルム・ライヒや、青きP・D・ウスペンスキーが従うことだろう。マルチン・ブーバー、コリン・ウィルソン・・・・ その列は長い・・・・。

 なぜに、可能な進化を求めて旅立つのか。

 もうこの辺で、なぜ、を問うのはやめよう。答えはなさそうだ。ないのだ。

 ただ、可能な進化、そのものが、旅を誘う。

<2>につづく

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2009/04/28

アウトサイダー<3>

<2>よりつづく 
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「アウトサイダー」 <3>
C.ウイルソン , 福田 恒存 , 中村 保男 1957 紀伊国屋書店 333p

 「(私家版)Oshoのお勧め本ベスト10」にランクされている限り、今回も一度は手に取ってみなければならない。

 一番目。コリン・ウィルソンの「アウト・サイダー」だ。これは、今世紀、最も影響力の大きな本の一冊だ。だが著者は平凡な人間だ。彼は途方もない能力を持った学者だ。そして確かに、そこここに若干の洞察はある。しかしこの本はすばらしい。

 コリン・ウィルソンについて言うなら、彼はアウトサイダーではない。彼は世間的な人間だ。私はアウトサイダーだ。私がこの本を愛するのはそのためだ。私がこの本を愛するのは、コリン・ウィルソンがそこで語っている領域の人間でないにも関わらず、その叙述はごくごく真理に近接しているからだ。だが覚えておきなさい。たとえ真理に近くても、それはまだ真理ではない。真理であるか、真理でないかのどちらかしかない。その中間はない。

 この「アウトサイダー」という本は、アウトサイダーの世界を外側から理解しようとするウィルソンの、大いなる努力の表現だ。ちょうど誰かが鍵穴からのぞきこむような、アウトサイダーをその外側(アウトサイド)から覗きこもうとする努力の。そうすれば少しは見ることができる。そしてコリン・ウィルソンはそれを見た。この本は読むに値する。ただ読むだけだがね、学ぶ価値はない。読み終わったらごみ箱に投げ捨てればいい。ほんもののアウトサイダーから来た本でない限り、それは遠い遠いこだま、こだまのこだま、反響の反響でしかないからだ。Osho「私が愛した本」p152

 よくよく考えてみると、かの「お勧め本」リストにランクされた、ライヒ、ウスペンスキー、アサジョーリ、に加えて、マルチン・ブーバー、アリストテレス、マルクス、コリン・ウィルソン、などなど、み~~んな悟っていないのでは・・?と思えてくる。 いまひとつOshoの高得点を得ていない(笑)。しかし、その反面、本としては最大級の評価を得ている。つまり、最終的には、本は捨てられるべきなのだ。ごみ箱に捨てられるべきはなにも「アウトサイダー」ばかりではない。

 小森健太朗は「ターシャム・オルガヌム」解説で書いている。

 初めてその名を知ったのは、ご多分に洩れず、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」の終章でグルジェフとともに言及されているのを通じてである。「ターシャム・オルガヌム」p440

 この本は、少年時代から知っているが、文字が小さいし、「サヨク」的じゃなかった(笑)から、私ははあまりよく読まなかった。今でもコリン・ウィルソンはなんとなく好意を持っているのだが、得意ではない。

 われわれの観点からして、もっとも興味ある点の1つは、グールドジェフが「3つの道」をあきらかにしていることだろう。3つの道とは、隠者の道、僧侶の道、ヨギの道であるが、これらは、本書の第4章で確立した3つの修練法、肉体、感情、精神に対する制御と同じである。ところで、それよりも興味深いのは、グールドジェフの方式には、他の3つ道をすべて含む第4の道があるとかれが主張している点である。南フランスにあるグールドジェフの「学校」は、「人間の調和的生育を目的とする道場」と呼ばれているが、つまりそれは、人間の3つの要素を調和的に育てあげるという意味である。グールドジェフ方式のめざす目標と「アウトサイダー」の求めるものが同一であることはまちがいない。p294

 この辺こそウスペンスキーが「人間の4つのセンターと七つの範疇」として書いている部分とオーバーラップしてくるところだろう。

 ところで、小森健太朗が同じ「ターシャム・オルガヌム」解説p449で「サイコシンセシス」について書いている。

 イタリアの心理学者ロベルト・アサジョーリは、自らの「サイコシンセシス(精神統合)」をうちたてるにあたり、グルジェフとウスペンスキーの二人の思想に大きく影響を受けたことを認めている。邦訳された「サイコシンセシス」(春秋社)でも、ウスペンスキーの名前と著作がグルジェフと並んで挙げられている。「ターシャム・オルガヌム」解説p449

 ここで(春秋社)となっているところが、ちょっと気になる。当ブログが読んだのは誠神書房の「サイコシンセシス叢書ー4」だったが、こちらは、あまりこのような印象を受けなかった。ひょっとすると別な本かもしれない。当ブログにおいては、ちょくちょくこのようなトンチンカンな取り違えがあるが、まぁ、徐々に精度をあげていけばいいだろう。

<4>につづく

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きけ小人物よ!<2>

<1>からつづく
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「きけ小人物よ!」<2>
W.ライヒ / 片桐 ユズル 1970/11 太平出版社 単行本 214p

 ウスペンスキーの「人間に可能な進化の心理学」を追っかけてみることは、それなりに興味深い。6とか7とか、1とか2とか、3とか4、あるいは5とか、いろいろそれなりにイメージはある。詳しく追っかけたことはないので、この際、もう少しブラッシュアップすることも悪くはないだろう。しかし、人間というものはそもそも、なぜにそんなことに興味をもつのであろうか。自分が1や2であったとして、あるいは3や4を垣間見たとして、なぜに5や6があることに気づき、7に到ろうとする願望が生まれるのか。

 当ブログにも、決して多くのアクセスではないが、それなりに訪問者がある。ほとんどは、数日間のアクセスで過去へと消えていくのだけれど、「テラ・フォーミング」「エコ・テロリズム」と並んで、決して派手ではないがポツポツとアクセスが続いているのが「昔、革命的だったお父さんたちへ」だ。なんともアイロニーなこのタイトルに惹かれるのだろうが、「お父さんたち」自身が忸怩たる思いで、その晩年を過ごしているからでもあるはずだ。

 「きけ小人物よ!」W・ライヒ。団塊の世代のお父さん、お母さん、少なくともあの青春時代を「生きた」と実感できる「全共闘世代」なら、この名前を知らないはずはない。

 あなたは「小人物」「平凡人」とよばれる。あたらしい時代「平凡人の時代」がはじまったといわれる。それをいうのはあなたではないのだ、小人物よ。それをいうのはかれら、大国の副大統領たち、出世街道の労働指導者たち、悔いにみちたブルジョワ家族のむすこたち、政治家たちや哲学者たちなのだ。かれらがあなたに未来をあたえ、しかもあなたの過去についてはたずねない。

 あなたはおそるべき過去の子孫なのだ。あなたの遺産はあなたの手のなかで燃えているダイヤモンドだ。このことこそわたしは、あなたにいいたいのだ。p24

 Oshoはこの本について、「私のサニヤシンたちがすべて瞑想すべき本だ」と語っている。決して、「サニヤシンすべてにとっての必須の研究対象にならなければならない」とか、「サニヤシンが全員読むべきものだ」とは言っていない。もちろん「詩的な本だが、私のヴィジョンにきわめて近い」とも言っていない。しかし、「私のサニヤシンたちがすべて瞑想すべき本だ」と言っている。

 この本は、ダイヤモンドなんかじゃない。もちろん、ダイヤモンドの原石なんかじゃない。原石どころか、ただの岩石だ。ゴロっと転がっている岩石だ。だが、この岩石こそ瞑想される価値がある。

 Oshoはマルクスの「資本論」について、わざわざ愛すべき本としてとりあげながら、「それを読まないように」とさえ注意書きしている。コミューンという概念の中でそのコミュニズムについて深い共感を示しながらも、一定の距離を置きつづけている。当ブログは、どうもいまいち納得いかないまま、マルチチュードなどという、変種の概念に望みをかけたりしている。

 なにはともあれ、「きけ小人物よ!」は、「昔、革命的だったお父さん、お母さんたち」にとっては甘酸っぱい香りがいっぱい込められているはずだ。論理も情報も、時代も、立場もまったく変わってしまっている。しかし、表面の一皮をむけば、中身は本物だ。瞑想すべきエネルギーがむんむんしている。ダイレクトな湯気が漂っている。

 まことに、人間は汚れた河に似ている。みずから汚れることもなく、汚れた河を吸収しえんがためには、すべからく海でなくてはならぬ。
 きけ、われなんじらに超人を教う。超人こそはかかる海である。その中になんじらの大いなる軽蔑は没し去りうる。
ニーチェ「ツァラトウストラかく語りき(上)」竹内道雄訳p19

 本家のニーチェにさえ連なるこのパトス。いったいこのパトスはどこから来るのか、という疑問もともかくとして、この鬱勃たるパトスがなければ、「人間に可能な進化の心理学」など問う意味は何もない。Oshoはまるで、このエネルギーをダイナミック瞑想で引火しようとしているかのようだ。このW・ライヒの岩石が燃え始まる。

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2009/04/27

奇跡の探求<3>

<2>よりつづく
Kiseki1
「奇跡の探求.1」<3>  覚醒の炎 和尚初期瞑想キャンプの講話録
OSHO 市民出版社 1996/12 単行本 479p

ウスペンスキーの「人間に可能な進化の心理学」の目次を見ていると、何冊かのOshoの本を思い出す。その代表的なものは「秘教の心理学」と、この「奇跡の探求1・2」だろう。この全二冊はかなりのボリュームがあるが、うまいこと1の「覚醒の炎」と2の「「七身体の神秘」にわかれており、ウスペンスキーの本の講座の前半部と後半部に対応しているかに思える。

 「人間の四つのセンターと七つの範疇」と「七身体の神秘」は、その数字からも相当な類似性が認められし、類型的な比較=統合の可能性があるので、かなり興味を引かれるところではあるが、ここはまずグッと落ち着いて、前半部から始めよう。

 「覚醒の炎」は、「ツラトゥストラかく語りき」「きけ小人物よ」に通じるような、激しい「初発」ともいうべき爆発力を持っている。特にOshoはダイナミック瞑想の指導を徹底しており、その面からも相当に興味引かれるところだ。

 しかし、当ブログの流れから考えると、この「奇跡の探求1-覚醒の炎」の中で、強烈に目を引かれるのが、グルジェフについてたくさん触れていること。Oshoは他の講話でも、グルジェフについて多く語っているが、この講話が行われた1970前後のOshoがどのように語っていたかは、のちの講話と比較して読んでみる価値はある。

 グルジェフは神秘家だった。この時代のもっとも注目すべき人々のひとりだ。精神的(スピリチュアル)な指導を受けに誰かがやって来れば、彼は必ずその人を15日間毎日酔っ払わせて、酔った状態を調べていた。その酔った状態を調べないかぎり、決してその人にサダーナつまり精神的な修行を手ほどきしなかった。p204

 第11章「混沌とした呼吸の錬金術」p391では、グルジェフの回顧録「注目すべき人々との出会い」についての質問に関連させて、多くのことをグルジェフについて語っている。

 グルジェフが呼吸について論じ合った托鉢僧は、別の道の旅人だ。彼は呼吸法の訓練など一度もしたことはないが、別の方法を通じて、未知なる局面を体験した。そしてこれが困ったことなのだが---つまり、ひとつの道を知った者は、間髪入れずに他の道は間違いだと言ってしまう。だが物事は、個々の道との関係の中で、正しかったり誤っていたりする。ある道にとっては間違ったことでも、別の道ではまったく正しいこともある。p404

 先日、某SNSであるちょっとおっちょこちょいな探求者が書いた本が話題になりかけた。私はこの話題についてはあまり詳しくないのだが、なんでそんな話題が知人たちの間に広がるのか、もうちょっと知りたいと思った。で、すこし書き込みをしてみたのだが、どうも某SNSの管理人はその話題が拡大することは好ましくないことと判断したらしく、その話題は、トピックつながり全体が削除されてしまった。

 私自身の書き込みも一緒に削除されてしまったが、そのことになんの異論もない。しかし、このOshoの指摘でも感じることは、「物事は、個々の道との関係の中で、正しかったり誤っていたりする」ということである。自らの道をしっかりつかんでおかないと、ものごとの基準の価値観がグラグラする。私は、このおっちょこちょいな人が、二つの道に挟まれて、自らの価値観がグラグラしていることに驚いている姿が、なんとも可笑しかった。

 不眠の修行がいくら助けになるとしても、スーフィーの道はずっと危険だ。探求者は毎晩起きたまま、忍耐強く、待つ。グルジェフと出会った托鉢僧は、この道に従っていた。p405

 当ブログにおいてのスーフィー研究は、イドリース・シャーの「スーフィーの話」でもって、ようやくその端っこに着手したばかりだが、いくらその道を学習したとしても、結局はその道のマスターにつかない限り前に進めない地点が必ずくるのであり、そういう意味では、私はついにスーフィーを自らの唯一の道とすることはないだろう。それはマルチン・ブーバーの「ハシディズム」などについても同じことになるだろう。ZENにおいても、タントラにおいても、当ブログは、Osho以外の道をたどる予定はない。

 しかしながらひとつの道を歩む旅人が、他の方策でも同じ状況を作り出せるとは思えないのは当然だ。グルジェフが出会ったその托鉢僧は、調気法については何も理解していない。それにもし、彼がその類の修行をしたら、自分の身を傷つけることになり、実際、害になる。p406

 この点は、最近とみにオープンにされているチベット・タントラの一連の修行方法だが、結局はその道のラマ僧によるイニシエーションなしには絶対に進まないように何度も忠告されることに通じるだろう。

 グルジェフのような、ある意味で根を持たない人というのは、それを知ることができない。なぜなら、彼らの背後には何千年にも渡るような伝統は、何もないからだ。そのうえグルジェフはその放浪の旅の間に、異なる宗派に属す、ほとんど2ダースにも及ぶ神秘家に出会っており、彼が自分の<無財形>を収集したのは、そのような多様な源からだった。彼の<無財形>は、数多くの霊的手段の一部であるたくさんの断片から成っているが、そのひとつひとつはまったく異なっている。p409

 ここにグルジェフの特異性があり、また、Oshoから見た場合のグルジェフの限界性にも通じることになる。

 これらの断片はそれぞれの場においては正しかったが、すべてがごたまぜにされ、まったく奇妙な寄せ集めになってしまった。そのために、グルジェフの技法が時にはある者には効果があっても、誰に対しても充分な効果があるわけではなかった。結果として、グルジェフのもとで修行した者は誰ひとり完全な成就に至らなかったが、それは絶対に不可能なことだった。なぜなら誰かがグルジェフのもとで修業を始め、そして何かしらぴったりくるものがあると、彼はその修行に興味をもつようになるが、様々な未知の寄せ集めでできた道に入り込むからだ。すると、まもなく他の技法が逆に作用をし始める。こうしたことが起こるのは、グルジェフが霊的修行の完全な形態をもたないためだ。それは複合的な形態であると同時に、不充分であるとも言えよう。こういう複合的な形態の鎖の中でこそ欠くことのできない、多くのつながりというものが欠けている。p410

 さあ、ここでOshoはトンデモないことを話している。Oshoのひとりのサニヤシンとして、この言葉をオウム返しにわが言葉とすることはできない。切ったつもりの我が刀で自らが切られる。くわばらくわばら。

 Oshoは、その時その時の状況の中で、聴衆の耳に合わせて即興で話しを組み立てていくことがある。文章的に推敲されたり、なんども書きなおされたものでない限り、言葉は言葉として受け止めるが、それをどのように消化し、自らのものとするかは、もちろん、それぞれの瞑想者の質にかかってくる。

 グルジェフの得た情報の大部分は、スーフィーたちから収集されている。彼はチベットのヨーガについてはまったく知識がなく、ハタ・ヨーガに関して言えば、不十分なものでしかない。p410

 Oshoは別なところで、グルジェフは、13世ダライ・ラマの教師を務めていた、と話していた時もある。この史実は多くの歴史家から現在でも疑問視されているが、まったく否定されていいものでもない。しかし、この文脈をつなげて考えれば、グルジェフは、チベットに長く滞在し、ダライ・ラマの教師さえ務めたが、チベットのヨーガについてはまったく知識を得てこなかった、ということになる。

 しかし、さらにまた、Oshoは別なところでは、ヨーガとタントラは、まったく別な道だ、と話しているところもあり、グルジェフはチベット・ヨーガについては何も知らなかったが、チベット・タントラには精通していた、なんてオチがつくかもしれないが、まずは、ここでは深く突っ込むまい。Oshoがここでいわんとしているのは、グルジェフの知識の多くはスーフィーから来ているのだ、ということを理解すれば足りるだろう。

 この情報をもとにグルジェフが言っていることは、多くの点で矛盾している。たとえば、彼のクンダリーニについての考えはまったく不合理なものだ。彼はそれについて何ひとつわかっていない。彼はそれを「クンダバッファー」と呼び続けているが、このバッファー(緩衝器)というのは、適切な表現ではない。彼が言わんとしているのは、あなたが理解に達しないのはクンダリーニのせいであり、それはあなたと究極なるものとの間に緩衝器として、バリアーとして働いているといいうものだ。だから、それを破壊し超越することが必要であり、グルジェフによれば、クンダリーニを目覚めさせる必要はまったくない。何とも彼は、自分が何を言っているのかわかっていないようだ。p410

 この辺がひとつのつっこみどころだが、当ブログ、現在はウスペンスキーの「人間に可能な進化の心理学」の概略的な読み込みの途中である。いずれこの点については、各論として、どうしても避けては通れなくなる重要部分だが、今はあまり拘泥しないでおこう。

 グルジェフやクリシュナムルティのような人たちは、こうした矛盾の犠牲者だ。その矛盾とは、彼らがクンダリーニのような言葉や、エネルギーの背後にある秘密について、体系的な知識を得られなかったというところにある。実際、そのような理解を得るのは非常に難しい。そえは、ひとつの生では絶対に不可能だ。非常に多くの生を通じて、何十もの道場の中で学び、成長するごく稀な人だけに起こることだ。さもなければ、それは不可能だ。もしある人が、何十もの道場の中で成長したら---それは明らかに、かなり多くの生を必要とするが---その時初めて、その最後の生において、多様な霊的修行の中に統合を見出すことが可能になる。そうでなければ、統合は見いだせない。p414

 「グルジェフとクリシュナムルティ」のように、この二人をまとめて考える人々は少なくない。しかし、ここにおいて、Oshoは、この二人の限界を指摘しつつ、暗に自らの存在を誇示する。ここにおける言葉使いについては、英語の原書、あるいはヒンディーの原書がないので、正しい語彙が、キチンと日本語に転化されているかどうかは、現在の私には確かめようがない。例えば「道場」という言葉は、ひょっとすると英語では「スクール」になっているかもしれないし、元のヒンディー語では「アシュラム」や他の言葉になっている可能性は高い。それと同様、ここで書かれていることは、ストレートに日本語的に理解することは、当ブログでは採用しない。

 「その最後の生において、多様な霊的修行の中に統合を見出すことが可能になる」という言葉のなかに、自らの「最後の生」を示唆し、アサジョーリの「サイコシンセシス」(精神・統合)に強い共感を示しながら、その「統合」の重要性と困難性を暗示し、なおかつかなり限られた稀なものではあるが、可能性がまったくないわけではないことも、暗に示している。

 何はともあれ、この本1,2は今後深く読みこまれるべき本である。とくに「Oshoがリードするダイナミック瞑想」p89他、などという探求においては欠かせない講話録ではあるが、ここではあえて深読みしないでおこう。

<4>につづく

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人間に可能な進化の心理学<5>

<4>よりつづく
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  「人間に可能な進化の心理学」 <5>
P.D.ウスペンスキー , 前田 樹子 1991/03 めるくまーる 単行本 162p

 講座1 人間は自分自身を知らない

 講座2 人間の4つのセンターと七つの範疇

 講座3 自己発達に必要な条件

 講座4 自己想起の錬金術

 講座5 知識の存在と理解

 
1937年9月23日木曜日の講座 p5「目次」

 ざっと、見ると巻末の「1937年9月23日木曜日の講座」を除けば、ウスペンスキーの世界観でもあり、グルジェフの世界観である、と言っても過言ではあるまい。グルジェフ・ワークのウスペンスキー的理解、ということにしておこう。

 「講座1 人間は自分自身を知らない」においては導入部なので、全体的な取り組みや、時代背景、を把握し、そして、一番大切なことは、用語の理解と統一だ。他のさまざまな潮流や学派があるが、まずはウスペンスキーの言葉に耳を傾けて、自分なりに使いきれるようになりたい。いわゆる「意識」とか「無意識」、「心理学」やいわゆる神秘主義についての用語の取扱いがメインとなろうか。

 「講座2 人間の4つのセンターと七つの範疇」においては、独特な世界観が展開されるが、実は、別に独特というわけではないのだ。よくよく読んでみれば、どっかで聞いたことのある話題の連続だ。断片的であったとしても、どこかですでに仕入れてある知識たちが目覚める。4とか7とか象徴的に使われるが、そのようにまとめられている、ということだ。つまり「まとめてくれている」、というのがプラス・ポイントで、「まとめられている」、というところがまた、マイナス・ポイントであることを忘れてはいけない。Oshoの本なら、「秘教の心理学」「奇跡の探求」へと展開するところであるが、ここはじっとウスペンスキーの講座に耳を傾けよう。

 「講座3 自己発達に必要な条件」。ここからはちょっと複雑になる。つまりは、マスター、スクール、ワーク、などの独特の用語と実際的な流れについての理解だ。しかし、これもまた、かならずしもウスペンスキー独特のものというよりは、他世界においても言われているごく基本的な事柄なのだ。それがウスペンスキーなりの用語や語り口で語られる。この辺になると、クリシュナムルティなどとの比較が面白かろうが、ここはグッとウスペンスキーに身を寄せて考えてみたい。

 「講座4 自己想起の錬金術」。ここまでくると、色調でいえば、馬車から馬へと話題の中心が移っている。この講座、どこから始めるか、どこを強調するかは、後日にまかせるとして、結局は、現在の具体的な「私」自身の在り方に関わってくるだろう。微妙な話が続くが、今はまだよく読んでいない。具体的なリアリティとの出会いが必要だ。なにはともあれ、この本、らせん状にうろうろしていれば、全体を俯瞰することは、それほど難しくはない(だろう)。

 「講座5 知識の存在と理解」。ここまでくれば、話は、御者のレベルであり、馬車+馬+御者=一体がテーマということになろう。ウスペンスキーがいうように、ここまでゆっくり聞かなければ、この講座の意味がない。ホントの意味でワークが始まらないということになろう。ただ、ここまでくるとウスペンスキー本人の葛藤や矛盾がでてきている可能性も高い。その辺をじっくり読みこんでみるもの興味深い。

 最後の「1937年9月23日木曜日の講座」は当然、この本におけるキモの部分だが、ここは今はあまりスキャンダルにとらえずに、あとでゆっくり楽しもう。グルジェフ+ウスペンスキーのスクールやワーク、システムがどのようにOshoワールドに引き継がれていったのかも、いろいろ推測してみるのも面白い。当ブログとしては未読であるが、サニヤシンの書いたグルジェフ関連本「覚醒の舞踏」なども、興味深々というところ。

<6>へつづく

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2009/04/26

人間に可能な進化の心理学<4>

<3>よりつづく
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  「人間に可能な進化の心理学」 <4>
P.D.ウスペンスキー , 前田 樹子 1991/03 めるくまーる 単行本 162p

 それは小さな本だ。その本の名前は「人間に可能な進化の心理学」(邦題)という。ウスペンスキーはその遺書に、自分が死んでからそれを出版するようにと書き遺していた。私はこの男が好きではない。だが私はしぶしぶだが、ウスペンスキーはこの本の中で、ほとんど私と私のサニヤシン達を予言していたと言わなければならない。彼は未来の心理学を予言していた。そしてそれこそは、私がここでやっていることだ・・・・・未来の人間、新しい人間(ニューマン)だ。この小さな本は、サニヤシンすべてにとっての必須の研究対象にならなければならない。Osho「私が愛した本」p151

 まがりなりにブログをやっていると、次から次と追っかけてみたいテーマが登場し続ける。本というジャンルにしただけでも、なんとも魅力的な本がどんどん、どんどん、切りなくやってくる。実は、この<2.0>が始まってからも、ここに書いていない本を何冊も読んでいる。リクエストしている本も、なんとも突拍子もない本を何冊か加えている。

 しかし、と考える。それでは、<1.0>をやめて、<2.0>に移ってきた意味がないではないか。あのまま<1.0>を続けていても、それは蟻地獄だ、と気がついたのだ。それはサンサーラだ。丸い檻の中で走り続けるモルモットのような状態だ。あの無間地獄を脱出するために<2.0>を始めたのだった。

 そこで、コンつながりで、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスの、3コン論を<2.0>のテーマに据える予定でいた。いや、それは変えない。しかし、例のG・O・Dプロジェクトも、素材を準備していくと、次から次と拡散していってしまうことが分かってきた。準備した素材が枕もとにいくつも転がり始めた。面白い。いっぱいある。しかし、これは、一個人が展開する気まぐれ読書ブログには収容しきれない。力量不足だ。

 そこで、つまり、いわゆるコンシャスネス論に特化していくことにした。もちろん、コンテナ、コンテンツという二つのインターフェースはキチンと残す。しかし、エネルギーを注ぐのはコンシャスネス論だ。そう結論した。

 しかし、結論したからと言って、そう簡単なものではない。コンシャスネス=意識、というテーマは、これまた新たなる蟻地獄だ。末広がりに未解決の問題は広がりはじめる。一冊一冊、一人一人言っていることが違う。読みこむだけでも大変なのに、ひとつのプラットフォームに並べていくことでさえ、無限のエネルギーを使い果たす。

 そこで、考えた。なんであれ、「(私家版)Oshoのお薦め本ベスト10」は、当ブログ<1.0>における、ひとつの中間決算だ。たった12冊の本ではあるが、正直言って、私には荷が重い。どこまでも深読みするなんてことは、簡単にできそうにない。だから、この際、さらにこのリストの中から、絞りこむ。

 「サニヤシンたちがすべて瞑想すべき本だ」とされる W・ライヒ 「聞け小人物よ!」は、このリストのトップに位置する。しかし、この本はニーチェ「ツラトゥストラ」やジブラーンの「預言者」に連なっていく本だ。「瞑想」すべき本ではあるかもしれないが、いま当ブログが「研究」すべき本であるとは、決して言えない。

 あるいは、「お勧め本」リストの第3位「サイコシンセシス」は、Oshoによって「サニヤシンが全員読むべきものだ」とは推薦されているが、こちらもきわめて魅力的ではあるが、精神の探究でいうと、往路と復路、くらいの違いがありそうだ。いずれはフロイトを加えた形で読みなおすとしても、まずは、ウスペンスキーから始めて見るのがいいのではないだろうか、と、結論づけてみた。

 ウスペンスキーとグルジェフについては漫然と目を通しておいたが、今後の道筋においてまったく無駄になるということはないだろう。「お勧めリスト」には「宇宙の新しいモデル」が入っているし、リスト外ではあるが「ターシャム・オルガヌム」に対するOshoの評価も半端じゃない。そんなこんなで、なにはともあれ、この表題の本から<2.0>を始めることを決断したのだった。

 しかし・・・・、決断するまでかかった時間よりも、わずかこの162ページの本を読みこむことのほうがはるかに時間はかかるだろう。半端なことでは手に負えない。この本はまるで、数百冊に及ぶ全集における目次のような本だ。

 心理学について語ろう。
 ここで言う心理学とは、一般に心理学と呼ばれているものとは大いに異なっているということを、先にお断りしておきたい。
p11

 せっかく一般論をしようと言っているのに、最初っから一般論じゃぁないよ、と言われれば、もう、この本の言わんとしているところに従っていくしかないだろう。あまりにトンデモ本として偏っているのであれば、最初っから相手にしていないが、また、多少個性的であったとしても、それこそ後に「サイコシンセシス」などで、現代的な一般的な体系に置き換えることができるとするならば、それまで、多少個性的な荒波であったとしても、果敢に向かって行ってみる価値はあるだろう。

 こうした内容を一つに、いや、二つか三つの講座にまとめることはとても無理だった。それで、聴講希望者には、一つや二つの講座を聞くだけなら無意味である、少なくとも5つ、できるなら10の講座に出席しなければこの仕事(ワーク)の概念はつかめないことを前もって断っておいた。p3

 なんだか面倒くさそうだなぁ、と思いつつ、Oshoのウスペンスキーに対する評価を思い出した。

 私はウスペンスキーは好きではない。彼はグルジェフの教えを講義しているときでさえ、校長そのものだった。黒板の前に立って、手にはチョークを持ち、前には教卓と椅子を置いて、まさに校長そのものだ・・・・講義録をひろげ、そのほか何もかも、何から何でもそろっていた。しかもその教え方ときたら・・・・・黄金のメッセージを伝えていたにも関わらず、なぜに彼に惹かれる人間がこんなに少ないのかが理解できる。「私が愛した本」p150

 めちゃくちゃな評価の仕方だが、Oshoなりのユーモアとウィットがないまぜとなって、彼がいかにこの本を愛していたかが、よく伝わってくる。この本を一冊全部読むことすらかなり大変なことだ。最初はざっと読んで、大略をつかんだあとは、さらに、この本の中に、もっとターゲットを絞って行こうと思う。

<5>につづく

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覚醒への戦い<2> コリン・ウィルソン

<1>よりつづく
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「覚醒への戦い」 <2>
コリン・ウィルソン, 鈴木 建三 , 君島 邦守, 1981/08 紀伊國屋書店  単行本 184p

 グルジェフ+ウスペンスキーのワークは、成功したのだろうか、という下世話な関心事は、翻って、Oshoのワークは成功したのだろうか、という問いとなって跳ね返ってくる。ズバリ言ってしまえば、それは成功した。少なくともある誰かがそれを分かった段階で。

 グルジェフやOshoのワークは、基本的には客観的に理解し説明しようがない。極めて主観的な世界であり、もしウスペンスキーがわかったと言ったら、わかったのだろうし、わからずに離反したとするなら、それは離反したにすぎなかったのだろう。さまざまなストーリーがあれど、ごくごく煮詰めて考えれば、Oshoとの間における物語は一か月で終わった。満月から次のちょうど満月の夜までのことだった。それで充分であった。

 この世においていろいろな経験をした。交通事故で死に損ねた。即死に近い事故だったのに、それこそ奇跡的に一命を取り留めた。医師に余命半年と宣言されても、生き帰ってきた。殺人事件の冤罪に巻き込まれそうになっても、ほぼ無傷に戻った。そのほかマイナスにもプラスにも表現される形で、ワークは次々にさざ波のように押し寄せた。しかし、それはケーキの生地を飾りつけるデコレーションのようなものでしかない。

 もっと手ごわくない方法でグルジェフに接近することができないかやってみよう。
 まずグルジェフとウースペンスキーとの間の葛藤から始めてみるのがよさそうである。ベネットは書いている。「グルジェフはしばしば、ウースペンスキーがあまりに知的なアプローチで弟子たちを駄目にしてしまっており、彼(グルジェフ)は何の準備もなしに彼のところにやって来た人間の方がうまくやれるとこぼしていた。」 そしてわれわれはすでに、ウースペンスキーは彼らをひどく厳格でいかめしいものにしてしまっているというケネス・ウォーカーの言葉を記しておいた。p
144

 1931年生まれの二人の著名人、ウィルソンとOshoを分けたものとは、その体験があったかどうかであろう。Oshoの場合はまず体験ありきであっただろう。ウィルソンは、それを体験なしに知的に客観的に理解しようとした。そして著述業として身を立ててきた。その視点、その振る舞いは、それ以上に変えようがなかったのだ。Oshoは本を売ろうとはしなかった。冊数や部数では二人はかなりのものであるが、しかしその姿勢の違いは明確だ。彼は自らの体験を、言葉や象徴での理解ではなく、直接の状況のなかで伝えた。

 物を書くだけなら、グルジェフよりウスペンスキーのほうがすぐれていただろうし、一般受けするためならウスペンスキーよりウィルソンの方が心得ている。痛いところ、かゆいところに手を伸ばすすべを知っている。しかし、それはこと「覚醒への戦い」の中では、逆効果になる可能性が高い。

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2009/04/25

ターシャム・オルガヌム<2>

<1>よりつづく

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「ターシャム・オルガヌム」<2> 第三の思考規範―世界の謎への鍵
P.D. ウスペンスキー (原著),  高橋 弘泰 (翻訳), 小森 健太朗 (解説) 2000/06 コスモスライブラリー 単行本 451p

 イタリアの心理学者ロベルト・アサジョーリは、自らの「サイコシンセシス(精神統合)」をうちたてるにあたり、グルジェフとウスペンスキーの二人の思想に大きく影響を受けたことを認めている。邦訳された「サイコシンセシス」(春秋社)でも、ウスペンスキーの名前と著作がグルジェフと並んであげられている。「解説」小森健太朗p448

 「(私家版)Oshoのお薦め本ベスト10」のなかに、P・D・ウスペンスキーとアサジョーリが上位にランクし、それを支えるようにコリン・ウィルソンが控えていることを考える時、当ブログとしては、いまだに曖昧規定でしかない「ブッダ達の心理学」の探究の道筋を、こちらのほうに向けていくのは当然のあるかのようだ。

 自らを「グルジェフ+ウスペンスキー」だとか、「フロイト+アサジョーリ」、などとOshoが自称する時、やや傲慢な、ぶつ切り的な言い方なので、わかりやすいけれども、細かい点については見逃してしまいがちになる。

 だが、当ブログがインターネット上にあり、その中の機能としてブログという文字表現媒体を用い、さらには図書館ネットワークと連動した形で、読書ブログ化してきた時、Oshoのサニヤシンとしてあちこちの彼の本を読みながらも、その中心のひとつに「私が愛した本」を据えて、さらにはその中から「私家版ベスト10」まで作って考えた時、この方向選択は必然的であったとも言えないこともない。

 インドのバグワン・シュリ・ラジニーシ(和尚)もまた、グルジェフとウスペンスキーを重視する一人だ。その講話にグルジェフが登場する頻度は高く、ウスペンスキーについても、著作家としては「今世紀最大」「プラトンをしのぐ思想伝達者」と激賞しているが、その一方で師グルジェフを裏切ったとして非難している。「解説」小森p450

 コリン・ウィルソンは、欧米の著名な著作家の中では、もっともウスペンスキーを高く公正に評価していると言える存在である。詳しくは邦訳のある「20世紀の神秘家ウスペンスキー」(河出出版社)を参照していただきたい。「ウスペンスキーはグルジェフに出会わなかったとしても20世紀のずばぬけて興味深い思想家になっていたであろう」(同書、6p)という評価は正しいと思うが、同書のウスペンスキー評価は、あまりにウィルソン流で、フラットになりすぎているという不満がある。「解説」小森p450

 ウィルソンの「アウトサイダー」についてOshoは「この本は読むに値する。ただ読むだけだがね。」と、まるで(笑)つきのような評価をしている(笑)。なにはともあれ、ウィルソンものは興味深い本がたくさんある。Oshoとおなじ1931年生まれのウィルソン、インドと英国の二人の青年を大きく分けたのは、何だったのか、そんなところも、今後は読み分けていくと面白いかも。

<3>つづく

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スーフィーの物語

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「スーフィーの物語」 ダルヴィーシュの伝承
イドリース・シャー /美沢真之助 1996/07 平河出版社 単行本 373p
Vol.2 No.586★★☆☆☆ ★★★★★ ★★★★★

 スーフィーとはアラビア語でイスラームの神秘家を意味し、貧者の象徴である羊毛(スーフ)の粗衣を着ていたので、そのような呼び名が生まれたのだと一般に考えられている。スーフィーはまた、ファキールやダルヴィーシュと呼ばれることもある。ファキールとは、字義通りには「貧しい者」を意味するアラビア語であり、ダルヴィーシュとは戸口から戸口へと物乞いをしてまわる者を意味するペルシャ語である。普通、スーフィーという名称は、神秘道に精通した者だけに使われ、修行中の者はファキールとかダルヴィーシュと呼ばれることが多い。「訳者あとがき」p356

 先ごろWBCで活躍したダルビッシュ有の名前も、このイスラム神秘主義に関わる名前だろうか。現在の米国大統領の名前も、正式にはバラク・フセイン・オバマ・ジュニア。グローバル時代に生きる現代の地球人たちにとって、ダルビッシュやフセインという名前の意味をキチンと把握しておくことの重要性がどんどん高まっている。

 もしイスラムを理解しようとしたら、このスーフィーから入るのが一番分かりやすいのだろう。この本は、スーフィーの物語を82集めている。ひとつひとつの物語は小さなお話だが、決して小話のようなオチがついているとは限らない。ひとつひとつが開かれたストーリーであって、解釈は読む者の理解力にかかっている。ある意味では、故事ことわざや禅話、公案にも通じるものがある。

 59番には、「不可解な人生を歩んだ男」として、ムジュードという名の男が紹介されている。これはOshoのもとで「MOJUD」という綺麗な絵本となっている。 

 御者を思い描け、彼は馬車に乗り、馬を操っている。馬車は知性を表しており、そのおかげで人間はいま自分がどこにいて、何を為すべきかを知ることができる。馬車は人と馬が一体となって働くことを可能にしている。このことをわれわれは、外的な形とか、組織化と呼んでいる。馬は馬車を走らせるに必要な動力であり、感情や情熱と呼ばれる心のエネルギーである。御者は他の二つよりも優れた方法で、馬車の存在理由や可能性に気づくことができる。御者がいなければ、馬車を正しく動かすことも、目的地に到達することも不可能である。「77----馬車」 p310

 ここでのアナロジーは、当ブログにおける3コン論に対応しているように思う。コンテナとしての馬車。コンテンツとしての馬。コンシャスネスとしての御者。科学、芸術、意識に対応させているのだが、はて、うまくいくだろうか。馬車を使わず、裸馬に直接乗ったらどうだろう、とか、鉄道のように、コンテナとして動力をそなえている場合はどうする、とか、御者は一人で自分の足であるけないのか、という、お遊び、は別に機会に譲ろう。

 さて「(私家版)OSHOのお薦め本ベスト10」のなかに、ZEN、ハシディズム、スーフィーがうまくバランスよく配合されているのは、とても面白いと思う。面白いと思う反面、このリストからはタントラがすり抜けてしまったことが、ちょっと惜しいと思う。トップのW・ライヒから補追のD・H・ロレンスまで、エロスで固められているのだから、それで足りるかな、とも思ったが、それでもやはりタントラは欲しい。

 このお勧めリスト、よくよく見てみると、必ずしも元々のリストの上位にあったものではない。

☆01 「聞け小人物よ!」 W・ライヒ SS11-No1       

☆02 人間の未来の心理学」 P・D・ウスペンスキ SS10-No9       

☆03 「サイコシンセシス」 ロベルト・アサジョーリ SS14-8         

☆04 「宇宙の新モデル」 P・D・ウスペンスキー SS8-2
       
☆05 「手放し」 ユベール・ブノア SS4-6        

☆06 「ハシディズムの話」 マルティン・ブーバー SS12-1        

☆07 「スーフィーたち」 イドリース・シャー SS9-No4        

☆08 「父と子」 ツルゲーネフ SS13-No7        

☆09 「詩学」 アリストテレス SS16-4        

☆10 「アウトサイダー」 コリン・ウィルソン SS11-1        

次 点 「資本論」 カール・マルクス SS12-3
       
追 補 「精神分析と無意識」 D・H・ロレンス SS13-9

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 上記画像は完全版ではないが、たまたま手元に集まっているので、フォト・セッションをしておく。当ブログでは、「手放し」と「資本論」は未読だが、大体がもともとの168冊のリストの後半に位置するものが多いようだ。後半になってしまったが、前半部とのバランスととるためにOshoは「お勧め」を繰り返したのではないかなぁ、と邪推したりしてみる(笑)。それに比して、タントラは、点数は必ずしも多くないが、リストのかなり上に登場しているものが多い。

 「ミラレパの十万歌」ミラレパ SS1-No10

 「サラハの詩」サラハ SS4-No3

 「ティロパ」 SS4-No4

 「ヴィギャーナ・バイラヴァ・タントラ」シヴァ SS6-No9

 「タントラ美術」アジット・ムケルジー SS15-No4

 「タントラ絵画」アジット・ムケルジー SS15-No5

 この愛されるべき「私が愛した本」、ツァラトウストラから始まってアラン・ワッツにつながり、ひとつの円環をなす限り、いずれが高い、いずれが低いということも言えないが、全体としては、タントラ文献は上位にランクされているだけで、すでにお勧めと言えるだろう。だが、本としてのタントラではなく、瞑想したり、研究したり、読んだりするタントラではなく、道としてのタントラが、Oshoの元では強調されている、と理解すべきだろう。

 この「お勧めリスト」にさっと目を通して思うことは、これはこれでバランスがとれているということ。そして、グルジェフ+ウスペンスキー関連の再読が必要だということ。未読本もまだまだ残っている。小説や文学関連もかなり残っているが、こちらは後回しかなぁ・・。そしてやはり集約されるべきところは「ブッダ達の心理学」ということになるのだろうか。

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2009/04/23

詩学 アリストテレース

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「詩学」 
アリストテレース 松本 仁助 , 岡 道男 1997/01 岩波書店 文庫 356p
Vol.2 No.585★☆☆☆☆ ★★★★★ ★★★☆☆

 驚くだろうが、私の4番目の選択は、アリストテレスの「詩学」だ。私は生まれながらのアリストテレスの敵だ。私はこの男を「アリストテレス症」と呼ぶ。一種の癒し難い病気だ。デヴァラジ、それには薬がない。アッシーシ、お前の偏頭通など軽いものだ。ありがたいことにお前は、アリストテレス症を病んではいない・・・・・あれこそはほんものの癌だ。

 アリストテレスは西洋の哲学と論理学の父と考えられている・・・・確かにそうだ。だがそれは徹学と論理学のことだけで、本物の父ではない。本物はソクラテス、ピタゴラス、プロティノス、ディオゲネス、ディオニシウスから来る、アリストテレスからではない。だが不思議なことに、彼はある美しい本を書いた-----しかもそれは、アリストテレス学派の者たちによっては研究されてはいない----「詩学」だ。私はたくさんの本の中から探さなければならなかった。私はただ、この男の中にも何か美しいものを発見できるのかどうかを確かめていた。そしてこのほんの数ページの本「詩学」を発見したときには、私はぞくっとした・・・・この男にもハートがあった。他のものはすべて頭で書いてきたが、この本はハートからのものだった。もちろんそれは詩の、詩学のエッセンスについてのものだ。そして詩のエッセンス以外のものではありえない。それこそ香りだ。知性のではなく、直観の香りだ。私はこの本を推薦する。p236

 「(私家版)Oshoのお薦め本ベスト10」の第9位。言葉尻をとらえてのベスト10つくりだが、こうでもして、一冊一冊、きっかけ作りをしていかないと、なかなか、168冊の本を読むきっかけは作れない。Oshoが「私はこの本を推薦する」と言っている限り、たしかに推薦していることには変わりないだろうが、ここまでくると、ちょっとおざなりで、ほんとかなぁ、とちょっと怪訝な気分。OshoはP・D・ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」(テルティウム・オルガヌム)を最大限評価している。

 ここにあるのはすべての知を組立て直すための著作である。アリストテレスの「オルガノン(論理学)は主体が考えるための法則を定式化した。ベーコンの「ノヴム・オルガヌム(新しい思考規範)」は客体を知るための法則を定式化した。しかし「第三の思考規範」はこの二つの以前から存在しており、その法則を知らないことでそれへの違反が正当化されることはない。「ターシャム・オルガヌム」はこれから先の人間の思考を導き支配するだろう。「ターシャム・オルガヌム」pv序文より

 前二作に対するきちんとした論理的積み上げではなかったとしても、ウスペンスキーのこの本を読むには、アリストテレスやベーコンについての、それなりの予備知識も必要となろう。Oshoは「私が愛した本」の中にベーコンを取り上げた形跡はないので、後日別途、個人的印象を深めておく必要があるだろう。

 第三の論理学のできがいくら高くても、「論理学」であるかぎり、Oshoにとっては、なにかが決定的に足りない、ということになるのか。左脳的アリストテレスが、せいいっぱい右脳的ふるまった「詩学」が、Oshoからみたせいいっぱいの「論理学」へのアプローチ、というべきか。論理がその役割を放棄する地点、そのかなたに神秘があるというのか。ウスペンスキーが、最大限に評価されながら、結局Oshoのお眼鏡(?)にかなわなかったのは、ついにこの「論理」に対するこだわりであっただろうか。

 不合理なことは、一般に言われていることがらに関連させて説明しなければならない。それとならんでまた、不合理なこともときには不合理でないことがある、と答えることもできる。なぜなら、起こりそうもないのに起こるということも、起こりそうなことであるから。

 詩のなかで語られる矛盾したことは、議論における論駁と同じ仕方で考察しなければならない。すなわち、同じことが語られているか、同じ関連で語られているか、同じ意味において語られているか、を検討する必要がある。こうして、矛盾したことは、作者自身が語っていること、あるいは思慮分別のある人ならば想定するようなこととの関連において解決しなければならない。 p104

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父と子 ツルゲーネフ

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「父と子」
ツルゲーネフ  金子 幸彦 1959/01 岩波書店 文庫 355p
Vol.2 No.584★☆☆☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 Osho「私が愛した本」168冊のうち「(私家版)お勧め本ベスト10」のベスト8。「あらゆる人に読まれるべき本だ」というOshoの言に誘われて一読。 7番目はもうひとりのロシア人、ツルゲーネフと彼の本「父と子」だ。これは私の恋愛のひとつだった。私はたくさんの本、何千冊という本に夢中になったが、ツルゲーネフの「父と子」のような本は一冊もなかった。私は可哀相な父にこれを読むようにとよく無理強いしたものだ。父は死んだ。そうでなければ許しを乞いたい。なぜ私はこの本を読むように父をせっついたのか? それが父にとって、父と私の間にあるギャップを理解するための唯一の方法だったからだ。しかし父は本当にすばらしい人だった。父は私が言ったというだけで、何度も何度もあの本を読んでいた。父があれを読んだのは一度ではなかった。しかもあの本を読んだだけではなく、少なくとも父と私の間にあるギャップには橋が架けられた。私たちはもう父と子ではなかった。父親と息子とか、母親と娘といった醜い関係は・・・・・少なくとも私と父の間では捨てられた。あたしたちは友人になった。自分の父と、あるいは自分の息子と友人になるということは難しいことだ。すべて父のお蔭だ。私故に起こったことではない。 

 ツルゲーネフの「父と子」は、あらゆる人に読まれるべき本だ。なぜなら誰もが何らかの関係に巻き込まれているからだ・・・・父と息子、夫と妻、兄と妹・・・・吐き気がするほどだ・・・・そうだ、それは吐き気を催す。「家族」という代物はすべて、私の辞書では「吐き気」を意味すべきだ・・・・ところが誰も彼もが、「実にすばらしいもの・・・・・」という振りをしている。誰も彼もがイギリス人であるような、ブリテシッシュであるような振りをしている。Osho「私が愛した本」p190

 子が父に与えた言葉としては、Oshoタロットカードの中の、「小さな家族を超えて」を思い出す。イエスが父親に言った言葉とされる。あるいは父と子の立場が逆転しているが、「再誕生/瞬間から瞬間へ」を思い出す。こちらはブッダが我が子ラーフラに言った言葉とされる。いきおい山折哲夫の「ブッダは、なぜ子を捨てたか」なんてものも思いだしてしまった。

 小説は苦手、を標榜している当ブログではあるが、<2.0>ではなんとか果敢に挑戦していきたい、と目標は高く掲げている。しかし、苦手であることには変わりはない。ツルゲーネフの小説は、Oshoの推薦の言がなければ、決して読むチャンスはなかっただろう。

 読み通してみても、正直、今の私にはピンとこない。もし、すでに独立してしまっている息子が帰郷して、これを読んでください、と差し出したとしたら、私は確かに読むだろう。一回読んだだけでは、息子の言っている意味がよくわからない。Oshoの父とは違った意味になるだろうが、なんどもなんども読み返すことになるだろう。

 子の立場として、この本を親に差し出すだろうか。小説を読む親なら良かろうが、そしてまだ本を読むほどの視力と体力を持っている親なら、読みするだろうが、なかなか「あらゆる『親』に読ませるべき本」とまでは、私には言えない。

 「ニヒリスト」という言葉をはじめてつかったとされるこの小説、ロシアの19世紀の小説であり、「激しく変貌する時代に、異なった二つの世代に生きる父と子の姿を描いた」ツルゲーネフの代表作とされている。

 団塊の世代はすでに孫を抱える時代になっているが、彼らもまたひとつの「父と子」の時代を生きたのであった。20世紀後期の「父と子」は、また別な形で表現されている。。「昔、革命的だったお父さんたち」となかば揶揄され、なかば評価されている団塊の世代。その弟分のわれわれの世代においても「父と子」はふたたび問い直されなくてはならない。

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2009/04/20

きけ小人物よ!<1>

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「きけ小人物よ!」<1>
W.ライヒ / 片桐 ユズル 1970/11太平出版社 単行本 214ページ
Vol.2 No.583★★☆☆☆ ★★★★★ ★★★★☆

 Oshoは「私の愛した本」西洋哲学含む)で168冊の本について語った。当ブログは3年間で1600冊の本を読んだのに、あちこち横道に入り込んでしまい、まだOshoリスト168冊の3分の1にも達していないようだ。リストの全部にエンカウンターするのは、まだまだ時間がかかる。

 あの168冊の中から「(私家版)Oshoのお薦め本ベスト10」が作られていることなど、Oshoは知る由もないだろう。しかも、そのトップにこのライヒの名マニュフェスト「きけ小人物よ!」が掲げられていることなど、なんのかかわりもないことだ、と気にもとめないに違いない。

 これは不思議な本だ。それを読む者はいない。この本のことを聞いたことさえないかも知れない。が、これはアメリカで書かれた。その本とは、ウィルヘルム・ライヒの「聴け小人物よ」だ。これはきわめて小さな本だ。だがそれは「山上の垂訓」、「道徳経」、「ツァラトゥストラはかく語りき」、「預言者」を思い出させるような本だ。ライヒは本当はこのような本を書ける人間ではなかったのだが、何か未知なる霊によって乗り移られたに違いない・・・・。

 「聴け小人物よ」は、ことに職業的な精神分析家たち、つまり彼の同僚の間に、彼に対する非常な反発を生み出した。というのは彼は誰をも「小人物」と呼んでいたからだ・・・・では彼は自分のことをそれほど偉大だと思っていたのか? そうだった! と私は言いたい。覚者という意味ではなく、ジークムント・フロイトやカール・グスタフ・ユングやアサジョーリたちと同じような意味でだ・・・・彼は同じ範疇の人間だ。彼は偉大な人間だった----もちろんまだ人間ではある。超人ではないが、偉大だった。そしてこの本が生まれたのは、彼の利己主義からではなかった。彼にはそれをどうすることもできなかった。彼はそれを書かなければならなかった。それはほとんど、女性が妊娠するのに似ている。彼女は子どもを生まなければならない。それを書くという考えに抗して、彼はその小さな本を何年間も自分の中に止(とど)めていた。それを書けば、自分にとって地獄になるだろうということがよく分かっていたからだ・・・・そして確かにそうなった。その本を書いた後では、彼はあらゆる方面から非難された。

 偉大なものを創り出すということは、この世では犯罪だ。人間は少しも変わっていない・・・ソクラテスを殺す・・・・ライヒを殺す。何一つ変わっていない。彼らはライヒを狂人として非難し、牢獄に閉じ込めた。彼は非難され、狂人とされて、刑務所で死んだ。彼には雲を超えてゆく能力があった。だがそれは許されなかった。アメリカはまだソクラテスや、イエスや、ブッダのような人たちとともに生きることをこれから学ばなければならない・・・・・。

 この本は、私のサニヤシンたちがすべて瞑想すべき本だ。私はこれを、無条件に推薦する。 Osho「私が愛した本」p234

ニーチェに始まり、アラン・ワッツに終わる。ジブランを語り、ウィトゲンシュタインを語り、禅を、スーフィーを、ハシディズムを語るOsho。この本に取りあげられた本のいずれがトップということは決定しようがない。いずれもがいずれもの価値を持っている。しかし、当ブログにおいては、この「私のサニヤシンたちがすべて瞑想すべき本だ。私はこれを、無条件に推薦する。」というOshoの言を持って「(私家版)Oshoお薦めの本ベスト10」のトップとした。

 私はこの本の翻訳が出版された当時から、この本の存在を知っている。翻訳者の片桐ユズル氏とも、この出版の数年後に会っている。当時私たちが活動していた小さなコミューン(といえるかどうか)を訪ねてきてくれたのだった。彼は後年、Oshoのサニヤシンにもなったと聞くが、その名前までは記憶していない。

 今回、これだけ有名な本だから簡単に再読できると思ったが、地元の図書館にはなかった。大学ネットワークでは発見したが、時間がかかりそうだったし、ネットオークションではちょっと高かった。いいやそのうち、古い友人が持っているはずだから借りてこようと思っていた。そしたら、今日、町でいちばん大きな古書店にいってみたところ、やはりキチンと一冊、私を待ってくれていた。

 まさにニーチェのツラトゥストラやジブランの予言者を彷彿させるような激しい口調に、どぎまぎとする。日常の「意識」などに拘泥しているのは、小人物の体たらくであるかのように、叩かれる。偶然とは言え、あの「お薦め本ベスト10」のうち、ベスト3が、このライヒを含め、ウスペンスキー、アサジョーリの順になっているのは、なかなか興味深いものがある。瞑想し、研究し、読書せよ、とのお達しである。すべてが、日常意識からの離脱を進めている本だ。どこへ・・・ それをいまさら問うのか、小人物よ。

 あなたはいつもあまりにも近視眼的すぎる、小人物よ。朝食から昼食までのことしか考えない。あなたは世紀の単位でうしろをふりかえり、何千年の単位で前向きに考えることを学ばなければならない。p160

 または「こんな資本家の、ボルシェヴィキの、ファシストの、トロキストの、国際主義者の、セックスきちがいの、ユダヤ人の、外国人の、知識人の、夢想家の、ユートピアンの、デマゴーグの、きちがいの、個人主義の、無政府主義者のいうことなんかきくな。あなたはアメリカの、ロシアの、ドイツの、イギリスの、ユダヤの意識がないのか?」。
 あなたは絶対たしかにこれらのスローガンのどれかひとつを使って、人間的交渉に対するあなたの責任をのがれるだろう。
p198

 激しい口調の背景には、ライヒが生きた時代が現れており、ひとつひとつの思想は、今となっては、すぐには肯んじえないものが多い。しかし、その物事に対する情熱、人生、人間というものに対する信頼と挑戦の姿勢は、まさにOshoに通じるものがある。

 「アメリカはまだソクラテスや、イエスや、ブッダのような人たちとともに生きることをこれから学ばなければならない・・・・・。」Oshoはこの言葉を残して、1980年代のアメリカへの道を昇っていった。 オバマノミクスは、レーガノミクスと類似的に比較される時がある。Oshoと対峙したレーガン時代のアメリカと、オバマが登場したアメリカでは、なにかが変わったのだろうか。そして、わが内なる小人物たちは、どう変化したのだろう。

<2>につづく

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ハシディズム マルティン・ブーバー

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「ハシディズム」 
マルティン・ブーバー /平石善司 1997/03 みすず書房 全集・双書 262p
Vol.2 No.582★☆☆☆☆ ★★★★★ ★★★★☆

 
はて、この本がOshoが真実の探究者すべてが読むべき本だ。」と推奨している「ハシディズムの話」そのものなのかどうかは分からない。しかし、検索してもそれ以上、近似値のタイトルの本もなく、「本書はブーバーの思想の総決算であり、彼の全著作の要をなすもの」訳者あとがきp254と言われる限り、一読の価値は当然ある。

 「ハシディズムの話」は、真実の探究者すべてが読むべき本だ。これらの話、その小さな物語にはある種の香りがある。それは禅とも違い、またスーフィズムとも違っている。その味わいは独特だ。どこから借りてきたものでも、何かから移したものでも、何かを模倣したものでもない。ハシッドは、笑いと踊りを愛する。その宗教は禁欲の宗教ではなく、祝祭の宗教だ。私の仲間とハシッドの間には橋があると思うのはそのためだ」Osho「私が愛した本」p165

 ブーバーがノーベル賞を贈られた「我と汝」に対しては、「私はこの本にはまったく同意しない」「この中には魂がない」同p166と酷評しているのだから、とても対比的だ。ブーバーが紹介したハシディズムの創始者バーム・シェム・トブとその流れは最大に評価するが、ブーバーには魂がない、ということか。

 バーム・シェム・トフについてOshoは別途、同書で触れている。

 きわめて伝統的な、正統的なユダヤ教の中にさえ、わずかだが完全に光明を得た導師がいることは知られていない。光明を超えていった者さえいる。そのうちのひとりがバール・シェム・トフだ。同p79

 バーム・シェム・トフは、論文など書かなかった。論文とは、神秘主義の世界では汚い言葉だ。だが彼はたくさんの美しい物語を語った。同p80

 このブーバーの「ハシディズム」を読みながら、昨日読んでいたアサジョーリの「サイコシンセシス」のことを考えてみた。あの本は、いくつかの点で、今通読するには、なにか座り心地がよくない感じがする。ひとつには、ハイアーセルフとか、スーパーコンシャスネスとかいう言葉使いだ。なにか新しくもあり、なにか皮相でもある。便利なようでもあるし、いい加減な言葉づかいでもあるようなイメージもある。

 この「ハシディズム」を読んでいて、ユダヤの神がどのようなものであったとしても、この本の中で使われているような文脈でなら、アサジョーリも「神」という概念を使っても良かったのではないか、と思った。なにか、中途半端で、ものごとを言い得ていないような、不自然さがある。純粋な意味において、挟雑物をすべてそぎ落としたあとなら、むしろ「上位意識」や「超意識」などという言葉使いよりも、ズバリ「神」と言いきってしまっていいのではないだろうか。

 バール・シェフ・トブが生まれた23年まえ、わずかの間に、ふたりの記憶すべきユダヤ人が死んだ。そのひとり哲学者バルク・スピノザはユダヤ教会の破門宣告によって、また他のひとり自称「救済者(メシア)」のサッバタイ・ゼヴィはイスラム教への改宗によって、ともにもはやユダヤ人社会には属していなかった。p7

 このブーバーの本は、このイントロから始まる。ここでスピノザが登場したことによって、いままでいまひとつ見つけることのできなかったミッシング・リンクを見つけることができたような、安堵感を感じた。

 ブーバーは、スピノザを、ユダヤ教の本来性である神の人格性を廃棄し、真の神との対話を喪失した近世の自我哲学への道を開いた元凶として批判するのである。訳註p236

 自我と神の間における距離間が、ブーバーとスピノザを大きくわけている。

 「我と汝」は、根本的に間違っている。ブーバーが、それを人と神との対話だと言っているからだ。「我と汝」・・・・・? ナンセンスだ! 人間と神の間にどんな対話もありえない。そこにありうるのは、沈黙だけだ。対話? 神に何を話そうというのか? ドルの切り下げについてかね? それともアヤトーラ・ルホーラー・ホメイニについてか? 神を相手に何について対話しようというのか? 話せることなど何もない。人はただ畏敬の念に打たれるのみ・・・沈黙あるのみだ。Osho「私が愛した本」p166

 アサジョーリがあのような言葉使いになったのは、彼が育った背景を考えなければならないだろう。あのような無機質な言葉使いのなかに、人間のもっとナイーブな真奥を置き換えようとしたところに、私はどこか、まがいもののような、プラスチックな感覚を覚える。ズバリ「神」という概念は使えなかったのか。

 ブーバーとアサジョーリを考えながら、バチカンの「ニューエイジについてのキリスト教的考察」さえ思いだしてしまった。バチカンはニューエイジの象徴的存在の一つとして、かの本で「フィンドホーン」を大きく取り上げている。フィンドホーンはフィンドホーンとして、かつの伝統的な何かを新しい何かに置き換えようとししているように見えるが、かの地を踏んだことのない自分としては、なんと皮相な世界観か、と身ぶるいするときがある。また、そのフィンドホーンを大きく取り上げるバチカンは、なんという滑稽な姿をさらしているのか、と、さらにおどいてしまった。

 われわれは、スーフィズムとハシディズムの特別な親近性を証明するような、両者の間のみのいかなる内的関連も持ちあわせていないからである。われわれは、インドのバークティ神秘主義や、中世ライン地方の修道院神秘主義のうちに類似点を見いだすのみでなく、それらと違って有神論的刻印をまったく帯びない神秘主義体系、すなわち中国の禅宗のうちにもまた類似点を見いだすのである。p217

 この本は、純粋にユダヤ神秘主義を追っていながら、あるいはそれゆえに、他の多くの精神主義の流れに対するインターフェイスをも備えている。隣接するカテゴリとコネクトするのはそれほど難しくもなさそうにも見える。

 きのう、アサジョーリを読みながら頭のなかを回っていた「インターネットにおける意識とはなにか」という命題は、きょうは、「インターネットにおける神とはなにか」という命題に置き換えられていた。そして「インターネットは神を生み出すか」という命題に置き換えられ、「インターネットは神を生み出しつつあるプロセスである」という仮説にまで発展してしまっていた。

 ゆうべ、またまた見てしまったビディオ映画アーサー・C・クラークの「2010年」と、睡眠中にみた果てしない夢とが大きく混同してしまったからだろう、か・・・。

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2009/04/19

サイコシンセシス<2>

<1>よりつづく
Photo_2 
「サイコシンセシス」<2>統合的な人間観と実践のマニュアル
サイコシンセシス叢書4
ロベルト・アサジョーリ /国谷誠朗 1997/06 誠信書房 全集・双書 483p

 かなりきっちりした本である。力いっぱいなので、こちらも襟を正して座り直して読みはじめなければならないような、お行儀のよい気分になる。これはすこし長編のコメントを書いておかなくてはならないかな、と思って、前回のコメントを見ると、前回もまたおなじものを感じたらしく、コメント欄いっぱい文字数限界まで書きこんでいた。

 であるならば、今回はすこし違った角度からの読み方、コメントの残した方があるだろうと、考えた。前回は、Oshoの「私が愛した本」「エスリンとアメリカの覚醒」の流れでこの本を読んだ。今回は、「コンシャスネスとしてのブログを考える」 の中の「コンシャスネス(意識)」というキーワードの文字拾いで読んでみたのであった。そしてなおかつ、今回は「(私家版)「Oshoのお薦め本ベスト10」の中の一冊、しかもその中でもベスト3の一冊として読もうとしているのであった。

 この私家版ベスト10のうち、数冊を除いて大体読めそうだ。すでに読んでいる本もあるし、「資本論」のように、読むな(笑)と禁じられている本もある。ただあのリストの中では、ユベール・ブノアの「手放し」が見つからない。この人名が正しいかどうかすらわからない。検索してみても、当ブログの過去ログがひっかかってくる程度。まぁ、それもよからん。

 さて、このサイコシンセシス叢書シリーズ、アサジョーリの著作が集まっているのかと思うとさにあらず。彼の著書はそれほど多くないようだ。したがって、この「サイコシンセシス」一冊にこめられている重味がそうとうにありそうだ。

  自分自身を徹底的に知ろうとするならば、意識領域を形成している要素を調べ上げるだけでは不十分です。無意識の広大な領域にも広範囲にわたって探索の手を伸ばしていかねばなりません。まず最初に、勇気をもって下位意識の穴ぐらに入りこみ、私たちを陥れたり脅迫したりする闇の力を探し出してみることにしましょう。p28

 アサジョーリは治療の実践家であったし、広範囲にわたって臨床経験を積んでいるので、この書は、サイコセラピストたちには向いているかもしれない。だが、あまりに多岐にわたる技法が書いてあるので、今回のように単に「意識」とはなにか、という単純な文字さがしには向いていないようだ。逆にいうと、あらゆる角度からの技法を、ひとつのプラットホームに並べているので、技法全体を俯瞰するような視点から読むのなら面白いかもしれない。

 Oshoは、この本に対して「サニヤシン全員読むべきものだ」という讃辞を贈っているので、具体的な友人たちの顔を思い浮かべながら、はて、彼らはこの本をどう読むだろうか、と想像してみる。セラピーに関心のある人々なら、当然のごとく読むだろう。ここからインスピレーションを受けて、新たなるセラピーを生み出す人もいるだろう。あるいは、サイコセラピーという発展途上の「アート」の共同制作者としての立場をサニヤシン全員に求めるとするなら、この本の持っている貴重な立場が多いに生きて来るようにも思える。

 しかし、Osho自身が言っているように、この本は半分だ。その半分がフロイトであるのかどうかは、即断しかねるが、たしかにOshoが言うところのフロイトや他の整合性のない孤立的な技法の流れの音がないと、なにか物足りない単調なメロディーになりそうな感じもする。

 多くの他の心理学的理解方法とサイコシンセシスが異なるのは、トランスパーソナル・セルフおよび超意識(スーパーコンシャスネス)の存在をはっきりと認める立場にたつというところにあります。これれはサイコシンセシスにおいてはフロイトが記述した本能的エネルギーと同じように最も基本的なものです。私たちはトランスパーソナルな部分、つまり霊的な、スピリチュアルな部分が物質的な部分と同じように人間にとって大切であると考えるのです。p294

 アサジョーリの用語を使って物事を整理しておいくのも悪くはないが、今はもうすこし大きな枠組みのなかの、ほんの序の口、「意識」とはなにか、という程度のところでウロウロしている当ブログである。しかも、今回は、「コンシャスネスとしてのブログ」とは何か、というなんともふやけたテーマである。

 ここでは、アサジョーリの網羅的な技法を学ぶというより、ものごとを全体的に俯瞰するという姿勢を学ぶことに重点を置こう。この本を読んでいて思ったことは、結局、まずは序の口の「意識」とは、ごく日常的に「私は生きている」という感覚だろう、ということだ。

 だからブログが位置するインターネット情報社会の構図を、たとえば新聞メディアが主流だった時代や社会と比較して考えてみる。つまり朝刊を開いて、政治経済や、株の上げ下げ、三面記事のあれやこれやが、一定程度に掲載されていて、ああ、今日も相変わらずだなぁ、と思えたとしたら、それはごくごく当たり前の日常的な「意識」の状態でなかろうか、と考えた。

 しかし、その新聞に取り上げられない様々な出来事、ささいな出来事や、秘密にされていること、不確かなことなどの方が圧倒的に多いわけで、これは新聞紙上では意識されていないことになるから「無意識」の部類に属するだろう。あるいは、突然、大見出しで号外がでたり、全面ぶち抜きで何かが特報されていれば通常の日常「意識」を超えたなにかが起きていることになる。

 この例に倣って、インターネット社会を考えてみる。インターネットに接続されている個人の意識はあれやこれやがあれど、まぁまぁ、昨日やおとといとほぼ同じだなぁ、と思えるような状態が続いているとすれば、それがインターネット上の「意識」である、と仮に規定しておく。

 これは例えば、新聞もない時代、何階建てかのアパルトマンに住んでいる住人達が、朝起きて、カーテンを開けた窓から外を見て、中央広場に、酔っぱらいがまだ寝ていたり、カラスが群れていたり、風で吹き飛ばされてきた店の看板か何かをみつけたとしても、ああ、いつもと同じだなあ、と思う程度の日常的「意識」なのだ。

 中央広場と新聞とインターネットを規模的に比較してみたわけだが、私たちが生きているこのインターネット社会は、裸眼で見える社会よりも、印刷物として発行された新聞が毎日伝えてくれる社会よりも、はるかに広く、そしてリアルタイムで社会を「意識」できる時代が到来している。もちろん、インターネット社会のまだまだ日常「意識」は定まったものではないが、いずれ新聞メディアが到達したような飽和点が必ずや到来するはずだ。その時点を想定して、まずは、「コンシャスネスとしてのインターネット」「コンシャスネスとしてのブログ」というものイメージしてみる足がかりとすることにする。

 個人の精神的営為としての意識と、インターネット上にさも人工知能にもにた意識を見ようとする作業の、大いなる矛盾点については、最初から気づいているが、さまざまな情報や知的欲望を整理するために、まずは、いまのところ、このようなラフなスケッチをしておく。ここから何かをはじめる。

<3>につづく

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2009/04/18

人間に可能な進化の心理学 <3>

<2>よりつづく
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「人間に可能な進化の心理学」 <3> 
P.D.ウスペンスキー , 前田 樹子 1991/03 めるくまーる 単行本 162ページ

 Oshoから「 この小さな本は、サニヤシンすべてにとっての必須の研究対象にならなければならない。」と言い渡されている限り、決して読みやすい本ではないが、Oshoサニヤシンのひとりとして、何度もこの本に戻ってこなければならないだろう。

 通常の言語ではほとんどの場合、「意識」という言葉は、心理活動(マインド・アクテヴィティ)という意味での「知能」(インテリジェンス)という言葉と同義に用いられている。
 実際には、意識とは人間に見られる特殊な「認知」(アウエアネス)能力であり、心理活動とは無関係である。顕著な例として、自分自身のの認知、自分が誰であるかの認知、自分がどこにいるかの認知、さらに、自分の知っていることと知らないことの認知、などが挙げられる。
p27

 この本は小さな本だが、順序だてて学ばれる必要があるだろう。今はただ、パラパラと目につくところだけをメモしていくことにとどめる。

 一般に、人間に起こりうる意識には4つの状態があると言われている。睡眠、覚醒、自己意識、客観意識の4つの状態である。
 意識の4つの状態をもてる可能性があるというのに、人間は二つの状態のなかだけで暮らしている。人生の一部を眠りのなかに過ごし、もう一部を、いわゆる「目覚めている状態」で過ごす。現実には「目覚めている状態」と眠っている状態とのあいだに大差はないのである。
 われわれは、「客観意識」について何も知らずに暮らしている。また、この意識は実験することもできない。第三状態の「自己意識」については、われわれにはこの意識があり、自分は自己意識を持っていると信じて疑わない。実のところ、自分を意識できる瞬間はきわめて稀な瞬間にすぎず、しかもその瞬間でさえ、おそらくこの事実に気がつかずにいる。なぜなら、実際に自己意識が現れたとしても、それが何を意味するのかを知らないからだ。意識の閃きが現れるのは異常な瞬間とか、感情が高ぶった状態とか、危険にさらされたときとか、あるいは非常に目新しく予想もしなかった状況や事態に直面した場合である。あるいは、とくに変わったこともないごくあたりまえのときに現れることもある。だが、ふつうの状態や「正常」な状態では、人は意識の閃きを支配することなど、できるものではない。
p32

 ウスペンスキーは、グルジェフに対する裏切り者というイメージがあり、自分の中ではなかなかそのレッテルをはがすことはできずにいたが、彼には彼の、彼にしかできなかった仕事があった。

 自分の意識状態を変えたいなら、スクールが必要なのだ。それには、まず自分が何を必要としているかを知ることだ。自力でできると考えているかぎり、たとえスクールを見つけても、それを役立てることはできない。スクールは、スクールを必要とし、その必要を自覚している人のためだけに存在する。p50

 ウスペンスキー自身は、けっきょくのちにGのスクールを離れてしまった人間だったが、そのスクールの必要性を説くところは、まるでチベット密教を学ぶためにはラマが絶対に必要だと説かれるところにさえ似ている。ラマ僧の指導もなく、いわゆるスクールという明示的な機能に依存しているわけではない私は、暗示的にOshoやそのネットワークに頼る以外にない。

<4>につづく

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精神分析と無意識 D.H.ロレンス

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「精神分析と無意識」
D.H.ロレンス紀行・評論選集 5 1987/09 単行本 381ページ 出版社: 南雲堂
Vol.2 No.582★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆ 

 Oshoはどうしてこの本を過大評価したのだろう。「もし私が再び本を読むことがあったら、これが、私が読む最初の本となるだろう。」と「私の愛した本」の中で、最大の讃辞を贈っている。確かに劇画的で文脈にメリハリがあり、わかりやすいが、それだけに心理学的用語や表現にやや難がある。Oshoはこの本一冊というより、「チャタレー夫人の恋人」などの一連の文学作品や、44歳で亡くなったという早逝の天才を惜しんでのことだろうか。

 意識とは何であるのか、知識とは何であるか、これを決定しようとしても無駄である。少くとも誰も気にとめなかろう、定義なんどなくても先刻ご存じだからである。だがわれわれが知りそこなっていること、しかも知らねばならぬことは、一々の機能する有機体の内部で統合され前進している初発の意識の性質である。頭脳は観念的意識の坐所である。そして観念的意識はただ意識の袋小路、絹紡糸にすぎない。意識の厖大な嵩は非頭脳的である。それはわれわれの生命の、生命いっさいの、体液である。p34

 私たちの世代は、すでに高齢の両親の介護にあたっていることが多い。身体ばかりではなく、徘徊やアルツハイマー症状の親を抱えていることはめずらしくはない。「ここはどこ?私は誰?」の状態になっていなくても、自分の息子の顔を見ても「親戚の人だと思うが、誰だかわからない。」とベッドの母親に言われてがっかりしている友人もいる。

 だからと言って、介護を放棄するわけではないが、このような話を聞くたびに、人間にとって、「意識」とはなんであろうか、という疑問が深まっていく。「意識」とは、「私」が「生きている」という感覚であろうが、はて、こんな簡単な定義でいいだろうか。

 眠っている時、自分は「意識」しているのだろうか。「私」は「生きている」という感覚は持っているのだろうか。子どもはいつから「私」は「生きている」という感覚を持つのだろうか。「無意識」とは、意識がなくなることだろうか。あるいは、意識の下に隠れた大きな海原のことなのだろうか。「超意識」とはなにか。「宇宙意識」とはなにか。「集合意識」とはなにか。普段なにげに使っている言葉群だが、複数の人々の使う言葉の共通項を探っていくと、実にバラバラに使われていることに気づく。

 この小さな本の目的は、いま無意識の名で通用している曖昧な沼地にほんの些細な足場をつくること、そのことだけである。そして無意識とはじっさい何であるか、やっと何か考えがまとまったようである。それは親の核が融合する瞬間にひとつひとつの個の有機体内に目覚めるあの能動的な自発性であり、外的宇宙と対極の関係を保持しつつ、徐々に自らの個の精神(プシケ)と体を展開し練成して、自身から知性(マインド)と身体をつくりあげてゆく。こういうと無意識という語は生命の別名にすぎぬと思われるかもしれない。しかし生命が一般的な力であるに反し、無意識はひとつひとつの個の有機体における本質的に単一で独自なものであるそれは自らの具体化と自己表現をもたらす能動的で自己展開的な魂である。p69

 ロレンスの試みは果敢であったとしても、必ずしも確かな「足場」にはなっていないように思われる。しかしまた、当ブログもまた、いかに些細なものであったとしても、ちいさな足場であったとしても、このロレンスの試みをわが試みとして、わずかでも前に足を進めていこうと思う。

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神秘家の道 <4>

<3>よりつづく
神秘家の道
「神秘家の道」 珠玉の質疑応答録 <4>
OSHO /スワミ・パリトーショ 2009/03 市民出版社 単行本 884p

 「唯一の理由は、私が自分のイメージなど気に懸けていないからだ。私はあなたの書く記事など気にしていない。あなたが何を書くかなど、気にしていない。その瞬間、私がただ気にかけることは、何であれ自分が言っていることがあなたに届くかどうかだけだ。その他には、何の関心もない。もう7年間私は何の本も読んでいない。どんな雑誌も新聞も読んでおらず、ラジオも聴いていないし、テレビも観ていない---何一つだ。そういうものは、すべてががらくただ」p185

 この講話がなされたのは1986年4月のウルグアイだとされる。多少の誇張があるのかも知れないが、7年間、何の本も読んでいない、というの事実だとすると、1979~80年頃にプネ1においてOshoがサイレンスに入って以来ということになる。

 サイレンス直前に語られたシリーズ「私が愛した本」の中で、「 もし私が再び本を読むことがあったら、これが、私が読む最初の本となるだろう。」とOshoが言い残した本がある。D・H・ロレンスの「精神分析と無意識」だ。当ブログとしては未読であるが、図書館から借りだして、今、手元にある。この小さな本をめくり始めながら、Oshoはいったいこの本のどこがよかったのだろう、とすこしいぶかしく思ったりもする。

 Oshoは実際に、再び、この本を読んだだろうか。それとも、あのまま、結局は実質「サイレンス」のまま肉体を離れていったのだろうか。またまた、そんなことを考えていると、それはOshoがいわんとしたことが、私のなかに「届いていないよ」と言われそうだ。

 ジャーナリストが私に質問するときには、その質問者はその解答を聴くために、目醒めていなければならない。彼は政治家の言葉を聴いているのと同じでいるべきではない----そのことが間違いなく私を断定的にするのだ! ああいう人々には、穏やかで謙虚であっては、その声を届かせることはできない。それは彼らには弱さと映る。p185

 
もとより当ブログは、バトルや炎上ネタを得意とするものではない。出来得れば、穏やかに、言葉少なに、本来あるべきところに、あるがままに、滞りなくたどり着くことをよしと考える。

 いままで、雑食系、大食系であった当ブログ<1.0>だが、<2.0>においては、すこしダイエットし、草食系、小食系に変身したいと思っている。よりターゲットを絞り込み、より受容的に感応できる方法を選んでいきたいと思う。そのためにも例の「(私家版) Oshoのお薦め本ベスト10」あたりから再読しはじめるのがいいだろう。

 集合意識と集合無意識を一緒にできたら、人はそれまでかつて感じたことがないような注意深さの、気づきの、まさに大いなる力を持つことになる。人は宇宙無意識に直接に近付いていける。それは難しくはあるだろうが、可能なのだ。私の提案は、なぜ不必要に困難な道を行くのか、ということだ。私が自分の道を、怠け者の悟り方と言っているのはそのためだ。どんな葛藤もなしに、より容易に行くことができる時に、不必要な争いを引き起こす必要はない。まず宇宙意識へ行きなさい。いったんそこへ到達したら、人は大変な力を持つので、宇宙意識はひとりでにその扉を開く。今やその意識の重みはあまりにも大きく、そのエネルギーはあまりにも大きいので、宇宙無意識は閉じたままではいられない。p197

 当ブログは、科学、芸術、意識の統合を目指す、としてきた。「科学」の進歩の粋として一つの指標としてはグーグル(Goggle)あたりの動きに注目し、またその成果を活用していくことを考えている。

 「芸術」については、人間の表現としてより広い範囲を考えており、情報や政治もまた、人間活動表現の中に取り入れている。人間界が抱えている問題を、いまスタートしたばかりのオバマ(Obama)政権の取り組みあたりから覗こうと試みていている。

 そして三つ目の「意識」については、死(Dead)の問題からみつめようと思っている。頭文字を取って「G・O・D」プロジェクトと称している。この三分野は分かちがたく存在しているが、当ブログとして、もっとも関心の高いのはDの分野であり、最も難しそうな分野でもある。

 そのDに迫る単語こそ、「意識」なのであり、ここでOshoが言っているような、無意識、意識、宇宙意識などの用語は、雑然とながら、なんでもかんでも、好意的に受け入れ、雑食系に恥じない程度に、いろいろと稼集してきてはある。

 しかし、実に雑然としており、それぞれの流れの整合性やインターフェイスもそろえないまま、乱雑に投げ出されているだけだ。今後は、ここから純金をとりだす練成作業を開始しようと思う。

<5>につづく

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2009/04/15

The Psychology of Man's Possible Evolution <2>

<1>よりつづく
Pdo
Psychology of Man's Possible Evolution
P.D. Ouspensky 1978/4/6 Routledge & Kegan Paul PLC 96p
★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

  Oshoが「サニヤシンすべてにとっての必須の研究対象にならなければならない。」と語っている限り、この本は折にふれて戻ってこなければならない一冊となろう。とくに、当ブログ<2.0>がすこしづつ船出しつつある現在、方向性を決める上でも大事な一冊となろう。

 What is consciousness?
In most case in ordinary language the word 'consciousness' is uded as an equivanlent to the word 'intelligence' in the sense of mind activity.
In reality consciousness is particular kind of  'awareness' in man, independent from mind's activity---first of all, awarness of himself, awarness of who he is, where he is, and further, awareness og what he knows, of what he does not know, and so on.
p17

 無意識→意識→超意識、という図式で、神に至るという上昇志向の意識感覚より、科学→芸術→意識→(科学)という循環に、現在の当ブログは関心を持っている。そして、錬金術→科学→スーパーサイエンス(モンスターサイエンス)、日常美→芸術→ 現代美術(やダダイズム)、などのうごめきのなかで、オムスビ型のロータリーエンジンの中で回転し続けるような、そんなエネルギー源を探している、ということができるかもしれない。

<3>につづく

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ノーバディ・ザ・ブッダ

ノーバディ・ザ・ブッダ
「ノーバディ・ザ・ブッダ」
宮国靖晟 2002/08 文芸社 単行本 415p
Vol.2 No.581★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★☆☆☆

 もしgoogleブック検索というものもなく、ちゃめっ気でキーワードを入れてクリックをしようと思いつかなければ、この本とは出合うことはなかっただろう。これだけ新刊の部類に属するものが、こんなに中身が読まれてしまったら、本体が売れなくなるのではないか、と心配してしまった。しかし、よく見てみると、あちこちのページが飛び飛びになっているので、小説として読むには、やはり一冊の本を手にとらないと、どうにもならない。

 「この本を一度読んでみてほしいんだけど」
 書斎から持ってきたらしい、黄ばんだ綴じのゆるんだ一冊の本を、サエグサは遼に差し出した。「ノーバディ・ザ・ブッダ」とタイトルが読めた。
p39

 この小説は、小説でありながら、あちこちに実名がちりばめられている。このサエグサというのも実名であるだろう。6次の隔たりで地球の全人類がつながってしまうという例えでいうなら、この人物は、私と1次の隔たりだ。

 では、この作者・宮国靖晟という人物はどうか、というと、まったく知らない人物である。しかし、この1953年生まれの日本人男性である作家と私は、この小説の内容から言って、まずほぼ確実に2次の隔たりのつながりであろうと予想する。つまり、私の友人の誰かは、この作者のことを良く知っているだろうし、実際に会ってもいるだろう。親友でさえあるかもしれない。

 小説は小説だ。だから、書かれていることはフィクションと見なさなければならないが、書かれている時代や、背景は、かなりの部分において、私が体験してきたものたちに近い。

 その旅でサエグサの得たものは、人間にとって何より大事なことは肉体や知性の完成ではなく、意識の開発、発展、向上、拡大にほかならないということであった。意識の階梯を昇り続けることで、人はやっと者が見えるようになる。はるか遠くまで、地平線の彼方、宇宙の彼方までも見えるようになる。その「意識の成長」に貢献するのは「瞑想」であり、それを抜きにして意識云々を語るのは、底の抜けた水がめに水を注ぎ続ける徒労に等しい、愚かの極致であると、サエグサは語った。p33

 この小説の全般で使われている言語体系は、当ブログにきわめて近い。それもそのはず、この小説の背景は沖縄であるが、次にでてくる頻度が高いのが、インドでのプーナ体験だからである。

 インドのムンバイ(ボンベイ)から南東100マイル(160キロ)飛行機だと約1時間、鉄道を使うと5時間ほど行ったところにプーナという学園都市がある。そこにオショウ・コミューン・インターナショナルという広大な敷地を持つ瞑想センターがあり、遼はその地で家賃1ヵ月7000円ほどのアパートを借りて3ヵ月その施設に通った。p25

 この作家はほぼサニヤシンであることは間違いないだろう。ここに書かれているのはPune2であり、最初のOsho体験は、Oregonであったようだ。

 15、6年前まで、アメリカのオレゴン州の山奥に、オショウ・ラジニーシを中心とした広大な、オアシスのようなコミューンがあった。過激なカルト集団だとレーガン政権下のアメリカ政府ににらまれ、無残にもつぶされてしまった。そこに遼と貴之は、まだ知り合う前に、それぞれ独自に訪ねたことがあった。遼は、「これこそ人類の望むべき未来像ではないか」と感動した。貴之はもっと具体的にこのヒナ型をオキナワにつくろう、と仲間を集め、計画を立て、実践にこぎつけた。p166

 コミューン願望をもつ友人たちは多い。かくいう私もその一人だ。ましてや、オキナワにコミューンを作ろう、などというスローガンは、ごくごく自然に仲間うちから湧きだしてくることは、それほど想像できないことでない。しかし、その実践には多大な現実的な障壁が立ちふさがる

 「・・・あいつらがもう少し頑張ってたら、新しい世代の土台だけでもつくってりゃ、おれたちがその上にきちんとしたのを築くのはそう難しくなかったんだ、少しでも社会の意識を変えてりゃよ。しかしやってることはままごとだったもんな、ガキのまんまで何ひとつ変わっちゃいねぇ、モラトリアム世代だよ、奴らには自立も何もねえ」p198

 団塊世代の弟分、ちょっと遅れた世代であるこの登場人物の感概は、私の感概でもある。同じ時代体験をするとはこうしたものかと納得すると同時に、自らが獲得したかのように思っている自分のキャラクターやパーソナリティも、実は外的な要件によって形成されたものであるかもしれない、という可能性をつよく感じさせる。ここにひとつの共同意識が存在する。

 さらには、保養地を兼ねた会員制の大病院もつくりたい、オキナワにはない製薬メーカーもつくりたい、そのノウハウはすべて自分はもっている、農場もつくろう、学校もつくろう、今の教育機関ではろくなものは育たない、ちゃんとした人材をつくる、すぐそばに海があるのだからそれを利用しない手はない、水産大学もつくろう、一級の貿易商も育ててみたい、アメリカのエサレン研究所をしのぐ心理研究所、瞑想センターをこの地につくろう、とすぐそこまでやってきた夢の実現を、少年のように目をキラキラ輝かせて熱っぽく、微塵も失敗することなど疑わないと言った自信にあふれた口調で、遼に語りまくったのだった。p214

 しかしまぁ、ここまでくると、その大風呂敷の底は抜けていて、大法螺吹きの一歩手前ということになる。ここにエサレンの名前がでてきたりするところに、同時代性を感じはするが、ここまで語られたら、逆に引いてしまうのが、一般的な感覚だろう。

 「どういう住みかかね、あれは。まるで何もない、シンプルというよりエンプティ、空虚という感じだった。ちっぽけなラジカセにチャチなテーブル、ガタのきた籐椅子、何年使っているのかわからない古ベッド、訳のわからない精神世界の本だけは山のようにあって、狂った人間の住んでいる住まいという感じだったねぇ。本物の人間なんて住んでいないような一室だった。まさにノーバディホームと呼びたかったな。きみはまさにノーバディだよ、きみ一人この世からいなくなったところでどうってことない」p300

 夢と現実のギャップはつねにある

 そんな生活の中で、遼はインドの神秘家「バグワン・シュリ・ラジニーシ」(後のオショウ)という存在を知った。既成宗教に何の関心もなかった遼だが、友人に無理矢理読まされたラジニーシの本の開いたページの数行に電撃にでも打たれたような衝撃を受けた。これほどの人物がこの世にいたのか、と震えがきた。初めて生きることの意味を教えられたような感動に打ち震え浸った。p358

 似たような体験をした人の体験談は山ほどある。しかし、この小説のように一貫してOshoをモチーフの複線に据え続ける小説もそれほど多くないのではないか。幸野谷昌人「エクスタシーへの旅」に通じるものもないではないが、あちらは小説ではないし、すでに四半世紀も前に出版されて絶版になっているものだ。2002年に出版された「現代物」としての本書は、なかなか得がたい価値があると思う。

 「・・・インドのぼくのいた所では、ブループで受ける瞑想コースに、フーズ・インWho's In ?というのがあった。あなたの内にいるのは誰か、というコースで、以前はフーアムアイWho am I ? 私は誰かという名称だったんだけど、西洋人にはあまりピンとこなかったんだね、私は誰だと言ったところで、職業とか肩書とか顔とかがあるんだからわかるだろう、ぐらいの認識しか西洋世界では培われないのかな、あるいは科学的、哲学的にとらえようとするんだろう」p383

 同じgoogleブック検索に引っかかったのが、かたやまじめ領事の泣き笑い事件帖」のような実にふまじめな大ねつ造レポートがあったりするのだから、こちらの小説のような、実に真面目なインサイド・レポート小説などが存在してバランスを取るのは、存在の摂理というものであろう。

 自分の体が変わり始めていることに気づいた。神経が研ぎ澄まされ鋭敏になり、感情が高ぶり、些細なことで涙がこぼれた。ついぞなかったことだった。自分の中に見知らぬ自分がいるような不思議な感じに包まれることがあった。ふと、インドで学んだ七つの体のことを思い出した。人は意識のレベルがあがるごとに七つの階段を昇っていくということを教えられた。とすると、今自分は次の段階へとあがっていく途上にいるということだろうか、と遼は思った。p392

 この作者は、決して自分の作品を書きあげるために、Oshoをモチーフに借りだしたのではない。彼自身が探究者なのである。そして時代の中で、Oshoとともに生きた。そういう意味では、間違いなく彼はOshoのサニヤシンだ。この境涯にある、友人たちは数多い。このスタイルは日本人のサニヤシンに多いと思われるが、決して日本独自というものではない。この共通の認識、共通意識を持っている地球人たちが、現在、数多くこの地球上に存在していることは間違いない。

 遼は理英に夕食を一緒にしようと声を掛け、その前に三人でクンダリーニ・メディテーションをしないか、二人よりも三人の方がエネルギーがあがるからと勧めて、隣室にいる美里も呼んで、夕食前の一時間、三人で汗をかいた。p394

 3週間の期限まで後2日となった晩、二人でナダブラーマをし、リラックスタイムになって仰向けになった。 p398

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2009/04/14

神秘家の道 <3> 

<2>よりつづく
神秘家の道
「神秘家の道」 珠玉の質疑応答録 <3> 
OSHO /スワミ・パリトーショ 2009/03 市民出版社 単行本 884p


 
私はみんなに、意識に下には、ますます意識を失って行く、無意識の三つの層があると説明したことがある。その最下層は、まさに岩石の中にあるような、宇宙的無意識だ。
 みんなの意識の上には超意識があり、それもまた三層に分かれていて、その最上層は宇宙的超意識に届いている。それが私がこれまでに、純粋な意識として----「禅」として、「チャン」として、「ディアン」として----語ってきているものだ。
 集合意識という現象は実在する。世界がこんなにも混乱しているのは、あらゆる人たちが異なった段階にいるからだ。集合意識は、その人達がすべて同じ段階にいるときにしかあり得ない。例えば、もし誰もが無意識だったら、その時はその全員の存在からあるリズムが湧き起こって、その人たちを結び合わせる。そしてこういう事は、群衆がまったく我を忘れた行動をしている暴動などで、時たま見ることができる。
p104

 「意識」という言葉は、さまざまな角度から使われている。共通した認識のないまま、科学的に、体験的に、寓話的に、あるいはそもそも言葉的概念に規定され得ないものとして語られていることもある。

 当ブログにおいて、しかも<2.0>においては、この言葉、この概念を、量的にも、質的にも、もうすこし身近なものとして引きずり出してこようと思う。そして、並列的に書きだしたところで、なにかニューロンの爆発的なことがおこり、シナプスのつながりができてくるかもしれない。いまはただ曖昧規定のまま、漂うことにする。

<4>につづく

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2009/04/13

脳とクオリア

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「脳とクオリア」なぜ脳に心が生まれるのか
茂木健一郎 1997/04 日経サイエンス社 /日本経済新聞出版社 単行本325p
Vol.2 No.580★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★★

 最近作の「思考の補助線」(08/02)や小説としての処女作「プロセス・アイ」(06/01)に比較すると、こちらの出世作「脳とクオリア」にたどり着くのはすこし時間がかかった。いや、時間をかけた、というべきか。

 この本ので出た97/04というところが、どうもフィット感がない。当時の自分は、それこそインターネットの魅力に取りつかれ、脳や心の問題など、あっちのけで、この本が手元にあったとしても、興味をそそられなかっただろう。

 いや興味があったとしても、できるだけ避けていただろう、ということは、自分なりに大いに理解できる。前々年に表面化した「麻原集団事件」により、私の視野は意識的に狭められていた。脳などというと、すぐ連想するのは、あの電極のついたヘッドギア状の奇怪な道具である。できるだけその前からは走り去りたい「クオリア」の発生源であったといえる。

あれから10年以上も時間が経過して、ようやくこの心脳問題に目を通す気になってきた。

 私たちが世界を感覚する時に媒介となる様々な質感のことを、「クオリア」(quolia)と呼ぶことにしよう。クオリアという言葉は、まだ一般的なものではないかもしれない。だが「クオリア」は、哲学者をはじめとする人々が質感の問題を議論する際に伝統的に用いてきた概念である。この言葉を使うことは、最初は耳慣れないかもしれないが、私が提示する議論を、今まで存在する議論と比べたり、あるいは将来出現するであろう議論と比較する上で便利である。p12

 この本が出版された当時から考えれば、すでに10年以上も経過した「将来」となった現在において、この「クオリア」という言葉を使うことが「便利」かどうかは、当ブログとしては、いまだ判断はつかない。

 「心」と「脳」の関係を求める私たちの旅において、「クオリア」は最も重要な概念となる。なぜ「クオリア」が重要なのか? それは、逆説的だけれども、「クオリア」こそ、「心」と「脳」の間に存在する深い溝、とても越えられないのではないかと思われる断絶を象徴する存在だからだ。「クオリア」こそ、「心」と「脳」の関係を考えることが、いかにとてつもなく難しい問題であるかを象徴する存在なのである。p12

 茂木自身どこかに書いていたが、当時はアインシュタインを意識していたが、その後10年を経過した段階で意識しているのは、ダーウィンだ、ということだった。この二人の存在や意味の違いについて、専門的な科学者ならぬ我が身で判断はつかないが、そのうちだんだんわかってくるだろう。すくなくとも、この本において、茂木は「マニュフェスト」しているのである。

 主観的には、「意識」があるか、ないかという二つの状態の間のコントラストは劇的である。何しろ、「意識」がない時には、「私」は「そこにはいない」のだから。「意識」がないということは、赤と緑の見え方がどう違うのかというような繊細な問題ではなく、もっと暴力的な条件なのである。「意識」がない時には、そもそも感覚を盛る器としての「心」は存在しないのだ。p180

 死、意識、私、心、さまざまな切り口はあるが、現在において「茂木健一郎」こそは、これらを総合して連想させる「クオリア」に成長してきたと言える。

 私たちが「意識を定義する」という課題に本当に成功するまでの道のりは、とてつもなく遠いのである。その道のりは、「意識」について、客観的な、技術的議論を進めることによってのみたどることができる。たとえ一つ一つのステップは小さくとも、少しづつ進んでいくしかないだろう。p204

 面倒くさそうな数式や、概念的な図式はかぎりなく飛ばして読み進めるしかないが、もし、当ブログが<2.0>において、「コンシャスネス」=「意識」を大きなテーマとして取り上げ続ける限り、機会をとらえて、この本を再読する機会もでてこよう。

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2009/04/12

クオリア降臨

クオリア降臨
「クオリア降臨」
茂木健一郎 2005/11 文藝春秋 単行本 300p
★★★★☆ ★★★★★ ★★★☆☆

 こちらは「文学界」(2004/04~2005/07)に連載されたエッセイを一つにまとめたもの。

 物質である脳の活動から、意識の中のクオリアがいかに生み出されるのか、そのプロセスの第一原理はまだわかっていない。脳の中の神経細胞の活動が、シナプスと呼ばれる結合部位において「衝突」する時、その相互関係からクオリアが生み出されることだけは確実である。個物と個物が出会う時、そこに新たな個物が生まれる。そのクオリアの誕生こそが、私たちの意識を形作り、世界を照らし出す。
 古来、文学をはじめとする様々な芸術表現において、人々は、他のどのような作品にもないクオリアを求めて苦闘してきた。クオリアが住まう仮想空間を旅することの繰り返しであった。
p26

 ここまでくればクオリアというものの語源はどうやらクオリティなどと同じ質感を表すものでありそうだな、と察しがついてくる。当ブログもある意味では、ブログという空間の中にさまざまな個別なコンテンツを並べて、自然にできていくシナプスのつながりを追っかけてみようという試みであるとも言える。

 相対性理論、量子力学、そして今、超ひも理論を経た科学にとって、この世で怖いものなどそんなにありはしない。精神分析や構造主義など、コアの科学が積み上げてきた世界観の完成度に比べれば未だ発展途上である。p39

 お言葉ですが、それはいわゆる発展途上にある科学サイドからの味方であって、意識界、あるいは神秘界から言えば、早く、科学よ、ここまでおいで、と言っているにちがいないのだ。科学という手法に比べたら、人類史における「意識」の歴史は比較しようがないくらいに長いはずなのだ。

 文学は、世界を引き受けることを志向しつつ、肉体の限定性から決して離れない。離れてしまっては、形而上学ではあり得ても、文学ではなくなる。肉体の限定性とは、すなわち、およそ個が体験し得る世界のうち、もっとも自らに近いもの、自らの魂にぴったりと寄り添った薄皮のようなものである。ある文学作品をとらえて、世界が狭いとする批判が、一見至極まっとうであるかのように聞こえて、どこか根本的なところで文学というものの本質に向き合い損なっていると感じる理由は、ここにあるのだろう。p47

 すでに失って存在していない自分の手足に痛覚を感じるという現象もあるが、たとえば、箸や杖あたりまで身体化していて、まるで自分の手足のように使いきるという例えもある。身体と意識は、切っても切れない関係にあるが、当ブログにおいては、その身体化は、自分の視力がとどくところ、聴覚が及ぶ範囲にひろげ、あえていうなら、その五感はどんどん伸びて、地球大に拡大していると仮定している。

 かつてのネイティブ・ピーポーが自分を○○族の一員としてのアイディンティを持っていたのと同様に、現代では、○○県人とか、○○国人、とかをはるかに通り越して、地球人、というアイディンティをもつように至っている、と考える。

 そもそも、クオリアに満ちた意識が生み出されるということ自体が、自然に顕れた一つの異常である。チンパンジーたちが、慢性的な統合失調症類似の状態になるのも無理はない。クオリアは意識にとっての福音であると同時に、のろいである。生老病死の苦しみが意識されることなくして、釈迦の思想が生み出されることもなかった。p86

 それこそ文学的反語に満ちた表現がなされているが、現状を見る限り、クオリアに満ちた意識が生み出されるということ自体が、自然に顕れた一つの「必然」なのである。可能性は限りなく少なかったかもしれないが、それが事実なのだ。それがなければ、人間も存在していないし、茂木健一郎もいないし、ブログもないし、地球人スピリット・ジャーナルなどというたわけた試みは存在しなかった。

 人間は他者とのコミュニケーションなしでは、恐らくは存在し得ない。「他人と心を触れ合わせることは素晴らしい」というしばしば唱えられるお題目には、そうしなければ生きていけない人間という弱々しい存在の自己正当化が含まれている。人間は、他者との関係性のうちに愛や共苦といった生きる上での根源的な価値を見いだす一方で、現実の、あるいは想定された他者の視線を巡ってぐるぐる回る、そんな心理の泥沼に陥ることもある。p118

 「文学界」というメディアを借りたフィールドでの活動であってみれば、リップサービスも必要だろうが、人間はやはり愛や関係性の中にだけ生きているわけではない。この文脈では、「死」がまったく顧みられていない。つまり、愛と対置されるべき瞑想という意識活動に触れていない。

 そもそも、言葉というものは、他者との「見る/見られる」関係性を前提としてしか成立しない。そうでなければ、後期ヴィットゲンシュタインが、あれほど私的言語の不可能性について思い煩うこともなかっただろう。p128

 ヴィットゲンシュタインが東洋に生まれていれば、禅者やヨガの修行者にでもなっていただろう。西洋哲学という範疇のなかで精いっぱいの哲学的鋭意を繰り返したとしても、それが最終地点とは言い難い。そして、彼の営為をもってして、最終地点がない、とも言えないのだ。

 ネットワークを通して流通している情報が増えれば増えるほど、人間は、横からの情報に支配されるようになる。情報というものは、伝達されてこそ価値があると思いこむようになる。
 一方、松岡(正剛)流に言えば「上から降ってくる情報」とは、伝達されてくるのではなく、あくまでも私秘的なものとしてこの世界にもたらされる何かである。テレビやインターネットはもちろん、紙のようなメディアさえなかった人類の歴史上の長い時間において、情報は、横からやってくるものではなく、自らの内側から生み出されるものではなかったか。
p154

 併存する二点があるからこそ、そこにはシナプスが存在し、情報とも名付けることができるが、内側の内側には、点さえなく、ゼロからゼロへの情報など、存在しようがないのである。

 インターネットやサイバーといったメタファーは、多くの点において、人間の魂にとってのリアリティの在処(ありか)を見誤っている。村上春樹が、観念世界のリアリティを描きながら、一貫して情報ネットワーク社会というメタファーから距離を置いていることは注目されて良い。
 ブログやウェブなどない遠い昔から、人間の魂にとってのリアリティの在処は変わらない。もっとも、そのリアリティを血肉化するプロセスは、時代とともに随分と変化している。
p161

 道具に価値観を置きすぎ、頼りすぎるからそのようなことになる。道具は道具として使いきれば、それで済む。もし道具を道具として使いきれないで、道具を恐れているような村上春樹であるならば、そんな文学など、当ブログには必要ない。人間の魂にとってのリアリティの在処、は変わらない。しかし、すでにこのように言語された時点で、その在処は姿を消す。

 現代の物質主義に抗し、人間精神の価値を高らかに謳うなどまだ甘い。ニーチェが反発した物質主義的人間機械論とはまた別な形で、現代人は自身の主観的体験の解体、機械仕掛け化と直面している。人間の意識の成り立ちが解剖され、解体され、部品化していく。その部品がインターネットを通して流通するのだとしたら、それこそが現代の危機ではないのか。p167

 人間の意識の成り立ちが増殖し、結合し、巨大化して地球大になっていくのなら、それはまたインターネットを通じた現代の可能性でもあり得る。

 職業として文学を書く人も、インターネット上のブログに日記を書く人も、それぞれの個別の生の切実さから言葉を吐いていることに変わりはない。一人称的な生の営みとしては、それで尽きている。言葉が生み出される切実さにおいて、多くに読者を持つ作家だけが特権的な地位を占めているわけでは決してない。p184

 インターネットは現在、なにかの表現や言葉を伝えるものとなっている。しかし、意識自体そのものは表現や言葉でない限り、意識の器としては、完全なものではない。もし、言葉を超えた沈黙を共有し得る手段が生み出されれば、インターネットや文学など、古びた過去の遺物となろう

 文脈主義が、インターネット上のハイパーリンクのように、固定化した、確定的なものとして現れる時に、文明は精神圧殺の最も醜い側面を見せる。むろん、文脈に串刺しされる現代人が、確実性から完全に自由になって生きられるはずもない。誰でも、お前はこの社会的文脈にいるこういう人間だと決めつけられて気分が良いはずがない。しかし、そのような文脈付けがごく普通の人にまできめ細かく行われていくのが、現代である。p217

 反語的ではあるが、であるからこそ人間や生命には「死」が与えられている。社会的文脈など「死」の前にあっては、なにものでもない。

 有限の人生を生きる人間にとって、永遠とは畢竟、死のことである。だからこそ、精神の中に立ち現れる様々な形而上学の香りに惹きつけられつつも、私たちは決して生活の現場を離れてはいけないのだ。 p271

 人間、この未知なるもの。そして、人間、この不可知なるもの、と言い直さなければならない。そして、また、人間、このごくありふれた陳腐なもの、というところに戻ってこざるを得ない。

 インターネットなどの情報ネットワークが世界の中に整備されるにつれて、文学以外の世界ののりしろは大きくなった。もっとも、文学というものの定義は時代とともに変わるものだから、「意識の流れ」のような新しい概念をどこかの誰かが思いつくことによって、現時点では文学が取りこぼしているものも、また扱うことができるようになるかもしれない。p289

 言葉あそびなどいくらでもできるが、この本を読んでの結句としては、この部分で締めておくのが、一番適当だろう。

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2009/04/11

我が青春、苦悩のおらびと歓喜

我が青春、苦悩のおらびと歓喜
「我が青春、苦悩のおらびと歓喜」 共産主義と人間実存の狭間での苦闘十年
玉川信明 2003/07 現代思潮新社 単行本 285p
Vol.2 No.578 ★☆☆☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

  「OSHOガイドブック・シリーズ」「<異説>親鸞・浄土真宗ノート」を晩年に残した玉川信明がみずからの人生を振り返りながら、青春時代のノートを再録し、そしてOSHOへの思いも綴る。良書、推薦書、という位置づけではないが、当ブログが読んできたなかでは、奇書ともいうべき位置にあるだろうか。

 以前、vijayからこの本についての紹介のコメントもあったのだが、一般公立図書館の開架コーナーにあるわけでもないし、書店に並んでいるわけでもない。あてもなくリクエストしておいたら、300キロほど離れた図書館から回送されてきた。

 神のご指示とは不思議なものである。ジャナ専(ジャーナリスト専門学校)の70歳の定年間際になって、もう一度私に最後の人生整理の機会を与えて下さった。それはインドの偉大な超宗教家和尚(元はバクワン・ラジニーシと称していた)という人物を紹介してくださったのである。実はこの人物はとうにその15、6年前から知っていた。本屋で何となくこの人物の著書に引かれて、その著を2,3冊購入していたのである。しかし辻潤同様にすぐには読まず、それらの書は私の本棚でいたずらにアクビをしているばかりであった。p280

 他の物書きたちがどのような人生をおくるのか詳しく知らないが、著者ほど、晩年において、みずからの「整理」をして、この世から去っていく、という人もそれほど多くもないのではないだろうか。失礼ながら、決して有名とも思えず、それほど売れているとも思えない書き手なのに、晩年において、これだけ整理しながら、次々と本を出せた、というのは、本人の強い希望もあったのだろうが、周囲もよくその希望をかなえてあげたものだな、と感心する。

 黒田寛一のこと、山岸会の生活のこと、親鸞や、赤裸々な性体験などがランダムに書きつづられている。

 後から考えて、これが和尚の言う「サマーディ(三昧=悟り)への一瞥」かと納得した。和尚はこれがあるために人は強烈に性に引かれるのだと説明する。したがって彼はフリー・セックス論者のように見られているが、その究極の目的はサマーディによる戒律の成就、セリパシー(宗教的独身者)の完成である。セックスドクター奈良林某の記事で「性と自我の溶解である」というのを読んで即座に納得したが、味わったのはこれが初めてである。そして和尚は相手を寺院とみなす独特の瞑想的無射精(山の谷のオーガセーション)のタントラセックスを知り尽くし、見事神の世界に遊んでいられたのである。p182

 玉川のOSHO理解は、日本に翻訳されたものを中心に、特に本を通じて感得したものだから、OSHO全体の実像からすれば、やや割り切られ方が、独特である。どうかすると、メリハリがききすぎていて、円周率を3.14・・・と曖昧に濁すのではなくて、単に円周率3、と言いきってしまっているところがある。それでいいのか、と思う部分とそれでいいのだ、と納得する部分がある。

 そもそも円周率3も、大きく外れてはいない。あるいは、3.14も実は正解とは言い難いのである。長年OSHOのもとにいても、正しい実像としてのOSHOなどよくわかっていないことが多い。何回も計算しなおしているうちに、ご破算に願いましては、って最初に戻ってしまって演算不能になって止まってしまうこともないではない。

 短い時間で全エネルギーをそそぎ、エイや、円周率は3なり、と決断してしまうことも、まんざら間違いではない。残りの小数点.14・・・・などにこだわっているうちに全体像を見失っているなんてこともある。そういう意味で玉川本は実に割り切りのいい、的確な表現に満ちているのではないだろうか。ましてや、それを切り捨てるために割り切っているのではなく、しっかり把握するために概略をとらえているのである。

 OSHOガイドブックをはじめ、何冊もこの玉川信明の本を読んできたが、そのリストの中に、この「わが青春、苦悩とおらびと歓喜」を加えてこその玉川本であると感じた。玉川信明さんは、生まれ変わって、まもなくサニヤシンになることだろう。

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2009/04/10

偶有性幸福論。

偶有性幸福論。
「偶有性幸福論。」 人生何が起こるか分かんない
江原啓之 /茂木健一郎2008/10  ぴあ  単行本  119p
Vol.2 No.577 ★★☆☆☆ ★★☆☆☆ ★☆☆☆☆

こちらは当代名うてのスピリチュアル・カウンセラーと脳科学者の対談ということにあいなった。偶有性とは、「何が起こるかわかんない。」ということだから、それはそうだろう、とは思うものの、その結論を、スピリチュアル・カウンセラーと脳科学者からありがたく拝聴しなければならないのか、となると、ちょっと違うでしょう。 

 火の玉・大槻教授などは、この本のことを言っているのかどうかは知らないが、江原などと対談することは、科学者としてあるまじき態度であると、言ったとかいう情報をネットで見つけたが、まだ当ブログとしては未確認。そのうち、大槻教授本も読みたい。

 江原については、ブログに書けば、どっからかエハラーたちがアクセスしてきて、いっきにアクセス数があがるという体験はしたが、自分のブログに重ねて書き続けていきたいとは思わない。この対談が成立したことによって、江原のほうにメリットがあるように思うが、茂木もまた、リップサービスというべきか、ちょっとやりすぎのオーバー・サービスになっているのではなかろうか。

 なにはともあれ、このような一冊もあるのだ、ということを確認した。書店には、両者の本があふれているが、江原のほうは特別コーナーまであったから、まだまだ格違いかな・・・・? o(*^▽^*)o

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脳と日本人

脳と日本人
「脳と日本人
松岡正剛 /茂木健一郎 2007/12 文藝春秋 単行本  225p
Vol.2 No.576 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

こちらは、松岡オヤブンとの対談。2000/07に行われた対談を受けて、さらに2006/11に再対談したものをもとに「構成」したものだというから、松岡「編集工学」の「作品」とみていいだろう。2000年当時は、オヤブンのほうが圧倒的に存在感を示していただろうが、現在の出版状況では、逆転している可能性あり。「ブーム」に乗っかろうとして、急いでつくられた本、という感じがしないでもない。

 しかし、ここまでして「脳と日本人」にこだわることもなさそうなのだが。「クオリア立国論」 と同じく、あまりドメスチックな姿勢を示されると、ちょっと白ける。あまりにコスモポリタンなのも困りものだが、まずは、お仕事や現実的な処理はきちんと終えて、あとはグローバル意識へ「遊び」ましょうという、当ブログの姿勢であってみれば、やっぱり、ここであらためて「日本人」論は聞きたくない。

 次回は「脳と地球人」というテーマで対談をお願いします。

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脳を活かす仕事術

脳を活かす仕事術
「脳を活かす仕事術」 「わかる」を「できる」に変える
茂木健一郎 2008/09  PHP研究所  単行本  213p
Vol.2 No.575 ★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 一読者としては、このようなハウツー本から入っていくのもいいのだろう。茂木本なり、脳科学本への深い食い込みにはならないだろうが、別に深く食い込みたくないよ、というご仁には、このような本を一冊読んでもらって、わかった気分になってもらうのがよいだろう。

 世に、人はパンのみに生きるにあらず、という言葉があるとすれば、詩をつくる余裕があるのなら、田畑を耕せ、というような言葉もあるのだから、理論物理や脳科学ばかりやってないで、なんか商売に役立つこと考えろ、と言われれば、やっぱりこういう本がでてくる意味がある。

 「わかる」を「できる」に変える。なんだかいい言葉だな。たしかに、近年業績不振のわが社のことを思えば、ブログがどうしたクオリアがどうしたなんていうより、できる仕事術のひとつも編み出さなくてはならない。しかし、こと仕事の話というなら、最初から、もっと別な実利的な本を読むだろう。私が著者に求めたいのは、やっぱり、仕事術ではなさそうだ。

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クオリア立国論

クオリア立国論
「クオリア立国論」
茂木健一郎 20098/10  ウェッジサイズ 単行本  156p
Vol.2 No.574 ★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆ 

 
なんでもかんでもブームにしてしまい、一挙にみんなで勝ち馬にのり、ものごとの本質をあいまいにしたまま、過激な熱狂をしめしながら、あっという間に次のスターが誕生すれば、さっさと次に写ってしまう、この国。小泉が生まれたり、Hモンが登場したりした。でも、あとはみんなで忘れて、使い捨て。

 クオリアとやらをもとに日本という国家をなんとかしよう、という試みは別に反対すべきものでもない。クールジャパンやら、ジャパネスクやら、もうなんでもいいけれど、当ブログとしては、「意識」問題を国威発揚とか、経済問題に容易にすり替えていく姿勢には、賛同はできない。あくまでグローバルな地球意識を求めたい。

 期待すべきオバマだって、アメリカ合衆国という国家の発揚のために仕事をしているのだから、日本だってなんとかしなくてはならない、というのはわかるのだが、ここはもうすこし踏ん張って、やはり、国家ではなくて、地球全体をあくまで基準に物事を見ていきたい。

 p145に「<帝国>」の共著のあるマイケル・ハートの紹介があった。私はむしろ、このような方面からの大きな話題の展開を期待したいところだが、それは、また他書に求めることにしよう。この本はこの本だ。

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化粧する脳<1>

化粧する脳
「化粧する脳
 <1>
茂木健一郎 2009/03  集英社 新書  189p
Vol.2 No.573 ★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

 化粧する脳、とは、これまた変わったタイトルの本だなぁとは思うが、もともとこの本の基礎となっているのが、カネボウという化粧品会社との共同企画であってみれば、なるほどと納得したり、なんだかなぁ、と呆れてみたり。

 書店に行ってみれば、茂木健一郎の本もたくさんあるが、いわゆる脳科学とやらの本が平積みになって、所狭しと他書を圧倒している。なにやら、これは「ブーム」なんだな。なにがかんでも「脳」につなげなければ、出版プロジェクトが成立しない、とばかりに、脳、の文字が躍っている。

 心の時代があったり、健康の時代があったり、スピリチュアルの時代があったり、どうやら、現在は「脳」の時代なのかもしれない。なんだかなぁ、と、ちょっと白けた気分。他書のことはいざ知らず、もともと本格派であるだろうと思っている著者の本のレベルは下がってほしくないもんだ、と独り言。

 テーマがテーマだけに、孤立したり、独尊的になってしまう可能性があるなかで、著者は積極的に全方位にネットワークを広げており、自らが属するソニーネットワーク以外にも、さまざまな企業に協力体制をつくり、そのブームの仕掛け人の一人となっていくことは、楽観的に考えることができれば、それはそれで素晴らしい。

 だがやっぱり、こちらの本も精読、再読の必要を感じるような本ではなかった。

<2>につづく

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脳はもっとあそんでくれる

脳はもっとあそんでくれる
「脳はもっとあそんでくれる」
茂木健一郎 20008/12 中央公論新社  新書  237p
Vol.2 No.572 ★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

こちらも週刊誌「読売ウィークリー」(2007/6~2008/04)に連載されたエッセイがもとになって、新書一冊になった。「サンデー毎日」「風の旅」「ちくま」、「文学界」、そしてこの「読売ウィークリー」と、なんという多筆な人なのだろうか。

 ざっと周囲を見ただけで、この通りなのだから、探し続けたら、もっともっと出てくるに違いない。この人と本を一通り目を通してみようと、図書館にリクエストしたら、なんとウェイティング・リストが相当に長い。自分の番がいつになってくるやらわからない。

 そこで書店に行ってみると、あるはあるは、なんとこれほど多くの本を世に送り出しているのか、と超びっくり。出版された日時を見るとかなり重なっているし、ほんのこの数か月だったりする。これはどうも「売り」に入っていますね。

 内容的には、同時に出版された他書と比較して特段に突出しているわけではないが、おなじ新書としては
「思考の補助線」よりはやわらかめで、読みやすいが、その分だけ、特段再読する必要も感じない一冊となっている。

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完璧な冷静 オバマ変革と試練

完璧な冷静
「完璧な冷静」 オバマ変革と試練
エヴァン・トーマス /ニューズウィーク編集部 2009/02 阪急コミュニケーションズ サイズ 単行本 221p
Vol.2 No.571 ★★★☆☆ ★★★★★ ★★★☆☆

 この本の原書タイトル「A LONG TIME COMING」はピンとこないが、なにかの詩や歌から取っているのかもしれない。日本語のタイトルもあまりふさわしいものとは言い難いが、この本が「ニューズウィーク」誌の編集によるものであってみれば、「TIME」誌が出した特別編集版「オバマ ホワイトハウスへの道」と並ぶ、米国内の代表的かつ平均的な反興と記録ということになるのだろう。

 「オバマノミクス」を読んだときには、そんなにいっぱいなんでもかんでもオバマに期待してはいけないのではないか、と思った。だが、実際、これだけの選挙戦をあの手この手で勝ち抜いて、ようやく就任するポストなのだから、これだけの仕事をやってもらわなければならない。やってやろう、やれるはずだ、という自負がなければ、実際にこのような選挙戦を戦いぬけるはずはないのだ。

 ヒラリー・クリントンにせよ、あるいはマケイン候補にせよ、あるいは、共和党の副大統領候補だったペイリンにせよ、こうしてドキュメンタリーを読んでみれば、いずれもそれぞれの猛者であり、どのような結果になろうとも、誰が大統領の地位につこうとも、アメリカ合衆国、という国はそれなりに成り立っていくのだろう。考えてみれば、地球上で最大数の人口がかかわる選挙だ。中国、インド、ロシアなどの選挙とはうってかわった風景と言える。

 オバマ陣営では、ニューメディア部門が新たなキャンペーンツールを開発していた。支援者に無料配布したiPhoneのアプリケーション「オバマ08」だ。「コール・フレンズ」という機能を使うと、重要な州ごとに友人・知人の電話番号が表示される。そこに支援依頼の電話をかけ、「不在メッセージを残した」「興味がない」など連絡状況を記録しておく、そうすることで、選挙本番まで連絡すべき人を把握できるのだ。p107

 韓国の盧泰愚大統領誕生の際にも「オーマイニュース」などのネット・メディアが大活躍したとされているが、新勢力が新メディアを駆使するのは大切なことであろうし、不可欠のことでもあるだろう。日本は法的規制がいろいろとあるようであり、また、それだけのインフラを活用できるほどに「ネット社会」が成熟しているかどうかも不明だが、本来的には、ネット社会と民主主義は相性がよいはずなのであり、いずれはあたりまえの現象となろう。

 オバマが愛用していたのはiPhoneではなくて、ブラックベリーというビジネス・ケータイだったと思うのだが、そんな些細なことも読みとろうとしながら、このようなドキュメントを読んでいくのも楽しい。

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思考の補助線

思考の補助線
「思考の補助線」
茂木健一郎  2008/02 筑摩書房 新書 237p
Vol.2 No.570 ★★★★☆ ★★★★★ ★★★★★

 
問題の総量は減らないにしても、見え方が変わるということはある。ちょうど、幾何学の問題で、たった一本の補助線を引いただけで、解答への道筋が見えるように、「思考の補助線」を引くことで、私たちは今までとは少し違った態度で、世の中の謎に向き合うことができる。p022

 週刊誌「サンデー毎日」に連載された人物伝、隔月刊の「風の旅人」に連載された紀行文、そしてこちらは筑摩書房のPR誌「ちくま」(2005/06~2007/05)に連載されたものを一冊の新書にまとめたものである。それぞれの掲載誌に合わせた形で、多彩な才能の持ち主が、すこしづつ趣向を変えながら、結局はおなじテーマへのあくなき追求を続けている証拠を示す一冊である。

 人物伝や紀行文に比較すれば、こちらはもっとストレートだ。著者の主著や代表作というものにたどりついていない(あるいは避けている)当ブログではあるが、この本一冊だけでも、一つのブログを運営していくうえでのネタ本になるのではないだろうか。当ブログ<1.0>が梅田望夫からスタートしたとすれば、当ブログ<2.0>は茂木健一郎から始める、ってこともできるように思う。

 思考の補助線、まさにこの本はその用を満たしてくれる可能性がある。一読者として、いつも前半は張り切って読み、後半はすこしダレぎみになってしまう当ブログであってみれば、この本もまたその傾向があった。後半は、すこし抽象性が高まって飛ばし読みの部分も多かった。しかし、この一冊では、茂木健一郎という当代一の気鋭の学者が何をしようとしているのかをうかがうことができれば、それで十分だ。

 ここまでわかったことは、意識やクオリアというキーワードを使いながら、知の全体像を捕まえようとしていること。そしてそれは脳科学という科学の分野のなかに組み込まれようとしているのだが、本当はその枠組みを大きくはみ出してしまうこと。さらには、その探究には多大な障害があり、達成することはほぼ不可能なこと。しかし、それでも、この探究は限りなく有用であること、などなどである。

 意識はどのように成立するのか、その第一原因をめぐる議論の行く末は、杳として知れない。
 現在までの知見から、意識が脳活動によって生み出されること自体は、疑いようがない。意識が、脳を含む私たちの周囲の物質とはどれほどカテゴリーの異なるものであるように感じられたとしても、それが脳の大脳皮質を中心とする神経細胞の活動によって生じるものであることは間違いないのである。
 しかし、その一方で、意識が生み出されなければならない必然性は、一向に分からない。
p067

 この書は、茂木健一郎という人物の全体像が分かってきた段階で、もう一度再読される必要があるだろう。そして、いま、思っていることは、当ブログ<2.0>を推進させてくれるという意味では、この人物はそうとうに強力な助っ人になってくれそうだ、ということだ。質的にも高いし、量的にも多い。しかし、加えて敢えていうなら、当ブログの最終イメージとは、すこし着地点が違う。いまのところは微妙に違う、という表現で収まっているが、到達点がさらに密度を高めてイメージできるようになれば、その違いは、ひとつの線を境に向き合うほどに、まったく反対の立場になる可能性がある。しかし、それについては今はあまり頓着しないでおこう。

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2009/04/08

オバマ ホワイトハウスへの道

Obama
「オバマ ホワイトハウスへの道」 
ディスカヴァー・トゥエンティワン 2009/01 単行本 95P
Vol.2 No.569 ★★★☆☆ ★★★★★ ★★★☆☆

 こちらは「TIME」誌特別編集のオバマ号。グラビア・ニュース雑誌の特性を生かし、オバマの魅力をすっきりと演出している。内容は特段に特徴的なことはないが、TIME誌による一冊というところが特徴と言えば特徴か。魅力的なオバマが大統領になるまでの長く短いストーリーを的確に切り取っている。

 問題は山積みであり、大統領になっただけでは最終地点ではない。これからが本番なのだ。これから4年間にどれだけの成果があがるのか、楽しみではある。当ブログはオバマの選挙戦から深い関心を持ってきたわけではなく、今後も、場合によってはさっさとオバマに無関心を決め込むかもしれない。それもこれも、政治にはあまりよい思い出がないからだ。

 国内の選挙においては、一度も棄権したことはないが、典型的な浮動票なので、特定の団体や政党を長期に渡って支持したことはない。その時々に、差異的だと思える人に投票してきた。だが、いちどは積極的に支持するのも面白いかな、と思い、前回の参議院選挙の時には、乞われるままに、ある候補者を応援した。

 チラシを撒き、ポスターを張り、街頭で訴えた。1か月という短期間ではあったが、かなりの時間が割かれた。みずからのネットワークを使い、DMも送り、支持を頼んだ。幸い、支持した候補者は当選し、統計を見たら、自分たちが活動した地域の支持率が、活動によってアップしたことは確認できた。しかし・・・。

 次回は、もうあのような活動は依頼されてもやらないだろう。当選させるまでのお祭り気分はそれなりに楽しいが、ひとり議員をつくったからと言って、個人的には益することは、ほとんどなにもなかった。自分たちの意見を国政に届けてもらったという確信はなにもない。今年の衆議員選挙も、正直言って、冷やかに見ている。投票にはいくだろう。しかし、それ以上の活動はする気はない。

 アメリカのオバマは、インターネットを活用したとよく言われる。日本においては法的な規制もあり、ネット選挙には限界があるだろうが、本当に支持したい候補者が現れたら、個人としては、陰に日向に、ネットを活用して応援することを考えるだろう。本当にそのような候補者が現れてほしいと思っている。どうなるか。考えようによってはたのしみである。今後、日本にもオバマが出現する可能性はあるだろうか。

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今、ここからすべての場所へ

今、ここからすべての場所へ
「今、ここからすべての場所へ」
茂木健一郎 2009/02 筑摩書房 単行本 251p
Vol.2 No.568 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★★

 手元に一冊の雑誌がある。「風の旅人」13号。大判の隔月刊グラビア雑誌だが、写真といい、文章といい、実に洒落ている。2005年当時のものだが、この本は、ネイティブ・アメリカンを訪ねる旅を出版した友人から譲ってもらったものだ。彼女は私が某SNSに誘ったのだが、彼女なりにSNS上でネットワークを広げ、この「風の旅人」の編集者と友達になったのだという。そして、サンプルとして多めに送られてきたバックナンバーの中から、この号を一冊、私が選んだのであった。

 この「風の旅人」13号には連載エッセイ「都市という衝動」があり、「地上に現れた新しい太陽を見上げて」という文を茂木健一郎が書いている。今回あらためてこのグラビア雑誌を広げて、不思議な縁を感じ、ふと佇んだ。

 この「風の旅人」に連載されたエッセイ30本が、一冊にまとめられたのが、この「今、ここからすべての場所へ」という最新刊である。2003/06~2008/04の間に掲載されたものがまとめられたものであるので、必ずしも著者の最新の心境ということにはならないが、全体を貫く姿勢は一体化しており、あらためて親近感を感じた。

 意識をもった人間は、どうしても物質と同じような実体として「私」という存在を考えてしまう。だからこそ「死」を、そのような実体としての「私」が消えてしまうことだと思いこみがちだ。しかし、実際にはなくなってしまうのは実体ではなく、関係性だけである。関係性は、もともと相対的なものだから、絶対的に消滅してすまうわけではない。「私」という人間が後生大事にかかえている自我は、関係性によってつくられ、その変化のダイナミズムを通して解体されていく仮借の姿である。p168

 前後して刊行された「偉人たちの脳は、おもに歴史上の人物に焦点を集めたエッセイ集であるのに対し、こちらは、地域や旅を話題にしている。おなじ著者による同じ方向へ向けてのエッセイであるので、おのずとテーマの底流は同じものである。だが、かたや「サンデー毎日」というポピュラーな週刊誌に連載された文章に対し、こちらの「今、ここから~」は、ちょっとマイナーではあるが熱狂的なファンに支えられているような隔月刊グラビア誌の連載である。ずっと落ち着いた、哲学的思索とも言うべきものになっている。

 世界の各地に出かけるにつれ、「国際的に通用する言語」などというものは少数で、歴史的偶然が生み出した産物に過ぎず、地球という場所は元来お互いに通じることのないたくさんの言語に覆われていたのだ、という当たり前の事実に今更ながら気づかされていった。p120

 
インターネットが登場し、地球は均質化の方向へ向かい始めている。しかし、それはまだまだ10数年の営みでしかない。本質的に物事が動き出すのはこれからだろう。当ブログにおいても、すこしづつ日本語圏を離れて、地球大の地図を片手に記事を書き始めてはいるのだが、本質的に地球的になるのは、ほぼ不可能に近い。

 何よりも、何の言葉を解さない新生児としてこの世界に生まれた時の、あの可能性に満ちた空白を、決して自分の精神の中から失わないように生きたい。
 そのようにして初めて、私は「地球市民」をことさら名乗らなくても、特定のイデオロギーに寄りかからなくても、このやっかいだが豊かな生を全うできるのだと今は感じている。
p123

 言葉や文化、イデオロギーが私たちを決定づけるものではない。私たちは、地球人としてこの地球上に生まれ落ちたのだ。この精神、この意識をどこまでも持っていたい、とするのが当ブログの姿勢でもあり、タイトルにしている地球人スピリットである、と自負する。

 これらのすべてのものが、とにかく一切合切、地球というこの巨大な塊の上に同時並列的に存在している。それだけの多様性を許容するだけの大きさを、私が今まさにその皮の上を移動している地球という場所は持っている。p136

 この地球上に一人の人間として生まれた「私」。かけがいのない存在である。

 万物は流転する。何事も、「今、ここ」に安定してとどまらない。それでも、この世に生を受けた以上、自分の限りある滞在時間のうちには、何かしっかりしたものを摑んでおきたい。そうでなければ、「今、ここ」でさえ、自分のものとすることができない。足元が揺らいで、一歩も歩くことができない。p152

 曇りのない目でものごとのありさまを見れば、生命と非生命の間には絶対的な差異はない。ただ、自然法則に従って黙々と変化していく物質の群があるだけである。宇宙そのものの創造者としての神はあるかもしれないが、その後神は介入しない。スピノザは、宇宙そのものが神だと看破した。時空という神の「精神=身体」の中で、万物は動き回り、移り変わる。時間こそは絶対的な支配者であって、だからこそ、「神」という至高の存在の属性として相応しい。そのことを思う時、私たちは決して孤立していない。p165

 ここでスピノザがでてきた。でてこざるを得ない。

 「私」という意識の絶対性から離れた時に見えてくるものは、あるものの死が次の世代の生のために様々なものを残していくということを意味する豊穣の図式である。宇宙という物質の生態系の多様性は、間違いなくその構成員の生と死のサイクルによって支えられている。p171

 「私」という自我から解放されなければ宇宙の真理など見えてこないと理屈ではわかっていても、自己意識から完全に解放されることなど決してあり得ない。p172

 近来の「脳ブーム」の中で、ともすれば単純に図式化した「ノウハウ」を振りまき、人間本来の複雑で豊かなありかたを忘れさせる機能を果たしてきた脳科学も、人間の幸福を成り立たせている多様で流動的な諸条件を明らかにすることができれば、知性の本懐に資することができるのではないか。私は、そこに賭けようと思う。
 世界は私たちが考えている以上に複雑で、だからこそ豊かなのである。
p228

 当ブログは、まだ著者の代表作なり主著となるものにたどりついてはいない。しかし、ここまでの途中経過を思うかぎり、とても好ましいものに感じている。

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偉人たちの脳 文明の星時間


「偉人たちの脳」 文明の星時間
茂木健一郎 2009/03 毎日新聞社 単行本 235p
Vol.2 No.567 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 茂木健一郎という人物を積極的におっかけようという姿勢が出てこなければ、この「偉人たちの脳」というタイトルでは、ぜんぜんこの本を読む気にはなれないだろう。「偉人」たちというコンセプトが、当ブログにうまくフィットしてくれない。あるいは「脳」という物質化にも、いまいちシンパシーを感じることができない。

 ひと通り読み通したあとになっても、このタイトルがはたして適合しているのかどうか、疑問のままであった。本人が名付けたのであろうか、出版社の意図なのであろうか。

 私にとって身近な学問の世界でも、日本では分野横断的な研究テーマが認められない。探究している「脳科学」の分野についても、未だに「それは医学の一部ですか」などといった質問を受ける。医学はもちろん、生物学、情報科学、ネットワークサイエンス、認知科学、数理科学といったさまざまな分野が融合して生み出されつつある「脳科学」という新しい分野が、この国ではなかなかリアリティを持って受け入れられないらしい。p180

 この部分を読む限り、私の感覚は日本人としては一般的でもあるようである。著者は積極的に「脳科学」という言葉を使っているのだから、この本のタイトルも、きっと最終的には著者も気に入って名付けているのだろう、と推測する。

 本書は「サンデー毎日」に2008年一年間連載されたエッセイをまとめたものであり、白洲次郎からはじまり、アインシュタイン、ビートルズ、羽生善治、などについて書かれた、40のエッセイでできており、最後は、バラク・オバマで締めくくられている。

 誰でも「典型的なアメリカ人」。どんな背景の人でも、努力さえすれば、アメリカ合衆国大統領になることができる。それは長い間一つの理念にすぎなかったが、実際にそのようなことが可能であると私たちは知った。アメリカ建国の理想は生きていた。p229

 1962年生まれの著者は、私より9年、学年が下であるはずなのに、なんだか同級生が書いているような気になるところがある。かなり早熟な人であったのだろうか、と思ってみたのだが、実はそれはちょっと違うのではないか。たとえば、この人の本は、彼よりさらに10歳年下の人々が読んでも、共感し得るような視点が埋め込まれているのではないだろうか。

 あるいは、日本人という触れ込みではあるが、ひょっとすると、他のアジア人たちや、欧米の人々が読んでも、割と受け入れやすいものであるだろう。科学畑であろうと、文学畑であろうと、あるいは政治家や経済人であろうと、親近感を感じるような仕掛けがあるのではないか。それは彼のキャパシティの広さの証左でもあるだろうが、その「分野横断」的なスタイルが、おのずとそのようなイメージを周囲に作り上げるのであろう。

 高揚はやがて冷める。オバマ氏の前途は多難だろう。しかし、それで良い。受難こそが、情熱の母なのだから。
「私は典型的なアメリカ人です。」
 遠いあの日、私の心にさざ波を立てた言葉の背後にあった骨太の思想に、歳月の流れの中で再会した。そして今、私たち一人ひとりが、「典型的な地球人」としてそれぞれの個性ある生を過ごす。そんな未来を夢見ている。
p231

 この部分が、この本の結句である。素晴らしい。当ブログ「地球人スピリット・ジャーナル」も、この言葉をモットーとしようではないか。誰も偉人なんかじゃない。あるいは、みんな誰もが偉人だ。同じ地球人としてみんなイコールなのだ。それぞれに典型的な地球人なのだ。

私たち一人ひとりが、「典型的な地球人」としてそれぞれの個性ある生を過ごす。そんな未来を夢見ている。 茂木健一郎

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フューチャリスト宣言 <2>

<1>よりつづく
フューチャリスト宣言
「フューチャリスト宣言」
梅田望夫 /茂木健一郎 2007/05 筑摩書房 新書 213p
★★★★★ ★★★★★ ★★★★☆

 前回この本を読んだ時は立ち読みだった。それに当時はレイ・カーツワイルの「ポスト・ヒューマン誕生」「スピリチュアル・マシーン」「加速するテクノロジー」などを読んでいて、どちらかというとシンギュラリティという概念や、シンギュラリアリアンなどという言葉に魅力を感じていたので、この二人の対談はむしろ牛車の歩みとさえ感じられていた。

 しかし、どうもシンギュラリティという概念は、それほど大きく展開せずに尻つぼみになってしまっていた。先端的(かどうかはさだかではないが)である分だけ、追随する書籍が少ない。かろうじて「デジタル・ネイティブ」でその片鱗を見つけることができたが、まだまだ一般的ではなさそうだ。

 そんなこんなで、ゆっくりこちらの本を読み返してみようと思っているうちに、2008年はチベット・ブームとなってしまい、どんどん後回しになってしまっていた。今回、ようやくそのチャンスがめぐってきたわけだが、この2年間のギャップは、無駄な足踏みだったとも思えるし、必要なインターバルであったとも思える。

 今回、この本については、梅田望夫サイドよりも、茂木健一郎サイドからのアプローチとなる。梅田の「ウェブ進化論」は、当ブログの出発点になった本ではあるが、その先進性に敬意を表しながらも、どうしても埋めきれないギャップというものを感じ続けてきた。いわくシリコン・バレーありきだし、いわく大企業コンサルタントであるし、他人を載せる時のスタイルに、やや異質なものをとことん見せつけられたイメージが残ってしまっている。

 一方、茂木の方は、もともとあまり関心を持っていなかったのだが、彼の唯一という小説「プロセス・アイ」に目を通してみて、かなりのシンパシーを感じたのであった。世代的に茂木のほうが上であるのかと思ってみたが、1960年生まれの梅田に対して、1962年生まれの茂木。茂木のほうがわずかに年下なのには、ちょっと驚いた。

 昔、山口百恵を評して「時代と寝た」というような形容詞が使われたことがあったが、茂木に対して、私はこの「時代と寝た」という同じ形容詞を冠したいと思った。つまり、梅田のほうは、ある意味で偏狭であり、鋭敏なスペシャリスト的なピリピリしたものを感じるのだが、茂木のほうは、むしろもっと寛容なイメージがある。このキャパシティの広さは、特段に彼のもっている個性というよりは、つねに時代にアンテナを広げて、なんでもかんでも受容しようとしてきた証しなのではないか、と感じることとなった。

 われわれ研究者は、古典的なAIというのはもう終わっていると思っていたのですが、それは間違いだった。実際グーグルが使っているのは、グッド・オールドファッションのAI(good old fashoned A.I.)で、それでも役に立つサーチエンジンができた。
 過去20年くらい、脳科学者たちは「身体性が重要だ」ということを言い続けてきたのですが、どうやら風向きが変わった。グーグルが出てきた瞬間に、ロボットの見え方も変わった。
p080

 田中伸和「アトムの未来」で、当ブログもAI(人工知能)を考え、相対化されたところにある人間の脳とはなにかを考え、人間とは何か、ということを考えてみた。そして身体性が必要なのだ、と思ってきた。しかし、ここにきて茂木のこの発言である。なにやら風雲急を告げる展開が予想されるようになってきた。

茂木 おそらく意識とか認知過程の本質が、我々の代で解けるということはないと思うんですよ。僕は97年に「脳とクオリア」という本を出して、もう10年くらいこの問題を考えてきているんですが、考えれば考えるほど、意識の問題をいま最終的に解くということは不可能だと思えてくる。p114

 さあ、ここで言っている「意識」こそ、当ブログ<2.0>において、心あらたにして切り込んでいこうという分野である。とっぱしの初めにおいて、「最終的に解くのは不可能」と宣言されてしまうと、ちょっと拍子抜けするところもあるが、当ブログとしてはこの結論で構わないのである。いやむしろ、想定されるべき答えは、こうでなくてはならない、とさえ思えている。既知、未知、不可知。意識というものは、ついに不可知である、という結論は容易に想定できる。だが、旅を始める前に、他人のみやげもの饅頭を食べ始めてはいけない。当ブログは当ブログとしての旅をはじめることにする。

<3>につづく

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2009/04/07

きょうの杖言葉一日一言 百歳の人生の師からあなたへ

きょうの杖言葉一日一言
「きょうの杖言葉一日一言」 百歳の人生の師からあなたへ
松原泰道 2006/12 海竜社 単行本 222p
Vol.2 No.566 ★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★★★★

 松原泰道禅師。1907(明治40)年生まれ。100歳のレヴィ=ストロースの一年先輩になる。「人生を癒す百歳の禅語」も読ませていただいたが、私は少年から青年になる頃に、シリーズででていた師の本をむさぼり読んだ記憶がある。現在でもご健在であられることに心よりお喜び申し上げたい。

 さて、今回この本を手にとることになったのは、100歳100歳つながりではない。実はgoogleの「ブック検索」で見つけたのである。「ふまじめ領事」の本もそうだったが、このgoogleブック検索がなければ、このようなところに、Oshoが引用されているとは、一生気がつかないであろう。

 10月12日 心に黒衣(くろご)を置く
 「昔、ローマに一つのすばらしい慣習があった。戦争で大勝をおさめ、得々として凱旋する将軍のすぐ後ろに一人の従者がつきそって、絶えず将軍にこう注意を促したという。『将軍よ、この人びとにだまされてはなりません。人びとにだまされてはなりませんぞ。将軍よ、愚かな者たちにだまされてはなりません。さもないと、あなたの気が狂(ふ)れてしまいますぞ』」(バグワン『一休道歌』めるくまーる)
 バグワンはいいます。「今こそ、各国とも大統領や首相の後ろから、誰かが『成功にだまされるな、とりあってはなりませぬ』と、声をかけるべきだ」と。誰もが傲慢にならぬように”心に黒衣(くろご)”を置く必要を教えられます。
p176

 この部分は、たしかに「一休道歌」(上)スワミ・アナンド・モンジュ訳の30ページに訳出されている。ちょっとだけ、師の口調にあわせて語尾などが変えられてあるが、まさにOshoが言わんととしていることを、ズバリとおっしゃっておられる。どこかの「ふまじめ領事」のようなとんちんかんなとらえ方をされるはずもない。

 2月6日は「釣月耕雲(ちょうげつこううん)についても説明してある。名前に「耕」がついていたから、私の母方の祖父の法名にはこの4字がついている。

 「西来祖道我伝東 釣月耕雲慕古風 世俗紅塵飛不到 深山雪夜草庵中」(道元禅師『永平広録』)(西の方インドから伝わった、禅の祖達磨大師のこころを、私は日本に伝える。漁師が釣りをし、農夫が耕やすにも似て、私も修行に励み古風を慕う。ここには世間の煩わしさは少しもない。いま私は深山の雪の夜の小庵に坐っている)
 釣りといえば魚を、耕やすといえば田畑をとの目的格があります。その収穫を忘れ、ただ釣りのために釣り、耕やすために耕やすのを「釣月耕雲」と表現するのです。無心に只管に坐禅するのを「慕古風」と述べます。さとりを開くための坐禅ではなく、ただ坐るのです。釣竿一本に、鋤一本に徹し成り切るのです。
p26

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アクセスログ解析の教科書

アクセスログ解析の教科書
「アクセスログ解析の教科書」 儲かるサイトにするためのWebマーケティング入門
石井研二  2004/08 翔泳社 単行本 282p
Vol.2 No.565 ★★★★☆ ★★★★☆ ★☆☆☆☆

 ちょっと古めの本だが、目についたので借りてきた。ネット関連の書籍は足が速いので、すこし年月が立つと情報が古くなってすぐに役に立たなくなることが多い。この本もまた類書の最新刊があれば、そちらに勝ることはできないだろうが、しかし、他の人も借りた形跡があったから、必ずしもまったく役にたたなくなった一冊ではないだろう。

 いえいえ、アクセスログ解析などにほとんど興味がなければ、そのような存在をも知らなかった当ブログとしては、なかなか新鮮な思いで読み通した。もっとも、ブログというより、一般の企業のホームページつくりをターゲットに書かれているので、後半は、直接には関係がないようなページもあった。

 ブログも書けばいい、というものでもないだろう。書くだけは書くが、どう読まれているかは、ほとんど分からないというのが、当ブログ<1.0>の状態だった。それなりにログはあるのだが、十分ではなく、一定程度の加工によってなんとか意味あるものになったが、必ずしもユーザー向けの親切な情報とは言えなかった。

 当ブログ<2.0>においては、いくつかの工夫はしたが、スタートしたばかりであり、データベースとなるような量がまだない。追い追い、工夫を重ねていかなければならないだろう。

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レヴィ=ストロースの庭 <2>

<1>よりつづく
レヴィ=ストロースの庭
「レヴィ=ストロースの庭」 <2>
港千尋 2008/11 NTT出版 単行本 127p
★★☆☆☆ ★★★☆☆ ★★★★☆ 

 レヴィ=ストロース。1908年11月生まれ。100歳。なんという慶賀であることか。10年前に愛知万博準備雑誌の取材のおりに撮影された写真がもとになって、出版された。カラーやモノクロ(BWというらしい)の写真が美しい。

 レヴィ=ストロースというと、魅力満載なのであるが、どうも難解っぽくて近寄りがたいところがあったのだが、このコンパクトや写真+エッセイ集は、レヴィ=ストロースをとても身近なものに感じさせてくれる。ヘルマン・ヘッセの「庭仕事の楽しみ」を思い出した。

 当ブログ<1.0>では、「チェロキー」というカテゴリ名のもとで、ネイティブ・ピーポーや文化人類学にすこしでも踏み込んでみようと試みたが、途中で引き返してきた。心構えができていなかったことと、時間が少なかったこと、そして、他のカテゴリを優先して片づけてしまわなければならなかったことが原因だった。

 始まったばかりの<2.0>においては、なにはともあれ、時間はたっぷりある。コンシャスネスをもっと身近に引き寄せようというのであれば、今回、こちらのテーマはかなり重要度を増してくる。ただ難点としては、他のカテゴリとのインターフェイスが、まだ明確になっていないところがある。

 100歳のレヴィ=ストロースにネイティブ・アメリカンの話を聞くことがあったとしても、それで当ブログの掲げているテーマが終結するこことはない。当ブログが、今、目の前にしているのは、21世紀の「デジタル・ネイティブ」な人々なのだ。文化人類学というよりは、社会学といったほうがより近いだろうが、おなじ「科学」なのであれば、どこかでシームレスにつながりうる可能性があると予測する。

 この本、実に美しい。そして、自分の手の届く範囲に、この地球すべてが存在しているかのような安堵感がある。

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ブログ論壇の誕生<3>

<2>よりつづく
ブログ論壇の誕生
「ブログ論壇の誕生」 <3>
佐々木俊尚 2008/09 文藝春秋 新書 254p
★★★★☆ ★★★★☆ ★☆☆☆☆

 メディアは「コンテンツ」と「コンテナー」という二つの要素から成り立っている。コンテンツをメディアによって運ばれる内容、コンテナーを運ぶ媒体と言い換えてもいい。たとえばテレビで言えば、番組がコンテンツであり、電波やテレビ受像機、さらにはその電波を流す権利である放送免許などがひっくるめて今テナーである。新聞では記事がコンテンツであり、新聞紙や宅配制度がコンテナーとなる。p35

 当ブログにおいては、このコンテナ+コンテンツ論に、もうひとつ、コンシャスネスという要素を加えて、独自のブログ探究を始めている。この本に目を通すのはすでに3回目になっているが、初回、二回目ともに、ざっと目を通して速読、大ナタで切って捨てたつもりでいるのだが、なんだかやっぱり魅力的な一冊であり、目に留まれば、また読みたくなってしまうから不思議だ。

 なぜそうなのか、と問えば、内容に賛成反対するかどうかともかくとして、この手の類書が少ないからなのだろうと思う。そうして、すこしゆっくり目に目を通してみるのだが、やはり、何と言えない座り心地の悪さを感じて、途中で中断して、老眼鏡をはずしては、コーヒーを一杯飲んで、窓から外をながめ、空を見つめることになる。

 今回ようやく気がついたことと言えば、著者は2ちゃんねるが好きなのだ。あるいは、好き嫌いはともかくとして、ネット社会を考えるうえでは、2ちゃんねるは「絶対」にはずせない、と思っている節がある。この2百数十ページのなかに、なんど2ちゃんねるネタが登場するだろうか。この本から2ちゃんねるネタをはずしたら、この本自体が存在しなくなるかも知れない、そんな感じさえする。

 かくいう私は、一時期の積極参加の日々を除けば、日常的に2ちゃんねるにはいかない。よっぽど時事的に話題になっていれば覗きにいかないわけではないが、それも年に数えるくらいだろう。つまり、2ちゃんねる的要素に対する態度が著者と当ブログでは大きく違っている、ということなのである。

 そして、別にこの本に限らないのだが、最近はケータイネタが増えている。インターネットといえば、ケータイの世界だと思っている世代もあるらしい。この本もまた2ちゃんねると並んでケータイネタを大きく取り上げている。この2つが、この本と当ブログを大きく引き離している要因であるようだ。

 試みに朝刊の宅配を停止してから、なんと丸々2年が経過した。最初はかなり実験的だと思った行為だったが、いまとなっては、なんと宅配朝刊のない生活が快適なことかと、とても満足している。たまに販売店から再開の勧誘電話がはいるが、何の迷いもなく断りつづけている。

 もちろん、それはにテレビやインターネットが身近にある、ということが原則になっているのだが、何年後かには、テレビの世界も大きく様変わりするようだ。私は現在以上のシステムをテレビに期待していないのだが、もし現在のブラウン管テレビが使えなくなるのなら、いっそテレビもやめてしまおうかな、と思っている。いや、本気、まじめな話だ。少なくとも、一度は体験してみる価値があるだろう。

 もっというなら、本当はいつかはインターネットだってやめようかな、とさえ思っている。だって、いつかは、テレビもインターネットもない世界に入っていくのだ。それが、わずか何年か(何十年か)早まっただけではないか。新聞にも、テレビにも、インターネットにもない、もっと価値あるものが、人生にはある。そのような思いが日々強くなる。

 そのような思いから、コンテナ、コンテンツ論から、さらに発展させて、コンシャスネス論を展開しようとしている当ブログではあるが、足がかりがまったくないわけではない。いくつかの重要な方法論が見えてきている。それがこの<2.0>で大きく花咲くかどうかは、まだ分からないが、少なくとも、この<2.0>を超えた世界にたどりつくために、この<2.0>が、今スタートしたということになる。

 歴史的に振り返ってみれば、このブログの公共性の乏しさは、日本人の「日記好き」に原流があるのかもしれない。実のところ、すぐに「私」に陥ってしまい、いっこうに「公」に立ち上がっていかないというこの言論空間の傾斜のようなものは、近代化の波にさらされた明治のころから日本文化の難問だったのだ。p182

 著者のいうような日本人の特性は、一貫してそうであったのかどうかは疑問であるが、この特性をマイナス要素としてだけとらえることは、私は反対だ。「公」という時に、なにか「公」に実態があるかのような幻想は捨て去るべきがいずれくるのだ。もちろん「私」幻想も、いずれは終わりがくる。

 中央集権的な機関構造を持つマスメディアに対し、インターネットの世界を貫く原理原則はただひとつ、「エンド・トゥー・エンド」である。直訳すれば、「末端と末端を結ぶ」。つまりエンド(末端)にいる人間がインターネットをどう使うのかは、ネットを運営している側が関知することではなく、コントロールすることでもない。エンドに存在している人間であれば誰にでも利用でき、どのような使い方もできるというこの考え方はインターネットの理想の体現であり、ネットの空間を流れる通奏低音となっている。p188

 最近話題になっている「クラウド」コンピューティングに対し、当ブログが一定程度の関心をもちつつ、一定以上の距離を保とうという姿勢はこの辺にある。中央集権的なシステムがブラック・ボックス化してすべてお任せ、ということになってしまえば、日本の年金システムのような、とんでもない事態が次第に発生してくることは目に見えている。一定程度以上はお任せするものの、常にチェック機能を稼働させることを忘れてはいけない。

 ネットワークと言われるものの元型イメージは、人間の身体に例えるとこうなる。まず、ネットワークとなるべきポイントは、自ら2本の足で立つ必要がある。あるいは、しっかりと坐る。少なくとも自己認識を高めようとする方向性がまず必要だ。そしてその次に、2本の手で、他の人々と手をつなぐ。願わくば、2本の手であってほしい。受信し、発信したいからだ。あるいは発信し、受信したいからだ。双方向性が必要だ。

 しかし、ネットワークもゼロ地点に戻ることが必ずある。まず自分は死ぬのだ。自分という存在はいずれなくなる。もちろん、2本の足も、2本の手もなくなる。もちろん、科学脳も芸術脳もなくなる。いや別に、その問題に直接的に結びつけようとしなくても構わない。しかし、いずれはその問題は避けては通れないのだ、という配慮が必要だ。

 この本や著者が、とても興味深い意義ある動きをしていながら、当ブログにおいて常に評価が低いのは、その点についての配慮がないからだ。別にメイン・テーマにならなくて構わない。しかし、いずれは、人間という存在は、コンテナからもコンテンツからも離れていくのだ。そしてコンシャスネスというテーマを通っていかなくてはならないのだ。その重要な課題についてのインターフェースが、この本にはない。

 この点が常に不満なのであり、また、当ブログがこの本や著者ではない、他の何かに目が移ってしまう原因は、この点にあるのである。しかし、コンシャスネス・オンリーの本も、実につまらない本が限りなくある。当ブログは、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス、のトリニティがうまく回転しているような本や世界に関心を持っているようなのである。

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2009/04/06

芸術脳

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「芸術脳」
茂木健一郎 2007/08 新潮社 単行本 207p
Vol.2 No.564 ★★★☆☆ ★★★★★ ★★★★☆

 
脳科学者、という触れ込みが、私にはどうも相性がよくないらしい。いや、「脳」という物質になにごとかを集結させようとする試みが、好きになれないのかも知れない。だから脳科学者という触れ込みだと、「バカの壁」の養老孟司あたりを連想して、どうも私のイメージ力は委縮してしまうようだ。

 ところがこの本は、対談集であり、編集者のアイディアによるものだろうが、「芸術脳」というタイトルにちょっと惹かれるものがあった。ただ、ここで芸術--脳とつなげてしまっていいものだろうか、と正直思う。

 フリー・ペーパーの企画でおこなった連載対談の10人を取り上げて一冊になっているものだが、対談している人々の顔ぶれもなかなか素晴らしい面々だ。別段に脳みそのことが話題になっているわけではないが、「芸術」畑の対談者に対する、「脳」科学者という対置のしかたなのだろう。

茂木 2年に1回、アリゾナ州のトゥーソンで、意識についての国際会議があるんです。周りはサボテンばっかりの場所なんですけど、そこに行っても日本人の学者はあまりいない。きっと意識の問題とかに興味を持っていないんですね。それはなぜかというと、たぶん、60~70年代のカウンター・カルチャーを経由してないから。当時の意識の解放を試みたカルチャーを一度経験していると、世界の見え方は絶対に変わってくるし、その人の考えにも深みが出てくる。p64

 茂木という人についてあまり関心を持っていなかったのだが、次第次第に波長があってきたのには、このような茂木自身のバックグランドと、当ブログの指向性がすこしづつオーバラップし始めたからだろう。

いとう(せいこう) なぜ、いまの日本には希薄なんでしょうね。日本にもずっと瞑想という文化があったのに。p64

 いとうには、名前のありかたから関心をもっていたが、この人についてもあまり知ろうとはしてこなかった。しかし、この本の中で二人が対談していることには、かなり興味が湧いてきた。たぶん、このふたりとも私よりはずっと若いが、なにごとかの時代体験がオーバラップしているのだろう。

 松任谷由美との対談も面白い。

茂木 たとえば「いちご白書」にある「就職が決まって髪を切ってきた」なんていう歌詞は、もう、とんでもなく衝撃的で、このメロディにこんな感傷的な詞を書けるのはこの人しかいないだろうっていまも思っているんですけど。p85

 当ブログでは先日昔、革命的だったお父さんたちへ」を読んだところだった。「『いちご白書』でオシマイですか?」なんてあたりでは、泣いたり、笑ったりしてしまった。このあたりの感性なら、私も共感できる。

 ウィキペディアを見ると、茂木健一郎という人にも、いろいろ批判者がいるようだ。大槻義彦教授あたりからの批判がありそうだ、ということはなんとなく察しがつくが、その原因が江原啓之あたりとの交流にあるとするなら、大槻教授にも一理ありそうな気がしてくる。

 でも、瀬名秀明あたりからも批判がでてきているとすれば、もうちょっとつっこんでその訳を知りたくなる。「知能の謎」や田中伸和「未来のアトム」など、当ブログ<1.0>でもちょっとかじっただけで、中途半端になってしまったカテゴリがあった。こちらも折りを見て、復活させよう。

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エコ・テロリズム 過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ

エコ・テロリズム
「エコ・テロリズム」 過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ

浜野喬士 2009/03 洋泉社 新書 223p 
Vol.2 No.563 ☆☆☆☆☆ ★☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆  
 

 現状の法が正義を反映していないという意識のもとに、しかし他方では、抗議行動が、形式的には「不法」であるという意識ももちつつ活動する、という意味で、エコ・テロリズムは「ウォールデン・森の生活」(1854年)で知られるアメリカの作家ヘンリー・ディヴィッド・ソロー以来の「市民的不服従」の伝統に属していると言える。p106

 エコ・テロリズム。ここで言われているほど、そんなに結構なものだろうか。シー・シェパードの捕鯨船への体当たりの活動と、ソローの森の生活、では、あまりにかけ離れていると思う。たしかに、物ごとは線の引き方で、対称的になったり、同じカテゴリに属したりする。

 田中真紀子とヒラリー・クリントンでは、男性と女性、という線引きをすれば、たしかに同じ「女性」というカテゴリに属するだろう。マリリン・モンローも女性だ。しかし、それ以外にこの三者をつなごうとすれば、かなり苦労するに違いない。

 グリーンピースやシーシェパードと、ソローの「森の生活」をつなぐとすれば、アメリカの環境問題、という意味では共通項は見つかるかもしれない。だが、不服従とテロリズムでは、対極に属するのではないだろうか。

 これまで見てきたように、ラディカル環境運動が思想史的に見て、市民的不服従の伝統の一部を引き継いでいることは間違いない。  市民的不服従の思想の展開を追う上で、つねに参照されるのは、ヘンリー・ディヴィッド・ソロー、マハトマ・ガンジー、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの三人である。p174

 1977年生まれ32歳の新進の学者に、いきなりこんなことを言われても、当ブログはこの学者さんの独断的言節に、「不服従」的姿勢を行使したい。そもそも、クジラを食べる文化を私は拒否するつもりはない。「日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか」「グリーンピース・ストーリー」 など、ちょぴりだけ読んでみたが、どれも感心しない。エコ・テロリズムなど、比較の線引きさえ工夫すれば、北朝鮮のノドンやらテポドンやらと、同じカテゴリに入ってしまう。ひょっとすると、この若い学者さんによれば、北朝鮮のテポドンも、不服従の証しだ、なんてことになってしまうのではないだろうか。

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政治とケータイ  ソフトバンク社長室長日記

政治とケータイ
「政治とケータイ」  ソフトバンク社長室長日記
島 聡 2008/09 朝日新聞出版 新書 249p
Vol.2 No.562 ★★★☆☆ ★★★☆☆ ★☆☆☆☆ 

 この本のタイトル「政治とケータイ」と聞いただけでは、選挙活動にケータイがどのように活用されるかが書いてあるのかな、というニュアンスにもとれるが、サブタイトル「ソフトバンク社長室長日記」というところを読めば、ああ、なるほどと、すこしはイメージが近くなる。

 松下政経塾を経て、衆議院議員を三期務めたあと、落選を契機に、民間のソフトバンクの社長室に「拾われ」、その旺盛な活動力を縦横に展開している著者の自伝的PRというところだろうか。

 孫正義は、私たちの世代の稀有な経済人であり、近年ではソフトバンクとしてケータイ電話を展開し始めたことは誰でも知っている。彼にしかできないことであろうし、彼だからこそ、国内第三位のケータイ会社をさらに魅力的にしてくれるだろう、と多くの人々が期待している。

 この数日間は、北朝鮮のミサイル発射のニュースで日本列島も大いに揺れた。この時期、ある自治体の危機管理室の担当の人間とあっていた。彼はいつでも呼び出されてもよい体制になっていたが、使っているソフトバンクのケータイのつながりの悪さを嘆いていた。

 当ブログへのアクセスも、ソフトバンクがかかわるプロバイダからの接続がかなりの量を占める。ほぼトップだ。私は別会社を経由しているので、使い勝手はわからないが、一時期のかなりアグレッシブな販売方法は、あまり良いイメージはもっていなかった。しかし、この時代、有線にせよ、無線にせよ、ソフトバンク、そして孫正義を抜きには語れない。

 その会社に「拾われた」(何度も何度もこの表現を使ってしまって、失礼)著者もまた、民主党というスタンスから、かなり旺盛な表現力で、さまざまなことを語っているが、結局はやっぱり、よくも悪くも政治家だなぁ、とため息。

 適材適所、それぞれの器に沿って、それぞれにふさわしい場所に配置されてはいるのだろうが、最近は、オバマの的確な大ナタを見ることが多くなっており、部分的な小技の連続話を聞いていても、あまり感動することはなくなった。日本の民主党が政権を奪取したからと言って、さて、どのような世界観を展開してくれるのか、その点にも、あまり夢を持てない今日この頃だ。

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2009/04/05

「クラウド・ビジネス」入門


「『クラウド・ビジネス』入門」 世界を変える情報革命
林雅之  2009/03  創元社  単行本  198p
Vol.2 No.561 ★★★★★ ★★★★☆ ★☆☆☆☆

 さて、この本をどう読むか。著者は、IT関連の会社に勤める会社員で、群馬県に住みながら、片道2時間かけて都内に新幹線通勤をしているというブロガーである。「『ビジネス2.0』の視点」というブログらしいのだが、残念ながら私は読んだことはない。今後気になることがあれば読んでみたいと思う。

 ブログが一冊の本になるというのは慶賀に堪えないが、しかし、クラウド・コンピューティング、あるいはクラウド・ビジネス、と言われているものを、素朴に、素直に受け入れることは私にはできない。この言葉が日本で一般化したのは、本書にもでてくるように、NHKのテレビ番組だった。

 転機となったのは、2008年10月15日、NHK「クローズアップ現代」で放送された「新情報革命”クラウド”の衝撃」という番組だ。我々にとって「クラウドの衝撃」というよりも、この時期、ゴールデンタイムのNHKで「クラウド」が取り上げられたことの方がはるかに衝撃的だった。p001

 私もこの番組を見た。その時の印象はあまり良い物ではなかったし、その発想自体が、私は好ましいとは思わない。このクラウド的発想は別に今始まったわけでもないし、「ウェブ進化論」では、「あちら側」と表現されていたものが、すこしづつ話題の中心になってきたということにすぎないと思う。

 パソコンそのものや、ソフトにしたって、あるいは、インターネット自体の発展過程においても、最初はDIYのようなお手軽な身近な存在であるかのようなイメージがあるのだが、だんだんエスタブリッシュされることによって、私たち一般ユーザーからどんどん遠ざかっていくのは、いつもことだった。現在のネット社会が「クラウド」化していくのだとするなら、それはそれ、個人的には抵抗する気もないし、所詮そんなものだろう、と諦めの気分も湧いてくる。「私はもっと別なものを求めているんだ」などと、捨てゼリフをはいて、視点を他の方向へ転じていくだろう。ちょっといじけぎみではある。

 昨今の金融破たんで不安はあるものの、自宅でお金をたんすなどにしまい、盗難や火事や地震にあうリスクと比較した場合、金融機関に預けておくほうが安全に管理されると考える人が多いだろう。金融機関に自分の金融資産を預けることが一般化しているのと同様に、実績があり信頼性の高いクラウド・コンピューティングのサービスを提供している事業者に、自社の情報資産の一部を預けるということも、この先、選択肢として増えていくのではないかと考えられる。p021

 見る角度を変えれば私も金融業にも関わっていることになる。他人の金融資産に手をつけることはないが、個人情報にかかわる部分については、さまざまな形で漏洩する可能性があることも知っているし、場合によっては致命的な加工が施されることも充分知っている。資産の管理と、情報の管理は全く違う。この例え話には、私はまったく賛同できない。

 それに私はアマチュアリズムを愛している。過剰に粉飾されたエスタブリッシュメントを愛する立場を取っていない。時代がそのように動いていくのなら、それはそれ、別に抵抗するつもりはない。しかし、自分がやるよりプロに依頼したほうがよい、とする分野からは限りなく逃走していくことにする。しかし、この世には、他人には絶対に頼れないなにか、プロに頼んでもどうにもならないもの、そういうものがあるはずなのであり、それをこそ探していきたいと思う。

 たとえば健康は自分で管理したほうがよい、と思うかも知れない。なにもかもプロに管理されることはいやだ。たとえば、自らの精神を、プロに管理されるのも嫌だ。そして、死は、結局、自分の死は、自分で引き受けなくてはならない。

 クラウド・コンピューティングから、いきなり飛躍した話になってしまったが、つまり、当ブログは、このような態度をとっているわけだから、科学やインターネットの話題や、IT話では終結できないのは自明のことなのだ。いやむしろ、このような話から、どのようにしたら離れていけるのか、そういうことをもう少し明らかにしていく必要があるのだろう。

 オバマ新大統領が愛用していることでもよく知られているブラックベリーはすでに累計1000万台以上の販売実績があり、日本においても外資系企業を中心に採用されている。p145

 オバマ陣営は選挙戦でYoutubeとクラウド・コンピューティングを活用したとも言われるが、この辺は、いずれそれはそれとして、もっと知りたいと思っている。

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2009/04/03

徹底抗戦 堀江貴文

徹底抗戦
「徹底抗戦」

堀江貴文 2009/03

集英社 単行本 211P
Vol.2 No.560★☆☆☆☆ ★★★☆☆ ☆☆☆☆☆

 宮沢賢治が「雨ニモマケズ」に書いているように、「ケンカや訴訟があれば、やめろという」というのが、私の本音だ。できるだけ、裁判沙汰にならないほうがいいに決まっている。いまさらHモンがこのような本を書いたとしても、当ブログでは、なかなか素直に胸を開くことはできない。

 当ブログがスタートしたあたりで勃発したHモン騒動だったが、いまだに彼の名前もニックネームも自分のブログに書く気になれない。当面はやっぱりHモンで通そう。彼の存在を最初に知ったのは、リナックスでウィンドウズライクなデスクトップを持つOSであるリンドウズの日本語ヴァージョンの発売元としてだった。

 いざインストールしてみると、インストール自体が簡単で、見た目もなかなか良い。あとから追加するアプリケーションで儲けようという魂胆は見え見えだったが、そのビジネスモデルが有効になる前に、Hモンはリンドウズあらためリンスパイアーから離れてしまった。なにはともあれ、当ブログが直接に因縁を感じているのはその部分くらいであり、その後のゴタゴタについては、人一倍、目耳をひらいて直視してきたが、今となってはほとんどなにも感動するようなものは残っていない。

 この本のなかには、今だから語れるということもあるし、Hモン本人だからこそ言わなければならない、という部分もあるが、もう、敢えて言えば、過去の人というイメージが強く、読まなければならない本とはとても言えない。しかし、あれだけの事件だったのだから、ご本人の弁も聞いておかなければならない。だからとにかく一度は読んでみることにした。しかし、読んだからと言って、この本でようやくわかったというようなことはなにもなかった。残念ながら、やはり世に言われている程度の人間なのではないか、とちょっと不満が残った一冊だった。

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まじめ領事の泣き笑い事件帖

まじめ領事の泣き笑い事件帖
「まじめ領事の泣き笑い事件帖」 
西端国輝 2006/12 文芸社 単行本 241p
Vol.2 No.559 ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆

 当ブログをよく訪問してくれる人のブログを読んでいて、初めて、「Googleブック検索」というものがあることに気がついた。さっそく、いくつかのキーワードを入れて検索してみたが、これがまたなかなか優れモノであることがわかった。本のタイトルや著者からなら、いままでの検索でも十分だったのだが、書いてある内容で検索できるのだから、これは優れているというしかない。

 この本はその検索の過程でひっかかったものだが、通常ならこの手の本を読むこともなければ、気にすることもまったくないだろう。当ブログには無縁の本だ。しかし、書いてある内容は、ちょっと聞き捨てならないような内容が書いてあったので、さっそく図書館を物色。あるんだねぇ、このような本が。

 1938年生まれ、現在70歳を超えた外務省の領事官を務めた人の述懐録のようなものだが、1980年にインド・ボンベイに勤務したことにより、なぜかプーナのアシュラムから物語はスタートするのであった。

 新興宗教を盲信する日本旅行者
 世界中の信者が押し寄せたプネーの街
 変装してのアシュラム潜入
 日本人信者とその母親
 「鬼の領事」と記事に
 自殺した夫の遺骨持ち出し

などなど、あることないこと、16ページに渡って書いてくれている。本人が体験したり思ったりしたことは検証しようがないが、明らかな間違いは、キチンと指摘しておくべきだろう。

 ボンベイ・サミットに参加した国の領事たちの調査結果はインド政府に報告され、私がボンベイを去る一年前の1984年にインド政府はこの教祖を始めとして団体幹部を国外追放にしました。教祖バグワンは、超高級車などすべてを資産をアメリカコロラド州のデンバーに移して、相変わらずの贅沢三昧の生活を送っていたようですが、その生活ぶりをアメリカの有名週刊誌に写真入りで報道されたのを最後に、数年後にひっそりとオレゴン州で死亡したと聞いています。私が離任挨拶のためにプネー日印協会を訪問した際にアシュラムを訪問した時には、数人の若い外国人らしき信者たちが、閑散とした教団の施設を管理していました。そこには日本人信者の姿はありませんでした。p34

 なんともはや、16ページにわたるプーナレポートの結論がこれである。立川武蔵「インド・アメリカ思索行」に輪をかけた捏造文である。まちがいを指摘してあげる、というより、この文章のなかから真実を探すことのほうが難しい。

 インド政府はOshoを「国外追放」になどしたことがあっただろうか。インド人のOshoは国外追放になって、どこに行けばいいのだろうか。「ひっそりとオレゴン州で死亡した」という記事は、世界中の本をさがしても、この本以外に見つけることはできないだろう。「聞いています。」と濁しているが、いったいこの人はどこからそのニュースを聞いたのだろう。

 私は別にこの人が憎くて言っているわけではない。ただ、この人は1989年から、アメリカ・オレゴン州勤務になっているのである。一般人が週刊誌やテレビ報道でみていたとしても、もっと正確な情報をつかんでいるのに、政府の外務省勤務、ましてやプーナとオレゴンを体験している人が、ましてや法律の専門家が、このようなウソをまき散らしていいのだろうか。

 立川の場合は、いまから30年も前の本だから、ちょっと大目にみることはやぶさかではないが、こちらの本は2006年12月に出版された本だ。新刊本の部類に属する本なのである。検証すべき時間は山ほどあったに違いないし、他の一般人よりもはるかに生の情報に触れる可能性があったはずである。しかるに、この体たらくはなにごとだろうか。あえていえば、この人は、自らの立場を利用して、デマ情報を積極的に流している、とさえ断じられてもしかたない。

 今回この本は、Googleブック検索でひっかかったから取り上げたまでで、他の部分についていちいち指摘することはしない。しかし、十数ページを読んだだけでこのザマだから、この本に書いてあることのほとんどは信用に足らんと、当ブログは断定する。心ある人なら、この出版社と著者を訴えるであろう。当ブログの評価は、もちろんすべてにおいて零点である。「まじめ領事」が聞いてあきれる。「いいかげん領事」だ。

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プロセス・アイ<2>

<1>よりつづく

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「プロセス・アイ」 <2>
茂木健一郎 2006/01 徳間書店 単行本 316p
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 
当ブログにおいて、科学、芸術、意識の、三っつのスペクトルについて★がすべて5つつくというのはめずらしい。もっとも、このうえにレインボーカラーや、星6つなどという禁じ手を次々と編み出す当ブログにおいては、決して終着点、というわけではない。しかし、科学や芸術はともかくとして、意識に焦点を集めた本としては、稀有な本というべき一冊であろう。

 「フューチャリスト宣言」「意識は科学で解き明かせるか」などしか茂木本は読んでいないが、なんとも溜飲が下がった一冊だった。出たのが06年の1月、どの時点で書かれた本なのか分からないが、著者にとっての小説としては処女作ということだから、その後も展開があるかもしれない。すくなくとも、脳科学者の肩書が先行する著者だが、ここであえて小説という形を取る必要を感じたのだろう。

 「しかし、過去に様々な薬物を使用して、あるいは激しい修行の末、あるいは他の理由で、意識の変性状態に陥ってきた人たちは、沢山いたではないですか。彼らは、宗教を生み出したり、幻想的な芸術を生み出したりした。あるいは、20世紀の後半のように、ニューサイエンスや、スピリチュアルというようなジャンルを生みだしてきた。両方とも、科学的には何の果実も結びませんでしたが。この間、意識に変性状態になった人は沢山いた、しかし、彼らのうちの誰一人として、アインシュタインやゲーデルが厳密なロジックの積み重ねの末生み出したようなものを生み出すことはできなかった。私が言いたいのは、もう実験はたっぷりやった。意識の変性状態が、新しい知的価値を生み出す可能性は、過去の実験によって否定されているということです。」p187 

 登場人物のひとりによて語られるこのセリフは、ある意味においては「意識」にすり寄った好意的な結論ではあるが、科学的な見方の現実的な厳然とした事実でもある。しかし、物ごとをさらに深化させるには、意識を意識の立場から語る必要がある。この小説の試みは「プロセス・アイ」という仮空の理論を借りることによって、その語りかけをなそうとしているのだ。

 当ブログにおいては、そのジャーナルの対象を、一般的な公立図書館で、ごく当たり前に読まれている本を中心に、読書を続けている。一部のトンデモ本や難解な理論の本、あるいは高価な芸術品の模造品であったとしても、公立図書館の開架コーナーにある程度であれば、いとわず論評の対象としている。

 そのような態度にあって、2009年の時点として、図書館の利用者の目に触れる本は、おのずと限られてくる。そして、その視点や思考パターンや情報量というものも、おのずと共通認識のなかに収まっていくのである。

 そのようないわゆる一般的な常識的な知的冒険者の視野にはいってくるテーマを、この小説は、うまくトータルに網羅してみせている。オープンソースや金融工学、シャーマニズムなど、当ブログにおいて、ランダムに脈絡なく追っかけてきている分野のそれぞれが、この小説のなかでは、破綻せず共存することができている。

 そして、最終段における、Oshoも絶賛するミハイル・ナイーミの「ミルダッドの書」を彷彿とさせすような筆さばきに、著者のなみなみならぬ才能と、テーマの選定の秀抜さを見せつける。小説を積極的に読んできたとはとても言えない当ブログでは、この小説を、小説として正当に評価することは出来かねる。しかし、漠然とした思いで模索してきた当ブログが、やや顕在化しかけてきたテーマとするところを、著者は、小説としてズバリ書きだしている、と思える。

 研究者としての著者の業績についてはほとんど何も知らないし、また、今後の可能性についても知るところではない。しかし、少なくとも、この著者が、NHKテレビや週刊誌の類においても、頻繁にその素顔をさらし、なおかつ、積極的にその手法を取っているかのような点について、なるほどと、ちょっと腑に落ちた面がある。著者についてもうちょっと、追っかけてみよう。

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2009/04/01

オバマノミクス

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「オバマノミクス」 「持てる者への優遇の経済」から「持たざる者への思いやりの経済」へ
著者 ジョン・R. タルボット  2009/02  サンガ 単行本  361p
Vol.2 No.558 ★★★★☆ ★★★★★ ★★★★☆

 いくらバラク・オバマが大物でスーパースターであったとしても、この本に書かれているような、山積みされている政治的かつ現実的な問題を、エイヤーとばかり、ぜ~んぶ解決してくれるわけがない。オバマの名セリフは「YES WE CAN」である。決して、I CANではない。いくらカリスマを帯びた存在であろうと、彼ひとりでできることなど、皆無に等しい。

 現実的な、政治的な問題について、彼はどれだけ多くの人々とともに、問題そのものに立ち向かえるかにかかっている。つまり、どれだけ多くの人々を奮い立たせることができるのか、ということだ。今のところは、大統領にはなったが、さて、これからどうなるのか、未知数だ。

 アメリカ国内の「持たざる者」たちばかりではなく、イスラム圏の人々、あるいアジア、アフリカ、ロシア、北欧の人々までをも、奮い立たせることができるのか。中国や、北朝鮮のような、アメリカに敵対しかねないような地域の人々をも魅了することができるのか。

 なにもかにも、すべてを期待してはいけない。しかし、そのような可能性を秘めていることは確かなのだ。4年間といえば、長いようで、実に短い。この短期間の中で、オバマは形ある成果、それはまぎれもなくChange!なのだが、それを果たすことができるだろうか。

 当ブログも、決して高見の見物をするつもりはない。なにか積極的な関わりを持つことができるのか。すくなくとも、日本の国内の閉塞した政治状況よりも、なにか新しいことを期待できる可能性をオバマは確かに持っている。

 この本は、大統領選が終わったあとに日本語に翻訳されているが、その選挙戦からのレポートであり、オバマの目の前、つまり私たちの目の前に積み上げられている問題をかぎりなく列挙している。なんでもかんでもオバマノミクスで解決しようというのは無理だろう。

 パソコンにせよ、OSにせよ、あるいはアプリや、プロバイダ、メイラー、ブログササービスなど、いろいろChangeしてみることは楽しい。おのずと期待感は高まる。しかし、当初はなかなかその効果が現れず、うやむやになってしまって、元の環境に戻すなんてこともよくある。

 しかし、現実は後戻りできない。オバマがダメだったから、はい、次の大統領、というわけにはいかないのだ。2009年なら2009年の現実がある。ポスターの代表写真を変えるだけで、イメージチェンジを図ろうというどこかの国の政治戦略など、なんの意味もないことはすでに国民みんなが知っている

 オバマノミクスは、アプリではない。OSの入れ替えだ。いや、ステージそのものがひとつあがるかもしれない。うまくすれば、地球政府につらなる歩みを始めてくれるかもしれない。そして、下手をすれば、4年後には、私たちはニヤけたブラック・カーターの姿を見るかもしれない。

 安倍だって、福田だって、麻生だって、国民は、それなりに期待して歓迎したはずなのだ。しかし、その期待感は、そのたびごとに無残に踏みにじられてきた。小沢だって、あるいは他の面々だって、ほんとうに期待にこたえるほどの働きをしてくれるだろうか。

 いや、この地球において、いま、ひとりの人間ができることなど限られている。できるだけ多くの人間たちを奮い立たせることのできるリーダーこそ求められているのだ。オバマノミクスの行く末も、今しばらく静観することも必要だ。

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