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2009/04/12

クオリア降臨

クオリア降臨
「クオリア降臨」
茂木健一郎 2005/11 文藝春秋 単行本 300p
★★★★☆ ★★★★★ ★★★☆☆

 こちらは「文学界」(2004/04~2005/07)に連載されたエッセイを一つにまとめたもの。

 物質である脳の活動から、意識の中のクオリアがいかに生み出されるのか、そのプロセスの第一原理はまだわかっていない。脳の中の神経細胞の活動が、シナプスと呼ばれる結合部位において「衝突」する時、その相互関係からクオリアが生み出されることだけは確実である。個物と個物が出会う時、そこに新たな個物が生まれる。そのクオリアの誕生こそが、私たちの意識を形作り、世界を照らし出す。
 古来、文学をはじめとする様々な芸術表現において、人々は、他のどのような作品にもないクオリアを求めて苦闘してきた。クオリアが住まう仮想空間を旅することの繰り返しであった。
p26

 ここまでくればクオリアというものの語源はどうやらクオリティなどと同じ質感を表すものでありそうだな、と察しがついてくる。当ブログもある意味では、ブログという空間の中にさまざまな個別なコンテンツを並べて、自然にできていくシナプスのつながりを追っかけてみようという試みであるとも言える。

 相対性理論、量子力学、そして今、超ひも理論を経た科学にとって、この世で怖いものなどそんなにありはしない。精神分析や構造主義など、コアの科学が積み上げてきた世界観の完成度に比べれば未だ発展途上である。p39

 お言葉ですが、それはいわゆる発展途上にある科学サイドからの味方であって、意識界、あるいは神秘界から言えば、早く、科学よ、ここまでおいで、と言っているにちがいないのだ。科学という手法に比べたら、人類史における「意識」の歴史は比較しようがないくらいに長いはずなのだ。

 文学は、世界を引き受けることを志向しつつ、肉体の限定性から決して離れない。離れてしまっては、形而上学ではあり得ても、文学ではなくなる。肉体の限定性とは、すなわち、およそ個が体験し得る世界のうち、もっとも自らに近いもの、自らの魂にぴったりと寄り添った薄皮のようなものである。ある文学作品をとらえて、世界が狭いとする批判が、一見至極まっとうであるかのように聞こえて、どこか根本的なところで文学というものの本質に向き合い損なっていると感じる理由は、ここにあるのだろう。p47

 すでに失って存在していない自分の手足に痛覚を感じるという現象もあるが、たとえば、箸や杖あたりまで身体化していて、まるで自分の手足のように使いきるという例えもある。身体と意識は、切っても切れない関係にあるが、当ブログにおいては、その身体化は、自分の視力がとどくところ、聴覚が及ぶ範囲にひろげ、あえていうなら、その五感はどんどん伸びて、地球大に拡大していると仮定している。

 かつてのネイティブ・ピーポーが自分を○○族の一員としてのアイディンティを持っていたのと同様に、現代では、○○県人とか、○○国人、とかをはるかに通り越して、地球人、というアイディンティをもつように至っている、と考える。

 そもそも、クオリアに満ちた意識が生み出されるということ自体が、自然に顕れた一つの異常である。チンパンジーたちが、慢性的な統合失調症類似の状態になるのも無理はない。クオリアは意識にとっての福音であると同時に、のろいである。生老病死の苦しみが意識されることなくして、釈迦の思想が生み出されることもなかった。p86

 それこそ文学的反語に満ちた表現がなされているが、現状を見る限り、クオリアに満ちた意識が生み出されるということ自体が、自然に顕れた一つの「必然」なのである。可能性は限りなく少なかったかもしれないが、それが事実なのだ。それがなければ、人間も存在していないし、茂木健一郎もいないし、ブログもないし、地球人スピリット・ジャーナルなどというたわけた試みは存在しなかった。

 人間は他者とのコミュニケーションなしでは、恐らくは存在し得ない。「他人と心を触れ合わせることは素晴らしい」というしばしば唱えられるお題目には、そうしなければ生きていけない人間という弱々しい存在の自己正当化が含まれている。人間は、他者との関係性のうちに愛や共苦といった生きる上での根源的な価値を見いだす一方で、現実の、あるいは想定された他者の視線を巡ってぐるぐる回る、そんな心理の泥沼に陥ることもある。p118

 「文学界」というメディアを借りたフィールドでの活動であってみれば、リップサービスも必要だろうが、人間はやはり愛や関係性の中にだけ生きているわけではない。この文脈では、「死」がまったく顧みられていない。つまり、愛と対置されるべき瞑想という意識活動に触れていない。

 そもそも、言葉というものは、他者との「見る/見られる」関係性を前提としてしか成立しない。そうでなければ、後期ヴィットゲンシュタインが、あれほど私的言語の不可能性について思い煩うこともなかっただろう。p128

 ヴィットゲンシュタインが東洋に生まれていれば、禅者やヨガの修行者にでもなっていただろう。西洋哲学という範疇のなかで精いっぱいの哲学的鋭意を繰り返したとしても、それが最終地点とは言い難い。そして、彼の営為をもってして、最終地点がない、とも言えないのだ。

 ネットワークを通して流通している情報が増えれば増えるほど、人間は、横からの情報に支配されるようになる。情報というものは、伝達されてこそ価値があると思いこむようになる。
 一方、松岡(正剛)流に言えば「上から降ってくる情報」とは、伝達されてくるのではなく、あくまでも私秘的なものとしてこの世界にもたらされる何かである。テレビやインターネットはもちろん、紙のようなメディアさえなかった人類の歴史上の長い時間において、情報は、横からやってくるものではなく、自らの内側から生み出されるものではなかったか。
p154

 併存する二点があるからこそ、そこにはシナプスが存在し、情報とも名付けることができるが、内側の内側には、点さえなく、ゼロからゼロへの情報など、存在しようがないのである。

 インターネットやサイバーといったメタファーは、多くの点において、人間の魂にとってのリアリティの在処(ありか)を見誤っている。村上春樹が、観念世界のリアリティを描きながら、一貫して情報ネットワーク社会というメタファーから距離を置いていることは注目されて良い。
 ブログやウェブなどない遠い昔から、人間の魂にとってのリアリティの在処は変わらない。もっとも、そのリアリティを血肉化するプロセスは、時代とともに随分と変化している。
p161

 道具に価値観を置きすぎ、頼りすぎるからそのようなことになる。道具は道具として使いきれば、それで済む。もし道具を道具として使いきれないで、道具を恐れているような村上春樹であるならば、そんな文学など、当ブログには必要ない。人間の魂にとってのリアリティの在処、は変わらない。しかし、すでにこのように言語された時点で、その在処は姿を消す。

 現代の物質主義に抗し、人間精神の価値を高らかに謳うなどまだ甘い。ニーチェが反発した物質主義的人間機械論とはまた別な形で、現代人は自身の主観的体験の解体、機械仕掛け化と直面している。人間の意識の成り立ちが解剖され、解体され、部品化していく。その部品がインターネットを通して流通するのだとしたら、それこそが現代の危機ではないのか。p167

 人間の意識の成り立ちが増殖し、結合し、巨大化して地球大になっていくのなら、それはまたインターネットを通じた現代の可能性でもあり得る。

 職業として文学を書く人も、インターネット上のブログに日記を書く人も、それぞれの個別の生の切実さから言葉を吐いていることに変わりはない。一人称的な生の営みとしては、それで尽きている。言葉が生み出される切実さにおいて、多くに読者を持つ作家だけが特権的な地位を占めているわけでは決してない。p184

 インターネットは現在、なにかの表現や言葉を伝えるものとなっている。しかし、意識自体そのものは表現や言葉でない限り、意識の器としては、完全なものではない。もし、言葉を超えた沈黙を共有し得る手段が生み出されれば、インターネットや文学など、古びた過去の遺物となろう

 文脈主義が、インターネット上のハイパーリンクのように、固定化した、確定的なものとして現れる時に、文明は精神圧殺の最も醜い側面を見せる。むろん、文脈に串刺しされる現代人が、確実性から完全に自由になって生きられるはずもない。誰でも、お前はこの社会的文脈にいるこういう人間だと決めつけられて気分が良いはずがない。しかし、そのような文脈付けがごく普通の人にまできめ細かく行われていくのが、現代である。p217

 反語的ではあるが、であるからこそ人間や生命には「死」が与えられている。社会的文脈など「死」の前にあっては、なにものでもない。

 有限の人生を生きる人間にとって、永遠とは畢竟、死のことである。だからこそ、精神の中に立ち現れる様々な形而上学の香りに惹きつけられつつも、私たちは決して生活の現場を離れてはいけないのだ。 p271

 人間、この未知なるもの。そして、人間、この不可知なるもの、と言い直さなければならない。そして、また、人間、このごくありふれた陳腐なもの、というところに戻ってこざるを得ない。

 インターネットなどの情報ネットワークが世界の中に整備されるにつれて、文学以外の世界ののりしろは大きくなった。もっとも、文学というものの定義は時代とともに変わるものだから、「意識の流れ」のような新しい概念をどこかの誰かが思いつくことによって、現時点では文学が取りこぼしているものも、また扱うことができるようになるかもしれない。p289

 言葉あそびなどいくらでもできるが、この本を読んでの結句としては、この部分で締めておくのが、一番適当だろう。

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