詩学 アリストテレース
「詩学」
アリストテレース 松本 仁助 , 岡 道男 1997/01 岩波書店 文庫 356p
Vol.2 No.585★☆☆☆☆ ★★★★★ ★★★☆☆
驚くだろうが、私の4番目の選択は、アリストテレスの「詩学」だ。私は生まれながらのアリストテレスの敵だ。私はこの男を「アリストテレス症」と呼ぶ。一種の癒し難い病気だ。デヴァラジ、それには薬がない。アッシーシ、お前の偏頭通など軽いものだ。ありがたいことにお前は、アリストテレス症を病んではいない・・・・・あれこそはほんものの癌だ。
アリストテレスは西洋の哲学と論理学の父と考えられている・・・・確かにそうだ。だがそれは徹学と論理学のことだけで、本物の父ではない。本物はソクラテス、ピタゴラス、プロティノス、ディオゲネス、ディオニシウスから来る、アリストテレスからではない。だが不思議なことに、彼はある美しい本を書いた-----しかもそれは、アリストテレス学派の者たちによっては研究されてはいない----「詩学」だ。私はたくさんの本の中から探さなければならなかった。私はただ、この男の中にも何か美しいものを発見できるのかどうかを確かめていた。そしてこのほんの数ページの本「詩学」を発見したときには、私はぞくっとした・・・・この男にもハートがあった。他のものはすべて頭で書いてきたが、この本はハートからのものだった。もちろんそれは詩の、詩学のエッセンスについてのものだ。そして詩のエッセンス以外のものではありえない。それこそ香りだ。知性のではなく、直観の香りだ。私はこの本を推薦する。p236
「(私家版)Oshoのお薦め本ベスト10」の第9位。言葉尻をとらえてのベスト10つくりだが、こうでもして、一冊一冊、きっかけ作りをしていかないと、なかなか、168冊の本を読むきっかけは作れない。Oshoが「私はこの本を推薦する」と言っている限り、たしかに推薦していることには変わりないだろうが、ここまでくると、ちょっとおざなりで、ほんとかなぁ、とちょっと怪訝な気分。OshoはP・D・ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」(テルティウム・オルガヌム)を最大限評価している。
ここにあるのはすべての知を組立て直すための著作である。アリストテレスの「オルガノン(論理学)は主体が考えるための法則を定式化した。ベーコンの「ノヴム・オルガヌム(新しい思考規範)」は客体を知るための法則を定式化した。しかし「第三の思考規範」はこの二つの以前から存在しており、その法則を知らないことでそれへの違反が正当化されることはない。「ターシャム・オルガヌム」はこれから先の人間の思考を導き支配するだろう。「ターシャム・オルガヌム」pv序文より
前二作に対するきちんとした論理的積み上げではなかったとしても、ウスペンスキーのこの本を読むには、アリストテレスやベーコンについての、それなりの予備知識も必要となろう。Oshoは「私が愛した本」の中にベーコンを取り上げた形跡はないので、後日別途、個人的印象を深めておく必要があるだろう。
第三の論理学のできがいくら高くても、「論理学」であるかぎり、Oshoにとっては、なにかが決定的に足りない、ということになるのか。左脳的アリストテレスが、せいいっぱい右脳的ふるまった「詩学」が、Oshoからみたせいいっぱいの「論理学」へのアプローチ、というべきか。論理がその役割を放棄する地点、そのかなたに神秘があるというのか。ウスペンスキーが、最大限に評価されながら、結局Oshoのお眼鏡(?)にかなわなかったのは、ついにこの「論理」に対するこだわりであっただろうか。
不合理なことは、一般に言われていることがらに関連させて説明しなければならない。それとならんでまた、不合理なこともときには不合理でないことがある、と答えることもできる。なぜなら、起こりそうもないのに起こるということも、起こりそうなことであるから。
詩のなかで語られる矛盾したことは、議論における論駁と同じ仕方で考察しなければならない。すなわち、同じことが語られているか、同じ関連で語られているか、同じ意味において語られているか、を検討する必要がある。こうして、矛盾したことは、作者自身が語っていること、あるいは思慮分別のある人ならば想定するようなこととの関連において解決しなければならない。 p104
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