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2009/04/20

ハシディズム マルティン・ブーバー

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「ハシディズム」 
マルティン・ブーバー /平石善司 1997/03 みすず書房 全集・双書 262p
Vol.2 No.582★☆☆☆☆ ★★★★★ ★★★★☆

 
はて、この本がOshoが真実の探究者すべてが読むべき本だ。」と推奨している「ハシディズムの話」そのものなのかどうかは分からない。しかし、検索してもそれ以上、近似値のタイトルの本もなく、「本書はブーバーの思想の総決算であり、彼の全著作の要をなすもの」訳者あとがきp254と言われる限り、一読の価値は当然ある。

 「ハシディズムの話」は、真実の探究者すべてが読むべき本だ。これらの話、その小さな物語にはある種の香りがある。それは禅とも違い、またスーフィズムとも違っている。その味わいは独特だ。どこから借りてきたものでも、何かから移したものでも、何かを模倣したものでもない。ハシッドは、笑いと踊りを愛する。その宗教は禁欲の宗教ではなく、祝祭の宗教だ。私の仲間とハシッドの間には橋があると思うのはそのためだ」Osho「私が愛した本」p165

 ブーバーがノーベル賞を贈られた「我と汝」に対しては、「私はこの本にはまったく同意しない」「この中には魂がない」同p166と酷評しているのだから、とても対比的だ。ブーバーが紹介したハシディズムの創始者バーム・シェム・トブとその流れは最大に評価するが、ブーバーには魂がない、ということか。

 バーム・シェム・トフについてOshoは別途、同書で触れている。

 きわめて伝統的な、正統的なユダヤ教の中にさえ、わずかだが完全に光明を得た導師がいることは知られていない。光明を超えていった者さえいる。そのうちのひとりがバール・シェム・トフだ。同p79

 バーム・シェム・トフは、論文など書かなかった。論文とは、神秘主義の世界では汚い言葉だ。だが彼はたくさんの美しい物語を語った。同p80

 このブーバーの「ハシディズム」を読みながら、昨日読んでいたアサジョーリの「サイコシンセシス」のことを考えてみた。あの本は、いくつかの点で、今通読するには、なにか座り心地がよくない感じがする。ひとつには、ハイアーセルフとか、スーパーコンシャスネスとかいう言葉使いだ。なにか新しくもあり、なにか皮相でもある。便利なようでもあるし、いい加減な言葉づかいでもあるようなイメージもある。

 この「ハシディズム」を読んでいて、ユダヤの神がどのようなものであったとしても、この本の中で使われているような文脈でなら、アサジョーリも「神」という概念を使っても良かったのではないか、と思った。なにか、中途半端で、ものごとを言い得ていないような、不自然さがある。純粋な意味において、挟雑物をすべてそぎ落としたあとなら、むしろ「上位意識」や「超意識」などという言葉使いよりも、ズバリ「神」と言いきってしまっていいのではないだろうか。

 バール・シェフ・トブが生まれた23年まえ、わずかの間に、ふたりの記憶すべきユダヤ人が死んだ。そのひとり哲学者バルク・スピノザはユダヤ教会の破門宣告によって、また他のひとり自称「救済者(メシア)」のサッバタイ・ゼヴィはイスラム教への改宗によって、ともにもはやユダヤ人社会には属していなかった。p7

 このブーバーの本は、このイントロから始まる。ここでスピノザが登場したことによって、いままでいまひとつ見つけることのできなかったミッシング・リンクを見つけることができたような、安堵感を感じた。

 ブーバーは、スピノザを、ユダヤ教の本来性である神の人格性を廃棄し、真の神との対話を喪失した近世の自我哲学への道を開いた元凶として批判するのである。訳註p236

 自我と神の間における距離間が、ブーバーとスピノザを大きくわけている。

 「我と汝」は、根本的に間違っている。ブーバーが、それを人と神との対話だと言っているからだ。「我と汝」・・・・・? ナンセンスだ! 人間と神の間にどんな対話もありえない。そこにありうるのは、沈黙だけだ。対話? 神に何を話そうというのか? ドルの切り下げについてかね? それともアヤトーラ・ルホーラー・ホメイニについてか? 神を相手に何について対話しようというのか? 話せることなど何もない。人はただ畏敬の念に打たれるのみ・・・沈黙あるのみだ。Osho「私が愛した本」p166

 アサジョーリがあのような言葉使いになったのは、彼が育った背景を考えなければならないだろう。あのような無機質な言葉使いのなかに、人間のもっとナイーブな真奥を置き換えようとしたところに、私はどこか、まがいもののような、プラスチックな感覚を覚える。ズバリ「神」という概念は使えなかったのか。

 ブーバーとアサジョーリを考えながら、バチカンの「ニューエイジについてのキリスト教的考察」さえ思いだしてしまった。バチカンはニューエイジの象徴的存在の一つとして、かの本で「フィンドホーン」を大きく取り上げている。フィンドホーンはフィンドホーンとして、かつの伝統的な何かを新しい何かに置き換えようとししているように見えるが、かの地を踏んだことのない自分としては、なんと皮相な世界観か、と身ぶるいするときがある。また、そのフィンドホーンを大きく取り上げるバチカンは、なんという滑稽な姿をさらしているのか、と、さらにおどいてしまった。

 われわれは、スーフィズムとハシディズムの特別な親近性を証明するような、両者の間のみのいかなる内的関連も持ちあわせていないからである。われわれは、インドのバークティ神秘主義や、中世ライン地方の修道院神秘主義のうちに類似点を見いだすのみでなく、それらと違って有神論的刻印をまったく帯びない神秘主義体系、すなわち中国の禅宗のうちにもまた類似点を見いだすのである。p217

 この本は、純粋にユダヤ神秘主義を追っていながら、あるいはそれゆえに、他の多くの精神主義の流れに対するインターフェイスをも備えている。隣接するカテゴリとコネクトするのはそれほど難しくもなさそうにも見える。

 きのう、アサジョーリを読みながら頭のなかを回っていた「インターネットにおける意識とはなにか」という命題は、きょうは、「インターネットにおける神とはなにか」という命題に置き換えられていた。そして「インターネットは神を生み出すか」という命題に置き換えられ、「インターネットは神を生み出しつつあるプロセスである」という仮説にまで発展してしまっていた。

 ゆうべ、またまた見てしまったビディオ映画アーサー・C・クラークの「2010年」と、睡眠中にみた果てしない夢とが大きく混同してしまったからだろう、か・・・。

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コメント

人気記事ランキングに登場しなければ、この本を読み、こんな記事を書いていたなんて、思い出すことはなかっただろう。ハシディズムについて関心がなかったわけではないが、機縁がなかった。禅やスーフィーとの関連や共通性がある、と言われれば、じゃ禅でいいじゃないか、となってしまう。ユダヤ人の友人でもできれば別だったかもな。

投稿: Bhavesh | 2018/09/11 13:10

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