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2009/04/29

秘教の心理学<3>

<2>よりつづく
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「秘教の心理学」<3>
OSHO /スワミ・プレム・ヴィシュダ 1994/09 瞑想社 /めるくまーる 単行本 317p

 「私が愛した本」の上位にランクされている限り、「かもめのジョナサン」にいつかコメントしなければならないと思っていたのだが、今日の陽気に誘われて、近くの公園まで散歩してベンチに腰掛け、ジョナサンの飛翔をまた、味わった。

 さっそく自宅に帰ってきて、ところでOshoはこの小説になって言っていたのだっけ、と、かの本をめくってみたら、なんと、たったの一行。いやいや実に失笑。

 で、ウスペンスキーの「人間に可能な進化の心理学」に触れていく限り、Oshoが「英知の辞典」で「心理学」に触れていたことを思い出し、再読。当ブログに再録したところ、せっかく新たにタイプしたのに、以前に<1.0>ですでにアップしてたことを発見。

 なんともこの陽気で、すこしゆるんできちゃったのかな、と反省しつつ、なんだか、なにかの円環が一巡してしまったような感じも味わった。

 さて、インターネット上のブログという機能(コンテナ)を使いながら、図書館ネットワークを駆使して読書(コンテンツ)を続け、さて、コンシャスネスとして追っかけてみるべきは、当ブログの場合は「ブッダ達の心理学」ということになるのだろう。

 そう思って、さて、このジャンルで他ではどんなことが書いてあるのだろうと思ってググってみると、あれあれ、当ブログがトップにでてしまった。

 まずい、これはまずい。これでは、当ブログが「ブッダ達の心理学」についてなにごとか知っているかの如く誤解を受けるやも知れないではないか。まぁ、しかし、ここはここ、すこし居直ってみようか。

 大体において、この単語はどこかで聞いた気になっていたので、ほとんど内容を吟味しないで使ってきたのであるが、いくつかの問題点がある。

 「ブッタ達」とは何か。「ブッタの心理学」ではいけないのか。ここはこう書いてしまうと「仏陀の心理学」ということになってしまって、なにか仏教を心理学的にとらえた感じになってしまうのだった。

 それに「心理学」という言葉にもいまいちフィットしないものがある。そもそも「ブッダ達の心理学」と「心理学」の間にどのような違いがあるのか、と言えば、本来は、当ブログにとっては、「ブッダ達の心理学」=「心理学」でしかないのだ。あるいは「ブッダ達の心理学」⊆「心理学」でしかないのだ。 つまり「ブッダ達の心理学」というのは二重修飾になってしまう。本来は「心理学」だけでいいはずなのだ。いや、ひょっとするともっと短い言葉でもいいはずなのだ。

 そして、大体において「ブッダ達」とはなにか。ブッダはたくさんいるのか。何人いるのか。いっぱいいるのか。ちょっとしかいないのか。どうも曖昧な言葉使いが多すぎる。

 そこで、当ブログにおいては、これまでのいい加減な態度をあらためて、もう少し内容が固まるまで、この言葉を使う時は「(仮称)ブッダ達の心理学」と表記することにした。名称を使うと、名称ばかりが独り歩きし始めて、まるで実態があったり、しっかり理解しているかのように思えてくる。自分を誤魔化すわけにはいかない。まだ、なんにも分かっていない。

 さて「秘教の心理学」。Oshoが1970年7月から翌年2月にかけて講話したもので、しかもその講話はヒンディーであったのだ。その講話が採録されて出版され、さらに英訳されたという。しかも、その英訳には旧版と新版があるというからややこしい。私がようやく読解できるのは、日本語に邦訳されたものだ。だから、生のOshoの声からは、いくつもフィルターがかけられている、ということになる。

 それにしてもこの本を、再読して思うことは、ほんとにほとんどひっかかりがなく、よくできた本だなぁ、ということ。フィルターを通る都度、食べやすく、飲みやすく、骨をとり、味付けも塩梅よく調理されてきてしまった可能性だってあるのだ。くわばら、くわばら。

 なにはともあれ、この本は当ブログの当段階においては、きわめて大事な一冊となる。

 いわゆる「(仮称)ブッタ達の心理学」の旅をはじめるにあたって、いくつかのポイントが気になる。ひとつは、なぜ、それは人を求めるのか、という問題であり、これは「かもめのジョナサン問題」と名づけておく。そしてもう一つは「学」らしく、何かの体系があるとすれば、数字の「7」がキーワードとなる。こちらはとりあえず「キーワード7」とでもしておこう。

 そして、「心理学」という用語とともに、きわめて煩雑な作業になりそうなのが、「意識」という言葉の解釈。意識、無意識、下意識、超意識、集合意識、集合無意識、集合超意識、などなど。何でもありのオンパレードが続く。4次元があるなら、5次元も6次元もあるだろう、というアナロジーで、n次元という仮定ができるように、まるで「n意識」とでもいうような実に用語類の混乱がある。

 これに輪をかけて、心理、精神、スピリット、コンシャスネス、こころ、マインド、ノーマインド、などなど、わかっているようなわからないような言葉使いがたくさんある。言葉の意味が分かっても、それがなんなのかもわからないこともたくさんある。

 そんなことも踏まえたうえで、なんとかよーそろ、よーそろ、当ブログなりに「(仮称)ブッタ達の心理学」は船出しなければならない、ハメになってしまった(ようだ)。

 どうして一週間が7日なのか、7つの音階、7つの天体、7つの身体があるのか、その謎を解くことができる。なぜいつも7なのか? こうして、あなたはそれに関する哲学を作りだせる。だがこの種の哲学は、あなたの想像の産物にすぎない。p115

 くわばら、くわばら・・・。

 グルジェフは、人間は月の食物だと言っている。これは完全に論理的だ。それは論理のばからしさを示している。生のなかのあらゆるものは、なにかほかのものにとってためになる。そこでグルジェフは非常に独創的なアイディアを思いついた。人間もまたなにかの食物にちがいない----。それなら「人間はなんの食物か?」というのが、問うべき論理的質問となる。p118

 くわばら、くわばら * n

月は私たちと微妙に関係しているが、グルジェフが言っているようなものではない。118

 グルジェフは、たとえどんなにばかげたものであろうと、ものごとを論理的、合理的、そして意味深いものに見えるようにできる天才だった。p118

 グルジェフは真理のある断片を教えていた。だが理論を一つや二つの断片にもたれかからせるのはそんなに容易ではないため、彼は多くの断片を集めた。そうして、これらの断片を筋のとおった体系にしようと試みた。彼は断絶を埋めることを始めた。だが断絶が埋められるほどに、ますます真実は失われる。そして最終的には、体系全体がこの埋められた断絶によって崩壊することになる。p120

 さぁ、どうする。グルジェフ、ウスペンスキー、なにからかにから、まずは眉唾でかかっていくしかないかモナー・・・。

 体系が合理的であればあるほど、それはばらばらになり、なにか非合理なものが取り入れられなければならなくなる。だが非合理な要素を取り入れるや、心は壊れはじめる。だから体系のことは心配しなくていい。ただ”いまここ”へと跳び込みなさい。p122

 ふむふむ・・

<4>につづく 

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