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2009/04/08

今、ここからすべての場所へ

今、ここからすべての場所へ
「今、ここからすべての場所へ」
茂木健一郎 2009/02 筑摩書房 単行本 251p
Vol.2 No.568 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★★

 手元に一冊の雑誌がある。「風の旅人」13号。大判の隔月刊グラビア雑誌だが、写真といい、文章といい、実に洒落ている。2005年当時のものだが、この本は、ネイティブ・アメリカンを訪ねる旅を出版した友人から譲ってもらったものだ。彼女は私が某SNSに誘ったのだが、彼女なりにSNS上でネットワークを広げ、この「風の旅人」の編集者と友達になったのだという。そして、サンプルとして多めに送られてきたバックナンバーの中から、この号を一冊、私が選んだのであった。

 この「風の旅人」13号には連載エッセイ「都市という衝動」があり、「地上に現れた新しい太陽を見上げて」という文を茂木健一郎が書いている。今回あらためてこのグラビア雑誌を広げて、不思議な縁を感じ、ふと佇んだ。

 この「風の旅人」に連載されたエッセイ30本が、一冊にまとめられたのが、この「今、ここからすべての場所へ」という最新刊である。2003/06~2008/04の間に掲載されたものがまとめられたものであるので、必ずしも著者の最新の心境ということにはならないが、全体を貫く姿勢は一体化しており、あらためて親近感を感じた。

 意識をもった人間は、どうしても物質と同じような実体として「私」という存在を考えてしまう。だからこそ「死」を、そのような実体としての「私」が消えてしまうことだと思いこみがちだ。しかし、実際にはなくなってしまうのは実体ではなく、関係性だけである。関係性は、もともと相対的なものだから、絶対的に消滅してすまうわけではない。「私」という人間が後生大事にかかえている自我は、関係性によってつくられ、その変化のダイナミズムを通して解体されていく仮借の姿である。p168

 前後して刊行された「偉人たちの脳は、おもに歴史上の人物に焦点を集めたエッセイ集であるのに対し、こちらは、地域や旅を話題にしている。おなじ著者による同じ方向へ向けてのエッセイであるので、おのずとテーマの底流は同じものである。だが、かたや「サンデー毎日」というポピュラーな週刊誌に連載された文章に対し、こちらの「今、ここから~」は、ちょっとマイナーではあるが熱狂的なファンに支えられているような隔月刊グラビア誌の連載である。ずっと落ち着いた、哲学的思索とも言うべきものになっている。

 世界の各地に出かけるにつれ、「国際的に通用する言語」などというものは少数で、歴史的偶然が生み出した産物に過ぎず、地球という場所は元来お互いに通じることのないたくさんの言語に覆われていたのだ、という当たり前の事実に今更ながら気づかされていった。p120

 
インターネットが登場し、地球は均質化の方向へ向かい始めている。しかし、それはまだまだ10数年の営みでしかない。本質的に物事が動き出すのはこれからだろう。当ブログにおいても、すこしづつ日本語圏を離れて、地球大の地図を片手に記事を書き始めてはいるのだが、本質的に地球的になるのは、ほぼ不可能に近い。

 何よりも、何の言葉を解さない新生児としてこの世界に生まれた時の、あの可能性に満ちた空白を、決して自分の精神の中から失わないように生きたい。
 そのようにして初めて、私は「地球市民」をことさら名乗らなくても、特定のイデオロギーに寄りかからなくても、このやっかいだが豊かな生を全うできるのだと今は感じている。
p123

 言葉や文化、イデオロギーが私たちを決定づけるものではない。私たちは、地球人としてこの地球上に生まれ落ちたのだ。この精神、この意識をどこまでも持っていたい、とするのが当ブログの姿勢でもあり、タイトルにしている地球人スピリットである、と自負する。

 これらのすべてのものが、とにかく一切合切、地球というこの巨大な塊の上に同時並列的に存在している。それだけの多様性を許容するだけの大きさを、私が今まさにその皮の上を移動している地球という場所は持っている。p136

 この地球上に一人の人間として生まれた「私」。かけがいのない存在である。

 万物は流転する。何事も、「今、ここ」に安定してとどまらない。それでも、この世に生を受けた以上、自分の限りある滞在時間のうちには、何かしっかりしたものを摑んでおきたい。そうでなければ、「今、ここ」でさえ、自分のものとすることができない。足元が揺らいで、一歩も歩くことができない。p152

 曇りのない目でものごとのありさまを見れば、生命と非生命の間には絶対的な差異はない。ただ、自然法則に従って黙々と変化していく物質の群があるだけである。宇宙そのものの創造者としての神はあるかもしれないが、その後神は介入しない。スピノザは、宇宙そのものが神だと看破した。時空という神の「精神=身体」の中で、万物は動き回り、移り変わる。時間こそは絶対的な支配者であって、だからこそ、「神」という至高の存在の属性として相応しい。そのことを思う時、私たちは決して孤立していない。p165

 ここでスピノザがでてきた。でてこざるを得ない。

 「私」という意識の絶対性から離れた時に見えてくるものは、あるものの死が次の世代の生のために様々なものを残していくということを意味する豊穣の図式である。宇宙という物質の生態系の多様性は、間違いなくその構成員の生と死のサイクルによって支えられている。p171

 「私」という自我から解放されなければ宇宙の真理など見えてこないと理屈ではわかっていても、自己意識から完全に解放されることなど決してあり得ない。p172

 近来の「脳ブーム」の中で、ともすれば単純に図式化した「ノウハウ」を振りまき、人間本来の複雑で豊かなありかたを忘れさせる機能を果たしてきた脳科学も、人間の幸福を成り立たせている多様で流動的な諸条件を明らかにすることができれば、知性の本懐に資することができるのではないか。私は、そこに賭けようと思う。
 世界は私たちが考えている以上に複雑で、だからこそ豊かなのである。
p228

 当ブログは、まだ著者の代表作なり主著となるものにたどりついてはいない。しかし、ここまでの途中経過を思うかぎり、とても好ましいものに感じている。

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