ブログ論壇の誕生<3>
<2>よりつづく
「ブログ論壇の誕生」 <3>
佐々木俊尚 2008/09 文藝春秋 新書 254p
★★★★☆ ★★★★☆ ★☆☆☆☆
メディアは「コンテンツ」と「コンテナー」という二つの要素から成り立っている。コンテンツをメディアによって運ばれる内容、コンテナーを運ぶ媒体と言い換えてもいい。たとえばテレビで言えば、番組がコンテンツであり、電波やテレビ受像機、さらにはその電波を流す権利である放送免許などがひっくるめて今テナーである。新聞では記事がコンテンツであり、新聞紙や宅配制度がコンテナーとなる。p35
当ブログにおいては、このコンテナ+コンテンツ論に、もうひとつ、コンシャスネスという要素を加えて、独自のブログ探究を始めている。この本に目を通すのはすでに3回目になっているが、初回、二回目ともに、ざっと目を通して速読、大ナタで切って捨てたつもりでいるのだが、なんだかやっぱり魅力的な一冊であり、目に留まれば、また読みたくなってしまうから不思議だ。
なぜそうなのか、と問えば、内容に賛成反対するかどうかともかくとして、この手の類書が少ないからなのだろうと思う。そうして、すこしゆっくり目に目を通してみるのだが、やはり、何と言えない座り心地の悪さを感じて、途中で中断して、老眼鏡をはずしては、コーヒーを一杯飲んで、窓から外をながめ、空を見つめることになる。
今回ようやく気がついたことと言えば、著者は2ちゃんねるが好きなのだ。あるいは、好き嫌いはともかくとして、ネット社会を考えるうえでは、2ちゃんねるは「絶対」にはずせない、と思っている節がある。この2百数十ページのなかに、なんど2ちゃんねるネタが登場するだろうか。この本から2ちゃんねるネタをはずしたら、この本自体が存在しなくなるかも知れない、そんな感じさえする。
かくいう私は、一時期の積極参加の日々を除けば、日常的に2ちゃんねるにはいかない。よっぽど時事的に話題になっていれば覗きにいかないわけではないが、それも年に数えるくらいだろう。つまり、2ちゃんねる的要素に対する態度が著者と当ブログでは大きく違っている、ということなのである。
そして、別にこの本に限らないのだが、最近はケータイネタが増えている。インターネットといえば、ケータイの世界だと思っている世代もあるらしい。この本もまた2ちゃんねると並んでケータイネタを大きく取り上げている。この2つが、この本と当ブログを大きく引き離している要因であるようだ。
試みに朝刊の宅配を停止してから、なんと丸々2年が経過した。最初はかなり実験的だと思った行為だったが、いまとなっては、なんと宅配朝刊のない生活が快適なことかと、とても満足している。たまに販売店から再開の勧誘電話がはいるが、何の迷いもなく断りつづけている。
もちろん、それはにテレビやインターネットが身近にある、ということが原則になっているのだが、何年後かには、テレビの世界も大きく様変わりするようだ。私は現在以上のシステムをテレビに期待していないのだが、もし現在のブラウン管テレビが使えなくなるのなら、いっそテレビもやめてしまおうかな、と思っている。いや、本気、まじめな話だ。少なくとも、一度は体験してみる価値があるだろう。
もっというなら、本当はいつかはインターネットだってやめようかな、とさえ思っている。だって、いつかは、テレビもインターネットもない世界に入っていくのだ。それが、わずか何年か(何十年か)早まっただけではないか。新聞にも、テレビにも、インターネットにもない、もっと価値あるものが、人生にはある。そのような思いが日々強くなる。
そのような思いから、コンテナ、コンテンツ論から、さらに発展させて、コンシャスネス論を展開しようとしている当ブログではあるが、足がかりがまったくないわけではない。いくつかの重要な方法論が見えてきている。それがこの<2.0>で大きく花咲くかどうかは、まだ分からないが、少なくとも、この<2.0>を超えた世界にたどりつくために、この<2.0>が、今スタートしたということになる。
歴史的に振り返ってみれば、このブログの公共性の乏しさは、日本人の「日記好き」に原流があるのかもしれない。実のところ、すぐに「私」に陥ってしまい、いっこうに「公」に立ち上がっていかないというこの言論空間の傾斜のようなものは、近代化の波にさらされた明治のころから日本文化の難問だったのだ。p182
著者のいうような日本人の特性は、一貫してそうであったのかどうかは疑問であるが、この特性をマイナス要素としてだけとらえることは、私は反対だ。「公」という時に、なにか「公」に実態があるかのような幻想は捨て去るべきがいずれくるのだ。もちろん「私」幻想も、いずれは終わりがくる。
中央集権的な機関構造を持つマスメディアに対し、インターネットの世界を貫く原理原則はただひとつ、「エンド・トゥー・エンド」である。直訳すれば、「末端と末端を結ぶ」。つまりエンド(末端)にいる人間がインターネットをどう使うのかは、ネットを運営している側が関知することではなく、コントロールすることでもない。エンドに存在している人間であれば誰にでも利用でき、どのような使い方もできるというこの考え方はインターネットの理想の体現であり、ネットの空間を流れる通奏低音となっている。p188
最近話題になっている「クラウド」コンピューティングに対し、当ブログが一定程度の関心をもちつつ、一定以上の距離を保とうという姿勢はこの辺にある。中央集権的なシステムがブラック・ボックス化してすべてお任せ、ということになってしまえば、日本の年金システムのような、とんでもない事態が次第に発生してくることは目に見えている。一定程度以上はお任せするものの、常にチェック機能を稼働させることを忘れてはいけない。
ネットワークと言われるものの元型イメージは、人間の身体に例えるとこうなる。まず、ネットワークとなるべきポイントは、自ら2本の足で立つ必要がある。あるいは、しっかりと坐る。少なくとも自己認識を高めようとする方向性がまず必要だ。そしてその次に、2本の手で、他の人々と手をつなぐ。願わくば、2本の手であってほしい。受信し、発信したいからだ。あるいは発信し、受信したいからだ。双方向性が必要だ。
しかし、ネットワークもゼロ地点に戻ることが必ずある。まず自分は死ぬのだ。自分という存在はいずれなくなる。もちろん、2本の足も、2本の手もなくなる。もちろん、科学脳も芸術脳もなくなる。いや別に、その問題に直接的に結びつけようとしなくても構わない。しかし、いずれはその問題は避けては通れないのだ、という配慮が必要だ。
この本や著者が、とても興味深い意義ある動きをしていながら、当ブログにおいて常に評価が低いのは、その点についての配慮がないからだ。別にメイン・テーマにならなくて構わない。しかし、いずれは、人間という存在は、コンテナからもコンテンツからも離れていくのだ。そしてコンシャスネスというテーマを通っていかなくてはならないのだ。その重要な課題についてのインターフェースが、この本にはない。
この点が常に不満なのであり、また、当ブログがこの本や著者ではない、他の何かに目が移ってしまう原因は、この点にあるのである。しかし、コンシャスネス・オンリーの本も、実につまらない本が限りなくある。当ブログは、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス、のトリニティがうまく回転しているような本や世界に関心を持っているようなのである。
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