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2009/04/23

父と子 ツルゲーネフ

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「父と子」
ツルゲーネフ  金子 幸彦 1959/01 岩波書店 文庫 355p
Vol.2 No.584★☆☆☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 Osho「私が愛した本」168冊のうち「(私家版)お勧め本ベスト10」のベスト8。「あらゆる人に読まれるべき本だ」というOshoの言に誘われて一読。 7番目はもうひとりのロシア人、ツルゲーネフと彼の本「父と子」だ。これは私の恋愛のひとつだった。私はたくさんの本、何千冊という本に夢中になったが、ツルゲーネフの「父と子」のような本は一冊もなかった。私は可哀相な父にこれを読むようにとよく無理強いしたものだ。父は死んだ。そうでなければ許しを乞いたい。なぜ私はこの本を読むように父をせっついたのか? それが父にとって、父と私の間にあるギャップを理解するための唯一の方法だったからだ。しかし父は本当にすばらしい人だった。父は私が言ったというだけで、何度も何度もあの本を読んでいた。父があれを読んだのは一度ではなかった。しかもあの本を読んだだけではなく、少なくとも父と私の間にあるギャップには橋が架けられた。私たちはもう父と子ではなかった。父親と息子とか、母親と娘といった醜い関係は・・・・・少なくとも私と父の間では捨てられた。あたしたちは友人になった。自分の父と、あるいは自分の息子と友人になるということは難しいことだ。すべて父のお蔭だ。私故に起こったことではない。 

 ツルゲーネフの「父と子」は、あらゆる人に読まれるべき本だ。なぜなら誰もが何らかの関係に巻き込まれているからだ・・・・父と息子、夫と妻、兄と妹・・・・吐き気がするほどだ・・・・そうだ、それは吐き気を催す。「家族」という代物はすべて、私の辞書では「吐き気」を意味すべきだ・・・・ところが誰も彼もが、「実にすばらしいもの・・・・・」という振りをしている。誰も彼もがイギリス人であるような、ブリテシッシュであるような振りをしている。Osho「私が愛した本」p190

 子が父に与えた言葉としては、Oshoタロットカードの中の、「小さな家族を超えて」を思い出す。イエスが父親に言った言葉とされる。あるいは父と子の立場が逆転しているが、「再誕生/瞬間から瞬間へ」を思い出す。こちらはブッダが我が子ラーフラに言った言葉とされる。いきおい山折哲夫の「ブッダは、なぜ子を捨てたか」なんてものも思いだしてしまった。

 小説は苦手、を標榜している当ブログではあるが、<2.0>ではなんとか果敢に挑戦していきたい、と目標は高く掲げている。しかし、苦手であることには変わりはない。ツルゲーネフの小説は、Oshoの推薦の言がなければ、決して読むチャンスはなかっただろう。

 読み通してみても、正直、今の私にはピンとこない。もし、すでに独立してしまっている息子が帰郷して、これを読んでください、と差し出したとしたら、私は確かに読むだろう。一回読んだだけでは、息子の言っている意味がよくわからない。Oshoの父とは違った意味になるだろうが、なんどもなんども読み返すことになるだろう。

 子の立場として、この本を親に差し出すだろうか。小説を読む親なら良かろうが、そしてまだ本を読むほどの視力と体力を持っている親なら、読みするだろうが、なかなか「あらゆる『親』に読ませるべき本」とまでは、私には言えない。

 「ニヒリスト」という言葉をはじめてつかったとされるこの小説、ロシアの19世紀の小説であり、「激しく変貌する時代に、異なった二つの世代に生きる父と子の姿を描いた」ツルゲーネフの代表作とされている。

 団塊の世代はすでに孫を抱える時代になっているが、彼らもまたひとつの「父と子」の時代を生きたのであった。20世紀後期の「父と子」は、また別な形で表現されている。。「昔、革命的だったお父さんたち」となかば揶揄され、なかば評価されている団塊の世代。その弟分のわれわれの世代においても「父と子」はふたたび問い直されなくてはならない。

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