脳とクオリア
「脳とクオリア」なぜ脳に心が生まれるのか
茂木健一郎 1997/04 日経サイエンス社 /日本経済新聞出版社 単行本325p
Vol.2 No.580★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★★
最近作の「思考の補助線」(08/02)や小説としての処女作「プロセス・アイ」(06/01)に比較すると、こちらの出世作「脳とクオリア」にたどり着くのはすこし時間がかかった。いや、時間をかけた、というべきか。
この本ので出た97/04というところが、どうもフィット感がない。当時の自分は、それこそインターネットの魅力に取りつかれ、脳や心の問題など、あっちのけで、この本が手元にあったとしても、興味をそそられなかっただろう。
いや興味があったとしても、できるだけ避けていただろう、ということは、自分なりに大いに理解できる。前々年に表面化した「麻原集団事件」により、私の視野は意識的に狭められていた。脳などというと、すぐ連想するのは、あの電極のついたヘッドギア状の奇怪な道具である。できるだけその前からは走り去りたい「クオリア」の発生源であったといえる。
あれから10年以上も時間が経過して、ようやくこの心脳問題に目を通す気になってきた。
私たちが世界を感覚する時に媒介となる様々な質感のことを、「クオリア」(quolia)と呼ぶことにしよう。クオリアという言葉は、まだ一般的なものではないかもしれない。だが「クオリア」は、哲学者をはじめとする人々が質感の問題を議論する際に伝統的に用いてきた概念である。この言葉を使うことは、最初は耳慣れないかもしれないが、私が提示する議論を、今まで存在する議論と比べたり、あるいは将来出現するであろう議論と比較する上で便利である。p12
この本が出版された当時から考えれば、すでに10年以上も経過した「将来」となった現在において、この「クオリア」という言葉を使うことが「便利」かどうかは、当ブログとしては、いまだ判断はつかない。
「心」と「脳」の関係を求める私たちの旅において、「クオリア」は最も重要な概念となる。なぜ「クオリア」が重要なのか? それは、逆説的だけれども、「クオリア」こそ、「心」と「脳」の間に存在する深い溝、とても越えられないのではないかと思われる断絶を象徴する存在だからだ。「クオリア」こそ、「心」と「脳」の関係を考えることが、いかにとてつもなく難しい問題であるかを象徴する存在なのである。p12
茂木自身どこかに書いていたが、当時はアインシュタインを意識していたが、その後10年を経過した段階で意識しているのは、ダーウィンだ、ということだった。この二人の存在や意味の違いについて、専門的な科学者ならぬ我が身で判断はつかないが、そのうちだんだんわかってくるだろう。すくなくとも、この本において、茂木は「マニュフェスト」しているのである。
主観的には、「意識」があるか、ないかという二つの状態の間のコントラストは劇的である。何しろ、「意識」がない時には、「私」は「そこにはいない」のだから。「意識」がないということは、赤と緑の見え方がどう違うのかというような繊細な問題ではなく、もっと暴力的な条件なのである。「意識」がない時には、そもそも感覚を盛る器としての「心」は存在しないのだ。p180
死、意識、私、心、さまざまな切り口はあるが、現在において「茂木健一郎」こそは、これらを総合して連想させる「クオリア」に成長してきたと言える。
私たちが「意識を定義する」という課題に本当に成功するまでの道のりは、とてつもなく遠いのである。その道のりは、「意識」について、客観的な、技術的議論を進めることによってのみたどることができる。たとえ一つ一つのステップは小さくとも、少しづつ進んでいくしかないだろう。p204
面倒くさそうな数式や、概念的な図式はかぎりなく飛ばして読み進めるしかないが、もし、当ブログが<2.0>において、「コンシャスネス」=「意識」を大きなテーマとして取り上げ続ける限り、機会をとらえて、この本を再読する機会もでてこよう。
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