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2009/05/15

列子<1>

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「列子」 <1
福永 光司 1991/05 平凡社 東洋文庫 単行本  単行本  288p
Vol.2 No.622★★☆☆☆ ★★★★★ ★★★★★

 インドにおける宗教性の極みは仏教だと決め付け、その象徴はZENだと、勝手に思い込んでしまうと、チベット密教や、ヒンドゥーやスーフィーなどをすっかり見落としてしまう。中国においても、老子が究極とひとり合点すると、荘子や列子のことも見落としてしまう。Oshoが自らの住まいをラオツ(老子)ハウスと名づけ、その付属の建物をチャンツ(荘子)オードトリアムとなずけていたものだから、リーツ(列子)についても語っているのだが、ついつい忘れがちになってしまっている。オレゴンのコミューンのどこかにこの名前がついていたようにも思うが、忘れてしまった。

 3番目は「列子」だ。私は、老子については触れたし、荘子については触れた。が、列子を忘れた。ところが、彼こそは老子と荘子ふたりの完成だ。列子は3代目だ。老子が師(マスター)だった。荘子はその弟子だった。列子は弟子の弟子だ。多分、それで私は彼のことを忘れたのだろうが、彼の本は途方もなく美しい。だからリストに入れなければならない。「私が愛した本」p18

 この東洋文庫に収められた「列子」はとても読みやすい。縦書きだし、コンパクトだし、現代文の読み下し文だ。カタカナもなければ、アラビア数字もない。翻訳者も適任だったのだろう。しかし、こころに文章がしみ込んでくるのは、それだけが理由ではないだろう。

 さて季咸の事件があってからというもの、列子は自分の学問がまだほんものではなかったという自覚をかみしめながら我が家に帰ってきた。そして三年間というもの一歩も外に出ず、謙虚な気持ちで己の妻のために炊事し、豚を飼うのにも人間を養うのと同じ誠実さをもってし、何事においても親疎愛憎の偏見をもつことがなくなった。そして虚飾を捨ててあるがままの自然に復帰し、つくねんとして枯木のごとき身をただひとり持し、ごてごてと入り乱れた万象の世界のあるがままのすがたにそのまましたがって、ひたすらこの境地を己れの境地としながらその生涯を終わることができた。p126

 奇をてらうこともなく、陰陽あい交わる中でのありのままの姿には、神や仏の話はでてこない。天と地のことわりに素直にいきる人間の道が淡々と述べられている。

 かくてはじめて眼はあたかも耳のように、耳はあたかも鼻のように、鼻はあたかも口のようになって、五官のはたらきは全く一体化し、心はひっそりと静まり、体はしこりがすっかり解けて、骨と肉とは渾然一体となり、体が何にもたれ、足が何をふまえ、心に何を考え、言葉がいかなる意味を含んでいるかなども、すべて意識しなくなってしまった。ひたすらこのような境地に到達すれば、あらゆる真理は、すべておのれの前にあらわになるのである。p229

 <2>につづく

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