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2009/05/23

新しい宇宙像<3>

<2>よりつづく
新しい宇宙像(下巻)
「新しい宇宙像」(下巻)<3>
ピョ-トル・デミアノヴィチ・ウスペンスキー /高橋弘泰 2002/08 コスモス・ライブラリ- /星雲社 単行本 399p
Vol.2 No.637★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 第8章 実験的神秘主義
 コリン・ウィルソンが「ウィルソンが書いた文章の中で最も興味深いもの」と述べたこの章は、「ターシャム・オルガズム」を執筆していたときの著者の内面世界についてのドキュメントとして読むとさらに興味深さを増す。後にオルダス・ハクスレーが彼自身の「体験」に基づいて「知覚の扉」という有名な作品を書くことになるが、彼がウスペンスキーのこの文章を読み、その影響を受けていたことはほぼ確実であろう。
p396「訳者あとがき」

 たしかにこの「実験的神秘主義」は貴重な資料だ。というのも、それはウスペンスキー自身の体験だし、それについては誰も否定できなければ、また肯定もできないものだ。ただ、ここでウスペンスキーがこのように書く限り、それはそれとして受け取られるだけである。

 ハクスレーについての評価は、私はあまり歓迎しない。誰々の影響を受けた、というようなことを言われたくない。理論的なものや科学的な積み上げは、しかたないとしても、内的な体験については、その人ならではの独特なものだからだ。もし、自らの体験がないままに、誰かの体験を読んでしまって「刷り込まれて」しまうと、あとから「体験」したとしても、それが自らの体験なのか、単に刷り込まれたものを再現しただけで、自らがオーソライズしたものであるかどうか、判明しなくなるからだ。

 だから、まだウスペンスキーの「書いた文章」どころか、本書もまだ全部読んでいるわけではないが、この部分がかなり興味深いところだな、と感じるなら、私なら、あえてマーキングするだけで、飛ばし読みする。自らの体験の解像度がより高まり、動かしがたい「真実」となれば、その後は、他者の「体験」と比較することも一興であろうが・・。

 この「訳者あとがき」にうまいこと、上下二巻の章立てについて短いコメントがついているが、要はウスペンスキーのこの本においてのキーワードは、「秘教」、「四次元」、「超人」、「キリスト」、「タロット」、「ヨガ」、「夢」、「神秘主義」・・・・などなのだな、ということを再認識できる。これらについて、ウスペンスキーがどのような態度を示していたかということはわかる。だが、この本のほとんどの原稿が固まった1915年当時なら、その先駆性は高く評価されようが、21世紀も最初の10年が過ぎようとする現代において、必ずしも、その根拠をウスペンスキーに求める必要はない。

 私は「想像上の」行為と「想像上の」知識のあらゆるケースを「主観魔術」と呼んだ。この中には人工的に喚起された幻影、現実とみなされた夢、交信とみなされた「自分自身の」想念の解釈、アストラル視力や「アカシック・レコード」、そして同様の奇跡の半ば意図的な創造などが含まれる。
 神秘主義はその性質上主観的なものである。したがって私は客観的神秘主義を特別にグループ化しなかった。にもかかわらず、時々「主観的神秘主義」と呼ぶことのできるものが見られることがある。それは偽の神秘状態、あるいは擬似神秘状態であり、「強烈な」感情とは関係のない、ヒステリーや疑似魔術に近い。換言すれば、宗教的な幻視や具体的な形を取った宗教的な夢、つまり正統的な文学が「美(ビューティ)」と呼ぶもののことである。
p53

 当ブログにおいて、過去にも「アカシック・レコード」について何度か触れているが、これもまた、刷り込み効果とか、ネーミング・マジックによって、幻想を生み出す危険性が非常に高いので、あまりこれらの言語を歓迎してこなかった。しかし、このキーワードで、人々がなにごとかを表現しようと努力してきたことにだけは、常に留意していかなければならない。

 私を驚かせた最初の印象の一つは、この世界には神智学と心霊主義で言う「アストラル世界」にどんな意味であれ類似したものは絶対的に存在しないということであった。私が「驚いた」と言ったのは、このアストラル世界を信じていたからではなくて、おそらく私は無意識のうちに未知のものをアストラル世界という形で考えていたからである。
 事実、当時私はある程度神智学文献の影響を受けており、専門用語に関する限りその影響下にあった。もっと正確に言えば、私は明らかに、はっきりとではなかったにせよ、神智学の本に見られる不可視の世界に関する完全に具体的な記述の背後には何かがあるに違いないと考えていた。そのために、最初私は、さまざまな作家が詳細にわたって描写しているようなアストラル世界全体がまったく存在しないということを認めるのが難しかった。しかし後になって、他の多くのものもまったく存在しないことを知った。
p60

 用語のひとつひとつ、体験の重要度などについては、ここではやはり「科学」としてではなく、「詩」的なもの(芸術)として受け取っておくべきだろう。科学と意識をつなぐものとしての芸術の存在価値はこの辺に存在するだろう。ここでのウスペンスキーの表現は、芸術(アート)として受け取られるべきで、科学とか、真実とか、として受け取られるべきではない。

 リードピーターやシュタイナー博士の「透視」やすべての「アカシック・レコード」、神話的なアトランティスで何万年も前に起こったことの記述は疑いなく「ソロモンの神殿のハエ」と同じ性質のものであろう。唯一の違いは、私はその体験を信じていないが、「アカシック・レコード」は著者と読者の両方から信じられているという点だけである。p70

 シュタイナーについても、当ブログでいくつか読み込んできたが、ここでは、Oshoは「私が愛した本」のなかには、シュタイナー本を一冊も触れていないところか、彼の名前さえでてこなかったことを思い出しておくだけにしておく。

 死者について何かを知ろうとする試みは私の実験の非常に不思議な部分を占めていた。この種の質問にはたいてい答えがなく、私は質問そのものの中に本質的な誤りがあるのだと獏然と感じていた。しかし一度私は質問に対する非常にはっきりした解答を受け取った。さらに、その答えは尋常でない死の感覚に関するもう一つの場合に関わっていた。それは実験を行う十年前に私が体験したもので、強烈な感情的状態に引き起こされたものであった。p98

 意識を考えるなら、死の問題は避けられない。最近、なんどか現れるイメージがあるのだが、なかなかメモするチャンスがなかったので、ここに書いておく。

 東の水平線から太陽が昇り、西の地平線の中に、太陽が沈んでいく、という表現があるが、実際には、水平線も、地平線も、自然界には存在していない。実際には、太陽と地球の自転や公転の絡みだけであって、直線すら存在しない。

 水平線や地平線があるように見えるのは、地表に立って、それを見ている「私」がいるからであり、私の小ささから考えれば、その「線」でさえ、2次元的な一直線であるかのように勘違いしてしまう。しかし、水平線でさえ、大きな大きな円のごくごく一部でしかない。

 つまり、朝に太陽が生まれ、夕べに太陽が死ぬように感じるのは、私がいるからで、実際には太陽は生まれたり死んだりしているわけではない。かくのごとく、一人間にとっても、生まれ、死ぬ、という現象があるかのように感じているが、実は、私を離れてしまえば、生死という現象はなくなってしまうのである。

 宇宙空間ですでに数か月生活している若田さんのような宇宙飛行士なら、地球全体をヒト目で見ることができるだろう。そこには直線はない。だが、それでも完全ではない。若田さんには、地球の「裏側」が見えない。決してヒト目で見ているわけではない。もしこの地球をヒト目で見ようとするなら、地球の内部へはいっていくしかないだろう。空洞地球の住人なら、地球全体を見ることが可能であるかもしれない。

 しかし、それでも完全ではない。目が二つだけであり、前方だけを注視するようになっているとすれば、後方を確認できない。振り返ればみることができるが、その時、前方からは目をそらしてしまうことになる。私たちの視角は360度のマルチビジョンにはなっていない。全体を視るには、目を閉じて、全体を感じるしかない。であるなら、目が前方をみるようにできているという「欠陥」を補うことができる。

 そして、もし空洞地球で眼を閉じて全体を感じることができるなら、宇宙船の中も若田さんにもできるし、地表に立っている私にも、できるのである。生と死、という幻想をうちやぶることができるか。この問題に当ブログは突入しつつある。

<4>につづく

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