探偵小説の論理学<1>
「探偵小説の論理学」<1>ラッセル論理学とクイーン、笠井潔、西尾維新の探偵小説
小森健太朗 2007/09 南雲堂 291p
Vol.2 No.596★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆
この本をめくっていて、ふと思いついたことだが、この本のどこかに書いてあったのか、他の本のどこかに書いてあったのか不明だが、あるひとつの考えが浮かんだので、忘れないうちにメモしておく。
もし、既知、未知、不可知、の領域があるとして、仮にある一定量の「知られるべき領域」があったとして、既知の領域がどんどん増えていって、未知なる部分が減っていったとしたら、不可知なる領域は限りなく狭められ、次第次第にほんの線一線、ほんのわずかな一点としか残らないものであろうか。
そんなことはあるまい。不可知なものは不可知なまま、残る。であるなら、不可知なるものはどんどん増加していくのだろうか。これも違う。既知なるものも、実は必ずしも増えて続けてはいないのではないか。
新月から満月になり、やがてまた新月になる。月が満ちかけする、という表現はあるが、実際には月の質量は一定(だと思うが)している。決して増えたり減ったりしているわけではない。ただ、その月を見る位置と、その月を見る見方によって、そう見えるので、そう表現しても、まぁ許されるという範囲だ、ということだろう。
同じように、たとえばビッグバンという、極最小から、爆発しつづけて、無限大に宇宙は拡大している、という表現が使われるが、それはあくまでも新月がどんどん満月になるように、見えるだけと同じように、宇宙が拡大し続けているように見えるだけで、実際には、拡大も縮小もしていないのではないだろうか。
縮小しつづけた宇宙はついにブラックホールとして極小状態になってしまうというが、どうもあやしい。そう見えるだけではないか。ただ、月の満ちかけのようにそのように表現してもおかしくない、というレベルなのでないだろうか。
類推はさらに続く。既知、未知、不可知、というけれど、既知なる領域はどんどん増えていくのか。いつかこの宇宙は人間にすべてを「発見」されてしまうのか。
違うのではないか。
というのが、今日の閃きであった。つまり、既知なるものは、やがて、未知なるもの、不可知なるものに帰りつづけていくのではないか。人間が「進化」していく方向に既知なる領域が増えていくかに見えるが、未知なるもの、不可知なるものもどんどん増えているのでではないか。
それはまるで、車に乗って、GPSナビゲーションで、自分の走っている位置を確認している作業に似ているのではないか。自分の周囲の半径何100メートルか何キロかの地域については感知しているが、すでに走り去ってきた数10キロ、数100キロ後のことについては、すでに知っているつもりだが、ナビゲーションから外れ、どんどん見えなくなって、消えていっているのではないか。
これはマジックなのではないか。日本道路地図をナビゲーションという小窓から覗いて、全体を見ているように錯覚しているだけであって、結局、運転者が見ているのは、このナビゲーションに映っている、小さなエリアだけではないのか。
たとえば豚インフルエンザが登場する。これは不可知領域からやってきた、未知なる病原体である。人類が初めて体験する(はずの)病原体である。いずれはこの病原体も既知なるものとして、人類に体験され、やがて対処法も発見されるだろう。
しかし、では、いままであった病原体は、既知なるものとして人類の戦利品のリストに掲載され続けるのだろうか。どうもそうとは思えない。この既知なる病原体は、新種の豚インフルエンザに、その位置を明け渡したあとは、やがて、次第に未知なるもの、不可知なるものの領域に帰っていくのではないか。
生命の進化過程において、さまざま生命体は、わずかな痕跡をのこしたまま絶滅していく。絶滅して不可知領域に帰っていく。恐龍などの骨などが発見されて、わずかに類推されるデータはあるにせよ、この世に恐竜はもう存在しない(はず)。しかるに、その不可知領域に帰ろうとしているデータの中に、たとえばドラゴンという形で、記憶の「夕暮れ」のような形で、人類に感知されているものもないではない。しかし、それはもう神秘なる存在としかいいようがないのだ。
だから、ここで確認しておきたいことは、意識とは増えもしなければ、増えもしない、GPSナビゲーションのディスプレイのようなものである、と仮定してもいいのではないか。つまりそのディスプレイに移っているのは、既知なる領域である。その領域は分かっている。
さらにそこから東に移動すれば、そちらに向かって未知なるものであった領域が既知なるものとして感知されていくが、次第にディスプレイから外れていく領域は、未知なるもの、不可知なるものへと、戻っていっているのではないか。
「知っている」というのは幻想で、どの領域も知ることは可能であるが、それは「知っていない」のと同じことなのだ。ただ、そこに車があってナビがある。つまり、人間が生きているから、「知っている」と思っているだけで、本当は何も知らないのと同じことなのだ。
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てなことが頭のなかで渦巻き始めた。この本をめくっていると、いままでの自分が使わなかった脳みその領域までかき回され始めているような感覚になった。
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