列子<2>
<1>よりつづく
「列子」<2>
福永光司 1991/06 平凡社 文庫 338p
Vol.2 No.623★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆
はてさて、列子という存在は、このような好々爺とした風情が持ち味だったのだろうか、とふと疑問になった。むしろ、いままで持ってきたイメージというのは、もっと神秘的で超然とした鋭角的な存在ではなかったのだろうか。
かの偉大なる禹王がいった。
---天地四方の宇宙空間、四方を海で囲まれた地上の世界は、そこを日月で照らし、星で系列づけ、四季の運行で秩序づけ、太歳すなわち木星でしめくくっている。そして造化の霊妙なはたらきが生成した万物は、そのさまざまな形や、寿命の長短など、ただ聖人だけがなぜそうなのかという道理に通じうるのである。
それに対して夏革はいった。
---だとすれば、霊妙なはたらきを待たなくても生じてき、陰陽のはたらきを待たなくても形をそなえ、日月の照らすのを待たなくても明るく、殺されるのを待たなくても短命であり、養育されるのを待たなくても長命であり、五穀を用いなくても食い、衣服を用いなくても着るものだって存在するということになりますね。その存在はおのずとそうなるのであって、聖人もそのことわりに通じることはできないのです。「聖人も知り得ない自然の神秘」p46
つまり列子における神秘とは、魑魅魍魎が跋扈する世界ではなくて、目に見えているこの目の前のできごとのなかにあるのであった。この東洋文庫シリーズは、現代日本語に読み下されており、カタカナこそでてこないが、ほとんどが日常会話で使うような言葉に置き換えられている。これをもとの漢字なり中国文字で読めば、もっと霊妙なムードにもなるかもしれないが、もともと英語や他の言語で読む人々のことを考えれば、この日本語でその霊妙さを味わえない、と考えてはならないだろう。
同じく孔子の弟子でありながら、原憲は魯の国でひどい貧乏ぐらし、子貢は衛の国でせっせと財産づくり。原憲の貧乏ぐらしは生命をすりへらし、子貢の財産づくりは身を苦しめた。してみると貧乏ぐらしもいけないし、財産づくりもいけないということになる。それならばいったい、どうすればよいのか。その問いにはこう答えたい。生き方としてすぐれているのは人生をエンジョイすることであり、体を安楽にさせることである。だから人生をエンジョイすることの達人は、ひどい貧乏ぐらしをせず、体を安楽にさせることの名人は、せっせと財産づくりなどしない、と。p182
一貫してカタカナを排除してきた訳者はここで、いきなり「エンジョイ」という言葉を出してきた。他には「毛皮のジャンパー」p87などという表現がある程度で、かならずしも重要な位置になる単語ではない。しかるに、ここにきて、「エンジョイ」である。この翻語としては現代日本語にも多くあるだろうし、原文の中国語であったとしても、必ずしも意味が通じないわけでもないだろう。しかるに「エンジョイ」という単語は実に光っている。エンジョイ、という単語でしか伝えようがなかった何かがあるのだろう。
だれかガイジンさんに「Lieh Tzu(列子)は何を説いていたんですか?」と聞かれたら、「enjoy! enjoy!」と答えることにしよう。それでも、まんざら間違いあるまい。うん、エンジョイ、エンジョイ。この「列子」上下2巻で覚えたことは、エンジョイ、エンジョイ。「人生をエンジョイすることの達人」・・・。いいなぁ・・。
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