探偵小説の論理学<2>
<1>よりつづく
「探偵小説の論理学」<2>ラッセル論理学とクイーン、笠井潔、西尾維新の探偵小説
小森健太朗 2007/09 南雲堂 291p
著者の一連の表現物のうち、最新のものは「英文学の地下水脈」2009/02だが、一部の書き下ろしなど以外は、2000年代前半初出の文献が多く、著者の最近の動向という意味では、むしろ2007/09発行のこちらの一冊のほうが、より近い、ということになるのであろうか。
この本のタイトルやサブタイトルはともかくとして、当ブログとしては、この本にそそられる部分も多くある。「プリンキピア・マテマティカ」やウィットゲンシュタインに触れるあたりは、いずれ当ブログとしては、突入、再突入のタイミングを計っている最中である。
しかしながら、当ブログにも、流れというものがある。漫然とした図書館訪問のなかから拾い出した一連のマルチチュードつながりをたぐりよせ、スピノザあたりをうろうろしながら、西洋哲学に抵触していった。
そういえばOshoも西洋哲学に触れていたな、ということで「私が愛した本」にうつり、やがて、東洋思想や心理学のほうへ流れを変え、いまやインド神秘主義の「(暫定)カビール達の心理学」を模索中である。ここから、いきなり、西洋哲学に戻ると、すこしもんどり返ったったような、急ブレーキ、急ハンドルで、Uターンしたような雰囲気にもなりかねない。
ここはすこし間合をみて、この本の各章に入りこむのはすこしあとからにしようと思う。とはいうものの、心理学(サイコ+ロジー)にもしっかり論理学(ロジック)が入っているかぎり、つながり具合によっては、面白い展開になる可能性は高い。いつでもこの本には戻れそうである。
あの角を曲がったら次はこう、その次はこうと、論理的な道筋の思考で三歩前くらいを想定すると、二歩前まではついてきても、その向こうが想定できないという学生がいる。それだと、論理的経路での三歩先は闇、見通せるのは一歩前までということになりそうなので、そういう人にはミステリが楽しめないのも無理もない。ミステリに限らず、彼らは長い小説作品を読み通すことがおそらくできなさそうである。P203
バリバリの現役学生さんたちがそうであるのなら、おっとり刀の熟年図書館フリークの当ブログにおいて、なかなかミステリや小説は読み込めないはずだ、納得。まぁ、しかし、必要に迫られれば、なんとか挑戦しようという意欲は失ってはいない。タイミングが大切じゃ。
本全体としては後半の一部ということになるが、コリン・ウィルソンやR・D・レインに触れている部分もあり、現在の当ブログにダイレクトにつながってくる部分も当然ある。
1960年代から1970年代にかけてアメリカを中心に興ったヒッピー・ムーブメント、フラワーチルドレンらの大きな思想的バックボーンになったのが、レイン、ロロ・メイ、アサジョーリらを機種とする人間性の回復を訴える心理学派だった。その時代のフラワーチルドレンにレインは、偶像的に崇められた一人であったことを想起する必要がある。そのムーブメントを主導した思想は、マルクス主義と精神分析を融合しようとしたヘルベルト・マルクーゼやウィルヘルム・ライヒといった左派から、ビジネス界で評価されたエイブラハム・マズローや、オカルト思想を持ち込んだコリン・ウィルソンなどをあげることができるが、いずれも現在の思想界の評価は低められている。P196
先日、事務所にやってきた20代の保険会社営業マンとひょんなことでヒッピーの話になり、「ヒッピーってなんでしたっけ? 乞食・・・のことでしたっけ」と言ったのには失笑した。連休にやってきた愚息の彼女なども「ヒッピー、って民族衣装のことですか?」なんて言っていた。16歳でデビューした小森健太朗も若いイメージがあるが、本当に若い連中に比べたら、なんとも古びてきましたな。歴史学もほどほどにしないと、時代に置いてきぼりを食う可能性あり(笑)。 しかしながら、熟年読書フリークとしては、なかなかあちこち気になるところが多い一冊ではある。捲土重来。体制を整えて、後日、この本に再突入することもあるだろう。
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