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2009/05/26

秘教の心理学<4>

<3>よりつづく

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「秘教の心理学」<4>
OSHO /スワミ・プレム・ヴィシュダ 1994/09 瞑想社 /めるくまーる 単行本 317p

 「秘教」も「心理学」も、他の書籍にもちょくちょく現れてきたので、この辺ですこしづつ、この本に突入していくのもいい頃だろう。見てみれば、ほとんどのページに付箋だらけの状態で、いったいこの本をそんなに読んでいたのか、と自分なりに驚いてしまうが、内容はほとんど忘れてしまった。というか、覚える(記憶)する気がないのかもしれない。

 ここは初心に帰って、全ての付箋をはずして、新鮮な気分で一章一章、読みなおしてみるのがいいだろう。

 さて、日本語訳名「秘教の心理学」であるが、英語では、「The Psycology of  The Esoteric」。ズバリ英語から日本語への翻訳のように思うが、はて、もともとヒンディー語で行われたこの講義のタイトルは一体何だったのだろう。単に想像にすぎないが、この英語に対応するヒンディー語ではなかったのではないだろうか。

 時は1970年である。日本においても、もろにこのタイトルはつけにくかったのではないだろうか。ましてや、インドの人々を主な対象としていただけに、別な角度からもっと別なニュアンスのタイトルになっていたのではないだろうか。

 そんなことを考えるのは、1900年代初半にウスペンスキーが使うの所の「秘教」や「心理学」と、1970年代に使うOshoが使うそれとは、意味的にも、示唆しているところにも、大きな隔たりがあったのではないか、と察するからだ。もちろん、この本を21世紀になって読む私達の理解のしかたや、その意味するところも、同様にかなり違っているのではないか、と危惧するのである。

 だから、おなじ単語がでてきたとしても、必ずしも同列に並べてしまわないで、それぞれに含みを持たせて、それぞれに注意深く理解していく必要があるのだろう、と思う。

 第一に、無意識的な進化は機械的で自然なものだ。それはひとりでに起こる。このタイプの進化を通じて、意識があらわれる。だが、意識が存在するようになるや、無意識的な進化は止まる。その目的は果たされたからだ。無意識的な進化は、意識が存在するようになるところまでしか必要とされない。p14

 この、ほんの導入部分のわずかに短い一文の中にも、じつに曖昧規定な言葉がいくつも含まれている。無意識、進化、機械的、自然、意識、目的、存在、などなど・・。機械的、という言葉は、オートマチカリー、自動的、とでもなっているのだろうか。ここはグルジェフ的な言いまわしがベースになっているかもしれない。自然、目的、存在。これらの言葉は、ひとつひとつ解釈していったら、一生かかっても、この一文さえ理解できないかも知れない。

 逆に、Oshoのアルファベットとアルゴリズムを使えば、割と分かりやすく、それはそれで一つの世界観があり、その言葉になじんでしまえば、なんの疑問さえ感じなくなってしまう可能性もある。しかし、それではいかんだろう。それこそが、また再び眠りこんでいく原因になってしまう。

 当ブログにおいては、それぞれの発言者たちの言葉を、同じ単語、同じ用語と見られるものでも、あえて、統一しないでバラバラに置いて眺めている。ここでは、たとえば「意識」と「無意識」は極めて重要な用語でありながら、発言者によって、さまざまに使われており、いずれを採用するかによって、意味がかなり違ってくる場合がほとんどだ。

 「無意識」を使うなら、やはり、フロイトまで遡って、いまいちど、キチンとフロイトが言わんとしたこと理解する必要があろう。そして、ユングが言った「集合的無意識」も、ユングが言わんとした形で理解したうえで、使っていく必要があるだろう。そこから逆照射するかたちで「意識」とは何かを、キチンと押さえておく必要がある。

 ところが、Oshoは、無意識や、集合的無意識、とはまったく逆方向に、意識からのベクトルを導きだそうとしている。

 第二に、無意識的な進化は集合的だが、進化が自覚されると、それは個的になる。いかなる集合的で自動的な進化も、人類より先へは進まない。ここからは、進化は個的な過程になる。意識は個をつくる。意識があらわれる以前には、個は存在しない。ただ種(しゅ)だけが存在するだけで、個はない。p14

 ここにおけるOshoの「意識」という言葉には、すでにいわゆるOshoアルファベットの中の重要単語であるエンライトメントをすでに含んでいるかのように思える。後段で、超意識、集合的超意識、宇宙意識などの単語が乱立してくるが、つまりは、集合的無意識→無意識→意識とのベクトルの中では、「個」であるからこそ「意識」が現れ出でる、ということになる。

 だから、いわゆるトンデモ本などの2012年がどうした、というくだりの中で、「知らないうち」に、みんなアセンションしていました、などということはあり得ない、と断言しているとも理解していいんではないだろうか。個になる。何にも依拠しない。親にも、学校にも、信仰や、宗教的な指導者と言われる人々にも、依拠しない。責任感のあるひとりの人間として、個として自ら立ち上がる。この姿なくして「意識」などは現れないし、当然それ以上の「進化」などありえない、と言っているわけだ。

 獏然とした形で、当ブログは「菩薩としてのウェブ」という単語を使い始めているが、マスコラボレーションを持って、あらたなる共同幻想を生み出す素地を作り出すような迷い道に入ってはならないだろう。あくまで、ウェブにつながるのは個人としての「意識」なのだ、ということを、まずはここであらためて再確認しておく必要があろう。

<5>につづく

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