神秘家の道<6>
<5>よりつづく
「神秘家の道」 珠玉の質疑応答録 <6>
OSHO /スワミ・パリトーショ 2009/03 市民出版社 単行本 884p
この社会はすべて、あらゆることについて偽善的だ。もし本物の、真摯な人間であろうとするなら、アウトサイダーになることだ。その人はインサイダーにはならない。その人はいたるところで外国人でなければならない。その人は他所者でなければならない。誰もあなたを信頼しない。誰もあなたと親しくはならない。あなたはこの大きな世界に、一人取り残されることになる。
将来の見込みのことを考えたら、見通しは暗いように見える。だが真実はまったく違う。もしそれを生きたら、それこそがまさに光りの道、それこそが生きるべき唯一の道だ。自由がもたらすものは、どんなものでもすべていい。真実がもたらすものは、どんなものでもすべていい。だがその途方もない美や善の経験は、単に観念的なものではない。人はそれを生き、味わうことだ。p341
ここで言っているOshoのアウトサイダーは、コリン・ウィルソンが言っているアウトサイダーと同義であると言っていいだろう。ただ、それを本読んだり、他人の言葉をかき集めて観念的にわかっただけでは何の意味もない。それを自らの道として生きてこそ、途方もない価値が生まれてくる、とOshoは言っているに違いない。
この辺で、当ブログなりの定義をひとつこしらえておきたい。もちろん暫定的なものだが、とりあえずa,b,cでまとめておき、いくつか、6~7個作ってみて、全体的な感覚がつかめ始めたら、それを1~6,7の順番に置き換えて、さらに眺めてみよう。
まず考えたのは、これ。
定義:a かもめのジョナサンは、アウトサイダーとして、トゥリアに到達する。
「ターシャム・オルガヌム」において「原注」として、次の文言がある。
南インドの秘教学派の解釈によれば、意識の4つの城たはいくらか異なった順序で理解されている。最も真実から遠い、最も幻影的なものは、(普通の意味での)「目覚めた状態」である。2番目のものは「眠り」であり、すでに真実に近づいている。3番目の夢のない「深い眠り」は真実との接触、4番目の「サマーディ(恍惚)」とは真実との融合である。「ターシャム・オルガヌム」p294
この辺は、各「証言」者、言葉のさだまらいところだが、「無意識」と言った場合、不注意で失敗した、みたいな意味にとれないことはないが、「意識」より真実に向って歩き始めた、という意味になる。この辺は、あちこちランダムに読書を続けるかぎり、更なる混乱を生み出す可能性がある。サマーディという言葉も手垢のついた言葉なので、あえて、4番目の意味であるトゥリアで、当ブログでは統一していこう。
とにかく「意識」といった場合、それは一番はじまりであり、「無意識」より真実より遠いのである。交通事故で意識を失った、などという情けない状態は、なんだか普段よりもみっともない状況になっているようにも思うのだが、混乱しないで、使っていきたい。
しかし、実は、この「事故」で「無意識」状態に「上昇」する場合も有り得るのだ。スタニスラフ・グロフ「魂の航海術」などには貴重なレポートがあり、私個人も自らの体験として共感できる部分でもある。Oshoのこの本の中にも、意識、無意識、超意識、宇宙意識、集合意識、集合無意識、などの単語がでてくるが、いまはとりあえず、見過ごして気にしないでおく。
精神分析に欠けているところは、意識的なマインドの態度を変えないということだ。それは意識的なマインドをそのままにしておく。そして実際、もし意識的マインドを変えようとしたら、社会は精神分析を容認しようとはしなくなるはずだ。精神分析は、私が巻き込まれているのと同じ面倒に巻き込まれるに違いない。それは尊敬される職業ではなくなり、排そされるに違いない。そして教会は、魔女に行ったのと同じことを、精神分析医に行うだろう。Osho p195
なにはともあれ、ここからだ。
定義:a かもめのジョナサンは、アウトサイダーとして、トゥリアに到達する。
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