メディアと異界
「メディアと異界」 「心眼」と「存在の奥行」を取り戻すための「情報学」
仲田誠 2008/06 砂書房 単行本 292p
Vol.2 No.612★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆
「異界」には「遠くにあるもの」とルビが振ってある。前半は、あちこちから切り取った断片的な情報を、今は懐かしきKJ法でも使って、再構成したのではないか、と思えるくらい、ランダムな論点のつなぎ止めが行われている。後半はそれなりに自らの視点・論点を明らかにするが、明らかになった時点で私としては愕然とするような一節にぶつかった。
トフラーの嘘
まず、第一に「バラ色の未来をとく情報社会論」の古典とされるトフラーの『第三の波』が嘘であった。すくなくとも、日本に関しては、まったくのでたらめであった。
1980年に出版されたトフラーの『第三の波』は、情報・通信技術の発達が人間の営みに利益をもたらすという楽観的予測をうちたてて、1980年代、1990年代において「技術決定論(つまりバラ色の未来をとく)情報社会論者」のバイブルであった。p222
はて、この一節はいただけない。その解釈は、私とはまったく異なる。私はこの「第三の波」を1980年。がんセンターの死のベットの上で読んだ。時期的にいえば、1977・8年のインド旅行と、1982年の米国オレゴン州のコミューン訪問の間の時期であり、私の人生の中の10冊に数えることができる一冊であるだけに、著者のこの一節は決して看過できない。
私の闘病生活は別な機会に譲るが、当時26歳だった私は、体調に不調を覚え、原因不明のまま4つ目に紹介された国立病院において、余命半年を宣言された。宣言されたのは家族であって、まだ独身の青年に告知するという風潮はまだなかったから、私は周囲の反応を見て類推して知っていただけだ。その正確な実体を家族から知らされたのは、このごく最近のことである。
私はあの死のベッドから立ち上がってきたモンスターのようなものであろうか、と我を疑うが、生きていることは間違いない。あの体調不良と絶望感の中から、私を引き戻したものの中に、たしかにアルビン・トフラーの「第三の波」の仲田言うところの「バラ色の未来をとく情報社会論」があったことは間違いない。
ああ、将来はこうなるんだ。こういう社会に生きてみたい、と思わせたとすれば、トフラーは私の命の恩人のひとりということにもなろう。高度成長期から成熟期へと向かう日本経済の、ちょうど時期的には、促進剤になったのが、この一冊であったと言っても過言ではない。
「トフラーの嘘」と、ひとりの学者にバッサリとやられてしまうことには抵抗がある。御本人はあの本をどれだけ読んだか分からないが、あの本は必ずしも「バラ色の未来をとく情報社会論」ではない。一つの枠組みを提示し、彷徨する現代社会に一つの指針を提示しようとした意欲的な試みであって、よく読めば、あの本がトフラー夫妻の前後に発刊されたシリーズ本の中の一冊であることはすぐ分かる。
だから、本来であれば、その前後のつながりの中から読みこまれる本であり、すでに1990年代あたりには、本人たちも別な視点から国際社会を展望していたのではなかったか。最近においても「冨の未来」を読んだ私は、かなり批判的にならざるを得なかった。
ただあの本が発行された1980年においては、あの矢印は正しかった。多くの人を魅了したのは間違いない。あの時の分岐点において、道しるべとして出されていた「←」マークは正しかったと言える。ただし、あのポイントで正しかったからと言って、ただひたすらその方向に一直線に走り続ける、というのは愚の骨頂だろう。道行きは曲がりくねっているのであり、時には加速し、時には急ブレーキをかけなくてはならない。次なる「→」マークも見落としてはならない。
すくなくとも日本に関してはいえば、この予測はまったくはずれている。トフラーのいうような変化が起きているとしても、部分的な現象にしかすぎない。あるいは、トフラーのいうような変化が起きているとしても、それはバラ色の未来をもたらすものではなかった。p224
著者の言葉を借りて「バラ色の未来」という言葉を上で多用したが、はて、トフラーは「バラ色の未来」を説いていたのだろうか。社会に生まれた「変化」を理解しようとすると、このような枠組みが有効なのではないか、と提言したのであって、バラ色の未来図を書いて、旗振り役をやっていたのではないはずだ。
膨大な数と時間の取材の中から見えてくるものを、大きな枠組みのなかでとらえようという試みであって、社会自体が変化し、減速し、あるいは飛躍してしまい、著者がこのまない社会へと突き進んでいるように見えたとしても、その責任をトフラーにおっかぶせようという姿勢は腑に落ちない。
トフラーが重視した、「フレックス・タイム制の普及やパートタイム労働従事者の増加」は、日本では、雇用条件の悪化を意味するし、「多様化・個性化を求める動き(脱規格化)」は、「ゆとり教育」の失敗につながっている。「古典的官僚主義」の弊害は、ますますひどくなり、防衛省の不祥事のように、官僚主義の弊害は、いまや「非人間的」、「非能率」という弊害の範囲をこえて、公然と自己の利益をむさぼる輩の跋扈という現象まで範囲をひろげている。「化石燃料」への集中はさらにひどく、いまや1バーレル、100ドルの時代を迎えている。p224
ここあたりで、あまりに筆が走りすぎてはいまいか。私はフレックス・タイム賛成である。「多様化・個性化」も賛成である。「ゆとり」も賛成である。教育現場での失敗は、教育行政当局のの失敗であって、トフラーの責任ではない。もっとも私個人は「ゆとり教育」を失敗だとは思っていない。
防衛庁の不祥事や官僚主義、化石燃料の価格暴騰まで、その犯人はトフラーであるかのような言節には、私はくみしない。それではいかに「トフラー老いたり」とは言え、あまりにかわいそうである。化石燃料の価格などは、もっと複雑な仕組みになっているのであり、たしかにこの本がでた2008年前半では暴騰していたかもしれないが、その一年後の現在は、むしろ安値で安定している。著者は言いすぎであろう。
つまり、著者は、自らの世界観を書く上でも、KJ法ならぬコピペ執筆法をも活用しているかに見え、社会を理解するうえでも、情報をネット上であちこちからかき集めて、つなぎとめているだけではないか、とさえ揶揄したくなってしまう。時間と足を使って直接に取材しまくったトフラーに、いくばくかの敬意があってもよかろう。
ある年齢以上の世代はメディアに対する不信感を持っていたのだが(私はそう思っている)、今の若い世代にはメディアそのものに対する不信感はまずない。消費社会に対する不信感も同様にない。p285
著者は、若い年齢層を世代論としてとらえようとしている。しかもそのとらえ方の、なんと紋切型のことか。私も著者のいうような若い世代と接することがあるが、ひとりひとりの個性・多様性を認めることはあっても、このような紋切型でことが済むとは、とても思えない。彼らも十分、メディアに対する免疫も持っているし、消費社会に対する警戒もおこたっているわけではない。
タイトルからして、お、これは面白そう、と手にとった一冊ではあったが、目を通し終わってみれば、体から力が抜けて、ゲンナリしてしまった。
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コメント
「メディアと異界」。なかなか楽しそうなタイトルだ。着眼点も悪くない。しかし、内容がめちゃくちゃだ。内容は忘れたし、対して私自身がどんなことを書いたかすら覚えていなかったが、自分のここの文章を読んで、ああ、それは仕方ないなぁ、と思った。★ひとつは、当ブログとしては最低評価である。この記事が今ごろ、人気ランキングの下位に登場した、ということは、どういうことだろう。私の反論が評価されたのか。あるいは、その逆か。いずれチャンスがあれば、この本を再読するのも悪くない。
投稿: Bhavesh | 2018/08/02 14:19