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2009/05/08

ムガール宮の密室<1>

ムガール宮の密室
「ムガール宮の密室」 <1>ミステリー・リーグ
小森健太朗 2002/08  原書房 単行本 270p

Vol.2 No.605★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★★

 サブタイトルで「SARMAD The Saint and the Detective」とある。サルマッドという聖者とDetectiveだから、ここは研究と読むべきなのか、探究、あるいは探検、探偵、と読むべきなのか、語学力が不足しているので確定できない。いずれにせよ。SARMADという聖者の存在が重要なポイントとなる。

 サルマッドは、その生涯同様に名前もまた奇妙な聖者である。「サルマッド」の意味は「恩寵」とか「天啓」を意味するとされていると説と、「永遠」を意味するという説がある。この名前自体が、サルマッドが自分の詩文に付した、いわばペンネームにあたるもので、本名は今日に伝わっていない。 p7

 サルマッドが残したペルシャ語の四行詩「ルバイヤート」は、約330編からなっているというが、はて、ルバイヤートとなると、オマール・ハイヤムが有名で、Oshoの「私が愛した本」の中にも登場する。Oshoは、「ゾルバ・ザ・ブッダ」という名前をベジタリアン・レストランの名前に摸したことがあるが、一方で、この「オマール・ハイヤム」を、サニヤシンたちの経営する「バー」の名前の候補とするよう提案したことがある。ことほど左様に、私の頭のなかでは「ルバイヤート」と「オマール・ハイヤム」は一体化してしまっていたが、「ルバイヤート」とは、俳句や短歌、というように四行詩などを表す一般名詞のようだ。

 知るがよい 友よ
 汝が世にいるのは、ほんの数刻だけ
 天が汝に、世俗の甘酒を注ぐとも
 断固として拒むがよい
 その中に幸福はみつからぬ
 ただ苦き酩酊があるのみ
   p17

 うむ、このルバイヤートを読んだだけでは、私ならオマール・ハイヤムとの違いを発見できない。つまりは、ルバイヤートとは、全体としてこのようなシンボリズムとアルゴリズムを使うのだろう。

 私たちは不可知領域からやってきて、ほんの一瞬後には、また不可知領域に帰っていく。その全体を知り得たら、その一瞬に何事かの執着をもつことは、幸福への道ではない。

 この小説の表紙にもなり、文中にも登場するタジマハール宮殿に私は1週間ほど通いつめたことがある。というか、近くに安宿を取り、毎日でかけて、呆けていた、というだけのことだが。あの荘厳な建築物には、巨大なスケールの割には、それほど見るべきこまかい資料があるわけではない。だが、その場の持っているエネルギーはただものではない。私は階上の回廊から、川向うの、もうひとつの未完の宮殿予定地をながめていた。そして、その二つの宮殿をつなぐべき巨大な橋を想像したりしてみていたこともある。

 長い池はその威容を映し出す鏡になっている。しばしここで私は坐って目を閉じていたものだ。他にすることもないので、自然と瞑想が起こる。たまに旅行客が来て声をかけられることもある。ある時、日本からごく短期のJALパックツアー団体旅行客がやって来て、若きお嬢さんに声をかけられたことがある。

 「日本人の方ですよね・・・?」

 たしかに、髪はぼうぼう、ひげも伸ばし放題。全身オレンジ色のインドで求めたごく簡単な布を纏っていただけの私だが、いくら日焼けして、首から108のビーズのをぶらさげていても、独特の嗅覚で、日本人は、日本人同士を見分ける能力があるらしい。

 「そうですけど・・・」

 薄ぼんやりと目をあけると、いかにもアンノン族の典型というばかりの日本人女性が目の前に立っていた。

 「わ~~い。すみません、一緒に写真を撮らせてくださ~い」

 やれやれ、と思いつつ、もう一人の女性がカメラマンとなって、日本の香りいっぱいの彼女と並んだツーショット写真に収まった。私はインド旅行中、カメラは持っていたが、ほとんど写真をとらなかったから、手元に残っている写真はごくわずかだ。もし、あの時の写真が手元にあれば、このブログで公開したら、大笑い、ということになるだろう。

 1978年の夏ころのことだから、当時JALでインドを旅した女性も、いまや、50代後半になっておられるだろう。もし、偶然が重なり、彼女がこのブログを見ることがあったら、あの時の写真を見せてもらうことも可能だろう。少なくとも、日本のどこかで、あのツーショット写真が、誰かの青春グラフティアルバムに挟まれている可能性がある、と考えるのは愉快なことである。

 ティムールはチンギス=ハーンの小型版にしかなれず、アクバルもまた征服者としてティムールに及ばなかったように、征服者としてのシャー・ジャハンは、ティムールやチンギス=ハーンは言うの及ばず、祖父アクバルの広げた版図を超えることはできないでいる。p28

 今回のこの小森作品は、ジャンル分けで言えば、歴史ミステリーとも言うべきものなのであろうか。いろいろ細かい区分けはあるのだろうが、横紙破りの当ブログとしては、図書館に並んでいる本、という大きな括りで読んでいくしかない。あまりに大きすぎるが、それこそは、規模こそ違え、インターネットのやろうとしていることだ。

 チンギス=ハーンを別な角度から現代に生き返らせた杉山正明は、千年の昔の歴史を扱いながら、現代という時代を見つめ直す視点を失っていないようだ。

 21世紀という「とき」の仕切りに、はたしてどれほどの意味あいがあるものなのか、わたくし個人にはよくわからない。しかし、人類社会もしくは地球社会という空前のあり方のなかで、生きとし生けるものこぞって、ともども生きていかなければならない時代となった。たしかに、「いま」は、これまでの歴史とは画然と異なった「とき」に踏み込んでいる。かつてあった文明などといった枠をこえて、人類の歩みの全体を虚心に見つめ直し、人間という立場から共有できる「なにか」をさぐることは、海図なき航海に乗り出してしまったわたくしたちにとって、とても大切なことだろう。それは、一見、迂遠な道におもえるが、実はもっともさだかで有効なことではないか。「疾駆する草原の征服者」2005/10 p374

 小森が積極的に作品を発表するようになった1990年代から現在までの、大きな括りの20年間のなかで、特筆すべき大事件としては、1995年に起きた麻原集団事件であるだろうし、2001年9月11日におきた世界貿易センタービル崩壊=いわゆる9.11の大惨事である。

 しかるに、この2大事件に対する小森の同時代的なアップデイトな反応をまだ見つけていない。漫画だから、詩だから、小説だから、音楽だから、一般向けじゃないから、などなど、いろいろなエクスキューズを見つけることはできる。しかし、これらどのジャンルにおいても、同時代に深くコミットしているアーティストたちは多くいる。

 当ブログは小森作品を、ちょぼちょぼと、あちこち蚕食しているにすぎないので、いまだ全体像を掴みみきれていないが、この本が出版されたのは、9.11勃発してまだ1年を経ない時点である2002年8月である。あの事件が起きたことを知らないわけもないだろうし、すでに原稿に着手したのが遥か以前であったとしても、脱稿する段階でいくらか手を加えることはできるであろう。

 私はなにも、特別に9.11だけを特筆しようとは思わない。いろいろなことがあり、いろいろな取り組みがある。しかし、この小説「ムガール宮の密室」において扱われているテーマは、3~400年前のインドの「統治者」「神秘家」の対峙だとするならば、現代においても、その構造は、いくらでも見つけることはできる。

 サルマッドに関する記述はすべて英語文献から得たものばかりで、参考文献にあげた著書でも、サルマッドのことを扱った日本語の本は皆無でした。本書は、日本語でサルマッドのことを扱った最初の本でもあります。宗教史上非常に重要な意義をもつこの聖者が、これまで日本でまったく扱われてこなかったのは、残念かつ不当に思うところです。これを機に、文学著作としてサルマッド作品の邦訳が行なわえることにも期待を寄せたいと思います。p266

 サルマッドについては、「私が愛した本」p99の中でOshoも触れていて、ほとんど日本語文献のない中にあって、この小説は実に貴重な資料となろう。

 しかし・・・・、と、それでもやはり、なにかが腑に落ちない。

 当ブログにおいては、個別な存在としてトゥリヤに到達した人々を、なんとも無造作に「カビール達」とひとくくりにしようとする作業の真っ最中なのである。歴史家でもなければ、心理学者でもなく、ましてや文学を深く理解しているわけでもなく、単に居並ぶ書籍たちを、自分のほうに引き寄せて、門外漢の自分にも分かるようにしておこうという当ブログにとって、サルマッドは「カビール達」のひとりでしかない。

 つまり、当ブログにおける関心は、歴史上のカビールやサルマッドの姿をよりリアリティを持って感じてみたい、という欲望とともに、現代におけるカビール達とはなにか、という問いにある。つまり、当ブログはこう言いたい。小森作品は、もっと現代のカビール達に触れるべきではないのか。グローバル時代のインターネット上にあって、世はさらに加速的にアップデイト化している。

 当ブログにおいては、米国オバマ大統領の言動に注目している。十分に触れることはできないでいるが、彼が国民の教育や皆保険に政策を集中させ、グリーン・ニューディールへと舵を切ろうとしている。いままで反米を旗頭にしてきた近隣諸国とも対話の姿勢を示し、核武装のシステム全体を見直そうとする姿勢にも、どのような実態的な成果を挙げられるのか、積極的な支持の姿勢を示しつつ、注視しつづけたい。

 そのオバマの目の前に立ちふさがっているのは、人種問題や、宗教論争である。経済問題や環境問題よりも、ある意味では根が深い。9.11における根本にある問題は、なにもフセインやオサマ・ビンラディンらの存在だけではない。特に、西洋側から見た場合のイスラム教理解は、以前として進んでいない。

 自らフセインというミドルネームを持つオバマは、このイスラムに対する理解をも示そうとする。疑似キリスト教国家である米国は、そのことに必ずしも好感を持ってはいない。もちろん、当ブログにおけるイスラム教理解もほとんど進展していない、というのが実態である。この小説をきっかけとして、イスラムに目を向けるチャンスが増えてくるのは、大いに賛同できるところだ。

 ただ、イスラム、と大きく構えた場合、あまりに巨大なエネルギーでもあり、雑多な要素が含まれすぎて、なにがなにやらわからないままステロタイプのイスラム理解に終わってしまい、結局なんの相互理解にもならない可能性もある。

 ここは、このサルマッドのようなスーフィー達、イスラムの真髄であり、地球人としてのスピリチュアリティの真髄に到達した、個人の姿としてのスーフィー達に、まずは耳を傾けていく必要があるのではないか。そういう視点からもういちどこの「ムガール宮の密室」を読みなおしてみると、生き生きと活写されたスーフィー達の生きざまから、現代人が学ぶべき多くのことを発見できるのではないだろうか。

 雄々しくあれ 光の道を歩む者
 自己を滅するのを恐れるな
 臆病者に道は示されぬ
 蝋燭のごとく自己を焼却せねば
 神は光で導かぬ
      p234

<2>につづく 

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