不思議の国のアリス
「不思議の国のアリス」
ルイス・キャロル /矢川澄子 1994/02 新潮社 文庫 181p
Vol.2 No.641★★☆☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆
「私が愛した本」の中でOshoがこの本を168冊の中の1冊に入れている限り、一度は目を通さなければと思っていた。いや「鏡の国のアリス」とあわせて2冊、というべきか。「英文学の地下水脈」で小森健太朗も「ルイス・キャロル論---アリスの『私』探しの旅」p13という30ページほどの論文を第一章にあてている。もっとも小森にあってはOshoの影響下のなかで、この本に触れている可能性もある。
私がどうしてこういう本を含めるのか、みんなは不思議に思うだろう。私がこれを入れるのは、私にとってはジャンポール・サルトルの「存在と無」と、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」あ、まったく同じだということを世界に対して言っておきたいからだ。何も変わらない。実際は、もしこの2冊の中から1冊を選ばなければならないとしたら、私は「不思議の国のアリス」を選んで、「存在と無」を海の中へに、二度と誰にも見つからないように、はるか向こうの大西洋に投げ込むだろう。私にとっては、この小さな2冊の本は、大いなる霊的な価値を持っている。いや、冗談を言っているのではない・・・・私は本気だ。Osho「私が愛した本」p160
サルトルの「存在と無」は当ブログにおいては未読なので、比較しようがないが、Oshoがこの「存在と無」に触れた部分は、以前に転載しておいた。さて、小森はどう言っているかというと、長いのでダイジェストできないが、部分だけつまんでおこう。
「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」の主人公アリスは、成人した大人ではなく、子どもであり、大人とは違ったものの見かたをもち、推論を立てたりする。例えば、物語の序盤でアリスは、「ここが海なら汽車で帰れるはず」という推論をしている。その意味では、私達の現実世界の成人した大人よりは、アリスは<不思議な国>の住人に近いと言える。その分だけ、アリスには、<不思議の国>の住人と交流できる可能性が開かれている。「英文学の地下水脈」p17
たしかにこの辺は、自分の子供時代にあてはめても思いあたることは多い。ずっと空の雲を見つめていたり、家の中に差し込む光に照らされる煙の陰影に心を奪われていたり、天井の板模様に、人の顔が浮かんだり、遠い町の景色がうかんだり。庭の蟻の行列にずっとついていったり、砂粒の中から様々な色に輝くガラスのような砂だけを取り出して集めてながめたり。なるほど、いろいろあったなぁ。
私が「不思議の国」から追放されたのは何歳くらいだったのだろう。「太閤記」ばかり読んでいた10歳よりは前だろう。5歳か6歳くらいがせいぜいだろうか。あるいは、男の子だった私には、やはり「不思議の国のアリス」にはなれなかったのだろうか。
訳者の矢川澄子はこの本の巻末のあとがき「兎穴と少女」で書いている。
「不思議の国」でも、「鏡の国」でも、アリスはみごとにひとりぼっちです。子供のお話としては、考えてみればこえはとてもおそろしいことではありませんか。なにしろ数多の登場人物のなかでまともな人間はアリスただひとり、自分の同類はひとつもあらわれません。p180
そうか、この本は「私」さがしであり、「個」の体験なのである。個ということでは、先日からすこし気になっていることがある。トランスパーソナル心理学などで言われるところの個とは、つまりパーソナルが語源となっている。つまりペルソナ=仮面だ。三島由紀夫の「仮面の告白」が有名だが、仮面をかぶって暮らしているうちに、仮面とオリジナルフェースが一体化してしまい、とれなくなってしまうという話だった。トランスパーソナル心理学の超「個」とは、作られた人格を超えてという意味になるのだろう。
それに比して、たとえばOshoが「個」でなければ「意識」が現れない、とする時、この個はパーソナル(persona=仮面)ではなくて、インディビジュアル(individual=不可分)を使っているのだ。ここは要注意であろう。こまかく分けていって、細分化していった結果、もうこれ以上2つに分けることのできない原点、基本的な個。それをこそOshoはこの文脈では個と言っているのだ。
さて、不思議の国の少女アリスにとっての「仮面」とはなんだろうか。すでに5~6歳になっていれば、おやつをねだったり、叱られたりしたときの対応だったりと、ひととおりの表情や表現はできているはずだ。しかしそれは、人間として無意識のなかで身につけていく、あらかじめプログラムされている成長であるだろう。
ところが何かのきっかけで、この表面的な表情と、自分の「本音」の乖離に気づく瞬間が来る。痛くないのに泣いて甘えてみたり、悔しいけど笑ってごまかしたりと、すこしづつ「大人」の仕草を身につけていく。ここにアリスの仮面の萌芽が始まる。
では、不思議の国の少女アリスにおけるindividual(不可分なる個)とはなんだろう。いままでは母親、父親、兄妹たち、友だちなどと離れて、ひとりで「不思議の国」に入っていくという体験が、まずは「個」の体験となるのだろう。周囲の環境から切り離されて、まずはさまざまな異種なものと触れ合うこと、ここがindividualのスタート地点となるだろう。
ルイス・キャロルの小説は、すでに人生の思秋期を迎えている私のような熟年男性がはじめて読む本としては、必ずしもふさわしくない。孫になら読み聞かせできるかもしれないが、その世界に没頭しようとするには、そうとう柔らかい感性と頭脳を要求される。しかし、ここにきて「個」を考える場合、ひとつの叩き台としては、意外と便利かな、と思えてきた。
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