アレクサンドリア図書館の謎
「アレクサンドリア図書館の謎」 古代の知の宝庫を読み解く
ルチャーノ・カンフォラ /竹山博英 1999/06 工作舎 単行本 282p
Vol.2 No.635★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆
一番最初に自分のものにしたのは、ポケット・コンピュータだった。コンピュータというより、ちょっと大きめのプログラマラブル電卓というべきか。それでもベーシック言語でプログラミングができたので、これがなかなか楽しかったのである。
プログラミングするのはいいが、記憶装置がついていなかったので、別なソフトを走らせようとすると、せっかく手打ちしたプログラムを一回抹消するか、外部装置にアップロードしなくてはならなかった。その時に活躍したのが、音楽用のカセット・テープレコーダーだった。
フロッピー・ディスクのような優れモノ(笑)がなかった時代なので、このカセットテープにプログラムをアップロードできるというところに、やたらと感動したものだった。自作のプログラムや雑誌に載っているプログラムを小さなボタン・キーボードから入力して、盛んにカセット・テープレコーダーに溜めこんだものだった。
当時、パソコンにニックネームをつけるのがはやっていたので、私もこのポケット・コンピュータに名前をつけた。その名も「アレクサンドリア」。なんとまぁ、大仰な名前ではあったが、初めて自前のコンピュータ(電卓に毛が生えただけだが)の所有することになった私は、有頂天になったものだった。「携帯コンピュータ資格4級」とともに、甘酸っぱい青春の思い出である。
30年経過して、あの頃、漠然と夢見た、「ポケットにアレクサンドリア図書館」という驚異の理想形は、現在では「ケータイ+ブロードバンド+Google」と言う形で、完全に実現してしまっている。しかも、特段の知識もいらず、経費だって、目が飛びぬけるほどのこともない。あの頃で言えば、誰でも宇宙船で観光旅行ができる時代、というのと同じくらいの夢のような話であったはずである。
紀元前3関、エジプト・ナイル河口の都市アレクサンドリアに
世界中の書物を収集するべく一大図書館が建設された。
その蔵書数は70万巻ともいわれヘレニズム期を代表する知識人たちがここで学んだ。
ところが、このアレクサンドリア図書館は、
その後、歴史の混乱の中で、忽然と姿を消してしまった。
その消滅の原因は? 実際はどのような建物だったのか? アレクサンドリアのどこにあったのか?
イタリア気鋭の文献学者カンフォラが、豊富かつ綿密な文献渉猟をもとに、
謎に包まれた古代図書館の実像を推測する! (表紙見返し)
現代において70万巻の書籍など、別に驚くことではない。大体の文化国家の住民であれば、だいたいそれ位の蔵書を持つ図書館の利用は誰でも可能になっている。もちろん70万冊を読めるかどうかはともかく、その可能性は広がったことはまちがいない。ましてや、このインターネットの時代、Googleブックサーチのようなサービスを使えば、遅かれ早かれ、ほとんどの書籍はネット上で「なかみ検索」できるようになるだろう。
アレクサンドリア図書館の存在が貴重なのは、それが現代ではなく、紀元前3世紀といわれる時代に存在したらしいというところだ。この図書館が焼失(あるいは他の原因かも)しなければ、人類の歴史は、すこしは変わっていたかもしれない。変わっていたかもしれないが、変わらなかったかも知れない、とも思う。
そもそも、人類において「知の集積」だけで、その進化を究極まで遂げることができるだろうか。いくら書籍を量的に集めたとしても、それを質的に集積し、活用する技術がなければ、焼失しようが、虫に食われようが、同じことなのではないか。
現在のネット上のブックサーチは、焼失前のアレクサンドリア図書館と同じような状態だ。当ブログのような小さなチャンネルからでも、やろうと思えば、あらゆる図書館にアクセスできる状態になっている。当ブログへアクセスしてきた大学の図書館だって、OPACなどの機能を使えば、ほとんど使用可能な状態になっている。
だがしかし、この「知の集積」が進んだとしても、私にはどうも、人類の進化が可能領域の最終地点まで到達するとは思えない。もし「知の集積」が進むとしたら、「意識の集積」もすすまなくてはならないのではないか、という思いがつよくなる。
仮に、たとえばGoogleのコンピュータが破壊され、アレクサンドリア図書館の消滅のような状態になったとしても、本質的に失われるものはそれほど多くないのではないか、と思う。SF作家ブラッドベリ描くところの「華氏451」のような時代になり、書物が積極的に焚書の目にあうような時代に仮になったとしても、一人が一冊づつ自分の脳みそに記憶すれば、失われるものは確かになくなる。
いや、そうではない。書物に書かれたものを、「もの」として蔵書することの価値よりも、その書物を理解し、それを生き、それを「意識」としてプールすることのほうが、はるかに大事なことなのではないか、ということだ。インターネットの「アレクサンドリア」化に目途が立った今、あらたに人類が目指すべきは、インターネットの「アカーシャ」化ではないだろうか。
アカーシャとは、意識のプールされたものだとされている。アカーシャ理解の共有もまだ進んではいない。また、そのメカニズムも、活用方法も、十分開発されているとは言えない。しかし、時代の流れは、次第にそちらのほうに向っていると、当ブログは考えている。
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