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2009/05/20

解説ヨーガ・スートラ

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「解説ヨーガ・スートラ」 
佐保田鶴治 1980/02 平河出版社 単行本 281p 新装版1983/08
Vol.2 No.633★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 どうしてヨーガの「馬を車につける」という古意から「三昧(瞑想、精神統一)の意味が出て来たのか? この疑問に対して、歴史の偶然の幸運というか、まことに適切な答えがカタ・ウパニシャッドによって与えられている。p183 

 「馬車、馬、御者、主人」は極めて分かりやすいし、「馬車、自動車、飛行機、大鳥」論も面白い。ヨーガのもともとの意味は、馬車と馬をつなぐ、という初歩的な意味を持っているだけだが、もちろん、長い体験とインスピレーションの歴史のなかで、もっともっとはるかに高度に積み上げられた体系が出来上がっている。

 前々世紀(1899年)生まれの佐保田鶴治が、自らの病弱体質を治すために取り組んだヨーガ行は、自らの学問的探求的側面に裏付けられて、日本におけるヨーガ理解に大きな道を開いた。後の1980年代NHKテレビにおけるヨーガ講座などの指導も記憶に鮮やかである。

 ヨーガ・スートラは各章各節の排列の仕方が極めて特異なので、本書の一貫した思想をつかむとか、章節間の関連をとらえるということは非常にむつかしいのです。p5

 この一冊に目を通しただけでも、いわゆるヨーガ・スートラというパッケージのなかにインド5000年の歴史がてんこもりに盛り込まれている。あの手この手の配慮が行き届いている。だから、この本の中に、ほとんど誰もが自らの足がかりを見つけることができろうだろう。しかし、この本の全部を必要とする人はそうそういないだろうし、全部を頭に入れてしまうことは、時と場合によっては弊害をも生みかねない、と私なら思う。

 この本は、プラネタリウム館の非常口のように思える。非常口は必要だ。しかし、満天の星々を映し出すには、非常口の明かりを消す必要がある。でも、非常口がなくなるわけでもないし、非常口があるからこそ安心できる。万が一の場合は、非常口を使わざるを得ない。絶対必要だ。だけど、その位置を最初に確認したら、あとは、それを忘れてしまいたい。もちろん、使わないで済んだほうがいいにきまっている。

 その同じ静慮が、外見上、その思考する客体ばかりになり、自体をなくしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である。p122

 当ブログにおいては、ようやく話題が瞑想というところに行きつこうとしているところであるが、こまかくは突っ込んでいない。瞑想や三昧という言葉を使うことによって、なにかが分かってしまったような気分になるのは、そうとうにヤバイなという危機感がある。だから、当ブログにおいては、いまだに「瞑想」は「(なんちゃって)瞑想」でしかない。言葉や知識が先行することによって、自らの体験を抜きにして、イメージだけが先行しすぎるのはぜひ避けたいと思う。

 しかしながら、地図なき道としての(なんちゃって)瞑想におけるリスクは決して少なくない。万が一、乗り上げたり、落っこちてしまったら、このヨーガ・スートラは、多いに役立ってくれるに違いない。だけど、それはエマージェンシーの場合にとっておいてもいいのではないか。

 チベット密教においては、ラマの指導が絶対とされる。グルジェフ&ウスペンスキーにおいてはスクールが必要とされる。さて、ヨーガ・スートラにおいても、そのテキストはかなりの説得力を持って存在している。

 よく三つの宝と言われる仏法僧。仏教においては、もっとも基本とされるシステムだ。しかし、もし私がOshoのサニヤシンとして瞑想をしていくとするなら、仏=ブッタム(ラマ)も、僧=サンガム(スクール)も、やんわりと否定される(あるいは熟考を要す)。とするなら、法=ダンマム(ヨーガ・スートラ)も、どのように取り扱われるべきかは、自ずと理解されることになる。

 業、輪廻の思想はウパニシャッド神秘思想以来のインド哲学思想の根幹の一つである。これなくしてはインドの哲学思想は成り立たないのである。p269

 さまざまな教説がある。だが、自らの体験をおろそかにして、教義や経典に対する依存度をいたずらに高めていくことは、避けなければならない。

 法雲三昧 最高英智に対してさえ執着の念を起こさず、あらゆる形の弁別智を展開した後に発言する三昧であって、この三昧の境地においてすべての煩悩と業は滅び去る。その結果無限の英智が発現して、知らねばならないことはすべてなくなる。仏教でもボサツの最高の修習位を法雲地とよんでいる。p281

 著者におけるヨーガ・スートラ解説の最終項においても、菩薩に触れられていることは興味深い。

 3番目の本は、パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」だ。バーダラーヤナはあまりにも深刻だ。ナラダはあまりにもおどけている。パタンジャリはまさにその中間、正確にその真ん中だ。性真面目でもなければ、不真面目でもない。まさに科学者の精神だ。私はパタンジャリについては10冊の本で話した。だから彼についてはこれ以上言う必要はない。10冊話した後で、これ以上何かを言うのは、それに何かを付け加えるのはむずかしい・・・・。ただ私がこの人を愛しているということだけをつけ加えておこう。Osho「私が愛した本」p58

 当ブログで未読であるが、Oshoパタンジャリ講話日本語訳には「魂の科学」がある。

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