星野君江の事件簿
「星野君江の事件簿」
小森健太朗 2008年06 南雲堂 単行本 262p
Vol.2 No.607★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆
小森作品を読んでいると、予期せぬことを思い出してしまうことが多々ある。当ブログ、今回も、小森ワールドのメタフィクションとやらに誘発されて、いらぬ自己開示を、いくつもしてしまった。ネット上の準匿名のブログにつき、個人情報の取り扱いはデリケートにならざるを得ないのだが、ついつい乗せられてしまったというべきか。
この「星野君江の事件簿」は1996年から2001年の小説雑誌などに掲載された7編の短編が収録されており、「チベットの密室」や「インド・ボンベイ殺人ツアー」などが含まれている。
「今年になってから彼女、このインドのプーナに来ていてね。かれこれ2ヵ月くらい滞在していることになるかしら。そこの瞑想道場で、瞑想の修行をしているの。2年に1回くらいは、その修行をしないと、匂い能力が弱まってしまうっていっていたわ」p82「ロナバラ事件」
450万人の人口をかかえるプーナのことである。さまざまな道場があることだろうが、ちょっとそば耳を立てて聞きたくなる部分ではある。
小森作品を読んでいると、あらぬことを思い出すのが通例となってしまったが、なぜにこのようなことが起きるのであろうか。
誰かと出会う。あれ、他の誰かと似ているな。あれ、あいつだ。あいつ本人ではないけど、よく似ているなぁ。そして、○▼×に似ている奴、という風にして、自分のハードディスクに書着こんでいるのだろう。関連付けないと覚えられないというのは、記憶力の衰退でもあろうか。
今回もまた、この「星野君江事件帖」を読んでいてあらぬことを思い出してしまった。いや別に忘れていたわけではない。むしろ忘れてしまいたいことではあったが、あの忌々しい事件のことは、そう簡単に忘れられるものではない。
1992年に「湧き出るロータス・スートラ」を書いたあと、個人的には、長期の執筆計画を立てていた。着想もあたためていたし、協力してくれる人もいた。しかし、それからまもなくして、ある日の朝、その計画は無残にも変更を余儀なくされた。
初歩的な文書のミスによって、私は何事かの嫌疑がかけられたようだった。被害がある事件でもなく、ちょこちょこっと訂正すれば、はい完了、という程度の修正ですむはずだった。簡単なことだ。それなのに、ものごとはそう簡単にはおわらなかった。
なぜなのだろう。最初はわけが分からなかった。なぜにこれだけのことで、このような作業が進められているのか。前代未聞である。慣習的にはよくあることだ。なぜに私にだけ白羽の矢が立ったのか。いや、この場合、黒羽の矢、と言うべきか。
それから数日して、ふと私は気づいた。私はある大事件に巻き込まれようとしていたのである。いや、すでに1年前に起きた大事件の容疑者として、だいぶ以前からマークされていたのだ。
一部地方では大々的に繰り返し報道されていたから、私もその事件については知っていた。しかし、それは、別世界のことの話。困ったこともあったものだねぇ、というくらいの認識しかなかった。
発生当初は早期に解決するだろうと思われていた事件だったが、意外に難航した。まもなく発生後一年という時、当局は、ひとつの成果を提示しなければならなかった。
その図式が薄ぼんやりと見えてきた時に、なるほど、と私は手を打った。私の嫌疑は、小さな形式的なものだ。そのミスを問われることさえ不思議なことだ。だが、しかし、もし陰に隠れていた大事件に関わる存在としてなら、私はなるほど怪しい存在となる。
土地カンがあること、毒物劇物取扱の資格を持っていること、ワゴン車を所有して、しかも最近急いで処分したこと。いや別に急いでいたわけではない。予定通りの計画だ。だがしかし、疑おうとすれば、どこまでも私は怪しい。
事件にかかわるA地点とB地点にも知人がおり、しかも事件当時、その知人たちを訪問していること。しかも、事件現場には、数少ない手掛かりとして、マルーン色の紐が落ちていたと新聞にも書いてあった。おいおい、これでは、私以外に犯人はいないことになるのではないか。ゾッとした。
当局は難航する捜査のなかで、今でいうところの、キーワードをいくつか入れて検索してみたのだろう。そして引っかかった存在をしらみつぶしに調べ挙げていたのだ。なるほど、考えてみれば、私は怪しい。文書ミスなどたいしたことではない。しかし、私をあの大事件の一方の当事者に仕立ててみれば、うまくこのジグソーパズルには、あてはまる。
ただ、当局は大事件のことには触れない。あくまで文書ミスについての形式的な手続きを進めている。これは明らかに別件で調べられていたのである。
いくら調べても手掛かりはでてこない。当時、私の所持品の中から小森健太郎著「コミケ殺人事件」の一冊でもでてくれば、私の嫌疑はさらに深まったことだろう。なぜなら、被害者の女子高校生とコミケには、なんらかのつながりをみつけようとすれば、見つけることができるからだ。「コミケ殺人事件」一冊で、容易に「動機」はねつ造できる。
だが、残念ながら、私はミステリーには一切興味がない。蔵書は一部屋をひとつ埋めるくらいはあるだろうが、推理小説などない。ましてや、ロリコンやら、コスプレやら、ミステリーなどにまったく無関係な無粋な中年男にすぎないのである。たばこも吸わない無趣味な男である。薬物などの線から追及することなど更にできない。当局は諦めざるを得なかった。
この事件で私が学んだことは多かった。すくなくとも1年間に渡って私は尾行されていた可能性がある。あの場所でのあのこととか、あそこでのあんなこととか、つなげようと思えば、いくらでも事件を構成する要素に成り得る。あの体験から私が学んだものは多かった。常に身辺を綺麗に整理しておくことも必要なのだな。余計な事件にはまきこまれたくない。
それから私は少し大人しくしていようと思った。せめて真犯人が上がるまで、余計な動きはしないでおこう。そして、社会的に善人として振る舞うことも、これも大切なことなのだ。
当時たまたまたまわってきた町内会の班長を快く引き受けた。翌年には町内会の青年部のたち上げを依頼され、こころよく準備委員会から設立まで走り回った。せめて、あの事件が解決するまでは、周囲からも良い人と思われるようにしておこう。
夏祭り、火の用心の巡回、道路清掃、花いっぱい運動、新年会に、忘年会。町内会にも、さまざま行事がある。子どもたちと積極的に参加した。だが、なかなかあの事は解決しなかった。
小学校では父親の会が立ちあがった。私も設立メンバーとして参加し、ミニ四駆大会やら、河原でのキャップなど、いろいろな企画もやった。テレビ取材などがきたときには、デカイ顔をさらしたことも2~3度あった。
子どもが中学校に進学したのに、ともなって、私はなぜかPTAの役員を引き受けることになった。これもしかたない。一種の隠れ蓑として使えば、使えないこともない。善人でいよう。その計らいが、幸か不幸か、おもわぬ結果を引き起こした。下の子が中学校を卒業しようという時には、会長職さえ引き受けていたのである。しかし、ここは我慢、我慢。
そして・・・・、子どもの進学に伴って、私は高校PTAの会長職をも引き受けることになってしまったのである。しかも3年間も。最初、「年4回、学校にきていただければ結構です」、と事務長が言っていたではないか。入学式、総会、文化祭、それに卒業式。それならなんとか私にもやれるかな、と思っていたが、これが大間違いだった。
地方によくありがちな傾向なのだが、高校の野球部は一部の優良高校だけが常連で、ほかの高校はなかなか甲子園にいくなどは夢の夢。甲子園にいくぞ、がスローガンではあっても、一般の高校が地区大会で優勝することなどほとんど皆無だ。
その皆無とおもわれていた珍事が、私が会長職をしていた高校に起きた。県内から夏の大会に公立高校として出場するのは40年ぶりとかで、教育委員会もびっくりすらウロウロするやら。優勝の喜びもつかのま、選手たちを送りだす予算がない。聞けばウン千万円、かかるというではないか。
創立して20周年しか経過していない若い学校である。OB達もまだまだ社会の中の中堅とは言えない。寄付金を募るものの、多難が予想された。やむなく、PTAが主導権を握り、OB会と野球部親の会、三者一致結束してなんとか無事その予算を創り出せたことには、いまだにびっくり。当時の関係者の方々に頭があがらない。感謝でいっぱいである。
甲子園のあとにも仕事は残っていた。一回戦で1:4で敗退したため、せっかくの寄付が余ってしまったのだった。半端な額じゃない。協議の結果、その御好意は、野球部の雨天練習場となって残ることになった。
公立高校の敷地内に建てる建物は、競争入札でなければいけない。そのようなことが分かったのは、あとからだった。手続きも大変なものだった。自治体と交渉し、工事会社と図面を見較べる。毎日毎日が緊張の連続だった。何が年に4回なもんか。私は週に4回くらい学校に通っていた。
善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。親鸞聖人の言葉をもうすこし早く含味すればよかったかもしれない。私は、なにも善人にならなくてもよかったのだ。後悔は先に立たずだが、ほんの短期のつもりだった、善人のふりをする作業は、果てしなく続いた。子どもが高校を卒業しても、教育委員会の外部委員とやらを何年もやりつづけることになってしまったのだった。
「湧き出るロータス・スートラ」以来、お前はなにをやっていたのだ、と友人たちからは問いただされそうだ。たしかに私のキャリアには10数年の空白がある。しかし、小森健太朗ファンには、このストーリーの種明かしが見えてきているだろう。
あの事件はついに時効を迎えた。迷宮入りしたのである。あれだけの有力な手掛かりがありながら、私なんぞにかかずらっていたものだから、真犯人を逃してしまったのだ。本当の被害者は私かもしれない。我が身の置かれている状況を把握して以来、時効を迎えるまでの10数年間を、大人しくして善人としてふるまわなければならなかったのだから。
迷宮入りしたとは言え、肩の荷がおりたわけではない。まずは被害者の冥福を祈り、そのご家族にも御痛みを申し上げたい。そして、いまだに私は参考人の上位にランクされつづけているかもしれないのだ。その嫌疑ははらしたい。
私はこの事件の解決のため、いずれ星野君江探偵事務所を訪れ、手持ちの膨大な証拠資料を提示するつもりである。とくに私の無罪を証明するための証拠品。歯医者の治療代のレシートを確認してもらおうと思っている。事件のあった当日。私は歯痛がひどくて、歯医者から帰ったあとは自宅で寝ていたのだ。私には絶対的なアリバイがある。証人もいる。私は無実である。犯人でなどあるはずがない。
そのためにも、私はあの事件を迷宮入りのままに放置せず、なんとか解決してもらいたいと思っている。ただ、そのための経費を準備するまでには、またまた時間がかかりそうだ。
見事この事件が解決したら、私はこの事件と体験をもとにミステリー推理小説を書くつもりだ。出来がよかったら、なにかの文学賞でも狙おうではないか。私の人生哲学は、転んでもただでは起きない、だ。
いやまてよ。そんなことをしていたら、何回生まれ変わっても人生の最終目的は達成できない。ここはプロにまかせたほうが早いだろう。現代日本のミステリーの鬼才・小森健太郎なら、うまいことサバいて、見事な推理小説に仕上げてくれるに違いない。そして、いずれは「星野君江の事件簿」のひとつに加えてくれるだろう。それを読むまでは、あの事件のことは忘れないでおこうと思う。
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