« 神秘家の道<8> | トップページ | 神の詩 バガヴァッド・ギーター<1> »

2009/05/13

ラビアの奇跡 イスラムの奇跡譚集 <1>

書物の王国(15)
「ラビアの奇跡」「イスラムの奇跡譚集」 「書物の王国」(15)「奇跡」<1>
イードリース・シャー 小森健太朗訳 『書物の王国』編纂委員会 2000/01 国書刊行会 全集・双書 250p
Vol.2 No.615★☆☆☆☆ ★★★★☆ ★★★★★

 
「書物の王国」は全20巻で、国内外の小さな文学作品が、それぞれのキーワードつながりで、まとめられている。この15巻は「奇跡」がキーワードで、タゴールやトルストイ、芥川龍之介、宮沢賢治といった作家たちおよそ30人ほどが並んでいる。登場作品が多すぎるために、ひとつひとつは小さなスペースしか与えられていないが、書物という王国への入口と考えれば、これはこれで価値ある試みである。

 この中には、「ラビアの奇跡」マーガレット・スミスp24、「イスラムの奇跡譚集」イードリース・シャーp53、「神の道化師」ジブランp191の三つの作品が、小森健太朗の訳・共訳になるものとして収録されている。

 ・・・・かの有名な賢者---この時代の驚異とも言うべきあの聖者は、弟子たちに、無尽蔵とも思える知恵の泉を与え続けた。
 彼は、自分のすべての知恵が、自室に恭しく保管されていいる大冊の書物に由来すると言っていた。
 その聖者は、何人もその書物に触れることを許さなかった。
 聖者が死んだとき、周囲にいた人々は、自分たちが相続人であると自認して、彼が大事にしていた書物に見いだせるはずの大いなる知恵を得ようと、その安置所へと殺到した。
 しかし、その書物を開けてみて、彼らは驚き、混乱し、失望した。それはたった一頁にしか文字が記されていなかったのだ。
 そこに書かれている言葉を読んで、彼らはさらに驚愕し、ついでに当惑した。
 それは以下の通りだった。
<入れものと中身の違いがわかるとき、あなたは、知識を得るだろう>。
p53

 これはいわゆるスーフィーの「本」を意味している。私はこの本自体のことは知らないが、この本になぞられてOshoのもとでつくられた「The Osho Nothing Book」は手元に一冊ある。当ブログは、正月早々、まさに、この一冊から2009年をスタートさせたのだった。

 「ラビアの奇跡」については、Osho「私が愛した本」の中では、「ラビア・アル・アダビア」として紹介されている。

 彼女はスーフィーだ。その名前は、ラビア・アル・アダビアだ。「アル・アダビア」とは、「アダビアの村から来た」という意味だ。ラビアというのが彼女の名前で、アル・アダビアが出身地だ。スーフィーたちは彼女をそう名付けた。ラビア・アル・アダビア。その村は、ラビアの生存中に、まさにメッカになった。世界中からの旅行者、いたるところの求道者がラビアの小屋を探し求めてやって来た。彼女は実に過激な神秘家だった。手にもったハンマーで誰の頭骸骨でも叩き割りかねなかった。実際、たくさんの頭骸骨を叩き割って、その中から隠された精髄を取り出したものだ。Osho「私が愛した本」p63

 ZENやTANTRAという時にひとつのイメージが湧いてくるように、SUFIというと、やはりひとつのイメージが湧いてくる。しかし、スーフィーとは、羊毛の衣を身にまとった修行者、という意味合いがあるだけで、その本来の意味合いについてはあまり良く知られていない。まだ十分に紹介されていない、ということもあるだろうが、当ブログを含め、一般読者も十分に知ろうとしてこなかったのではないだろうか。

 ZENやTANTRAにしても、かなり以前から知られているわけではない。それぞれの紹介者があって、時期を得て、それぞれに世界的な認識が深められていったのだった。文献を見る限り、スーフィーについても、かなり以前から紹介はされている。しかし、それはやや散発的で、必ずしも体系的なものではない。

 チベット密教についての日本における紹介者としての立川武蔵なども、学者としてかなずしも「チベット密教」の専門家としてスタートしたのではなかったかもしれないのに(未確認)、次第に、その道の権威となった人もいる。それは学者としての能力とタイミングにもよるだろう。当ブログは、立川の学者としての変遷にはすこし頭をかしげるところもあるが、読書ブログとしては大い恩恵をうけている。

 ことほど左様に、もし学者としての方向性と、時代のタイミングがあえば、小森健太朗は、新たに日本社会におけるスーフィー文化を蘇らせた紹介者、という位置を確保できるのではないだろうか。「ムガール宮の密室」において、日本においてはほとんど無名なスーフィーの聖者を蘇らせたように、今後の活動にも期待したいところである。

 ただ、気になるところは、たとえばスーフィーにしても、だれだれの悟境という個性より、なにか共通した世界観に通じるところがあり、個別に伝記物として、こしらえすぎるのもいかがなものか、ということだ。言ってみれば、Oshoがいうところの、超意識から、集団的超意識へという道があるとすれば、スーフィーとひとことで括られるところに集団的超意識が存在するようにも思える。

 だから、痛し痒しなのではあるが、個別的な歴史や情報が再発見、再紹介されるのは大変うれしいことなのだが、全体としてのスーフィー意識が見落とされないように願いたい。パンディットやアーティストであることの落とし穴もまた存在する。

 超意識から集団的超意識、そして集団的超意識から宇宙意識、と昇りつめて行った場合、TANTRAやZEN、HASIDとともに、SUFIも、間違いなくその一角を占めるだろう。だが、宇宙意識のなかでは、それぞれのネーミングは失われるだろう。

 情報が少ない中、あるは情報を見つけるやり方が上手でないゆえに、どうしてもスーフィーというとグルジェフ+ウスペンスキーがらみの、一種独特の味付けがなされた後のスーフィーにしか触れられないことが多い。いつのまにかステロタイプのスーフィー理解をしてしまい、やがて膠着してしまいかねない。

 こういう形で、小さな紹介とは言え、多面的なスーフィーが紹介され続けていくと、小さなジャブが、いつの間にかカウンターパンチに匹敵するような威力を発揮するように、必ずや、読者に新しい真のスーフィーを知りたい、という探求心を起こさせるだろう。

「(暫定)カビール達の心理学」
「定義e:意識から始まり(宇宙)意識に至り、更に意識に円環する。」

<2>につづく

|

« 神秘家の道<8> | トップページ | 神の詩 バガヴァッド・ギーター<1> »

49)ブッタ達の心理学2.0」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ラビアの奇跡 イスラムの奇跡譚集 <1>:

« 神秘家の道<8> | トップページ | 神の詩 バガヴァッド・ギーター<1> »