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2009/05/14

ギータ・ゴーヴィンダ<1>

ヒンドゥー教の聖典二篇
「ギータ・ゴーヴィンダ」 ヒンドゥー教の聖典二篇 <1>
ジャヤデーヴァ  小倉泰 /横地優子 2000/09 平凡社 文庫 280p
Vol.2 No.619★☆☆☆☆ ★★★★★ ★★★☆☆

 イスラムやインド圏における文献は、なかなかとっつきにくく、思いたって闇雲に読み込みを始めてみたものの、よくよく考えてみれば、ヒンドゥーもイスラムもまぜこぜで読みすすめていることになる。「(暫定)カビール達の心理学」という枠組みの中での編集作業ととらえるなら、それで特に問題ではないのだが、読みすすめていて、あれ? これは? と、そのひとつひとつの違いに気づくことになる。

 「ナスレッディン・ホジャ物語」が、ムラ・ナスルディンという伝説上の人物に仮託したイスラム圏における知恵話だとするなら、こちらの「ギータ・ゴヴィンダ」は、まるでポルノグラフィーか、とみまがうような妖艶な恋愛話に仮託した宗教的信条のヒンドゥー的表現ということになろうか。「ルバイヤート」においても酒や恋人というシンボルがコンパクトな感覚で使われているが、こちらは、フルカラーの一大絵巻物というイメージすらある。色彩が飛び出してくる。

 三番目。「ギータ・ゴヴィンダ」---神の歌だ。この本は、インド人にひどく非難されているある詩人によって書かれた。というのはその「ギータ・ゴヴィンダ」、その神の歌の中で、彼はあまりにも多く愛について語っているからだ。インド人は愛に反対するあまり、この偉大な作品を一度も評価したことがない。

 「ギータ・ゴヴィンダ」は歌われるべきものだ。それについては何も語ることができない。それはバウルの歌、狂人の歌だ。それを歌い踊れば、それが何かが分かる。他に方法はない。

 私はそれを書いた人間の名前には触れていない。それは必要ではない・・・・X---Y---Z・・・・私がその名前を知らないというのではないが、彼が覚者(ブッダ)たちの世界に属していないという単純な理由で、それについて触れることはすまい。とはいえ、彼は大いなる貢献をした。Osho「私が愛した本」p35

 バウル、そう、この単語を久しぶりに思い出した。瞑想の道と愛の道があるとするなら、これは愛の道ゆきだ。高く天空に飛翔するというイメージではない。この地上にさも天国が舞い降りてきたような快楽の世界だ。

<2>につづく

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