眠れぬイヴの夢
「眠れぬイヴの夢」
小森 健太朗 1997/11 徳間書店 単行本 210p
Vol.2 No.597★★★★☆ ★★★★☆ ★★★☆☆
奥付に、「ミルダッドの書」と「漂泊者」に続いて三冊目のタイトルが「訳書」として並んでいる。あれ? おかしいな、この作者に三冊目の翻訳書はあったっけ。著者名は違うが、タイトルは、どこかで聞いたような気がする。しかも、更におかしいことに、その一行だけ、二重線で消されている。ははん・・・・。
探偵学なるものを、ちょっぴり自己流で学び始めた当ブログは、もうこのへんでピピンと来る。自慢するのもなんだが、だんだんと、ネタばらし手品ミステリー作家の、だいたいの手のうちが読めてきた。
芸能界では売れなくなった女優が脱ぐというのはよくある話だが、メタフィクションと称して自分の周りの人間を登場させたり内輪話に走るのは、作家にとって「脱ぐ」にも等しい所業であろう。あとがきp208
なるほどやっぱりそうであったか。「ネメシスの哄笑」や「神の子(イエス・キリスト)の密室」を読んで少しは気がついていたのだが、この手の技法がミステリー推理小説には存在しているのだ。しかもこの本は、「神の子の密室」の続編という形になっていた。順番が逆にならなくてよかった(笑)。
手品の世界に、いろいろタイプがあれど、ほぼ3つのスタイルを想定してみる。一番ポピュラーなのはミスター・マリックのような、手品の技術は一流で、手品であることは分かっているのだが、ほとんどネタが分からない手品師。
それに比して、少ない存在だとは思うが、技術は甘そうに見えるし、ネタはバラすし、三流に見えるが、結局、ステージを務めると、結構客席の人気が高いのが、マギー司郎、タイプ。
そして一番始末が悪いのが、手品と言っていいのかどうか分からないが、トリックも見破れないし、自分もこれは手品だと言わず、真実だと言いきってしまうユリ・ゲラー・タイプ。
この3タイプでいうと、私には、この小森健太朗という作家は、日本ミステリー界のマギー司郎に見えてくる。そう思って写真を見てみると、ひげこそ生やしてはいないが、どこか似ているようにも見えてくるから不思議だ。このあと、どのように作品が変化していったのか分からないが、この段階では、このメタフィクションとやらの手法を使って、着々とページを確実に稼いでいるようだ。
このようなジャンル分けでいうと、当ブログでは、たとえば「ドンファンの教え」とかシャリー・マクレーンのシリーズのようなものは、どのようにとらえればいいのだろう、といつも悩んでいる。ドン・ファンについては、中沢新一から最近読んだ「聖なるマトリックス」まで、一貫して高く評価する人々は多い。
私は、この本の第一巻の出版当時から知っていて、なぜかほぼ全巻手元に持っているのに、好きにはなれない。ウソくさいのだ。Oshoもどこかでカスタネダに触れ、「人は霊的虚構(スピリチュアル・フィクション)を書くべきではない。その理由は単純で、人々が霊性(スピリチュアリティ)とは虚構にほかならないと考え始めるからだ。」と言っている。
当ブログでは、カスタネダもシャリー・マクレーンも、メタフィクションを使っていると思う。程度の差はあれ、どこかで醒めて、その技法を活用している。これが、最初から「エンターテイメントですよ」と、マギー司郎を演じてくれればいいのだが、演じているうちに、すっかりミスターマリックレベルになってしまい、しまいには、自分自身まですっかり騙してしまうユリ・ゲラーに陥っているのではないか、と見えるのだ。
たとえば、実体はよく知らないが、一連のフィンドフォーン関連本も、みずから自己催眠に陥っているような、あやうさを感じる。少なくとも私にはあのようなメタファーは必要なさそうだし、効力もない。
さて、日本ミステリー界のマギー司郎についてだが、この手の本については、我が家では圧倒的に多く読んでいるのが、わが奥さんである。彼女に言わせれば、95%の真実に5%位のウソをたくみに混ぜるのが、一番面白いのよ、という。だが、私にしてみれば、その「面白いのよ」というところが、どうも気にくわない。
Oshoは「そこに髪の毛一本の隙間があっても、それは真理の外側でしかない。」と手厳しい。つまり、当ブログは、ユリ・ゲラーがもし手品師であったら、もっとも犯罪的であると思う。もちろん、ミスターマリックの手品には手品である限り、大いに楽しみたいが、すでに手品である限り、どこかにネタがあることは推測できる。マギー司郎においてや。
しかし、人はなぜにマギー司郎の手品(といえるかどうか)に魅力を感じるのだろう。それは、すでに手品ではないからだ。手品師のように見せていて、実は彼は話術師だ。話術で客席を魅了している。
つまり、当ブログが推測するに、日本ミステリー界のマギー司郎は、密室トリックなどという推理小説を書いている振りをしながら、せっせとなにかほかのメタファーのための文章修業をしている、と思えるのだ。
「ネメシスの哄笑」あたりでは、公衆電話や留守番電話、郵便局留めの手紙類が小道具として使われていたが、この「眠れぬイヴの夢」になると、ファックス、ワープロ、フロッピーディスクが小道具として使われ、わずかな間に時代が変化していく様子も読みとれる。
しかし、時代の変化は予想よりはるかに進んでいる。ブロードバンドやケータイが当たり前に普及し、クラウド・コンピューティングが台頭してきている現代において、我らが日本ミステリー界のマギー司郎は、いかに生き残りをかけているのだろうか。あやうし・・・。
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