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2009/05/19

現代アート、超入門!

現代アート、超入門!
「現代アート、超入門!」 
藤田令伊 2009/03 集英社  新書 204p
Vol.2 No.632★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 ちょっと甘いが、この本、満点。満点とは言っても、当ブログには、7つ星とか、レインボーカラーなんていう奥の手があるので、天を極めたものではないが、期待値に対する結果は、はるかに凌駕していたと言える。なんせ、「超入門」、というのがいい。しかも、当ブログ好みの新書である。久々のヒット新書本。

 当ブログにおいては、サイエンス---アート---コンシャスネス、という3分野についての、均等なアプローチをよしとしている。サイエンス(科学)にも様々な分野があり、あえて当ブログでは、その代表をインターネットに務めさせている。同様に一言でアート(芸術)と言っても、さまざまあるが、ひとつの文芸としてジャーナリズムに代表を担当させている。コンシャスネス(意識+α)については死を持ってその任を果たすべく配置している。

 つまり、当ブログにおいては、アートとジャーナリズムは等価なものとして位置づけられているのだが、これはかなりぶった切りのはなはだしい話であって、アートとジャーナリズムはまったく対極において語られるべき場合もあるはずである。

 しかるに、つまり、アートとはなにか、ジャーナリズムとはなにか、という目的論的に論を進めたときに、結局はアートとジャーナリズムには違いがないのだ、ということを、この本は私に痛感させてくれた。つまり、科学と意識をつなぐ、架け橋としての存在、それが芸術(アート)だ、と言っているのだ。

 この本、現代アートの超入門書であり、マティスやピカソの口絵から始まって、はてはウォーホール、さらにほぼ無名の管亮平の2008年の作品まで続いていくが、この本、決して現代アートだけを論じているわけではない。いや語られているのは現代アートだけなのだが、現代アートへの足がかりを探りながら、クラシックアートを再認識するための足がかりをも、しっかりと見つめさせてくれるし、芸術全体への再認識のチャンスを与えてくれる。

 デュシャンは、「ダダ」(あるいは「ダダイズム」)という、ちょっと変わった名前のグループの一人と見なされている。p94

 近所のダダイスト、日本のハプニング・アートの鼻祖とされるダダカンこと糸井貫二のことを思い出すたび、私は、身が縮みあがる。彼のアートは、額縁に入れられたり、博物館に飾られたりするアートではない。それでも、額縁アートや博物館アートより、はるかに評価が高い場合があり得る。末永蒼生だって、本来は、ハプニング集団「PEAK」を率いるアーティストだった。決してお絵かき教室のおじさん(だけ)ではない。

 モンドリアンはまた、神智学という少々オカルティックな学問を学んでいた。神智学とは、この世界は神的な存在の意図に基づいてできており、すべての物事にはすべからく理由があり、物事と物事のあいだには必然的な関係があるとするものである。p102

 モンドリアンのアートは、「英文学の地下水脈」とのつなげて鑑賞したら、面白かろう。何が、「少々オカルティック」なもんか。神智学はオカルトの本道だ。一枚の絵として、そのアートを鑑賞することなどできない。アートという切り口を通して、彼が取り組んでいたのは、アートを通り越した別のなにかだ。

 評論家たちの話は難解で、現代アートはそれを理解することのできる一部の特権階級のものだというエリート意識をくすぐるような風潮さえ生まれた。p140

 いわゆるモダンアート、現代アートと呼ばれているものは、すでに過去のものになっている可能性がある。その役割は明確で、その仕事量も半端ではなかったけれど、現代思想や哲学が病弊してしまっているのと、おなじ危機に瀕している可能性がある。

 ポップアートは、価値あるものとそうでないものの境界だけではなく、高尚と低俗の境界、アートとビジネスの境界、アートとデザインの境界などをすべて曖昧にし、可能性を広げたと同時に、それぞれのアイディンティティを希薄にもした。p158

 ポップアートですら、すでに旧聞に属する。

 インターネットをはじめとしたITは、私たちに一昔前とは比べものにならないくらいの利便性をもたらした。(中略)昨今では、インターネットのなかにバーチャルな社会が成立するようになり、そこでは現実の社会と同様の営みがなされている。p196

 その結果、

 近年のアートは感覚に偏った傾向が顕著になっている。こうした現代アートの状況を「マイクロポップ」とか「インプライベート」といったキーワードで解読しようとする試みがなされたりしている。p198

 科学が進化し、意識が深化する限り、そのかけ橋であるアート(芸術)も変貌を遂げざるを得ない。

 私が常々思っているのは、「菩薩になりたい」ということ。如来のように完全に悟りきるのはムリだとしても、自分なりの努力によって菩薩となり、自分も修行しつつも、自分がこれまでに得られたものをほかの人にも伝えられれば、という想いで、そういった菩薩の位置付けが自分にはピッタリに思えるのである。p201

 「悟り切るのはムリ」、とは、ご謙遜だろうが、一応申し上げておけば、菩薩とは、悟り切ることができるのに、悟り切らないで、此岸に留まる、ということ。この菩薩行は、半端なブッダ行よりはるかに優れたアートと言える。「菩薩としてのウェブ」の探究を始めたばかりの当ブログではあるが、さっそく一冊よい足がかりを見つけることができた。

 藤田令伊菩薩に、合掌。

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