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2009/05/08

バビロン 空中庭園の殺人

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「バビロン 空中庭園の殺人」 古代文明ミステリーファイル
小森 健太朗 1997/04 祥伝社 315p
Vol.2 No.606★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 リアルとフィクションというと思いだす一つの体験がある。

 1975年に「存在の詩」を読んで、1977年にインドに行くまでの間、私は全部で10名ほどの小さな印刷会社で働いていた。旅行資金のために一生懸命だったということもあるが、仕事そのものがとても楽しかった。写植、版下、デザイン、編集、校正、製版カメラ、フィルム現像、オフセット印刷機の運転、製本、と、印刷技術者として学ぶべきことのひととおりを覚えた。この時の体験がいかに楽しかったかは、いまだに年に何回か当時の夢を見ることで確認できる。

 そんな時、その会社の社長の甥で、高校の教師をしている青年が、印刷工場を訪ねてきた。演劇集団を立ち上げるためのパンフレットやチラシ、ポスター、チケットなどの印刷を依頼されたのである。窓口になってひととおり面倒みたのだが、最後の依頼事には参ってしまった。

 演劇をやるのだが、ひとり役者が足りない。ひとつ、その面も手伝ってくれないか、という。とんでもないことを見こまれてしまったものだ。例によって、私は小学校3年生以来、芝居や演劇の役者としては、自らの才能を確認できなかったので、すみやかに辞退した。

 しかし、相手の依頼も強引だった。まるで、候補者は私しかいなくて、しかも台本は私のために書いたような口ぶりだ。ましてやこの青年、私の学校の先輩にあたっていたので、ついつい、断りきれずに、その演劇集団の立ち上げに役者として参加することになったのだった。

 練習そのものは面白かったが、そのシナリオがいまいち面白くなかった。高速道路を疾走する観光バスには、ある結社の人々が乗っている。さまざまな歌が唄われ、高揚する。やがて全員が恍惚となった時に、突然、いままで静かだった運転手が、ハンドルから両手をあげて「万歳!」「万歳!」を連呼する。軌道を失った観光バスは、突然、異次元の世界に突入する。その時、突如、空間に現れるのが、上半身裸、スキンヘッドの右翼少年だ。その背中には、「南無妙法蓮華経」と大書されている。そしてアジテーションをブツのだ。

 その右翼少年の役をもらったのだが、どうも私は乗り切れなかった。真夏の練習で、クーラーもないアングラ演劇団のけいこ場も蒸し暑い。街なかのメイン通りに面したビルの階上にあるとは言え、なんともぐったりしたものだった。

 ところがある日、にわかに空がかき曇り、ものすごい雷鳴が下った。練習していた団員達は、全員けいこをやめ、窓際に走り寄った。まだ昼下がりだというのに、西の空はどんよりと暗雲を垂らし、稲妻が何筋も走った。まるで、倦怠していた団員たちを激励するのか叱責してくれているかのようにさえ思えた。いやいや、あの迫力は、まるで街全体に「喝!」を入れているような、激しいものだった。ビルの階上から眺める稲妻は、それこそひとつのエンターテイメント・ショーだった。

 私はかの青年に言った。「もし、あの稲妻を、あなたの演劇のステージに乗せることができるなら、私はあなたの演劇団の一員として、一生付き合ってあげるよ」

 芝居そのものは好評で、最後まで責任をはたした私は、観客からもらう拍手が、これほど気持ちがいいものか、と、つくづく思った。なるほど、なんとかと役者は、3日やったらやめられない、とか。その気持ちがよくわかった。だが、この演劇集団は、この立ち上げ公演一回きりで解散した。

 それ以降、こんな体験をしたことなど、すっかり忘れていたが、私はこの、自分のセリフを5年後に思い出すことになる。1982年、7月。私は、自分の瞑想センターの仲間たち21人と、米国オレゴン州のコミューンのセレブレーションに参加していた。巨大な温室として作られた瞑想ホールに、一万人を超すサニヤシンが、Oshoがロールスロイスで到着するのを待っていた。

 その時、にわかに雷鳴がとどろき、龍雲をともなって彼はやってきたのだった。巨大な瞑想ホールの中央に彼が立って、人びとにナマステを送っている時、ふいに私は、自らの5年前のセリフを思い出した。

 「もし、あの稲妻を、あなたの演劇のステージに乗せることができるなら、私はあなたの演劇団の一員として、一生付き合ってあげるよ」

 Oshoは、見事に稲妻を自らのステージに乗せることに成功していた。私の体験は、私個人の体験ではあるまい。マックス・ブレッカーは著書で書いている。 

 7月6日、新たに設けられた「マスターズ・ディ」では、毎日のドライブバイのコース上空を小型飛行機が飛んで、ポートランドから仕入れた5万ドル(約1300万円)分のバラの花びらを降り注がせた。その夜、ラジニーシが弟子たちと座る最後のラウンドの直前、急に天候が崩れた。稲妻が光り、雷鳴が轟き、にわか雨が天井があるだけのホールへと吹き込んだ。ラジニーシを反キリスト、その信者たちを邪神バールの子供とみなす者たちの目には、それは天罰の前兆のように見えたかもしれない。
 ラジニーシのサニヤシンたちにとっては、それは笑ったり踊ったりして、大声で嵐を吹き飛ばすもうひとつの機会にすぎなかった。 「アメリカへの道」p131

 あれ以来、私はOshoの演劇に参加していると言える。それまでの確信は、さらに確かなものとなった。それ以降の、確信につぐ確信も、そのつどの体験の中で深まっていったのだが、リアルとフィクションが重なってしまう瞬間というものがある、ということを理解した。これは私にとっての貴重な体験のひとつだった。

 さて、私が米国オレゴン州で、こんな体験をしていた1982年、小森健太朗は、まだ16歳の高校生だった。すでにミステリーを書いており、史上最年少で江戸川乱歩賞の候補となったというから半端じゃない。その時の審査委員のひとり新保博久が巻末の「解説」にその時の顛末を書いていて笑える。一読の価値あり。

 なにはともあれ、当ブログにおいては、2000年以前に書かれた小森作品の大まかな部分は読み切ったということになる。小さな「チベットの密室」とか「インド・ボンベイ殺人ツアー」などは、2008年にでた「星野君江の事件簿」に収録されているから、これから読むとしても、おおよその前半部は終了した、ということになる。

 そういう視点からいえば、この「バビロン空中庭園の殺人」は、実に完成度の高い小森ワールドに仕上がっている。ドラマツルギーができあがり、どこか安心して読めるのである。ただ、であるがゆえに、一沫の不安を感じる。読者というものはなんとも理不尽な要求をするものだ。

 ドラマツルギーが完成したということは、「水戸黄門」化した、ということだ。月曜日の8時、人びとは水戸黄門を見る。先週の土日はいろいろあった。大変だった。しかし、いろいろあったが、結局は月曜日になれば、水戸黄門があり、いつもの月曜日じゃないか。さぁ、今週も一週間ガンバロー・・・。

 なにも間違いではない。これが現実ではあるのだが、一旦、異次元ワールドに引きづり込みながら、もとの鞘にもどして終わりでは、なにかが違うのではないか。小森が最大限評価するニーチェやグルジェフ+ウスペンスキーの、どこに水戸黄門の「日常」があるというのか。

 彼らは、人びとを日常から非日常へとおびき寄せる。まんまと非日常へ引きづり出したあとは、そのまま放置する。その勇気、大胆なマスター・ワークがある。この段階の完成度だと、小森作品は、安心安全な娯楽に転じてしまうだろう。それでいいのか。それでいいのだろう。しかし・・・・。

 読者の要求とは、理不尽なものだ。

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