神の子(イエス・キリスト)の密室
「神の子(イエス・キリスト)の密室」
小森 健太朗 1997/05 講談社 単行本 211p
Vol.2 No.594★★☆☆☆ ★★★★★ ★★★☆☆
この本がでたのが1997年。この年代、世はまだまだ麻原集団事件の余波が残っていたはずであり、かくいう私なども、話題はできるだけインターネット話に逃げて、いわゆる精神世界の話題には触れたくなかった時代であった。何を言っても、何も語っても、うまく伝わらず空しいムードが漂っていた。
この時代に、この本を書いた著者は、1965年生まれだから30歳をいくつか超えたあたり。ある意味では麻原集団の中心を成していた世代の一員にもかかわらず、この時代にこの話題に触れ、しかも、かの集団の影響を一切感じさせないところに、なんとも痛快というか、堅固というか、あっぱれな感じがする。すくなくとも、あの泥水をかぶらなくても良い位置にいたのかもしれない。
私は17歳のときにバブテスト教会に通っていたことがあり、バイブルキャンプに参加したり、賛美歌を習った以外、ほとんどキリスト教とのダイレクトなつながりはない。さまざまな友人知人を介してのキリスト教とのつきあいは今でもあるが、個人的には自らの道として意識したことはない。
カリール・ジブランやカザンザキスによるイエス伝に触発されて、自分なりのイエス・キリスト伝を書いてみたいという長年の夢に挑戦したのが本書です。これは謎解きの物語であると同時に自分の中の失われた肯定(イエス)を探し求める遍歴の物語でもあります。「著者のことば」カバー見返し
ジブランやカザンザキスに影響を受けているというか、何事かの重きを置いていたであろうことは、他の著書でも類推できた。しかし、この時に、このような著書を一冊モノしていた、ということを今回初めて知って、うん、なるほど、と納得した。
文献学というものが学問としてどのような位置にあり、どのような評価を受けているのか分からないが、最近読んだ本では、津田真一「反密教学」が痛烈だった。自嘲気味に文献学といいながら、文献を詳細に調べあげることによって、津田はほとんど仏教の2500年サイクルにとどめを刺してしまったと、言える。
こちらの小森作品も「架空の読み物として面白く読んでくだされば、著者としてそれに過ぎる満足はない」前書きp9とはいうものの、その持っているインパクトは、いわゆるキリスト教の伝統の夢を一遍で醒ましてしまうほどであるはずだ。さまざまな文献を駆使しながら、それを「密室」ものの推理小説にしてしまうところに、著者の力量が感じられる。
「Just for fun(それが僕には楽しかったから)」といいつつコンピュータ社会にリナックス革命を起こしてしまったのはリーナス・トーバルスだった。Oshoも結局は、本を読むのはただ楽しいからだ、と言っていたと思う。当ブログにおける、怪しげな「(暫定)カビール達の心理学」プロジェクトとやらの試みも、結局は「Just for fun」スピリットで楽しんでいこうと思っている。
ジブランやカザンザキスのイエス・キリストは、聖者としてではなく、人間としてのイエスを際立たせていたと思う。こちらの小森作品は、むしろイエスを登場させずに、イエスと接触したことのある登場人物をルポルタージュするという「証言もの」の形でイエスの姿を浮かび上がらせていく。その手法は、佐野眞一のノンフィクションや反骨のジャーナリストたちの手法にも通じるものがあるはずだ。
しかるに、著者が軽く「架空の読み物として面白く読んで」もらえば、それでいい、という姿勢を見せるのは、ちょっと納得がいかない。たしかにエンターテイメント(娯楽)としてこの小説を読むことはできるだろう。だが、もし最初からこの小説がエンターテイメントとしてのみ書かれているのなら、私は読まない。当ブログは、アンチ・エンターテイメントである。いかに技は未熟でも、とにかく自分でやってみようというDo It Yourselfに賛同するし、アマチュアリズムに酔っているからこそ、拙いブログを露出しつづけている。
確かにこの作家の力量は、ほとんど小説やミステリーに無縁な私にもうっすらと理解できる。ただごとではない。しかし、もしその力量が「単に」エンターテイメントに終わるのであれば、当ブログの探索範囲から次第にはずれていくことだろう。
もし、イエス・キリストについてこれだけ書けるなら、自らがメサイアの役割を引き受けるくらいの覚悟があるのではないだろうか、と私は推測する。当ブログは漫然と、おっとり刀で図書館の棚の前をうろうろしているだけだが、ひょっとすると、一連のこの作家の作品の中に、その「覚悟」が秘められているのではないか、と「推理」しているのだ。
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コメント
ENIさん
御紹介ありがとうございます。
「クムラン」図書館にはあるようですので、機会があったら、めくってみたいと思っています。
イエスについては、どの文献ということはないのですが、「人間イエス」としてのキリストが自分のなかにいつのまにかでき上っています。
あらためて、問いなおしてみると、新しい更なる発見があるかもしれませんね。
投稿: Bhavesh | 2009/05/04 21:13
Bhaveshさん、いつも心強くこちらのブログを拝見しています。
いつもブレないBhaveshさんの書評というか感想というか、読書の楽しみの結果が、素のまま表わされているので読んでいても清々しく思います。
最近、私は『クムラン』というものを読んで、イエス・キリストというものが何者だったのかという示唆的な仮説を2つ目にしました。学術的な背景とフィクションを混ぜた作品も、とてもためになりますね。
投稿: ENI | 2009/05/03 21:21