意識とはなにか<1>
「意識とはなにか」 〈私〉を生成する脳
茂木健一郎 2003/10月筑摩書房 新書 222p
Vol.2 No.645★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆
久しぶりに「シッダールタ」を読んだせいか、いきなりヘルマン・ヘッセ・モードになってしまい、ひたすら小説を読み始めてしまった。小説モードになればなったで面白い世界が展開されており、ひたすらその世界に没頭することになる。なにも途中経過をブログに書きつけることなどなくなる。自らのなから言葉を引っ張り出してくることさえ、面倒くさくなる。とくにヘッセなどを読んでいると、ズブズブとその世界に埋没していく。
いやいや、これじゃぁ、いかん。小説の楽しみは楽しみとして存在しているが、現在のところ、当ブログの存続も大事なことである。中途半端であれ、暫定的であれ、独断であれ、時に拙速のそしりは免れないとしても、ブログにはブログの用途がある。せめて、1日に1エントリーは書きこめる程度の密度で、ネット社会と付き合っていきたいと思っている。
やはり当ブログにとっては新書本クラスのターゲットが一番扱いやすい。量的にも適当、書かれているスタイルもまた読みやすい。店頭に並んでいるものなら今日的な時事性にも富んでいる。特に最近話題になっている執筆者などは、当ブログのオカズにはぴったりだ。
そんなわけで、この「意識とはなにか」をだいぶ前に図書館にリクエストしていたのだが、なかなか私に順番がまわってこなかった。最近でた新刊本だと勘違いし、気長に待っていたが、全然私の番がこないので、変だなぁ、と思って店頭に行って奥付けをみた。そうしたら、なんと、店頭に並んでいる本は第13刷で2009年4月発行になっていた。初版は2003年10月。すでに5年以上も前の本だった。
この本、きっと人気があるに違いない。このところの茂木健一郎ブームである。広い読者層を獲得しているのだろう。この13刷の帯には次のようなコピーがついていた。
「新書って、読み捨てるものと思っていた。けど気がついたら、もう5年も本棚に並べて、何回も読み返している新書がある。
10年後のあなたにも効きます。 ちくま新書<新しい名著>フェア 」 表紙帯
新書本は新刊のうちに味わうのが旬でいいのだろうが、たしかに古くても何回も読み返してしまう新書が多数ある。この「意識とはなにか」も5年以上も経過しているので、決して旬とは言えないが、13刷も重ねてしまうほどの人気の理由がきっとどこかにあるはずだ。
「意識」(consciousness)と「心」(mind)は、しばしばほとんど同義の言葉として使われる。しかし両者は、厳密にいえばすこしニュアンスが異なる。「意識」が、<私>によってハッキリと把握されるさまざまな表象の世界を指すのに対して、「心」は、無意識をも含めた精神の働きを指す。本書では、ときに「意識」と同義の言葉として「心」を用いるが、その際には「心」の指す精神の働きのうち、特に「意識」される部分を表すものとする。p021
当ブログにおいては、意識と心を混同されたのでは、たまったものではない。道路と車、空と雲、金魚鉢と金魚が、ハードディスクやCPUに対するプログラムやソフトウェアなどが、一緒くたにされているようなもので、それでは、わざわざ「意識」(consciousness)という言葉を使っていく意味がなくなる。ここは厳密に分けていかなくてはならない。
コンシャスネスやマインドという用語は、英語やサンスクリット語、その他のインド語、あるいは科学や哲学用語として乱立しており、それがさらに日本語に翻訳されるに至っては、実に混乱の極みと言っていいほど混乱している。各書物を読みながら、それらをすべて統一して読み進めることなどできない状態だ。当ブログとしては、そのことに十分注意しながらも、あえて、混乱は混乱のまま読みすすめている。大事なことは、究極か、それ以外か、という区分けであろう。
クオリア(qualia)とは、もともとは「質」を表すラテン語で、1990年代の半ば頃から、私たちが心の中で感じるさまざまな質感を表す言葉として定着してきた。太陽を見上げた時のまぶしい感じ、チョコレートが舌の上で溶けて広がっていく時のなめらかな甘さ、チョークを握りしめて黒板に文字を書いた時の感触。これらの感覚は、これまで科学が対象としてきた質量や、電荷、運動量といった客観的な物質の性質のように数量化したり、方程式で記述したりすることがむずかしい。p025
ここで新たな用語を使う必要があったのは、著者が「脳科学」という「科学」にこだわるからであって、ここで語られている質感や感性についての所感がなにもないのであったら、小説や文学や絵画や演劇や哲学や芸術や宗教など、一切が最初から存在していないことになる。
朝起きて飲む一杯のコーヒーの香り。バターをたっぷりつけたトーストの歯触り。洗面所で顔を洗う時の、水のひんやりした感触。顔の筋肉が引き締まる感覚。服に袖を通した時の、布地が皮膚をマッサージする感触。風がほほをなでる感覚。こずえでさえずる鳥の鳴き声。これら、私たちの意識的体験をつくり出しているものたちは、それぞれとてもユニークなクオリアとして意識の中で感じられている。p026
ここで著者がわざわざクオリアという用語を多用するに至った経緯は分かるとしても、なんとかの一つ覚えのように、この用語ひとつですべてを切りひらこうとするのは無理である。なにごとかを一元化したいという衝動はわかるが、その試み自体が、最初から間違っているのではないか。
そして、そのようなクオリアのすべてを感じ取っている<私>という存在がいる。眠っている間の意識がない状態から、クオリアに満ちた意識体験への変化はあまりに劇的である。 p026
当ブログにおいては、眠っている無意識の状態を含めた大きな概念として「意識」(consciousness)という言葉を用いている。睡眠と覚醒を両方含んでいるのが意識である。とすれば、ここで茂木が言っているのは、意識の中のの一部だけのことになってしまう。
およそ、意識されるものはすべてクオリアである。たとえば「Aさんがこの時は家にいることを知っている」心の状態と「Aさんがこの時間に家にいることを信じている」心の状態は、それが意識の中で把握される時には、それぞれが異なるクオリアを持つ。私たちの意識の中で、ある状態が他の状態と異なるユニークな<あるもの>として把握されるのは、その状態に固有のクオリアによるのである。p026
高速道路が帰省ラッシュで麻痺しているからと言って、自動車の固まりを高速道路とは言わないように、どれだけマインドやクオリアで満杯になっても、それを意識とは呼ばない。どんなに黒雲がどんよりと立ち込めたとしてもそれを空とは呼ばない。ひとかけらの雲がなくても空は空として、依然として存在しているのであり、クオリアなど何もなくても、意識は意識として、元のありのままに存在している。
タクシーに乗って、運転手と会話を交わす。そのような時、私たちは、当たり障りのない話題を選ぶ。今年のプロ野球はどうだとか、最近景気はどうですかとか、誰でもある程度興味を持つような、そしてあまりプライベートなことにかかわないような話題について、いつ止めてもいいような形で会話を交わす。p120
この本、突っ込みどころ満載で、逆説的な意味で、なかなかの好著であると思う。当ブログの在り方は、たまたまタクシーに乗りあわせた時の運転手との10分間程度の会話レベルであってもよいと思っている。むしろ、こんなところで深いプライバシーの開示など延々とできるものではない。
このような時、多くの人にとって、タクシーという、見知らぬ他人がいきなり密室の中で一緒になって5分や10分の時間を過ごさなくてはならないという状況でしか生まれないような「モード」あるいは「パーソナリティ」が現れる。だからこそ、私たちは、タクシーを降りた時に、「今まで快活な会話を交わしていたあの私は何なのだろうか?」という疑問とともに、ふーっと「我に返る」ような感覚を持つ。p120
当ブログへの訪問者のかなりの数の人々は、「トップページ」の次に、まず「プロフィール」を見に行く。どんな人物が書いているのか。男性か女性か。青年か熟年か。来訪者のそのような関心に気づいたので、当ブログのプロフィールは、以前よりはすこし多めに書くようにしたし、たまにちょっとづつ書き変えている。しかし、そのような「一見」さんには、当ブログを書いている、この本当の「私」は見えないだろう。タクシーの中でのちょっとした会話に似て、ある「ふり」をしているからだ。逆に私が訪問するブログの書き手についての私の理解なども、真実のほんの一部に違いない。いや実は、私にとっても本当の「私」はわからないのだ。
私たちの日常の行動を観察してみると、実はそのような意図的な場合以外にも、あらゆる場面において普遍的に「ふり」が成立していることがわかる。p121
著者は茂木健一郎という脳科学者の「ふり」をしているのだろう。それはパーソナリティ、ペルソナ、仮面だ。「私」という「意識」へたどりつくには、タクシーの中での会話レベルでは無理だ。あるいは、タクシーの中においても、「ふり」をしないことが必要だ。自分が自分である時間をすこしづつ長くキープする必要がある。それでも「ふり」の仮面をはがしてみると、またそこに新たな「ふり」の仮面を見つけるような、玉ねぎの皮をむき続けるような作業がつづく。
この本、巻末に「より詳しく知りたい人のブック・ガイド」として20冊弱の本が紹介されている。英語本も含んでいるので、実際に読めるのはごく少数だが、この本から「意識」を考えていくのも一興だろうと思う。
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