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2009/06/10

死のアート<2>

<1>よりつづく

死のアート
「死のアート」 <2>
OSHO /スワミ・ボーディ・マニッシュ 2001/04 市民出版社 単行本 401p

 またまた操作ミスにより、アップ寸前の記事が一瞬で消えてしまった。一度ならず、二度までもこのような現象がおきると、うん? これは何かあるかな? と思わずにいられない。いや、操作ミスというわけではなくて、実はLANコードのコネクタの爪が折れてしまったために、接続が悪くなっていただけなのだが、しかし、よりによって、この本のアップ寸前で2度までも同じ現象が起こるかなぁ・・・・。

 ということで、気を取り直して、別なLANコードと取り換えて、すこしスローダウンしてこの本を読んでいくことにした。さっさと通り過ぎようとするこちらの下心が、いらぬミスを呼んだかもしれない。

 私が「死ぬ」と言う場合、真の眼目は「強烈に生きる」ということにある。本当に言いたいのは、情熱的に生きなさいということだ。生を全うしてもいないのに、死ねるはずがない。完全な生の中にこそ、死はある。そしてその死は美しい。情熱的に、強烈に、強烈に生きれば、死は自ずとやって来る---沈黙として、深甚なる至福として。私が「死ぬ」と言う場合、生に反することは一切意図されていない。あなたが死を恐れているとすれば、実のところ、生も恐れている。それが、質問者に起こっていることだ。 p75

 「死を学べ、されば汝は生きることを学ぶだろう」というのが「チベットの死者の書」のメッセージだった。当ブログでの進行中の「死」へのアプローチもまさにその意であり、また「私」や「意識」へのアプローチである。

 生は死に反しない。死は生に含まれる---ここが一番大事なところ。もし、正しく生きたかったら、正しい死に方を学ばなくてはならない。生と死のバランスをとり、ちょうどその真ん中にいなければならない。真ん中にいるということは、静止しているということではない。あることを達成すればそれで終わり、すべきことは何もない、というわけにはいかない。それは馬鹿げている。人は、永遠のバランスには達しえない。何度も何度もバランスを取り戻さなければならない。 p92

 たしかに、なにかに「到達」するために、当ブログはちょっと急ぎ過ぎているところがある。はやくこの本を読んでしまおう、このリストを修了させよう、このジャンルを制覇だ、となにか急ぎ過ぎている。すでに「到達」なんてないんだ、ということを認めなければならない。

 一度瞑想に達すればそれ以上必要ない、瞑想の中に留まる、とあなたは考える。あなたは間違っている。瞑想は固定したものではない、それはバランスだ。何度も何度も瞑想に達しなければならない。次第に、瞑想に達するのは容易になっていくが、手中の物のように、ずっと残るわけではない。一瞬一瞬、求めなければならない。そうしてはじめて、瞑想はあなたのものになる。あなたは休めない。「私は瞑想した。もう何もする必要がないとわかった。私は休める」とは言えない。生は休息を信奉しない。それは、完全から更なる完全へと絶えず動いていく。
 いいかね、完全から更なる完全と言ったが、生は決して不完全ではなく、常に完全なのだ。だが、常にもっと完全になり得る。論理的には、こういう言い方は不合理だが。
92p

 この本を引用しはじめたら、この本を丸まんまここに転記せざるを得ないような状態になる。あるいは、この本を本当に「読んだ」ら、読書ブログとしての当ブログは停止するような事態になるかもしれない。Oshoを読むことは、私にとっては、決して単なる「読書」とは言い難い。もし、いつか当ブログが停止するようなことがあったとしても、それは私が「読書」をやめた、とうことにはならない。すくなくとも、この本を読むことだけは、個人的レベルで、もっと微細な内的レベルで、粛々と進んでいくだろう。

<3>につづく

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