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2009/06/14

死のアート<3>

<2>よりつづく 

死のアート
「死のアート」 <3>
OSHO /スワミ・ボーディ・マニッシュ 2001/04 市民出版社 単行本 401p

 いったん、一人の師を愛したら、その許に留まりなさい。その人に幻滅しても留まれと言っているのではない。幻滅したら、もうその人はあなたの師ではない。そのときには、そこにいても仕方がない。別の師を探しなさい。
 だが、決して心の中に同時に二人の師を置いてはならない。どちらかはっきりさせなくてはならない。これは普通の決断ではなく、極めて重大な決断だからだ。それはあなたの全存在、その質、未来を決定づける。
p148

 いろいろな本が存在している限り、いろいろな読み方があっていいのだが、この人の本は、私にとっては一筋縄ではいかない。読書、という範疇から、するりするりと逃げていく。

 現代人にとっての最大の災いは、入手が可能となった莫大な知識であることは明白だ。以前は手に入らなかった。ヒンドゥー教はヒンドゥー経典とともに、イスラム教徒はイスラム経典とともに、キリスト教徒は聖書とともに生きるのが常だった。人々は隔離され、他の世界の知識に触れるものなどいなかった。物事ははっきりしていて、重なりあうことはなかった。
 今日では、あらゆるものが重なり合い、莫大な知識が手に入るようになった。私たちは、「知識爆発」の時代に生きている。この爆発の中でなら、情報を集め、いとも簡単に、いとも手軽に大学者になれる。けれども、あなたには何の変容ももたらさない。
p188

 これは、30年以上も前の講話であるが、インターネットが当たり前のインフラとなった現在において、まさに「知識爆発」を体験している21世紀の人間社会であるが、ひとりひとりが「大学者」になったとしても、ひとりひとりの「意識」に変容が起こっているわけではない。

 実存の世界は、唯一本物の、真実の世界だ。だから、それと出会わない限り、あなたは異国の地をさ迷い続ける。決して家には辿りつけない。家に辿りつくのは、あなたが実存の最奥の核に入ったときに限られる。それは可能だ。難しいが不可能ではない。骨は折れるが不可能ではない。確かに難しい。だがそれは起こった。私に起こった、だからあなたにも起こり得る。p203

 この本はさっさと読了としてしまいたかった。だが、なかなかそうはいかない。なんどもこの本に戻ってこざるを得ない。

 私はここに、極めてなじみのない奇妙な世界にいる。私はあなたたちに多くのものを与えたいと思っているのだが、あんたたち自身の抵抗に遭って与えることができない。あなたたちの実存にある多くのものを気づかせたいのだが、あなたたちは私に反対するだろう。私はとてもゆっくり、大きく迂回して進まなければならず、直接には事を成し得ない。p216

 マインドのトリックには限りない。

 私がここにいなくなったら、この共同体はさほど楽しいものではなくなるだろう。楽しいものにはなり得ない。だが、そうなって当然だ。私の言葉がそこに残り、人々はそれを繰り返す、そして信心深く私の言葉に従うだろう。だが、それには努力が伴う。たった今、努力はない。あなたたちは私とともに流れいるだけだ。たた今、それは愛の営みだが、後にはある種の達成すべき義務となるだろう。あなたたちは義務感を覚えるだろう。
 あなたたちは私を覚えていて、同じように生きたいと思うだろう。だが、生き生きとした何かが、命が欠けている。マスターがいなくなって残るのは、決まって、死体となったその教えだけだ。
229p

 生きてマスターとあることは稀有なことだ。

 インドでは、人間の意識を4つの段階に分ける。その第1の段階を、通常の覚めた意識という。p256

 この本は決して単層な本ではない。いくつも輻輳したテーマが流れている。なんど読み返しても何度も新しい発見がある。

 私はここに、肉体にいなくなるかもしれない。だがそれは、私の近くにいない人たち、私と一緒にいる勇気のない人たちにとっていなくなる、ということに過ぎない。私が肉体を離れても、あなたが本当の弟子なら私がいなくなることはない。ゲームは続く。私は手の届くところにいる、あなたも手の届くところにいる。それはハートの、意識の問題だ。意識は時間のない状態を知っている、意識は時間を超えている、意識に時間はない。p293

 そうと決めたからには、なにも揺らぐものなどないのだが、それでも道行きは、簡単なものではない。

 フロイトとフロイト派の学者は、人間を意識と無意識で終わりと考えた。人間は、意識と無意識だけではない。超意識の部分もある、。そちらの方がより真実に近い。p306

 いくつも逃げ道がある。話題をそらしてしまうことも可能だし、忘れてしまうことも可能だ。さっさと勝手に終わらせることもできる。

 あなたが客体の世界にいるなら、私は、「主体を探しなさい。そこに神がいる」と言う。あなたが主体の世界にいるなら、「さぁ、超えなさい。神は主体の世界にいない、神は超越している」と言う。やがて人は、捨て続けねばならなくなる。落とし続けねばならなくなる。主体も客体もないとき、物も思考もないとき、この世もあの世もなとき、神がいる。p344

 読むことも、書くことも、忘れることも、覚えていることも、すべてが可能で、すべてが無効だ。

 東洋の聖典と西洋の聖典を調べ、何らかの折衷を見出せなどと言うつもりはない。そうではなく、あなたに実存の内奥に入ってほしいのだ。客体を超えれば西洋を超える。主体を超えれば東洋を超える。すると超越が起こり、そこに総合が生まれる。あなたの内部で総合が起こったら、それを外部に広げることができる。総合は、本や論文や哲学の博士論文ではなく、人間の内部で為されなけばならない。有機的な統一は、有機的な方法でしか為し得ない。p358

 手も足もでない、窮地に落とされる。

 世の古い宗教は、みな抑圧的だった。新しい未来の宗教は、自己表現的なものになる。私は新しい宗教を教える。表現を、生の最も基本的なルールの一つとしなさい。表現したがために苦しむ羽目になったとしても、苦しむがいい。決して敗者にはならない。あなたはその苦しみによって、次第に生を楽しめるように、生の喜びを味わえるようになる。p375

 表現とはなにか。当ブログも「表現」となっているのだろうか。

 涅槃は最後の悪夢だ。あなたは戻れない。 p380

 誰かが私を殺したとしても、すでに死んでいる、ずっと死んでいる肉体を殺すに過ぎない。肉体は大地の一部だ。塵から塵になるだけだ。私は殺せない。生まれる前にも私は存在した。死が起こっても私は存在する。だから、私に何をしたというのだろう? 深刻なものなど何もない、取りたてて重要なものなど何もない。p385

<4>につづく

 

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