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2009/06/09

ノルウェイの森<1>

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「ノルウェイの森」(上)  (下)  <1>
村上春樹 2004/09 講談社 文庫 302p 293p
No.652~3★★★☆☆ ★★★★★ ★★★★☆

 この小説を読みはじめる前に、このタイトルになったビートルズの曲を思い出し、当ブログにおいて、ちょうど一年前に「Youtubeで視る聴くビートルズ全15枚」というページを作っていたことを思い出した。当時はすべてYoutubeで聴けたのだが、現在までのところ約3分の2ほどの動画が削除されてしまっている。

 著作権があるものだから、しかたない。あらためてハイパーリンクを貼り直そうかな、とも思ったが、どうせイタチごっこになってしまうので、それはしないことにした。逆にいえば、まだ残っているリンクもあるのだから、それを楽しむことにしよう。

 「ノルウェイの森」は1965年にリリースされた「Beatles / Rubber Soulの2曲目に入っている。残念ながら昨年貼り付けたYoutubeのリンクはすでに削除されているが、あらたに探してみれば、まだまだ動画は別なリンクでアップされていた。いつまで視聴できるか不明だが、貼り付けておこう。

 この小説、私はまったく読んではいないが、すでに我が家は村上春樹におかされていることはうすうす感じていた。文庫本だが1998年に発行された28版というものが存在した。なぜにこの本があったかを奥さんに尋ねると、ちょうどその頃、高校に入学の決まった娘に対して、学校が入学式までの間に読んでみるのもいいだろうという「お勧め本」リストの中の一冊だったというのだ。

 この小説15歳の少女が読むべき本なのかどうかは、現在の私には判断しかねる。当時の奥さんも、机の上に載っていたからついでに読んでみたというが、やはり「子どもにこんな本を読ませていいのかな」と思ったという。どんな本なの?と聞くと「変な本よ」というだけだ。「村上春樹の世界」ってどんな世界?って聞いても、「う~ん、変な世界ね」としか言わない。言えないのかな。それともネタばれしないように配慮してくれているのだろうか。

 同じ年齢の友人宅に遊びにいったとき、友人不在の席でその夫人が言うには、「彼は村上春樹が大好きで、全部本棚にあるわよ」ということだった。彼はそれこそ、この小説の舞台になっている1969年からの付き合いだから、なるほど、ああいう人物の好みがこういう小説で、ひょっとすると、こういう人物のことをハルキニストと呼ぶのかな、と思った。

 この小説を読むには、1969年という時代設定と、それを書いたという1987年という年周り、そして、この小説が読まれるこの2009年という時代の巡りがひとつの舞台装置になってくれるだろう。

 村上春樹は1949年生まれで、小説の主人公ワタナベは1969年当時18歳だから、ほとんど私小説ともいうべきほどの時代体験を反映していることになる。神戸の町を離れ、東京の大学にでてきたものの、時代は1969年である。35年後には「昔、革命的だったお父さんたちへ」などと揶揄される団塊の世代だが、やはり、当時の大学や、社会をとりまく状況は、現在では想像もつかないほど特異なものではあった。いや、この現象は決して日本だけではなく、世界的なものであった。

 もし、村上春樹の世界が、世界にアピールしているとしたら、この同時代性がベースにあるのではないだろうか。ひとくちに「ろっぱち、ろっきゅう」と言われるこの1968~69年、そして70年安保の「敗北感」は、必ずしも日本独自のものではない。第二次世界大戦後のベビーブーマーが世界中で起こした新しいうねりは、たしかに未知の可能性を秘めたものである、と思われていた。

 私は団塊の世代の弟分だから、1969年に高校受験の準備をしながら、赤軍の浅間山荘事件をテレビで見ていた。こたつに当たりながらミカンを食べていたまだ中学三年生の自分は、高校入学後、自分をどのような状況を待っているかなど、気づきもしなかった。その辺のことは、いままですこし書いたことがある。

 村上春樹の小説は「僕」で書かれている。この小説を書いた時37歳。ウォルト・ホイットマンが「草の葉」をやはり37歳当時「ぼく」という一人称で詩に書いている。1987年当時、私は、二人の子供と奥さんを連れてインドに4か月滞在した。当時、この小説がでたことなど、私のまわりでは話題になった記憶もないし、私自身もぜんぜん興味がわかなかっただろう。

 もし自分が15歳でこの小説を読むことになったら、どんな体験をするのだろう。15歳の私が「浅間山荘」をテレビで見るような、「体験」をするのだろうか。中学図書館の司書をしている奥さんもけっして中学生向きのお薦め本としてはみていないようだ。

 ウィキペディアは言う。

 確固たる証言は無いものの、「I was knowing she would」(オレは彼女がそうすると(俗的に言えば「ヤらせてくれる」と)知って(思って)いた)という言葉を早く言った場合に「Norwegian Wood」の発音と似ているためではないか、という説も古くから言われている。

 私はハルキニストでもなければ、小説読みでもないので、その「感想文」をどのように書きとめておけばよいのか、よくわかっていない。「ネタばれ」とやらになってしまってもいけないのでよけいなことは書かないでおくが、たしかに村上春樹の小説は一旦読みだせば、一気に読んでしまいたくなる魔力を持っている。いわゆる「癖になる」という奴か。

1969年、1987年、2009年、と言う象徴的な年代は、青年期、中年期、老年期の象徴でもあろう。18歳というものは青年期のへのイニシエーションの年代であり、37歳も中年期へのイニシエーションの年代だ。そして現在60歳の村上春樹は、三つ目の年代、老年期へのイニシエーションの真っただ中にあると言っていいだろう。

 小説というものが世代に愛されて、村上春樹という現象を一緒に生きてきた世代があるとするなら、まさにその世代は老年期に入ろうとしているのだろう。日本のみならず、同時代のベビーブーマーたちが、ひとつの村上春樹というプラットフォームを使いながら、自らの人生の仕上げをしようとしているのだろうか。

 この小説、映画化が決定したという。私はその映画をみるだろうか。実際にその時になってみないと分からないが、たぶん見ないだろう。すくなくとも封切り館に並んで見に行くということはなさそうだ。その時点での中学三年生でも見にいけばいいのではないだろうか。そういう社会現象が一巡したあと、さも社会学的な視点でもちらつかせながら、ひとくされ言い、自分でも覗いてみたあとに、そしてやっぱり「この映画は別に見なくてもよかったな」と、つぶやくに違いない。

<2>につづく

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