達磨二入四行論<1>
「禅家語録 1」世界古典文学全集 36A <1>
西谷 啓治, 柳田 聖山 1972/12 : 筑摩書房 単行本 519p
Vol.2 No.679★★☆☆☆ ★★★★★ ★★★★★
「達磨二入四行論」
「私が愛した本」の中の「仏教」編の「菩提達磨の弟子達の記録」、「禅」編の中の「黄檗の書」、「慧海の書」、「六祖壇経」の日本語資料がこの本の中に入っている。
5番目---私は「菩提達磨の弟子達の記録」を忘れていた。ゴータマ・ブッダのことを話すとき、私はいつもボーディダルマのことを忘れる。それはおそらく、彼のことはその師である仏陀の中に入れたような感じがするからだろう。だがそれではいけない。それは正しくない。ボーディダルマはひとりで立っている。彼は偉大な弟子だった。あまりに偉大で、その師さえ嫉妬するほどだ。彼自身は一語も書き記さなかった。だが数人の弟子たち、自ら明記しなかったので名前は知られていない弟子たちが、ボーディダルマの言葉についていくつかの記録を残している。その記録はごくわずかのものだが、コイヌールほどにも貴重だ。知っているかね、コイヌールという言葉は世界の光を意味する。ヌールとは光のこと、コイとは世界のことだ。何かをコイヌールにたとえなければならないとしたら、そう、私ならボーディダルマの無名の弟子たちによって書かれた、このわずかの言葉を示すだろう。「私が愛した本」p19
この本のほかに「菩提達磨無心論」も巻末に併記されているが、Oshoは「菩提達磨の弟子達の記録」という言葉で、「菩提達磨無心論」と「達磨二入四行論」のことを示したのだろうか。Oshoには別途「ボーディダルマ」という単独に達磨を扱った講話録もある。
もし法身仏の立場から修道するなら、ニルヴァーナを求めてはならない。なぜならば、法身の立場そのものがつまりニルヴァーナの世界だからだ。どうして、ニルヴァーナでニルヴァーナを求めようか。また君は法を求めてはならない、君の心がすでに真理の世界だからだ。どうして真理の世界にいて真理の世界をもとめようか。もし心を正そうと思うなら、すべての理法を畏れてはならず、すべての理法を求めてはならぬ。もし法身の立場から修道する人は、その心は木石のように無意識で、ぼんやりと知覚せず、分別せず、すべてふらりふらりと白痴のようであるがよい。なぜなら、理法は人の知覚を超えているからである。理法はわれわれに無畏の力を与えるから、これこそ大いなる安らぎの場所である。p26「達磨二入四行論」
禅語というと興味はひかれるのだが、漢字だらけの世界が予想されて、ちょっと臆病になるものだが、この本は、漢文と読み下し文、そして現代文、さらには解説と、4段階のステージが準備されており、自らの理解力、興味の範囲に合わせて、好きなところを読めるところがとても大きな魅力である。
---------------------
「達摩二入四行論」<2>につづく 2010/07/23
| 固定リンク
「48)意識とは何か」カテゴリの記事
- This Is It<2> & The Supreme Doctrine <2>(2009.08.23)
- 論理哲学論考(2009.08.14)
- The Supreme Doctrine <1>(2009.08.13)
- This Is It <1>(2009.08.13)
- Maxims for Revolutionaries(2009.08.12)
コメント